嗚呼、ショーケン死す ― 2019年03月29日 08時14分32秒
★また一人、昭和を駆け抜けた男が、平成の終わりとともに昭和を抱きかかえながら逝ってしまった。
先に亡くなった橋本治のエッセイに、昭和の終わりに手塚治虫らその時代を代表する著名人が次々と軌を一にするかのように死んでいったことにふれて、一つの元号というものが終わるとき、一つの時代終焉として多くの人が「合わせて」死んでいくことが記してあった。
今、読み返して確認してないのでその趣旨ははっきり思い出せないが、確かにそうしたことはあると思う。
元号にそういう『魔力」があるのではない。ただ、人の無意識的深層共有意識が、時代に密着した人こそ強く働き、新時代を前に魂が去り際を悟るのではないだろうか。
死んだわけではないが、イチローの現役引退もまた、平成を代表する人だけに、改元もまた彼の中で何らかの引き金になっているような気がする。場は米国であれ、彼は厳然たる古武士的日本人なのだから。
そんなわけで、我は、新元号を前にして「かけこみ」的にまだ誰か「大物」が亡くなるだろうと予測していた。ただ、それは、平成に活躍した人と限らない。
平成はたかが30年しかないわけで、言わば一世代である。それでは生まれて来た人もやっと成人して世に出て社会でいっぱしになり、結婚したりするぐらいのことで、その人は何か成し終えるところまでいかない。
けっきょく平成の終わりに死ぬのは、その前の時代、昭和に生きて仕事を成した人であり、裕也さんも希林さんもだが、あくまでも「昭和」の人であろう。
我もまた昭和に生まれ生きて、人生の半分、もっとも多感な時代を昭和に生きた者として、では次は誰が・・・と考えていたら、まさかよもやのショーケンこと萩原健一の訃報である。
人の死とは、常に誰であれショックなことで、何とも名状しがたいやるせなさ、憂鬱ともいうべき心境をもたらすものだが、ショーケンの突然の死の報は、まさに我の中で大きく重く圧し掛かってきている。
彼個人が好きだったとか、ファン、アイドルだったとかいうわけではない。ただ、若い頃の彼はともかくカッコよくて、特に代表作のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974年)には、多くの若者たちが彼のすべてに夢中になった。我の周りにもああしたチンピラ的若造のくせにブランドスーツを着込むスタイルを真似る者が続出した。当時の若者たちにはまぎれもないヒーローだったのだ。
我にとって、ショーケンというと、あの探偵事務所のパシリ、オサムとアキラのコンピの兄貴であり、今や人気俳優として大成した水谷豊にとってはまさに黒歴史でしかないと思うが、彼など今も、我にはその兄貴を慕う情けない弟分でしかない。『相棒』での頭の切れる嫌味な役所よりよほど人間味があり実にいい味だしていて名演である。ドラマの中の二人の関係は今も懐かしく思い出すとつい頬が緩む。
その二人の若造をあこぎにこき使うドライなマダム岸田今日子とその執事的役でヒステリックな上司の岸田森というキャスティングも抜群で、毎回奇天烈破天荒な事件が起きて二人を手痛く翻弄させるも何とかコトは収まる。まったく予想がつかない展開に深く魅了された。最後ドラマは哀しい顛末を迎えるわけだが、ともかく毎回ものすごく面白かった。今思えば新進気鋭の脚本家が競い合いそれぞれ好き勝手に撮っていたのだからあんなアナーキーなドラマが作れたのだと気づく。
※余談だが矢作俊彦の小説で、この主人公オサムのその後を描いたストーリーがある。ファンにとっては感涙物の後日談である。それぐらい多くの人にこのドラマは強い印象を残している。★矢作俊彦著『傷だらけの天使、魔都に天使のハンマーを』
もし大好きなテレビドラマをもし三本挙げろと言われたら、この『傷だらけの天使』と渥美清版『泣いてたまるか』、それに『北の国から』のごく最初の頃のだろうか。そのドラマの中の「彼ら」は今も、我の中で永遠に、泣き笑いし懸命に生き続けている。
我にとってのショーケンとは、いつまでもこのドラマの中の主人公の若者であり、むろん他にもドラマや映画でいくつも好演は残しているけれどもその印象は圧倒的なものがあった。ある意味、その時代の若者の感情、不安、屈託したもの、粋がるもの、情けなさ、苛立ち、そして怒り、憤懣のようなものをギラギラとブラウン管の中で爆発させていたのだ。
彼の出自のグループサウンズ、テンプターズのことも書き記しておきたいし、シンガーとしての彼のことも、結局、彼は何故、後年は仕事が少なく俳優として活躍の場を減らしたのかも思うところはある。
が、31日のコンサートを控えて、我は今はともかく忙しくその時間がとれない。新元号が発表されてからとなってしまうかもしれないが、『探偵物語』での松田優作のこともからめて機あらば書き足したいと思っている。
先に亡くなった橋本治のエッセイに、昭和の終わりに手塚治虫らその時代を代表する著名人が次々と軌を一にするかのように死んでいったことにふれて、一つの元号というものが終わるとき、一つの時代終焉として多くの人が「合わせて」死んでいくことが記してあった。
今、読み返して確認してないのでその趣旨ははっきり思い出せないが、確かにそうしたことはあると思う。
元号にそういう『魔力」があるのではない。ただ、人の無意識的深層共有意識が、時代に密着した人こそ強く働き、新時代を前に魂が去り際を悟るのではないだろうか。
死んだわけではないが、イチローの現役引退もまた、平成を代表する人だけに、改元もまた彼の中で何らかの引き金になっているような気がする。場は米国であれ、彼は厳然たる古武士的日本人なのだから。
そんなわけで、我は、新元号を前にして「かけこみ」的にまだ誰か「大物」が亡くなるだろうと予測していた。ただ、それは、平成に活躍した人と限らない。
平成はたかが30年しかないわけで、言わば一世代である。それでは生まれて来た人もやっと成人して世に出て社会でいっぱしになり、結婚したりするぐらいのことで、その人は何か成し終えるところまでいかない。
けっきょく平成の終わりに死ぬのは、その前の時代、昭和に生きて仕事を成した人であり、裕也さんも希林さんもだが、あくまでも「昭和」の人であろう。
我もまた昭和に生まれ生きて、人生の半分、もっとも多感な時代を昭和に生きた者として、では次は誰が・・・と考えていたら、まさかよもやのショーケンこと萩原健一の訃報である。
人の死とは、常に誰であれショックなことで、何とも名状しがたいやるせなさ、憂鬱ともいうべき心境をもたらすものだが、ショーケンの突然の死の報は、まさに我の中で大きく重く圧し掛かってきている。
彼個人が好きだったとか、ファン、アイドルだったとかいうわけではない。ただ、若い頃の彼はともかくカッコよくて、特に代表作のテレビドラマ『傷だらけの天使』(1974年)には、多くの若者たちが彼のすべてに夢中になった。我の周りにもああしたチンピラ的若造のくせにブランドスーツを着込むスタイルを真似る者が続出した。当時の若者たちにはまぎれもないヒーローだったのだ。
我にとって、ショーケンというと、あの探偵事務所のパシリ、オサムとアキラのコンピの兄貴であり、今や人気俳優として大成した水谷豊にとってはまさに黒歴史でしかないと思うが、彼など今も、我にはその兄貴を慕う情けない弟分でしかない。『相棒』での頭の切れる嫌味な役所よりよほど人間味があり実にいい味だしていて名演である。ドラマの中の二人の関係は今も懐かしく思い出すとつい頬が緩む。
その二人の若造をあこぎにこき使うドライなマダム岸田今日子とその執事的役でヒステリックな上司の岸田森というキャスティングも抜群で、毎回奇天烈破天荒な事件が起きて二人を手痛く翻弄させるも何とかコトは収まる。まったく予想がつかない展開に深く魅了された。最後ドラマは哀しい顛末を迎えるわけだが、ともかく毎回ものすごく面白かった。今思えば新進気鋭の脚本家が競い合いそれぞれ好き勝手に撮っていたのだからあんなアナーキーなドラマが作れたのだと気づく。
※余談だが矢作俊彦の小説で、この主人公オサムのその後を描いたストーリーがある。ファンにとっては感涙物の後日談である。それぐらい多くの人にこのドラマは強い印象を残している。★矢作俊彦著『傷だらけの天使、魔都に天使のハンマーを』
もし大好きなテレビドラマをもし三本挙げろと言われたら、この『傷だらけの天使』と渥美清版『泣いてたまるか』、それに『北の国から』のごく最初の頃のだろうか。そのドラマの中の「彼ら」は今も、我の中で永遠に、泣き笑いし懸命に生き続けている。
我にとってのショーケンとは、いつまでもこのドラマの中の主人公の若者であり、むろん他にもドラマや映画でいくつも好演は残しているけれどもその印象は圧倒的なものがあった。ある意味、その時代の若者の感情、不安、屈託したもの、粋がるもの、情けなさ、苛立ち、そして怒り、憤懣のようなものをギラギラとブラウン管の中で爆発させていたのだ。
彼の出自のグループサウンズ、テンプターズのことも書き記しておきたいし、シンガーとしての彼のことも、結局、彼は何故、後年は仕事が少なく俳優として活躍の場を減らしたのかも思うところはある。
が、31日のコンサートを控えて、我は今はともかく忙しくその時間がとれない。新元号が発表されてからとなってしまうかもしれないが、『探偵物語』での松田優作のこともからめて機あらば書き足したいと思っている。
ロックンロールの「軽さ」を具現し続けた男の死 ― 2019年03月19日 07時29分03秒
★内田裕也死す。
ユーヤさんである。今の人たちは、あの美輪さんと並んで、メディアやマスコミを賑わすことの多い、よく知らないけど何かヘンに目立つ異形の老人といったイメージしかないかと思う。
美輪さんは老いてもしっかりした実力があり、きちんと現役で活躍し続けている表現者だから説明不要だが、内田裕也といっても近年は故樹木希林さんの夫としか知られていないかもしれない。
が、我のように、素人ながらも日本の音楽シーンを幼児から長く見続けて来た音楽愛好者としては、やはり特別な存在だと思える。
ミュージシャンとかシンガーとしてではない。だいいち我は彼のロックシンガーとしての才能はまったく評価していない。ヒット曲、代表曲だって何もないのではないか。この我が思い出せないのだから。では、何が特別かと考えると、その存在自体が特別だとしか言いようがない。
それは、とにもかくにも彼の声質に象徴される「軽さ」であり、その持ち前のフットワークで、ロックフェスの仕掛け人、音楽プロデューサーから役者、都知事選候補者、そしてあの大震災後には、「ロックンロール」石巻に現れたりと常に何であれどこにでも軽やかに「存在」し続けた。
不思議な人である。だいいち実力第一のロックシーンの世界で、その黎明期から彼がどうして首領的に常に中心にいたのかそれこそが昔から大いなる謎であった。
何故あんな人にロックの猛者たちが従うのか不思議でならなかった。ビジネスに長けているとか、面倒見がいいとか、人柄が良いとか聞いたことはないし、ある意味、常にどこでも何をしても彼は、トリックスター、道化的存在でしかなかった。むろん当人はそれがロックであり、カッコいいと信じていたわけだが。※清志郎もそうした面はあったが、彼の方がもっとピュアで思索的で、天賦の才能があった故に真にカッコよかったのだ。
思うに、音楽には軽い音楽と重い音楽がある。それはヘビーロックとかライトフォークとかいう意味ではなく、R&B、ソウルミュージックなど我の好きな音楽は、根柢にブルーズがあり、やはりそれは重く暗く心に響くものだ。
一方、定型のロックンロールは、鼻祖・チャック・ベリーやリトル・リチャードのそれに見られるように、定型パターンの基本その重さを取っ払った軽いノリだけの楽しいものだ。詞の内容もリズムもすべてが軽くて速い。
裕也さんは、そうした軽いロック、つまりロックンロールの申し子であったから、その軽さを武器に、深く何も考えずに常にあちこち動きまわったのではないか。そうしたスピードと行動力こそが内田裕也であり、よってあれだけ長く日本のロック―シーンに君臨できたのだと今こう書いて気づく。
彼は元々は歌謡曲、ロカビリーの歌手であり、それこそ我が生まれた頃のデビューだったと記憶する。その頃のジャケットを見ると、スーツ姿にクルーカットの端正な顔立ちのいい男である。荒木一郎よりもハンサムだと思う。
我が敬愛するムッシュかまやつさんも当時は、同様の歌謡曲の歌手であり、「三人ひろしの一人」としてやはりスーツ姿に短髪である。そして二人ともそこを出発地として、やがて海外のエレキバンド台頭に強く影響受け、日本でもGSなどのロックシーンで活躍するようになっていく。
