2015年夏の山梨古民家でのサマーキャンプのお誘い2015年06月13日 01時15分26秒

★告知して決めないことには、何も動かないから        ランキング

 世の中はどんなに悪くなったとしても、だからこそ人は楽しいことや面白いことを求めるべきだし、それは悪いことではないだろう。
 たまには、倦み疲れた日常を離れて、どこか静かな自然の中で、のんびりハイキングや温泉に浸かって日頃のストレスを癒す『夏休み」があっても良いのではないか。

 マス坊は縁あって、今、自由に使える山小屋的古民家を管理している。今現在は、未整理の古本古雑誌を大量に運び込んでしまったので、さほど広くないその屋敷の何部屋もクズ本やがらくたで塞がれてしまったいるが、近くそれらは片づけて広く使えるように戻す予定でいる。

 場所は、山梨県北杜市須玉町。茅が岳の山麓と言うより、気分としては八ヶ岳の麓と説明したほうがわかりやすい。中央高速を松本方面にひた走ると、左手に南アルプスの雄大な山塊、右手に、奥秩父の連山、そして向かう正面には八ヶ岳、さらに後ろを向けば富士山がそそり立つという、インターでは韮崎、もしくは須玉インターを降りて、約30分でその古民家にたどり着く。
 標高は約700m。高原ではなく、いわゆる里山でもなく、正しくは山里、つまり山の中腹に位置している。ほぼ限界集落の入り口に位置して、言っても人間に会うより、マジに猿や鹿に会うほうが確実に多いという場所だ。

 夏は涼しくともかく静かだが、近くのスーパーまで20分はクルマで下りないことには今後にもない環境だから、不便このうえない。そして冬は猛烈に寒い。スノータイヤがない頃は、行っても雪に閉ざされ車が出せなかった。

 そんな不便でどうしようもないところだか、自然しかなく、ともかく 人間にはまず会うことがない。聴こえるのは鳥の声と近くを流れる川の滝の音だけで、流れる時間さえ違っている。

 そこで今年の夏こそ、泊まり込みで、サマーキャンプをやろうと決めた。7月内は、企画したライブがあるので動けないが、8月のお盆休み前後はどうであろうか。
 言っても何か皆でやろうなんて何も考えていない。ともかくのんびりと、庭でバーべQやったり、ギターかき鳴らしてセッションしたり、近くの温泉へ出向いて日がな浸かったりと、ともかくだらだらゆつくりしたい。

 経費は食費と交通費の分割だけ。宿泊費などはかからない。たぶん、移動も含めて一泊五千円そこらかだと思う。

 日時はまた゛確定てぎないが、まずは参加者を募りたい。人数多ければマイクロバスのようなものも手配したい。
 何はともあれ、参加者がいれば、その人たちの都合を勘案して、予定も立つ。去年は5人、森の音楽隊で日帰りで行ってきた。が、やはり慌ただしかったことは否めない。
 
 今年は一泊二日、もし希望者がいればもっと長くてもかまわず、向こうで皆でいろんなことをやったり近くの古い町並みを散策したりと、あれこれやってみたい。

 まずは 参加者を募りたい。そのうえで、各自の都合を調整して日時を決めて計画を本格化させたい。
 まずはどなたでも、このブログをお読みになった方、マスダの知り合いでなかろうと、お気軽に問い合わせ及び申し込みしてください。

 にらもない、あるのは自然だけのただの山里です。でもともかく静かで、行けば気分はリフレッシュすることは保証します。
 まあ、何事も早め早めに決めて準備しておかないと、いざ近くになってから慌てて始めても結局果たせない。この古民家と山里に関心持つ人も多々いるようなので、早めに呼びかけした次第。
 参加希望者が集まったら、ご都合を勘案して日時を決めたいと思っております。道の方でもどなたでもお気軽に。