似たような出自で生きて来たお二人だが、かまやつさんは本当に才人であり、同じようなことをしてもその全てがカッコよかった。それはセンスであり、才能であり、人柄であり、それ故晩年まで多くの人たちに慕われ敬愛されたのだ。
裕也さんは・・・というと、かつての仲間や手下として接してきた後輩たちは皆誰もが先に逝き、もう周りには誰もいなかったのではないか。当人も近年はだいぶ老いと衰弱が進み、目立つ奇抜な格好は相変わらずだった分、妻である希林さんの葬儀のときの姿は哀愁としか言いようがなかった。そして、希林さんが待ち望んだかのように、半年後に後を追って旅立ったのだ。
音楽の軽さ、重さと書いたが、それはひとえに「声質」によるところが大きい。ビートルズがその初期は、単なるロックンロールバンドでしかなかったのは、あの二人のボーカル、ジョンとポールの声質が甲高くて、とても重たいブルーズは歌えなかったからだ。
一方、もう一方の雄、ストーンズがR&Bを基調とした黒く重たいサウンドを築けたのは、ミック・ジャガーという男のソウルフルな重たい声質があったからに他ならない。我がヴァン・モリソンもそうだ。
いみじくもそのジョン・レノンにはソロアルバムで、「ロックンロール」というのがあり、彼が愛したロックンローラーたちの楽曲を彼の甲高い声でトリビュートしている。確かレコードではそれの解説を裕也さんが書いていたと記憶する。
内田裕也は、そのペラペラの薄っぺらい声質ゆえ、ロックンロールに殉じた人生を明るく軽やかに生きたのだと気づく。それはそれで素晴らしい己を知った生き方ではないか。そう、彼には暗さは微塵もなかった。何であれ行動すべてがロックンロールであり内田裕也であった。
ずいぶん卑下したようなことを書いたが、我も裕也さんのアルバムは一枚だけ持っている。70年代の半ばに出たと思うが、『ユーヤ・ミーツ・サ・ベンチャーズ~ハリウッド』というレコードで、これは名盤であった。ジャケットをここに載せたいと思ったが、ウチにあるはずなのにみつからない。昔、福生でミニコミをやっていた頃、常に多くの人が出入りしてたから誰かに持ってかれたのか。今Amazonとかヤフーで検索してもヒットしない。あのベンチャーズをバックに、裕也さんは終始ノリノリで唄っている大作・快作である。
そして最後に・・・
彼には一曲だけ、どうしても忘れてはならない名曲がある。シングルカットもされたと思うが、『きめてやる今夜』だ。
いま、手元にないので、クレジットは確認できないが、詞はジュリーが書いていたのかもしれない。というのは、同じ歌詞で、沢田研二版のうたがあるのだが、それはテンポも速く別メロディーでちっともよくない。内田裕也唯一のスローかつメローなバラードで、ダメでバカなロック男の心情を切々と歌っている。真に名曲、佳曲だと思う。未聴の方は検索してみてください。
機会があらばこれから我も持ち歌として唄っていこうと思う。ほんとうに名曲だよ。
そう、こう書いてきて、読み返して少し涙している自分に気づく。そうか、俺はユーヤさんのことが好きだったのだ。今知る遺徳である。同時代を生きてきてずっと常にそこにいた人がまた一人消えていった。
ユーヤさんである。今の人たちは、あの美輪さんと並んで、メディアやマスコミを賑わすことの多い、よく知らないけど何かヘンに目立つ異形の老人といったイメージしかないかと思う。
美輪さんは老いてもしっかりした実力があり、きちんと現役で活躍し続けている表現者だから説明不要だが、内田裕也といっても近年は故樹木希林さんの夫としか知られていないかもしれない。
が、我のように、素人ながらも日本の音楽シーンを幼児から長く見続けて来た音楽愛好者としては、やはり特別な存在だと思える。
ミュージシャンとかシンガーとしてではない。だいいち我は彼のロックシンガーとしての才能はまったく評価していない。ヒット曲、代表曲だって何もないのではないか。この我が思い出せないのだから。では、何が特別かと考えると、その存在自体が特別だとしか言いようがない。
それは、とにもかくにも彼の声質に象徴される「軽さ」であり、その持ち前のフットワークで、ロックフェスの仕掛け人、音楽プロデューサーから役者、都知事選候補者、そしてあの大震災後には、「ロックンロール」石巻に現れたりと常に何であれどこにでも軽やかに「存在」し続けた。
不思議な人である。だいいち実力第一のロックシーンの世界で、その黎明期から彼がどうして首領的に常に中心にいたのかそれこそが昔から大いなる謎であった。
何故あんな人にロックの猛者たちが従うのか不思議でならなかった。ビジネスに長けているとか、面倒見がいいとか、人柄が良いとか聞いたことはないし、ある意味、常にどこでも何をしても彼は、トリックスター、道化的存在でしかなかった。むろん当人はそれがロックであり、カッコいいと信じていたわけだが。※清志郎もそうした面はあったが、彼の方がもっとピュアで思索的で、天賦の才能があった故に真にカッコよかったのだ。
思うに、音楽には軽い音楽と重い音楽がある。それはヘビーロックとかライトフォークとかいう意味ではなく、R&B、ソウルミュージックなど我の好きな音楽は、根柢にブルーズがあり、やはりそれは重く暗く心に響くものだ。
一方、定型のロックンロールは、鼻祖・チャック・ベリーやリトル・リチャードのそれに見られるように、定型パターンの基本その重さを取っ払った軽いノリだけの楽しいものだ。詞の内容もリズムもすべてが軽くて速い。
裕也さんは、そうした軽いロック、つまりロックンロールの申し子であったから、その軽さを武器に、深く何も考えずに常にあちこち動きまわったのではないか。そうしたスピードと行動力こそが内田裕也であり、よってあれだけ長く日本のロック―シーンに君臨できたのだと今こう書いて気づく。
彼は元々は歌謡曲、ロカビリーの歌手であり、それこそ我が生まれた頃のデビューだったと記憶する。その頃のジャケットを見ると、スーツ姿にクルーカットの端正な顔立ちのいい男である。荒木一郎よりもハンサムだと思う。
我が敬愛するムッシュかまやつさんも当時は、同様の歌謡曲の歌手であり、「三人ひろしの一人」としてやはりスーツ姿に短髪である。そして二人ともそこを出発地として、やがて海外のエレキバンド台頭に強く影響受け、日本でもGSなどのロックシーンで活躍するようになっていく。
似たような出自で生きて来たお二人だが、かまやつさんは本当に才人であり、同じようなことをしてもその全てがカッコよかった。それはセンスであり、才能であり、人柄であり、それ故晩年まで多くの人たちに慕われ敬愛されたのだ。
裕也さんは・・・というと、かつての仲間や手下として接してきた後輩たちは皆誰もが先に逝き、もう周りには誰もいなかったのではないか。当人も近年はだいぶ老いと衰弱が進み、目立つ奇抜な格好は相変わらずだった分、妻である希林さんの葬儀のときの姿は哀愁としか言いようがなかった。そして、希林さんが待ち望んだかのように、半年後に後を追って旅立ったのだ。
音楽の軽さ、重さと書いたが、それはひとえに「声質」によるところが大きい。ビートルズがその初期は、単なるロックンロールバンドでしかなかったのは、あの二人のボーカル、ジョンとポールの声質が甲高くて、とても重たいブルーズは歌えなかったからだ。
一方、もう一方の雄、ストーンズがR&Bを基調とした黒く重たいサウンドを築けたのは、ミック・ジャガーという男のソウルフルな重たい声質があったからに他ならない。我がヴァン・モリソンもそうだ。
いみじくもそのジョン・レノンにはソロアルバムで、「ロックンロール」というのがあり、彼が愛したロックンローラーたちの楽曲を彼の甲高い声でトリビュートしている。確かレコードではそれの解説を裕也さんが書いていたと記憶する。
内田裕也は、そのペラペラの薄っぺらい声質ゆえ、ロックンロールに殉じた人生を明るく軽やかに生きたのだと気づく。それはそれで素晴らしい己を知った生き方ではないか。そう、彼には暗さは微塵もなかった。何であれ行動すべてがロックンロールであり内田裕也であった。
ずいぶん卑下したようなことを書いたが、我も裕也さんのアルバムは一枚だけ持っている。70年代の半ばに出たと思うが、『ユーヤ・ミーツ・サ・ベンチャーズ~ハリウッド』というレコードで、これは名盤であった。ジャケットをここに載せたいと思ったが、ウチにあるはずなのにみつからない。昔、福生でミニコミをやっていた頃、常に多くの人が出入りしてたから誰かに持ってかれたのか。今Amazonとかヤフーで検索してもヒットしない。あのベンチャーズをバックに、裕也さんは終始ノリノリで唄っている大作・快作である。
そして最後に・・・
彼には一曲だけ、どうしても忘れてはならない名曲がある。シングルカットもされたと思うが、『きめてやる今夜』だ。
いま、手元にないので、クレジットは確認できないが、詞はジュリーが書いていたのかもしれない。というのは、同じ歌詞で、沢田研二版のうたがあるのだが、それはテンポも速く別メロディーでちっともよくない。内田裕也唯一のスローかつメローなバラードで、ダメでバカなロック男の心情を切々と歌っている。真に名曲、佳曲だと思う。未聴の方は検索してみてください。
機会があらばこれから我も持ち歌として唄っていこうと思う。ほんとうに名曲だよ。
そう、こう書いてきて、読み返して少し涙している自分に気づく。そうか、俺はユーヤさんのことが好きだったのだ。今知る遺徳である。同時代を生きてきてずっと常にそこにいた人がまた一人消えていった。
デストロイヤーというひとつの時代の分水嶺 ― 2019年03月08日 22時49分16秒
★ある世代の男子は誰もが知っている男の死
デストロイヤーさんが亡くなった。と、夜のNHKニュースが報じていた。彼の死の年齢について何も思うこと等はないが、「ボブ・ディランさん」もそうだが、~さんと、「さん付け」されてキャスターに呼ばれると、そういうふうに世間一般でも広く認知されている存在なのだとわかって少し不思議な気持ちになる。
デストロイヤーはデストロイヤー、我らが世代には白い覆面魔王であり、必殺四の字固めである。まあ、その訃報に驚きはしない。何しろあの力道山とも死闘をくり広げた世代なのだから。
しかしふと思う。果たして今の人たち、平成生まれもだが、おそらく四十代でもその名をご存知の人は少ないのではないか。
むろんリングを離れても、何故か日本テレビのバラエティ番組で、ゴッドねえちゃんこと、和田アキ子らと共に、笑いをとっていた人だからそうした姿は記憶している人もいるだろうが。
ニュースでは、かなり初老の人たち、男性中心にマイクを向けて皆一様に訃報に驚いていたが、今の人たちにとっては誰それ??だと思う。
今の子はどうか知らないが、昔の子は、男の子の憧れは、プロレスラーか野球選手であり、女の子は、バレリーナかスチュワーデスと決まっていた。
こんな我でも、唯一好きなスポーツは、プロレスであり、祖父と共に、大昔の日本プロレス、つまり力道山の試合をテレビで生前から観ていた。
さすがに力さんとの試合ははっきり記憶にはないが、ジャイアント馬場との試合は、鉄の爪エリックやボボ・ブラジルらと共に今もありありと思い出す。体は大きくないが、圧倒的凄みがあった。それは覆面という正体のわからなさも大きい。彼唯一の得意技、四の字固めが決まれば誰もがギブアップするしかなかった。まさに一芸必殺である。
昔の男子でデストロイヤーを知らない奴は誰一人いなかった。悪役でありながらその強さに憧れた。
我にとって昭和の三大ヒールは、※ヒールというのは、「悪役」のことで、吸血鬼・フレッド・プラッシーと黒い呪術師・アブドラ・ザ・ブッチャー、そして覆面魔王デストロイヤーだと断言する。
昔の男の子たちは、体育の授業の折など、マットさえあれば、すぐさま誰もが足四の字固めのかけっこをよくしたものだった。そしてそれはカンタンだが、きまるとじっさい実に痛い。
猪木のコブラツイストとか卍固めという技も、皆でやってみるのだが、はっきりいってこれはなかなかきまらない。きまらないといのは、その技はあくまでもリングの中で、相手がそれを受けて、技にかかってくれる、受けてくれるから「きまる」技だということで、実際にやってみると、プロレス的了解のうえでのただの見せ技だとわかってくる。