マス坊の人生相談2015年06月13日 22時54分53秒

★できるだけ人の話を聞きます。             アクセスランキング: 234位

 昔、月刊漫画「ガロ」誌上で、嵐山光三郎氏が、「人生相談」と称して、ガロ読者?からの相談に答えるページを持っていた。

 嵐山光三郎や安西水丸の名前を知ったのもそのガロを通してで、南伸坊、渡辺和博、赤瀬川源平らも含めて彼らの存在は、椎名誠らの本の雑誌一族と同様に、我が青春時代、深く影響を受けた雑誌から知ったオモシロ文化人たちであった。

 その人生相談コーナーは、若者たちが寄せる常にバカバカしい相談に、インテリジェンス溢れる不良中年が、バカバカしくも面白おかしく答えるもので、伸坊のイラストとあいまってマンガ以外に常に楽しみにしていたコーナーであった。
 まあ、その質問自体本当に読者からのものか怪しく、たわいもないものばかりで何も真剣かつマジメなものではない。が、今思うと、文体も含めて、考え方や論旨の展開方も含めて、かなり今も自分は影響を受けているような気がしている。

 さて、あるとき、一読者から、「人生相談というので、嵐山先生が相談されるのかと思って待っていたら、いつまでたっても読者から相談されてばかりではないか」という「問い」が載っていて、思わず爆笑した。
 嵐山氏もそれにはう~ん、と唸って、確か彼の「相談」が載っていたと記憶するが、今その号は手元にないので確認もできないし思い出せない。
 確かに「人生相談」と題するからには、「応相談」と書かない限り、担当者自らが、自らの人生の相談をその場でしていくのが正しいのであろう。

 昔は、かなりの雑誌や新聞に、こうした「人生相談」のコーナーがあった。読者からの様々な悩める相談に、担当する識者が、親身になってアドバイスするものがほとんどであったが、中には、故中島らもの朝日新聞でのそれのように、読み物として楽しめるよう特化したものもあった。ガロでの嵐山氏のそれも同様であったと気づく。むろんこちらのほうが先であったが。

 今でも法律相談などは新聞に載っているかと思うが、下世話な個人的出来事の相談などが載る同コーナーは見かけない。自分が知らないだけかもしれないが、他者への無関心とネット上には、質問と相談のサイトもあるようだから、そうした世相を受けて紙上の「人生相談」は役割を終えたのであろう。
 まあ、街にはあちこちに、手相や占い、運勢鑑定と称して、その人の悩みに応えアドバイスする「~の母」と称する商売も盛況のようだから、金のある人たちはそうした人に相談してアドバイスを受けるのであろうか。

 さて、マス坊の人生相談であるが、考えてみれば拙ブログは、常に問わず語りとして我はそのときどきの悩みを相談していることに気づく。相談というのはあたらない。誰もアドバイスも助けも与えてくれるわけでないし、そもそも単に、悩みや愚痴をこぼしているに過ぎない。
 しかし、これでも書くべきことは選ぶようにしている。親父がウンチをもらして大変だとか、読み手に取って不快かつ意味のない瑣末なことは書いてもしょうがない。文字とするからには、書く、書き残すべく価値のあること、瑣末でも万事に通じるようなことを書かねばならないと心している。そして勝手ながら書いたことで、つまり抱えている悩みなどを吐き出したことで気持ちは楽になっていく。
 だから、我がことの「相談」などはしないが、他人様のことの相談、というより悩みも含めてその人の「話」は聞きたいと思った。
 むろん、その人を助けられるとか相談にのってよきアドバイスができるなんて毫も思わない。ただ、話をきく。その上で、感想は言えると思う。
 
 何でここんなことを記すか。実は、先だって、喫茶店で居合わせた、隣の席の全くの未知の方から、身内のことで相談に乗ってくれと頼まれた。詳しいことは書けないし、まだ直接の相談に応じてはいないが、近くその当事者=問題抱える当人と会って、話は聞こうと思っている。

 この「人生相談」のはなし、もう一回つづきを書く。