むろんバックドロップとか、ブレンバスター、ジャーマンスープレックスホールドなど大技は、やろうと思ってもやれないし、危険すぎてやるべきではないと子供心にも皆了解していたから、やりはしない。だからこそデスロイヤーの四の字固めである。ごくカンタンだが、じっさいにプロレス的にその痛みを実体験できるのである。なんちゃってプロレスラーに誰もがなれるわけだ。それは素晴らしいことではないか。
今思えば、それは関節技の一種ととらえるべきなのだと思うが、デストロイヤーといえば、白覆面、そして四の字固め、という必殺技のレスラーとしてまさに一世を風靡した。
本場米国でも実績を残している人だが、その後も大の親日家として、日本に拠点を移し、縁深い日テレのそのバラエティー番組で、コメディアンとしてもお茶の間に広く浸透した。和田アキ子の手下に成り下がっても、必殺四の字固めは健在で、「いじめ」ではなく本気で若手タレントに仕掛けては笑いをとっていた。
今にしては実に懐かしい。本名ディック・ベイヤー、体は大きくなかったが、覆面レスラーの鼻祖であり、足四の字固め、フィギィア・フォー・レッグロックという一芸だけで、日米の頂点に上り詰めた男。昭和という時代を思い出し語るときに欠かせない人だった。
君はデストロイヤーを知っているか。四の字固めができるか。それだけである世代、一つの時代の分水嶺となる男がまた一人死んだ。
デストロイヤーさんが亡くなった。と、夜のNHKニュースが報じていた。彼の死の年齢について何も思うこと等はないが、「ボブ・ディランさん」もそうだが、~さんと、「さん付け」されてキャスターに呼ばれると、そういうふうに世間一般でも広く認知されている存在なのだとわかって少し不思議な気持ちになる。
デストロイヤーはデストロイヤー、我らが世代には白い覆面魔王であり、必殺四の字固めである。まあ、その訃報に驚きはしない。何しろあの力道山とも死闘をくり広げた世代なのだから。
しかしふと思う。果たして今の人たち、平成生まれもだが、おそらく四十代でもその名をご存知の人は少ないのではないか。
むろんリングを離れても、何故か日本テレビのバラエティ番組で、ゴッドねえちゃんこと、和田アキ子らと共に、笑いをとっていた人だからそうした姿は記憶している人もいるだろうが。
ニュースでは、かなり初老の人たち、男性中心にマイクを向けて皆一様に訃報に驚いていたが、今の人たちにとっては誰それ??だと思う。
今の子はどうか知らないが、昔の子は、男の子の憧れは、プロレスラーか野球選手であり、女の子は、バレリーナかスチュワーデスと決まっていた。
こんな我でも、唯一好きなスポーツは、プロレスであり、祖父と共に、大昔の日本プロレス、つまり力道山の試合をテレビで生前から観ていた。
さすがに力さんとの試合ははっきり記憶にはないが、ジャイアント馬場との試合は、鉄の爪エリックやボボ・ブラジルらと共に今もありありと思い出す。体は大きくないが、圧倒的凄みがあった。それは覆面という正体のわからなさも大きい。彼唯一の得意技、四の字固めが決まれば誰もがギブアップするしかなかった。まさに一芸必殺である。
昔の男子でデストロイヤーを知らない奴は誰一人いなかった。悪役でありながらその強さに憧れた。
我にとって昭和の三大ヒールは、※ヒールというのは、「悪役」のことで、吸血鬼・フレッド・プラッシーと黒い呪術師・アブドラ・ザ・ブッチャー、そして覆面魔王デストロイヤーだと断言する。
昔の男の子たちは、体育の授業の折など、マットさえあれば、すぐさま誰もが足四の字固めのかけっこをよくしたものだった。そしてそれはカンタンだが、きまるとじっさい実に痛い。
猪木のコブラツイストとか卍固めという技も、皆でやってみるのだが、はっきりいってこれはなかなかきまらない。きまらないといのは、その技はあくまでもリングの中で、相手がそれを受けて、技にかかってくれる、受けてくれるから「きまる」技だということで、実際にやってみると、プロレス的了解のうえでのただの見せ技だとわかってくる。
むろんバックドロップとか、ブレンバスター、ジャーマンスープレックスホールドなど大技は、やろうと思ってもやれないし、危険すぎてやるべきではないと子供心にも皆了解していたから、やりはしない。だからこそデスロイヤーの四の字固めである。ごくカンタンだが、じっさいにプロレス的にその痛みを実体験できるのである。なんちゃってプロレスラーに誰もがなれるわけだ。それは素晴らしいことではないか。
今思えば、それは関節技の一種ととらえるべきなのだと思うが、デストロイヤーといえば、白覆面、そして四の字固め、という必殺技のレスラーとしてまさに一世を風靡した。
本場米国でも実績を残している人だが、その後も大の親日家として、日本に拠点を移し、縁深い日テレのそのバラエティー番組で、コメディアンとしてもお茶の間に広く浸透した。和田アキ子の手下に成り下がっても、必殺四の字固めは健在で、「いじめ」ではなく本気で若手タレントに仕掛けては笑いをとっていた。
今にしては実に懐かしい。本名ディック・ベイヤー、体は大きくなかったが、覆面レスラーの鼻祖であり、足四の字固め、フィギィア・フォー・レッグロックという一芸だけで、日米の頂点に上り詰めた男。昭和という時代を思い出し語るときに欠かせない人だった。
君はデストロイヤーを知っているか。四の字固めができるか。それだけである世代、一つの時代の分水嶺となる男がまた一人死んだ。
オウムがサブカルとして身近にあった時代・後 ― 2018年07月18日 23時02分59秒
★・・・・
先に、我が若かった大昔、ミニコミを出していた頃に聴いた、麻原らしきヨガの先生の「超能力」について書いた。
今回、改めて彼とオウムの「年譜」を確認してみると、年代的に合わないことに気がついた。我が友人から話を聴いた頃は、まだオウムの前身の会も含めて、そうした活動を開始していないと思えてきた。じっさいの話、我と麻原はさほど歳は変わらないのである。
ということは、それはまた別の麻原的人物であり、その人物とオウムを結び付けてはならないと気づく。が、この世には、そうした科学的には説明できない不思議な力を持つ人物は確かにいるし、オウムを率いた男もまた多かれ少なかれ確かに何らかの不可思議な能力は持っていたと我は確信している。
まあ、世間ではそれをオカルトとか神秘主義とか言う。超常現象、UFOとかフリーメーソン、ユダヤの謀略とかノストラダムスの大予言などが持てはやされたのは80年代から90年代にかけての頃で、特に1999年に世界が滅びるとされるノストラダムスの予言本は大ベストセラーとなった。
当時の若者の中には、それを心から信じた者もいたし、半信半疑ながらも不安に思っていた者も少なからずいた。そして瞑想し解脱した神秘的な「超能力」者にも同様の関心があった。
オウム真理教という宗教が出て来て、ごく短期間にあれほど拡大し若者中心に支持されたのは、そうした時代背景があったからだと我は考えている。
さらにオウムという宗教は、マスコミに報じられる分には、きわめてポップでお茶目で若者向けであり、ある意味それはおバカであって、従来の厳格な既成宗教よりもはるかに間口は低く思えた。
今思うと、その内部の出来事、裏の顔を知らなければ、あの時代のニーズに合っていたのである。
また、今でもあんなものに何故エリートたちが多数集まってあんな凶悪な犯行に手を染めてしまったかと問われているが、我思うにそもそもオウムはエリート集団ではない。多くは今でいう、社会的・家庭内でも落ちこぼれの若者が多かった。
凶悪な犯行に関わった幹部たちはかなり知的レベルは高いが、エリートたちの世界では落ちこぼれであって、その本来の組織の中では居場所が無かったり悩みを抱えて、麻原の宗教に自らの居場所を見出したのだ。
本当のエリートとはいつどこでも、組織や体制にどっぷり浸かって保護されているから、先のサガワ前局長のように、権力の庇護のもと、そこから「落ちこぼれる」ことは絶対にないしその組織を裏切らない。
いつの時代もエリートであれ、真の居場所がない者たちはいて、彼らは、自らが求められる「居場所」を求めている。オウムもそうした悩み挫折した若者にとっての救済の場であったはずだ。
そこでは何でも御見通しの包容力ある尊師がいて、若者は魅せられ「師」として絶対的に従ってしまう。エリートならばこそその持ち味を活かせる場が与えられた。
オウムのしでかした数々の凶悪な殺人事件だって、常識的に考えると通常の組織であれば、計画段階で異論は必ず出るだろうし、ときには師を裏切り、警察へ密告に走る者も出たはずかと思える。
が、宗教ゆえ、尊師麻原の命令は絶対であり、ましてその彼の心に「魔」が入ってしまっていたら、その決定は覆せない。結果としてオウムの暴走は加速して、類を見ない悲惨な凶行は繰り返され、彼らは破滅してしまった。さらにはオウム事件を口実に、今日の対テロ用法律や国家権力による大衆監視社会が生まれたのである。我はそこに神ではない何かの見えざる手が動いているようにも思えるがどうだろうか。
ただこうも思う。オウムもその教団がしでかした犯罪も絶対に理解も肯定もできないが、バブル崩壊後のあの時代、様々な不全感を抱えて悩み迷い居場所を求めた若者たちにオウムがあったのは「良いこと」ではなかったのか。むろんもっと最良の正しく良識ある場があれば幸いだったが、オウムというもう一つの「現実」の場があった。
それから時は過ぎ、2000年代も20年目になろうとしている現在、人と人とを繋ぐバーチャルな場と手段はいくらでもあるが、現実の「場」は今はもはやどこにもなくなってしまった。
今の人、特に若者は、すべてスマホの中だけで体験し、学び知り、発信する。そしてそこで知り得た情報を鵜呑みにして深く考えることなく判断し決定していく。
抱えている不安やストレスは誰かが発した失言や事件で炎上させて発散させる。昔も今も若者の不安と不満、不全感は変わらないはずだが、今ではバーチャルな場で解消させ、SNSで他者と「繋がっている」という幻想で紛らしている。そこでは自己の評価だけが最大の関心事となってしまった。
過ぎた時代が良かったなんて思わないが、落ちこぼれた若者たちに現実の「場」がまだあったのが20世紀の終わりの頃だったのだ。最大の過ちと不幸は、それがオウムという、狂った指導者に率いられた宗教だったことなのだと今にして思う。
先に、我が若かった大昔、ミニコミを出していた頃に聴いた、麻原らしきヨガの先生の「超能力」について書いた。
今回、改めて彼とオウムの「年譜」を確認してみると、年代的に合わないことに気がついた。我が友人から話を聴いた頃は、まだオウムの前身の会も含めて、そうした活動を開始していないと思えてきた。じっさいの話、我と麻原はさほど歳は変わらないのである。
ということは、それはまた別の麻原的人物であり、その人物とオウムを結び付けてはならないと気づく。が、この世には、そうした科学的には説明できない不思議な力を持つ人物は確かにいるし、オウムを率いた男もまた多かれ少なかれ確かに何らかの不可思議な能力は持っていたと我は確信している。
まあ、世間ではそれをオカルトとか神秘主義とか言う。超常現象、UFOとかフリーメーソン、ユダヤの謀略とかノストラダムスの大予言などが持てはやされたのは80年代から90年代にかけての頃で、特に1999年に世界が滅びるとされるノストラダムスの予言本は大ベストセラーとなった。
当時の若者の中には、それを心から信じた者もいたし、半信半疑ながらも不安に思っていた者も少なからずいた。そして瞑想し解脱した神秘的な「超能力」者にも同様の関心があった。
オウム真理教という宗教が出て来て、ごく短期間にあれほど拡大し若者中心に支持されたのは、そうした時代背景があったからだと我は考えている。
さらにオウムという宗教は、マスコミに報じられる分には、きわめてポップでお茶目で若者向けであり、ある意味それはおバカであって、従来の厳格な既成宗教よりもはるかに間口は低く思えた。
今思うと、その内部の出来事、裏の顔を知らなければ、あの時代のニーズに合っていたのである。
また、今でもあんなものに何故エリートたちが多数集まってあんな凶悪な犯行に手を染めてしまったかと問われているが、我思うにそもそもオウムはエリート集団ではない。多くは今でいう、社会的・家庭内でも落ちこぼれの若者が多かった。
凶悪な犯行に関わった幹部たちはかなり知的レベルは高いが、エリートたちの世界では落ちこぼれであって、その本来の組織の中では居場所が無かったり悩みを抱えて、麻原の宗教に自らの居場所を見出したのだ。
本当のエリートとはいつどこでも、組織や体制にどっぷり浸かって保護されているから、先のサガワ前局長のように、権力の庇護のもと、そこから「落ちこぼれる」ことは絶対にないしその組織を裏切らない。
いつの時代もエリートであれ、真の居場所がない者たちはいて、彼らは、自らが求められる「居場所」を求めている。オウムもそうした悩み挫折した若者にとっての救済の場であったはずだ。
そこでは何でも御見通しの包容力ある尊師がいて、若者は魅せられ「師」として絶対的に従ってしまう。エリートならばこそその持ち味を活かせる場が与えられた。
オウムのしでかした数々の凶悪な殺人事件だって、常識的に考えると通常の組織であれば、計画段階で異論は必ず出るだろうし、ときには師を裏切り、警察へ密告に走る者も出たはずかと思える。
が、宗教ゆえ、尊師麻原の命令は絶対であり、ましてその彼の心に「魔」が入ってしまっていたら、その決定は覆せない。結果としてオウムの暴走は加速して、類を見ない悲惨な凶行は繰り返され、彼らは破滅してしまった。さらにはオウム事件を口実に、今日の対テロ用法律や国家権力による大衆監視社会が生まれたのである。我はそこに神ではない何かの見えざる手が動いているようにも思えるがどうだろうか。
ただこうも思う。オウムもその教団がしでかした犯罪も絶対に理解も肯定もできないが、バブル崩壊後のあの時代、様々な不全感を抱えて悩み迷い居場所を求めた若者たちにオウムがあったのは「良いこと」ではなかったのか。むろんもっと最良の正しく良識ある場があれば幸いだったが、オウムというもう一つの「現実」の場があった。
それから時は過ぎ、2000年代も20年目になろうとしている現在、人と人とを繋ぐバーチャルな場と手段はいくらでもあるが、現実の「場」は今はもはやどこにもなくなってしまった。
今の人、特に若者は、すべてスマホの中だけで体験し、学び知り、発信する。そしてそこで知り得た情報を鵜呑みにして深く考えることなく判断し決定していく。
抱えている不安やストレスは誰かが発した失言や事件で炎上させて発散させる。昔も今も若者の不安と不満、不全感は変わらないはずだが、今ではバーチャルな場で解消させ、SNSで他者と「繋がっている」という幻想で紛らしている。そこでは自己の評価だけが最大の関心事となってしまった。
過ぎた時代が良かったなんて思わないが、落ちこぼれた若者たちに現実の「場」がまだあったのが20世紀の終わりの頃だったのだ。最大の過ちと不幸は、それがオウムという、狂った指導者に率いられた宗教だったことなのだと今にして思う。
オウムがサブカルとして身近にあった時代・中 ― 2018年07月17日 17時40分22秒
★オウムを面白がっていた、あの頃のバカな自分
オウム真理教幹部らが起こした事件で、首謀者の麻原彰晃こと、松本智津夫らに死刑が執行された。
一度に7人というのは、あの大逆事件以来とのことで、我はむろん麻原らが無罪。冤罪だなどとまったく思わないが、比べた時に何かそこに昔も今も変わらない国家権力側の強い意思と思惑が感じ取られただただ嫌な感じがしている。
我はもとより死刑廃止論に与する者であり、今日のように、自らは自殺ができないがため、死刑を求めて無差別に誰でもいいから殺人事件を起こすなどという論外の事件が起こる時世では、まさに本末転倒だと言うしかない。
死刑はあくまでも被害者遺族のための心理的「報復」であり、死刑制度があれば犯罪は減少化、抑止できるということはまったく当たらないと考えている。
どのような犯罪であろうとも犯罪を起こす者は、逮捕されることはまず想定しないだろうし、まして捕まったら死刑になるから、と考える者はそもそもそんな犯罪は起こさない。
さておき、テレビや新聞の報道では、そうした死刑に値するオウム真理教の起こした数々の凶悪な事件のみが報じられ、ネット上の検索だと、麻原は、日本のテロリストとして記述されている。
確かに国家転覆を狙って数々の凶悪かつ無差別な殺人事件を起こしたオウムであり、その代表ならば、テロリストということになるのかもしれない。が、どうにも違和感がある。彼は、やはり最後の最後まで宗教家、それも極めて歪んだ、狂った宗教家だったと我は思う。
今の人は、今回その死刑報道から彼らのしでかした数々の凶悪事件を知って、そういう狂信的テロリスト集団がかつては存在して「浅間山荘事件」的に事件を起こしたのだと思うかもしれない。
が、それは違う。オウムとは一時期、極めてこの日本社会に溶け込み、合法的に活動しマスメディアにもしきりに登場し、特に当時の若者たちにかなり注目されていた存在だったのである。
そうした「前段階」「表の顔」もまたきちんと記録し書き残しておかねばならないはずだと我は思う。
考えてみれば、オウム逮捕のきっかけとなった地下鉄サリン事件が1995年なのだから、もう四半世紀近く経つ。ならば今の若い人のみならず、30代、中年の人でさえも事件が起きた頃は子供で、その社会状況はよく覚えていないかもしれない。
だからこそオウムの犯した特殊かつ前代未聞の凶悪犯罪が、「裏の顔」だとすれば、そこに至るまでの「表の面」の彼らのことを書いていく。
そう、かつての一時期、オウムは間違いなく一つの社会現象と化していたのである。
オウム真理教、という新興宗教団体の名がマスメディアを賑わすようになったのは、1980年代の終わり頃からであったか。
まずはチベットのダライラマと並んだ麻原のツーショットの写真をよく見かけるようになった記憶がある。またすぐに宗教特有のトラブルも多多く報じられ、弁護士たちが動き出し批判記事も多く見かけるようになった。
が、1990年の衆院選に、彼らは尊師自らも含めて大量に立候補して大きくマスコミに注目された。※結果は惨敗であったものの。
そして彼ら特有の耳慣れない「オウム用語」がメディアに多数登場して来る。選挙に出てきた幹部一人一人の奇妙なホーリーネームもだが、ガネーシャからイニシエ―ション、マハーヤーナ、ニルバーナ、ハルマゲドン、サティアン、そしてボアする、まで、その多くが「流行語」となっていった。
テレビをつければ、広報担当の上祐氏のみならず幹部連、青山弁護士もよく出てきたし、書店に行けばオウムが出した関連書籍のコーナーがあり月刊誌も出ていて平積みになっていた。彼らは自前の出版社があり大量の出版物を出していたのである。
今では皆が口を閉ざしてしまったが、名のある宗教学者や文化人が彼らを支持し擁護する発言も多くしていた。
秋葉原に行けば、オウム信者たちが自ら作り販売していた格安のパソコンショップ「マハーポーシャ」があったし、全国各地に道場、さらにロシアやN・Yなど海外にも支部があった。ラジオ放送局さえ持っていたと記憶する。
※また、尊師自らがつくったとされる「うた」や彼を讃えるオウムソングも選挙戦の頃は頻繁にメディアに流れていたから今でも口づさめる人も多いはずだ。そうそう、ロシアにはオウムの楽団もあった。
本好きとして、我もそうしたオウムの出していた月刊誌、名前は失念したが何冊か買い求め、今もどこかにあるはずだが、なかなか面白く読みごたえがあった。
そうしたオウムに対して我は、シンパシーは感じなかったが、胡散臭く思いつつも面白く興味持って眺めていたことは間違いない。
いや、世間一般の反応は、彼らはかなりヘンだが、何か面白そうだと、当初は嫌悪感や恐怖感よりも好奇心のほうが勝っていたと思える。
特に若者たちにとっては、間違いなく興味引かれる面白そうなサブカルの一つだったのではないか。
ウチの近所の家の次男にあたる青年もその頃、オウムに魅かれて、家族に「遺産分け」を求めて、ひと騒動起こした末、「出家」して教団に入ってしまったことを思い出す。「勘当」された扱いになってしまったはずだが、彼は今どうしているのだろうか。
早くから教団を批判し敵対していた坂本弁護士失踪事件は、1989年に起きてはいたのだけど、部屋にオウムのバッチが落ちていたことから、オウムの犯行ではないかと当初から疑われつつもそれ以上追及されることはなかったのである。
けっきょく、オウムの幹部全員が逮捕され、一連の事件の真相が判明して、坂本弁護士事件もまたオウムの犯行と確定したわけだが、ミステリー小説やドラマでは有り得ない、一番最初から怪しいやつらがやっぱり犯人だったという陳腐な「結末」に呆れ果て言葉を失った。
当時のことを思うとき、オウムは、小型でも創価学会に倣ったのか出版から芸能音楽まで、実にあらゆるメディア操作、宣伝工作に長けていたと感心してしまう。どこにそれだけの資金と多くの人材があったのか今でも不思議でならない。
そしてこうも思う。我も含めて、マスコミも当時の世相も、多くの人たちは、オウムの、そして麻原の裏側の顔に気づかずに、ヘンだと思いつつ許容してしまっていたのだと。
オウム真理教幹部らが起こした事件で、首謀者の麻原彰晃こと、松本智津夫らに死刑が執行された。
一度に7人というのは、あの大逆事件以来とのことで、我はむろん麻原らが無罪。冤罪だなどとまったく思わないが、比べた時に何かそこに昔も今も変わらない国家権力側の強い意思と思惑が感じ取られただただ嫌な感じがしている。
我はもとより死刑廃止論に与する者であり、今日のように、自らは自殺ができないがため、死刑を求めて無差別に誰でもいいから殺人事件を起こすなどという論外の事件が起こる時世では、まさに本末転倒だと言うしかない。
死刑はあくまでも被害者遺族のための心理的「報復」であり、死刑制度があれば犯罪は減少化、抑止できるということはまったく当たらないと考えている。
どのような犯罪であろうとも犯罪を起こす者は、逮捕されることはまず想定しないだろうし、まして捕まったら死刑になるから、と考える者はそもそもそんな犯罪は起こさない。
さておき、テレビや新聞の報道では、そうした死刑に値するオウム真理教の起こした数々の凶悪な事件のみが報じられ、ネット上の検索だと、麻原は、日本のテロリストとして記述されている。
確かに国家転覆を狙って数々の凶悪かつ無差別な殺人事件を起こしたオウムであり、その代表ならば、テロリストということになるのかもしれない。が、どうにも違和感がある。彼は、やはり最後の最後まで宗教家、それも極めて歪んだ、狂った宗教家だったと我は思う。
今の人は、今回その死刑報道から彼らのしでかした数々の凶悪事件を知って、そういう狂信的テロリスト集団がかつては存在して「浅間山荘事件」的に事件を起こしたのだと思うかもしれない。
が、それは違う。オウムとは一時期、極めてこの日本社会に溶け込み、合法的に活動しマスメディアにもしきりに登場し、特に当時の若者たちにかなり注目されていた存在だったのである。
そうした「前段階」「表の顔」もまたきちんと記録し書き残しておかねばならないはずだと我は思う。
考えてみれば、オウム逮捕のきっかけとなった地下鉄サリン事件が1995年なのだから、もう四半世紀近く経つ。ならば今の若い人のみならず、30代、中年の人でさえも事件が起きた頃は子供で、その社会状況はよく覚えていないかもしれない。
だからこそオウムの犯した特殊かつ前代未聞の凶悪犯罪が、「裏の顔」だとすれば、そこに至るまでの「表の面」の彼らのことを書いていく。
そう、かつての一時期、オウムは間違いなく一つの社会現象と化していたのである。
オウム真理教、という新興宗教団体の名がマスメディアを賑わすようになったのは、1980年代の終わり頃からであったか。
まずはチベットのダライラマと並んだ麻原のツーショットの写真をよく見かけるようになった記憶がある。またすぐに宗教特有のトラブルも多多く報じられ、弁護士たちが動き出し批判記事も多く見かけるようになった。
が、1990年の衆院選に、彼らは尊師自らも含めて大量に立候補して大きくマスコミに注目された。※結果は惨敗であったものの。
そして彼ら特有の耳慣れない「オウム用語」がメディアに多数登場して来る。選挙に出てきた幹部一人一人の奇妙なホーリーネームもだが、ガネーシャからイニシエ―ション、マハーヤーナ、ニルバーナ、ハルマゲドン、サティアン、そしてボアする、まで、その多くが「流行語」となっていった。
テレビをつければ、広報担当の上祐氏のみならず幹部連、青山弁護士もよく出てきたし、書店に行けばオウムが出した関連書籍のコーナーがあり月刊誌も出ていて平積みになっていた。彼らは自前の出版社があり大量の出版物を出していたのである。
今では皆が口を閉ざしてしまったが、名のある宗教学者や文化人が彼らを支持し擁護する発言も多くしていた。
秋葉原に行けば、オウム信者たちが自ら作り販売していた格安のパソコンショップ「マハーポーシャ」があったし、全国各地に道場、さらにロシアやN・Yなど海外にも支部があった。ラジオ放送局さえ持っていたと記憶する。
※また、尊師自らがつくったとされる「うた」や彼を讃えるオウムソングも選挙戦の頃は頻繁にメディアに流れていたから今でも口づさめる人も多いはずだ。そうそう、ロシアにはオウムの楽団もあった。
本好きとして、我もそうしたオウムの出していた月刊誌、名前は失念したが何冊か買い求め、今もどこかにあるはずだが、なかなか面白く読みごたえがあった。
そうしたオウムに対して我は、シンパシーは感じなかったが、胡散臭く思いつつも面白く興味持って眺めていたことは間違いない。
いや、世間一般の反応は、彼らはかなりヘンだが、何か面白そうだと、当初は嫌悪感や恐怖感よりも好奇心のほうが勝っていたと思える。
特に若者たちにとっては、間違いなく興味引かれる面白そうなサブカルの一つだったのではないか。
ウチの近所の家の次男にあたる青年もその頃、オウムに魅かれて、家族に「遺産分け」を求めて、ひと騒動起こした末、「出家」して教団に入ってしまったことを思い出す。「勘当」された扱いになってしまったはずだが、彼は今どうしているのだろうか。
早くから教団を批判し敵対していた坂本弁護士失踪事件は、1989年に起きてはいたのだけど、部屋にオウムのバッチが落ちていたことから、オウムの犯行ではないかと当初から疑われつつもそれ以上追及されることはなかったのである。
けっきょく、オウムの幹部全員が逮捕され、一連の事件の真相が判明して、坂本弁護士事件もまたオウムの犯行と確定したわけだが、ミステリー小説やドラマでは有り得ない、一番最初から怪しいやつらがやっぱり犯人だったという陳腐な「結末」に呆れ果て言葉を失った。
当時のことを思うとき、オウムは、小型でも創価学会に倣ったのか出版から芸能音楽まで、実にあらゆるメディア操作、宣伝工作に長けていたと感心してしまう。どこにそれだけの資金と多くの人材があったのか今でも不思議でならない。
そしてこうも思う。我も含めて、マスコミも当時の世相も、多くの人たちは、オウムの、そして麻原の裏側の顔に気づかずに、ヘンだと思いつつ許容してしまっていたのだと。
オウムがサブカルとして身近にあった時代・前 ― 2018年07月16日 09時28分03秒
★オウムを面白がっていた、あの頃の我らは
今日も朝から晴れてものすごく暑い。窓を開ければもわっとした熱風が吹きこんでくる。慌てて窓を閉めた。
若い時分、といっても30にならんとしていたかと思うが、フランスを中心に西欧を何度か旅する機会があった。
初めて行ったときの飛行機は、パキスタンエアラインで、まず北京に停まったあと、カラチやイスラマバードに停まり、そのどちらからパリ行きの便に乗り継いだ。
そのとき、乗り換えのため現地の空港に降ろされたが、飛行機から外に下りて、その赤茶けた大地に立ったときの風がまさに熱風で驚かされた。最初は飛行機のエンジンからまだ冷めやらぬ風が吹き出ていて、その熱さかと思ったほど、その国は信じられない程暑い熱風の中にあった。
束の間、迎えに来たミニバスのような車に乗せられて空港内の建物に連れていかれ、そこは冷房も効いていてほっと一息つけたが、この世にあんな暑い場所があるという衝撃は今も忘れない。
が、人とはそんな地でも外へ出て暮らし生活を営んでいるのである。
今朝の外の風は、体感としてそんなパキスタンの大地に降り立ったときをとつぜん思い出させた。
そんな暑さの中でも日々木陰のない野外で働く人や、被災地で懸命に瓦礫や土砂を運び出している人たちがいるのである。胸が痛むが、駆けつけてボランティアとして手伝うことは我はできやしない。
パキスタンの暑さもだけれど、このところ普段はずっと忘れていた大昔のことを思い出すことが多い。
我は十代の終わりの頃、自宅の二階を編集室にして、高校の後輩たちと部数500部ほどのミニコミ誌を約一年間出していた。
ページ数も少ない小冊子というようなものだったけれど、いちおうオフセット印刷で、近隣の書店や喫茶店などに置かせてもらい、自慢するわけではないが、それなりにこの地域では売れてはいて、駅前のレコード屋やら知り合いのお店から広告代ももらっていたこともあってまあまあ採算はとれていた。
もしそのままずっと続けていれば、椎名誠や沢野ひとしらの『本の雑誌』や『ロッキングオン』のように、ミニコミからメジャー誌へと昇格していたかもしれないと夢想もする。
ただ、何事も飽きやすく続かない我の性分として、確か6号ほど出して終わりにして、福生のやつらとは縁を切り、我はとりあえず町田にある、バカネ学長のアホウ大学という大学に潜り込み、そこで何年も音楽やらマンガやら自主映画やら日々遊びほうけて、青春を無駄に燃焼させることになる。
思い出したのは、そんな大学時代のことではなく、そのミニコミをやっていたとき知り合った人が話していたことだ。
その編集室は出入り自由で、今もそうだが、我は来るものは拒まず、去る者は追わずというスタンスは変わらないから、ミニコミを通していろいろんな人が昼夜問わずやってきて雑魚寝してもいった。※うちは両親共働きで、まったくの放任主義であった。
その中にナカタさんといったと記憶するが、国立かどこかに住んでいたやや年上のヘンな人がいて、よく遊びに来たし編集を手伝ってくれたり原稿も書いてくれた。二十歳は過ぎていてたと思うが、それでもまだ二十代そこそこではなかったか。
他にも女の子と同棲して出版社でアルバイトしているやはり二十歳過ぎのハンサム氏とか、関西から家出同然に東京に出てきて住まいもなくそのまま我が大学に通うために借りたアパートに居ついてしまった奴もいたりと、今から思うと若さとはバカさの同義語だと自分でも呆れるほど誰もがそれぞれ「自由」にやっていた。
その中のナカタ氏が話していた話だが、あるとき彼は、中央線沿線の阿佐ヶ谷だかどこかの駅近くのヨガの教室、道場を訪れた。
ちょうどそのとき、その教室の主宰者だか、師とか先生だとかいういちばんエライ人が来て、教室にいた者たちは皆大喜び、歓待して出迎えた。
ナカタさんがそこに何の用件で行ったのか聞いたかもしれないがもはや思い出せないが、彼はそもそもそんなものには関心も興味もなく、その師匠のことを無視して、彼らと離れて自ら持っていた本を読んでいた。
と、それがその師のカンにさわったのか、その先生と呼ばれた男はナカタさんに向けて「念」を飛ばしてきて、ナカタさんはどうしても本が読めくなってしまったと言う。
手が震えたからなのか、頭痛でもしたのか詳しいことは訊いたけど思い出せないが、「ともかくどうしても本を読み続けることができなくなってしまった、あんなこともあるんだなあ」とぼやいていたことは憶えている。
彼曰く、その師匠を無視したので怒らせたらそんな目に遭ったのである。
その話を聞いたとき、どうもピンと来なかったし、そんな不思議なことがあるのかと半信半疑であったが、ナカタ氏は間違いなくその男を怒らせたので念力でそんな目に遭ったと言っていたことがずっと記憶に残っていた。
そして後年、オウム真理教がマスコミに取り上げられ、さらに様々な犯罪を起こしたとき、不意にそのナカタさんから聞いた話を思い出した。もしかしたらあれは、オウムのごく初期の集まりで、来たのは麻原彰晃ではなかったのか。じっさい彼ならばそんな「超能力」をやりかねないとその時は思ったし今も我は思っている。
彼の有名な「空中浮遊」はともかくも、あれだけの組織を短時間で築き、多くの有能な若者たち信者を集められたのは、それがマヤカシや手品ではなく何か特殊な「超能力」とも呼べる特異な力があったからではないか。
じっさい当時のマスコミ上での対談などでも彼は饒舌に読心術的に対話相手のことを語り当てて驚かせていた記憶がある。
そもそもごく当初の麻原が始めた宗教は、純粋に病み悩める人を癒し救う目的であったのではないか。彼には元々特異な能力があり、それゆえ多くの人々を魅了し教団は肥大化していったのだと我は考えている。
ただ、その「力」は彼を無視したナカタさんに怒って懲らしめたがごとく、次第に私利私欲に向かい、権力を手にしてから悪質な妄想と被害者意識の肥大から狂信的かつ破滅的凶行に走っていくのである。
※もう一回書きます。
今日も朝から晴れてものすごく暑い。窓を開ければもわっとした熱風が吹きこんでくる。慌てて窓を閉めた。
若い時分、といっても30にならんとしていたかと思うが、フランスを中心に西欧を何度か旅する機会があった。
初めて行ったときの飛行機は、パキスタンエアラインで、まず北京に停まったあと、カラチやイスラマバードに停まり、そのどちらからパリ行きの便に乗り継いだ。
そのとき、乗り換えのため現地の空港に降ろされたが、飛行機から外に下りて、その赤茶けた大地に立ったときの風がまさに熱風で驚かされた。最初は飛行機のエンジンからまだ冷めやらぬ風が吹き出ていて、その熱さかと思ったほど、その国は信じられない程暑い熱風の中にあった。
束の間、迎えに来たミニバスのような車に乗せられて空港内の建物に連れていかれ、そこは冷房も効いていてほっと一息つけたが、この世にあんな暑い場所があるという衝撃は今も忘れない。
が、人とはそんな地でも外へ出て暮らし生活を営んでいるのである。
今朝の外の風は、体感としてそんなパキスタンの大地に降り立ったときをとつぜん思い出させた。
そんな暑さの中でも日々木陰のない野外で働く人や、被災地で懸命に瓦礫や土砂を運び出している人たちがいるのである。胸が痛むが、駆けつけてボランティアとして手伝うことは我はできやしない。
パキスタンの暑さもだけれど、このところ普段はずっと忘れていた大昔のことを思い出すことが多い。
我は十代の終わりの頃、自宅の二階を編集室にして、高校の後輩たちと部数500部ほどのミニコミ誌を約一年間出していた。
ページ数も少ない小冊子というようなものだったけれど、いちおうオフセット印刷で、近隣の書店や喫茶店などに置かせてもらい、自慢するわけではないが、それなりにこの地域では売れてはいて、駅前のレコード屋やら知り合いのお店から広告代ももらっていたこともあってまあまあ採算はとれていた。
もしそのままずっと続けていれば、椎名誠や沢野ひとしらの『本の雑誌』や『ロッキングオン』のように、ミニコミからメジャー誌へと昇格していたかもしれないと夢想もする。
ただ、何事も飽きやすく続かない我の性分として、確か6号ほど出して終わりにして、福生のやつらとは縁を切り、我はとりあえず町田にある、バカネ学長のアホウ大学という大学に潜り込み、そこで何年も音楽やらマンガやら自主映画やら日々遊びほうけて、青春を無駄に燃焼させることになる。
思い出したのは、そんな大学時代のことではなく、そのミニコミをやっていたとき知り合った人が話していたことだ。
その編集室は出入り自由で、今もそうだが、我は来るものは拒まず、去る者は追わずというスタンスは変わらないから、ミニコミを通していろいろんな人が昼夜問わずやってきて雑魚寝してもいった。※うちは両親共働きで、まったくの放任主義であった。
その中にナカタさんといったと記憶するが、国立かどこかに住んでいたやや年上のヘンな人がいて、よく遊びに来たし編集を手伝ってくれたり原稿も書いてくれた。二十歳は過ぎていてたと思うが、それでもまだ二十代そこそこではなかったか。
他にも女の子と同棲して出版社でアルバイトしているやはり二十歳過ぎのハンサム氏とか、関西から家出同然に東京に出てきて住まいもなくそのまま我が大学に通うために借りたアパートに居ついてしまった奴もいたりと、今から思うと若さとはバカさの同義語だと自分でも呆れるほど誰もがそれぞれ「自由」にやっていた。
その中のナカタ氏が話していた話だが、あるとき彼は、中央線沿線の阿佐ヶ谷だかどこかの駅近くのヨガの教室、道場を訪れた。
ちょうどそのとき、その教室の主宰者だか、師とか先生だとかいういちばんエライ人が来て、教室にいた者たちは皆大喜び、歓待して出迎えた。
ナカタさんがそこに何の用件で行ったのか聞いたかもしれないがもはや思い出せないが、彼はそもそもそんなものには関心も興味もなく、その師匠のことを無視して、彼らと離れて自ら持っていた本を読んでいた。
と、それがその師のカンにさわったのか、その先生と呼ばれた男はナカタさんに向けて「念」を飛ばしてきて、ナカタさんはどうしても本が読めくなってしまったと言う。
手が震えたからなのか、頭痛でもしたのか詳しいことは訊いたけど思い出せないが、「ともかくどうしても本を読み続けることができなくなってしまった、あんなこともあるんだなあ」とぼやいていたことは憶えている。
彼曰く、その師匠を無視したので怒らせたらそんな目に遭ったのである。
その話を聞いたとき、どうもピンと来なかったし、そんな不思議なことがあるのかと半信半疑であったが、ナカタ氏は間違いなくその男を怒らせたので念力でそんな目に遭ったと言っていたことがずっと記憶に残っていた。
そして後年、オウム真理教がマスコミに取り上げられ、さらに様々な犯罪を起こしたとき、不意にそのナカタさんから聞いた話を思い出した。もしかしたらあれは、オウムのごく初期の集まりで、来たのは麻原彰晃ではなかったのか。じっさい彼ならばそんな「超能力」をやりかねないとその時は思ったし今も我は思っている。
彼の有名な「空中浮遊」はともかくも、あれだけの組織を短時間で築き、多くの有能な若者たち信者を集められたのは、それがマヤカシや手品ではなく何か特殊な「超能力」とも呼べる特異な力があったからではないか。
じっさい当時のマスコミ上での対談などでも彼は饒舌に読心術的に対話相手のことを語り当てて驚かせていた記憶がある。
そもそもごく当初の麻原が始めた宗教は、純粋に病み悩める人を癒し救う目的であったのではないか。彼には元々特異な能力があり、それゆえ多くの人々を魅了し教団は肥大化していったのだと我は考えている。
ただ、その「力」は彼を無視したナカタさんに怒って懲らしめたがごとく、次第に私利私欲に向かい、権力を手にしてから悪質な妄想と被害者意識の肥大から狂信的かつ破滅的凶行に走っていくのである。
※もう一回書きます。
相川欽也を偲ぶ ― 2015年04月17日 22時03分25秒
★「声の人」だったキンキン アクセスランキング: 107位
相川欽也が死んだ。八十歳。このところ次から次へ自分が若いころ知り、ファンであった人たちが櫛の歯が抜けるように亡くなっていく。
皆、誰もが八十代なのだから、別に特に早すぎる死ではない。つまるところこちらも歳をとり、彼らは順当にさらに老人となったので死ぬ年齢に至ったということなのであろう。
だから当然のこととして、特別に驚きも悲しむ気持ちも何もない。昔あれほど好きで、毎週深夜のラジオで心待ちにしていた人なのに、嫌いになったわけでもないのに気持ちは離れてしまっている。
人の死、それも身近な、よく知る付き合いのあった人ではない有名人、著名人の死というものに対する気持ちというのは一様ではない。
若いときからずっと変わらずにファンであり続け、生涯にわたって敬愛している憧れの対象的な人もいる。その死は当然ショックで辛い。逆に、若いときは熱烈なファンだったが、いつしか嫌いになってしまい関心が薄れた人も多々いる。
相川欽也は、決して嫌いになったわけではないし、今も好印象があるが、やはり若いときだけ、それも声で深く知り好きになった人というイメージが強く、後年のテレビでの司会業や役者では何も思うところはない。彼の訃報にも大きな哀しみはわかないが、感慨深く思い出す昔がある。
相川欽也こと、キンキンを知ったのは一番初めはいつのことか。
日テレで毎朝やっていた「おはよう!こどもショー」の中で、着ぐるみの「ロバくん」をやっていたのが彼であったはずだ。むろん、その前から声優として様々な吹き替えで彼の声は聴いていたはずだが、相川欽也という名前と声を意識したのはたぶんそのロバくんではないか。
真偽のほどは定かではないが、彼はそのロバくんに彼自身入っていたと聞いているし、自分もそう信じていた。しかし、教育テレビの「できるかな」のっぽさんと共に出てくるゴンタ君もだが、声や音は後からでも被せられるのである。
ともかくそうして知った特徴あるキンキン声の人が、深夜放送TBSのパック・イン・ミュージックで、DJをやっていた。聴き始めたのは、中学に入った頃からで、1970年代前半であったかと思う。
水曜一部の担当で、今思うと当時のパックは実に多彩かつユニークなパーソナリティを揃えていたものだと感嘆してしまう。
火曜は局アナの小島一慶、水曜は相川欽也、木曜はよしだたくろう、南こうせつらフォークシンガーが一年ごとに変わり、金曜はご存知、野沢那智&白石冬美の「那智チャコ」パック、そして土曜は山本コータローであった。※誤解あると困るので断っておくが、ここでいう「火曜」は月曜の深夜午前1時=25時のことだと記しておく。
自分が聴いていた1975年ぐらいまではこうしたラインナップであったかと記憶する。むろん、今や伝説の人、故林美雄は金曜の第二部担当であり、新編成後、彼は水曜の一部に昇格したわけだから、キンキンは何曜に移動したのか今は記憶にない。ただ、もうその頃は高校生になってたから自らの青春を謳歌するほうが忙しく、深夜放送から次第に離れてしまって誰のバックであろうと深夜のラジオは聴くことはなくなってしまった。
さておき、そうして中学生のとき知ったキンキンの深夜放送は本当に面白かった。鶴光の深夜のそれを聴いていた関西の人がその面白さを今でもよく語るけれど、キンキンもかなり下ネタ満載で、それも明るく愉快でバカバカしくまさに自由自在。大人なのに偉ぶらないから中坊であった我々には大受けだった。しかし、面白かったという記憶はあっても今は何で面白かったのか何一つ思い出せない。那智チャコで放送された投稿話や林さんが語ってくれた映画の話などは今でも鮮明に覚えているのに。
キンキンのパックでは毎回、番組内で替え歌だったかリスナー投稿のコーナーもあって、友だちとカセットテープに吹き込んだ「替えうた」が放送されたこともある。
その企画では、投稿者全員に、パック特製のロゴの入ったTDKのカセットテープが1本もれなく貰えた。以前のブログで画像アップしてあるのがそれだ。その頃は暇だったから、何回も投稿したので何本もその特製カセットがウチにはあった。空テープではなく、再生すると最初の部分にキンキンが、今回は投稿有難うね!と早口でリスナーに語りかけるメッセージが入っていた。
採用され、放送されたときは、確か、写真を粘着する台紙に乗せ透明フィルムで挟み込むタイプの写真アルバムが届いたはずだ。それは別にTBSとかパック特製のものではなかったかと記憶する。が、何しろもはや40年以上も前のことで、すべてがあいまいではっきりしない。そのパック特製のカセットは今でもその辺探せば転がっている。
キンキンというと次の記憶は、名優、ジャック・レモンの声であり、昔はそれぞれ持ち役というか吹き替えの担当声優が決まっていたから、神経症的な役柄が多いコメディアンの声には、キンキンはぴったりでテレビの洋画劇場で、ワイルダーの映画などがかかるといつも楽しみにしていた。
今の人は、相川欽也というと、どういうイメージを持つかわからないが、自分にとっては、まず耳から知った「声」の人であり、あの独特の張りのある高い声は一度聴けばすぐに相川欽也だとわかった。
それがこちらが大人になるにつれ、パックでの人気も大きかったからか、次第にタレント、俳優としてお茶の間で彼の顔が売れだしていく。テレビの司会者としても人気者となったし、俳優としては二流だったと思うが、準主役的ポジションも得ていく。
しかし、そうしてテレビのバラエティで見る相川欽也は、自分にとっては声の人キンキンではなく、売れて有名になったことは喜びたいが、正直なところ関心は何も持たなくなっていた。菅原文太との「トラック野郎」のやもめのジョナサン役が彼の俳優としての代表作なのだろうけど、役者としては彼にはじっさいのところ何も代表作的名演や作品はないのではないか。
相川欽也はテレビや映画では何をやってもあくまでも相川欽也でしかない。その人のまんまなのである。裏表のない真正直な人なのだとわかる。つまり不器用なのだ。ならばこそ彼の持ち味が一番出せたのは自由に人柄が出せるラジオのパーソナリティだったのだと今にして気がつく。
近年は、若手の役者を集めて公演などを打つ、キンキン塾と言ったか演劇活動をやっていることも知っていた。しかし、役者として実績のない彼の演劇に興味はなかったし、司会者としては手堅いが明るいだけであまり器用でもないと思っていた。つまるところ表に出てきて人気者となった彼にはどれも中途半端な気がしていた。死者を鞭打つようで申し訳ないが、嫌いになったわけではないが、評価のしようがない。
キンキンとはやはり声の人であり、中学生が夢中になって聴いた深夜放送は、飾らない人柄と明るい陽性な唯一無比の声の魅力が大きかったような気がしている。あの早口のキンキン声が無性に懐かしい。
テレビは見ないしラジオもほとんど聴かないので、相川欽也が今メディアで何をやっているのか近年は何も知らなかった。が、少し前に、ラジオで彼が話すのを偶然聴いて驚いた。声がすっかり変わっていて、本当にキンキンなのかと訝った。あのかん高い元気な声が失われていて誰だか全然わからなかった。
声というのは、年とっても顔ほどに変わらないとされている。黒柳徹子だって、呂律は回らなくなっているが、やはり徹子の声であるし、熊倉一雄も相変わらずあれほど年老いても特徴あるあの声である。
が、キンキンは声も衰えて彼だとわからないほど違ってしまっていた。それで大丈夫なのか、と気にかかっていた。
そして訃報である。彼にはもう何も期待もしてなかったし、直接触れ合う機会もなかったが、あの声が聴けないと思うとやはり淋しい。いや、その声はいつしか、こちらが知らない間に先に失われてしまっていたのだった。
アニメよりも吹き替えの洋画劇場で育った世代として、「声優」でなく、声担当の役者たちが次々と消えていくのが実に淋しく思う。納谷兄弟もせんだって死んだ。残すベテランは、徹子と熊倉一雄だけとなった。
キンキン有難う。一度だけでも僕たちの「替え歌」をラジオで取り上げてくれた。ささやかな我が人生の忘れがたき一人。あの声とラジオで知った飾らない気さくな人柄が大好きでした。いなくなったと思うとやはり何とも淋しい。合掌
相川欽也が死んだ。八十歳。このところ次から次へ自分が若いころ知り、ファンであった人たちが櫛の歯が抜けるように亡くなっていく。
皆、誰もが八十代なのだから、別に特に早すぎる死ではない。つまるところこちらも歳をとり、彼らは順当にさらに老人となったので死ぬ年齢に至ったということなのであろう。
だから当然のこととして、特別に驚きも悲しむ気持ちも何もない。昔あれほど好きで、毎週深夜のラジオで心待ちにしていた人なのに、嫌いになったわけでもないのに気持ちは離れてしまっている。
人の死、それも身近な、よく知る付き合いのあった人ではない有名人、著名人の死というものに対する気持ちというのは一様ではない。
若いときからずっと変わらずにファンであり続け、生涯にわたって敬愛している憧れの対象的な人もいる。その死は当然ショックで辛い。逆に、若いときは熱烈なファンだったが、いつしか嫌いになってしまい関心が薄れた人も多々いる。
相川欽也は、決して嫌いになったわけではないし、今も好印象があるが、やはり若いときだけ、それも声で深く知り好きになった人というイメージが強く、後年のテレビでの司会業や役者では何も思うところはない。彼の訃報にも大きな哀しみはわかないが、感慨深く思い出す昔がある。
相川欽也こと、キンキンを知ったのは一番初めはいつのことか。
日テレで毎朝やっていた「おはよう!こどもショー」の中で、着ぐるみの「ロバくん」をやっていたのが彼であったはずだ。むろん、その前から声優として様々な吹き替えで彼の声は聴いていたはずだが、相川欽也という名前と声を意識したのはたぶんそのロバくんではないか。
真偽のほどは定かではないが、彼はそのロバくんに彼自身入っていたと聞いているし、自分もそう信じていた。しかし、教育テレビの「できるかな」のっぽさんと共に出てくるゴンタ君もだが、声や音は後からでも被せられるのである。
ともかくそうして知った特徴あるキンキン声の人が、深夜放送TBSのパック・イン・ミュージックで、DJをやっていた。聴き始めたのは、中学に入った頃からで、1970年代前半であったかと思う。
水曜一部の担当で、今思うと当時のパックは実に多彩かつユニークなパーソナリティを揃えていたものだと感嘆してしまう。
火曜は局アナの小島一慶、水曜は相川欽也、木曜はよしだたくろう、南こうせつらフォークシンガーが一年ごとに変わり、金曜はご存知、野沢那智&白石冬美の「那智チャコ」パック、そして土曜は山本コータローであった。※誤解あると困るので断っておくが、ここでいう「火曜」は月曜の深夜午前1時=25時のことだと記しておく。
自分が聴いていた1975年ぐらいまではこうしたラインナップであったかと記憶する。むろん、今や伝説の人、故林美雄は金曜の第二部担当であり、新編成後、彼は水曜の一部に昇格したわけだから、キンキンは何曜に移動したのか今は記憶にない。ただ、もうその頃は高校生になってたから自らの青春を謳歌するほうが忙しく、深夜放送から次第に離れてしまって誰のバックであろうと深夜のラジオは聴くことはなくなってしまった。
さておき、そうして中学生のとき知ったキンキンの深夜放送は本当に面白かった。鶴光の深夜のそれを聴いていた関西の人がその面白さを今でもよく語るけれど、キンキンもかなり下ネタ満載で、それも明るく愉快でバカバカしくまさに自由自在。大人なのに偉ぶらないから中坊であった我々には大受けだった。しかし、面白かったという記憶はあっても今は何で面白かったのか何一つ思い出せない。那智チャコで放送された投稿話や林さんが語ってくれた映画の話などは今でも鮮明に覚えているのに。
キンキンのパックでは毎回、番組内で替え歌だったかリスナー投稿のコーナーもあって、友だちとカセットテープに吹き込んだ「替えうた」が放送されたこともある。
その企画では、投稿者全員に、パック特製のロゴの入ったTDKのカセットテープが1本もれなく貰えた。以前のブログで画像アップしてあるのがそれだ。その頃は暇だったから、何回も投稿したので何本もその特製カセットがウチにはあった。空テープではなく、再生すると最初の部分にキンキンが、今回は投稿有難うね!と早口でリスナーに語りかけるメッセージが入っていた。
採用され、放送されたときは、確か、写真を粘着する台紙に乗せ透明フィルムで挟み込むタイプの写真アルバムが届いたはずだ。それは別にTBSとかパック特製のものではなかったかと記憶する。が、何しろもはや40年以上も前のことで、すべてがあいまいではっきりしない。そのパック特製のカセットは今でもその辺探せば転がっている。
キンキンというと次の記憶は、名優、ジャック・レモンの声であり、昔はそれぞれ持ち役というか吹き替えの担当声優が決まっていたから、神経症的な役柄が多いコメディアンの声には、キンキンはぴったりでテレビの洋画劇場で、ワイルダーの映画などがかかるといつも楽しみにしていた。
今の人は、相川欽也というと、どういうイメージを持つかわからないが、自分にとっては、まず耳から知った「声」の人であり、あの独特の張りのある高い声は一度聴けばすぐに相川欽也だとわかった。
それがこちらが大人になるにつれ、パックでの人気も大きかったからか、次第にタレント、俳優としてお茶の間で彼の顔が売れだしていく。テレビの司会者としても人気者となったし、俳優としては二流だったと思うが、準主役的ポジションも得ていく。
しかし、そうしてテレビのバラエティで見る相川欽也は、自分にとっては声の人キンキンではなく、売れて有名になったことは喜びたいが、正直なところ関心は何も持たなくなっていた。菅原文太との「トラック野郎」のやもめのジョナサン役が彼の俳優としての代表作なのだろうけど、役者としては彼にはじっさいのところ何も代表作的名演や作品はないのではないか。
相川欽也はテレビや映画では何をやってもあくまでも相川欽也でしかない。その人のまんまなのである。裏表のない真正直な人なのだとわかる。つまり不器用なのだ。ならばこそ彼の持ち味が一番出せたのは自由に人柄が出せるラジオのパーソナリティだったのだと今にして気がつく。
近年は、若手の役者を集めて公演などを打つ、キンキン塾と言ったか演劇活動をやっていることも知っていた。しかし、役者として実績のない彼の演劇に興味はなかったし、司会者としては手堅いが明るいだけであまり器用でもないと思っていた。つまるところ表に出てきて人気者となった彼にはどれも中途半端な気がしていた。死者を鞭打つようで申し訳ないが、嫌いになったわけではないが、評価のしようがない。
キンキンとはやはり声の人であり、中学生が夢中になって聴いた深夜放送は、飾らない人柄と明るい陽性な唯一無比の声の魅力が大きかったような気がしている。あの早口のキンキン声が無性に懐かしい。
テレビは見ないしラジオもほとんど聴かないので、相川欽也が今メディアで何をやっているのか近年は何も知らなかった。が、少し前に、ラジオで彼が話すのを偶然聴いて驚いた。声がすっかり変わっていて、本当にキンキンなのかと訝った。あのかん高い元気な声が失われていて誰だか全然わからなかった。
声というのは、年とっても顔ほどに変わらないとされている。黒柳徹子だって、呂律は回らなくなっているが、やはり徹子の声であるし、熊倉一雄も相変わらずあれほど年老いても特徴あるあの声である。
が、キンキンは声も衰えて彼だとわからないほど違ってしまっていた。それで大丈夫なのか、と気にかかっていた。
そして訃報である。彼にはもう何も期待もしてなかったし、直接触れ合う機会もなかったが、あの声が聴けないと思うとやはり淋しい。いや、その声はいつしか、こちらが知らない間に先に失われてしまっていたのだった。
アニメよりも吹き替えの洋画劇場で育った世代として、「声優」でなく、声担当の役者たちが次々と消えていくのが実に淋しく思う。納谷兄弟もせんだって死んだ。残すベテランは、徹子と熊倉一雄だけとなった。
キンキン有難う。一度だけでも僕たちの「替え歌」をラジオで取り上げてくれた。ささやかな我が人生の忘れがたき一人。あの声とラジオで知った飾らない気さくな人柄が大好きでした。いなくなったと思うとやはり何とも淋しい。合掌
「物」に価値とこだわりを持たない時代に・中 ― 2015年03月03日 09時18分56秒
★「物好き」の時代に生きてきて アクセスランキング: 127位
子供の頃、ちょっと裕福な友だちの家に遊びに行くと、応接間なるものがあり、そこは洋室、板張りで、ソファーと小テーブル、壁にはたいがい大きなガラス戸の付いた本棚があり、中には百科事典のセットや内外の文学全集が整然と並んでいたことを思い出す。
また、それ以外にも巨大なオーディオシステム、レシーバーを真ん中に、左右の木製の大きなスピーカのセットがどんと鎮座し、ラテンや映画音楽のLPレコードを聴かせてくれた家庭もあった。
ウチは、貧乏でおまけに共働きであったから、そんな「応接間」などなかったので、そうした大きな本棚に並んだ厚い本の全集や巨大オーディオセットに子ども心ながら憧れた。圧倒的な存在感がそこにあった。
じっさい、今考えると、その家の人たち、特に主の方が、そんな全集や百科事典をどれだけ読み、有効に活用していたか怪しくも思う。古本に携わるようになって気がついたが、文学全集とは揃えて並べるためのもので読むためのものではないのである。確認するとまず読まれた形跡がない巻がほとんとであった。というのは、全集付き物の月報などもそのまま手つかずで挟まっていたから。レコードだってほぼ同様であろう。
しかし、その時代の人たちは、そこにそれがある、ということに価値を見出し高い金を払ってそれらを買い求めたのだ。つまりある時代の富裕層には、自分の家を建てたら玄関わきに応接間を設け、そこには、読まないけれど本棚には全集を並べ、あまり聴かないけどオーディオセットを置くのがステータスなのであった。
今はそんな人はまずいない。家を建てられても必要最小限の間取りとなろう。そんな無駄な部屋の分のスペースがあれば各々の子ども部屋か、妻にねだられDKを広くとる。いや、狭い庭でも駐車スペースは必ず設けなければならない。植栽などはまったく不要だ。
応接間どころか、そもそも今は家に客など招かないのだ。人が来ても玄関先で立ち話ですますか、親しい人なら近所のファミレスに案内する。そういう文化、ライフスタイルにいつしか日本人は変わってしまった。
戦後の歴史、それも庶民の生活文化をたどると、暮らしを大きく変え便利にした電気洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの家電、つまり庶民が求めた元祖三種の神器から、クーラー、自家用車まで家庭に入ってきた様々な「モノ」の変遷であることに気づく。
今ではどこの家でもそれがあるのが当たり前だから、つまり標準装備、デフォルトの状態であるので誰もそれがあることに価値を見出さない。車は別格としておまけにどれもとても安くなった。使って調子が悪くなれば捨ててまた新たに買い求めればよい。経済成長が続く限りよりハイスペックの物がより安く買えるのだから。
家電も含めて、たいがいのモノは消費財に過ぎない。実用性だけが求められモノの価値はそこだけとなる。使わないモノを置いておく、保管する意味などはない。何しろ家庭にはモノがあり過ぎて場所がない。まだ使えても使わないものはすぐにゴミとして捨てねばならない。
思うに、昔は、昔の人たちはモノが高かったということもあるが、実にモノを大事にしていたと思う。壊れたら何度でも修理して使っていた。手元にあるモノの価値を認めていた。モノを大事にし大切に使っていたと。
まあ、今のそうした家電類は、そもそも最初から安物で、壊れたら修理に出す代金と、新たに同様のそれを買い求めるのと大差がないことがフツーだから、ますますモノとしての価値は低くなる。それが現代文明の道筋、流れなのだともわかる。それは変えられないことも。
だが、昔を知る者として、昔の人は実に「物好き」であったと感慨がわく。モノがあること、その存在に価値を認めていた。読まない文学全集にも場所を与えたほどに。そして今もまだ現役の物好きである自分は、「物」に価値を持たない、何もこだわりを持たない今の世相を嘆く。
モノを大切にしよう、なんて言っていない。モノとその人、その人生とはもっと密接に結びついていたはずだし、その関係性が今はあまりにも稀薄ではないかと憂いているだけだ。
子供の頃、ちょっと裕福な友だちの家に遊びに行くと、応接間なるものがあり、そこは洋室、板張りで、ソファーと小テーブル、壁にはたいがい大きなガラス戸の付いた本棚があり、中には百科事典のセットや内外の文学全集が整然と並んでいたことを思い出す。
また、それ以外にも巨大なオーディオシステム、レシーバーを真ん中に、左右の木製の大きなスピーカのセットがどんと鎮座し、ラテンや映画音楽のLPレコードを聴かせてくれた家庭もあった。
ウチは、貧乏でおまけに共働きであったから、そんな「応接間」などなかったので、そうした大きな本棚に並んだ厚い本の全集や巨大オーディオセットに子ども心ながら憧れた。圧倒的な存在感がそこにあった。
じっさい、今考えると、その家の人たち、特に主の方が、そんな全集や百科事典をどれだけ読み、有効に活用していたか怪しくも思う。古本に携わるようになって気がついたが、文学全集とは揃えて並べるためのもので読むためのものではないのである。確認するとまず読まれた形跡がない巻がほとんとであった。というのは、全集付き物の月報などもそのまま手つかずで挟まっていたから。レコードだってほぼ同様であろう。
しかし、その時代の人たちは、そこにそれがある、ということに価値を見出し高い金を払ってそれらを買い求めたのだ。つまりある時代の富裕層には、自分の家を建てたら玄関わきに応接間を設け、そこには、読まないけれど本棚には全集を並べ、あまり聴かないけどオーディオセットを置くのがステータスなのであった。
今はそんな人はまずいない。家を建てられても必要最小限の間取りとなろう。そんな無駄な部屋の分のスペースがあれば各々の子ども部屋か、妻にねだられDKを広くとる。いや、狭い庭でも駐車スペースは必ず設けなければならない。植栽などはまったく不要だ。
応接間どころか、そもそも今は家に客など招かないのだ。人が来ても玄関先で立ち話ですますか、親しい人なら近所のファミレスに案内する。そういう文化、ライフスタイルにいつしか日本人は変わってしまった。
戦後の歴史、それも庶民の生活文化をたどると、暮らしを大きく変え便利にした電気洗濯機、冷蔵庫、テレビなどの家電、つまり庶民が求めた元祖三種の神器から、クーラー、自家用車まで家庭に入ってきた様々な「モノ」の変遷であることに気づく。
今ではどこの家でもそれがあるのが当たり前だから、つまり標準装備、デフォルトの状態であるので誰もそれがあることに価値を見出さない。車は別格としておまけにどれもとても安くなった。使って調子が悪くなれば捨ててまた新たに買い求めればよい。経済成長が続く限りよりハイスペックの物がより安く買えるのだから。
家電も含めて、たいがいのモノは消費財に過ぎない。実用性だけが求められモノの価値はそこだけとなる。使わないモノを置いておく、保管する意味などはない。何しろ家庭にはモノがあり過ぎて場所がない。まだ使えても使わないものはすぐにゴミとして捨てねばならない。
思うに、昔は、昔の人たちはモノが高かったということもあるが、実にモノを大事にしていたと思う。壊れたら何度でも修理して使っていた。手元にあるモノの価値を認めていた。モノを大事にし大切に使っていたと。
まあ、今のそうした家電類は、そもそも最初から安物で、壊れたら修理に出す代金と、新たに同様のそれを買い求めるのと大差がないことがフツーだから、ますますモノとしての価値は低くなる。それが現代文明の道筋、流れなのだともわかる。それは変えられないことも。
だが、昔を知る者として、昔の人は実に「物好き」であったと感慨がわく。モノがあること、その存在に価値を認めていた。読まない文学全集にも場所を与えたほどに。そして今もまだ現役の物好きである自分は、「物」に価値を持たない、何もこだわりを持たない今の世相を嘆く。
モノを大切にしよう、なんて言っていない。モノとその人、その人生とはもっと密接に結びついていたはずだし、その関係性が今はあまりにも稀薄ではないかと憂いているだけだ。
多くを得た者は多くを失う ― 2014年12月28日 22時01分45秒
★名声と早逝は関係しているか。 「ガロ」を思う アクセスランキング: 149位
虎穴に入らずんば虎子を得ず という諺もあるが、何であれ、何かを得るためには何かを失う覚悟、もしくは最低限の対価を支払わねば得ることはまず難しいのは常識であろう。
つまりまったく労せず、棚からぼたもち 的に、得ることはまずありえないということだ。いや、偶然そうしたウマい話で儲けることがあったとしても 悪銭身に付かず という諺もあり、けっきょく対価のないところから得た、利なり成功は実を結ばないのも道理であろう。
昔から、何かを得ようと思うならば何かを失わねばならない とはよく見かける言葉だ。ならば多くを得た者はまたそのぶん多くを失わねばならないのではないか。いや、多くを得た者はまた多くを失っているのかと想像してしまう。
自分が深夜放送を聴きだしたのは、1970年代のはじめ、中学生になった頃からだと記憶するが、当時ラジオで知り、乏しいこずかいで自ら買ったレコードのシングル盤は今も探せば出てくるはずだ。
RC・サクセションの「ぼくの好きな先生」、あがた森魚の「赤色エレジー」、そしてガロの「学生街の喫茶店」などがそのジャケット共にすぐに思い浮かぶ。まさに、擦り切れるほど聴いた懐かしいレコードだ。
その3人というか3グルーブのうち、今も元気なのはあがたさんだけで、清志郎も既に亡く、そして今年はガロのマークの死も先日報じられていた。
今年2014年も多くの著名人たちの訃報がマスコミをにぎわしたが、自分の好きな音楽の世界でも知名度に違いはあってもかなり多くの方々が亡くなられた。
ひがしのひとしさんからジョニー大倉まで好きだった方々の訃報には胸を痛めたが、ガロはこれで三人のメンバーのうち健在なのはボーカルだけとなってしまった。トミーはもうかなり前に自殺していたし、複雑な気持ちである。
その当時、リアルタイムで体験していた者として書き記しておくと、ガロのそのシングル盤こそが日本のフォークシーンをニューミュージックへ、今のJ・ポップへと橋渡しした画期的なものであった。
ガロのことを思うといつもベルボトムのジーンズとおシャレでカッコいい三人組だというイメージがわく。ともかくサウンドから何から何までセンス良かった。長髪でも当時の薄汚い感じのそれとはまったく違っていた。
「学生街の喫茶店」という曲がラジオから流れてきたときそのサウンドの良さにひかれてすぐに駅前のレコード屋に行って手に入れた。その頃は子供だったから「学生街にある喫茶店の、片隅で流れていたボブ・ディラン」のことも全く知らなかった。ディランの名前はこのレコードで知ったのだと思う。
彼らはもともとは、和製CSNとして知られ抜群のコーラスと巧みなギターで一部では人気のフォークグループだったが、この一曲だけで国民的認知度を得た。が、何とこの曲は彼らのオリジナルではなく既成の作家、山上路夫らのペンによる全くの歌謡曲なのであった。
つまるところ、あがた森魚、よしだたくろうらフォークシーンから人気者が出てきてヒット曲も生まれると、既成の歌謡曲の世界でもそのブームに便乗してそうした若者向け楽曲を作り人気あるシンガーに歌わせてヒットを目論む。そうした生まれた大ヒット曲が「学生街の喫茶店」であったのだ。
もともとは「美しすぎて」という曲のB面だったこの曲は、ラジオでかけたらとたんに火がついて途中から両A面扱いとなって増刷されたかと記憶する。今考えるとこの曲があったから荒井由実も出てこれたし、青春を若者自身が懐かしく振り返るという、このコンセプトこそユーミンが後に得意とするニューミュージック特有のパターンの原点ともなった。
カッコいい男性三人組のガロはこれ一曲で超人気者となった。あまりテレビには出なかったがコンサートは女性ファンで満杯であったときく。むろん男でも自分も含めて彼らのファッションやセンスにはずいぶん憧れ影響も受けた。しかしそれらはすべてマスコミ的に作られた虚構のものでもあったのだ。
今はそうした全てがわかる。つまりこれはすべて仕組まれていたことだったのだと。むろんこのシングルは両面含めて実に名曲だと思うし、その頃を思い出すと甘酸っぱいような気分にもなる。実に綺麗なハーモニー、良くできた楽曲だとおもう。昔好きだったものは時を経ても今も変わらず好きだ。
しかしこの「学生街の喫茶店」には中身が何もない。あるのは青春の感傷だけで、内省すらない。その店の中、つまり歌の中では、ディランでさえもはやBGMなのである。うたのフレーズでしかない。何という空虚なうただろうか。今のオレならこう問う「時は流れた? だから何なの、何を言いたいの」と。
そしてそうしたうたをヒットさせて超人気者となったガロも一人はビルから飛び降り自殺し、今年はまた一人早逝した。残されたメンバー・ボーカルこと大野氏は今や、リリーズや伊藤咲子たちとの「夢コンサート同窓会」の常連である。その訃報に頭を浮かんだ言葉が「多くを得た者はまた多くを失う」という言葉であった。
彼らはフォークシンガーとして出てきたのに歌謡曲を歌いヒットさせ世に知られる人気者となった。しかしまた反面多くを失ったのではないのか。
虎穴に入らずんば虎子を得ず という諺もあるが、何であれ、何かを得るためには何かを失う覚悟、もしくは最低限の対価を支払わねば得ることはまず難しいのは常識であろう。
つまりまったく労せず、棚からぼたもち 的に、得ることはまずありえないということだ。いや、偶然そうしたウマい話で儲けることがあったとしても 悪銭身に付かず という諺もあり、けっきょく対価のないところから得た、利なり成功は実を結ばないのも道理であろう。
昔から、何かを得ようと思うならば何かを失わねばならない とはよく見かける言葉だ。ならば多くを得た者はまたそのぶん多くを失わねばならないのではないか。いや、多くを得た者はまた多くを失っているのかと想像してしまう。
自分が深夜放送を聴きだしたのは、1970年代のはじめ、中学生になった頃からだと記憶するが、当時ラジオで知り、乏しいこずかいで自ら買ったレコードのシングル盤は今も探せば出てくるはずだ。
RC・サクセションの「ぼくの好きな先生」、あがた森魚の「赤色エレジー」、そしてガロの「学生街の喫茶店」などがそのジャケット共にすぐに思い浮かぶ。まさに、擦り切れるほど聴いた懐かしいレコードだ。
その3人というか3グルーブのうち、今も元気なのはあがたさんだけで、清志郎も既に亡く、そして今年はガロのマークの死も先日報じられていた。
今年2014年も多くの著名人たちの訃報がマスコミをにぎわしたが、自分の好きな音楽の世界でも知名度に違いはあってもかなり多くの方々が亡くなられた。
ひがしのひとしさんからジョニー大倉まで好きだった方々の訃報には胸を痛めたが、ガロはこれで三人のメンバーのうち健在なのはボーカルだけとなってしまった。トミーはもうかなり前に自殺していたし、複雑な気持ちである。
その当時、リアルタイムで体験していた者として書き記しておくと、ガロのそのシングル盤こそが日本のフォークシーンをニューミュージックへ、今のJ・ポップへと橋渡しした画期的なものであった。
ガロのことを思うといつもベルボトムのジーンズとおシャレでカッコいい三人組だというイメージがわく。ともかくサウンドから何から何までセンス良かった。長髪でも当時の薄汚い感じのそれとはまったく違っていた。
「学生街の喫茶店」という曲がラジオから流れてきたときそのサウンドの良さにひかれてすぐに駅前のレコード屋に行って手に入れた。その頃は子供だったから「学生街にある喫茶店の、片隅で流れていたボブ・ディラン」のことも全く知らなかった。ディランの名前はこのレコードで知ったのだと思う。
彼らはもともとは、和製CSNとして知られ抜群のコーラスと巧みなギターで一部では人気のフォークグループだったが、この一曲だけで国民的認知度を得た。が、何とこの曲は彼らのオリジナルではなく既成の作家、山上路夫らのペンによる全くの歌謡曲なのであった。
つまるところ、あがた森魚、よしだたくろうらフォークシーンから人気者が出てきてヒット曲も生まれると、既成の歌謡曲の世界でもそのブームに便乗してそうした若者向け楽曲を作り人気あるシンガーに歌わせてヒットを目論む。そうした生まれた大ヒット曲が「学生街の喫茶店」であったのだ。
もともとは「美しすぎて」という曲のB面だったこの曲は、ラジオでかけたらとたんに火がついて途中から両A面扱いとなって増刷されたかと記憶する。今考えるとこの曲があったから荒井由実も出てこれたし、青春を若者自身が懐かしく振り返るという、このコンセプトこそユーミンが後に得意とするニューミュージック特有のパターンの原点ともなった。
カッコいい男性三人組のガロはこれ一曲で超人気者となった。あまりテレビには出なかったがコンサートは女性ファンで満杯であったときく。むろん男でも自分も含めて彼らのファッションやセンスにはずいぶん憧れ影響も受けた。しかしそれらはすべてマスコミ的に作られた虚構のものでもあったのだ。
今はそうした全てがわかる。つまりこれはすべて仕組まれていたことだったのだと。むろんこのシングルは両面含めて実に名曲だと思うし、その頃を思い出すと甘酸っぱいような気分にもなる。実に綺麗なハーモニー、良くできた楽曲だとおもう。昔好きだったものは時を経ても今も変わらず好きだ。
しかしこの「学生街の喫茶店」には中身が何もない。あるのは青春の感傷だけで、内省すらない。その店の中、つまり歌の中では、ディランでさえもはやBGMなのである。うたのフレーズでしかない。何という空虚なうただろうか。今のオレならこう問う「時は流れた? だから何なの、何を言いたいの」と。
そしてそうしたうたをヒットさせて超人気者となったガロも一人はビルから飛び降り自殺し、今年はまた一人早逝した。残されたメンバー・ボーカルこと大野氏は今や、リリーズや伊藤咲子たちとの「夢コンサート同窓会」の常連である。その訃報に頭を浮かんだ言葉が「多くを得た者はまた多くを失う」という言葉であった。
彼らはフォークシンガーとして出てきたのに歌謡曲を歌いヒットさせ世に知られる人気者となった。しかしまた反面多くを失ったのではないのか。
うたの命、作者の命 ― 2014年12月26日 21時28分42秒
★笠木透さんを偲ぶ アクセスランキング: 127位
実は、昨日クリスマスの朝早くから、また山梨の古民家へ久々に老親を連れて一家で出掛けて一泊し今日の夕方帰ってきた。
向こうでは、時間はあまりなかったが増冨の湯へ足を伸ばし、薬効あらたかな温い湯に浸かり秋からの疲れをじっくり癒してきた。
そこで考えたことや新たに得た思い、決意などはまた書き記しておきたいと思うが、戻って昨日25日の新聞をようやく開いたら訃報欄に笠木透氏の名と顔写真が載っていて驚きと共に哀しみの複雑な気持ちにさせられた。77歳で癌とあったかと思うが、相応の年代なのかもしれないが直接の面識はなくとも惜しい方をまた失った気がしている。
そう、あの中津川フォークジャンボリーの仕掛け人、の笠木さんである。新聞にはフォークシンガーという肩書があったが、むろんその通りであるけれど、自分にとってはやはり全日本フォークジャンボリーを企画した岐阜労音の人というイメージは変わらない。つまりまずその企画者として知られ、後にシンガーとして活動を本格化された方ではなかったか。
マスコミでの扱いもそのフォークジャンポリーの人、という捉え方がやはり多く、フォークシンガーとしての扱い、評価は小さいようであった。いずれにせよ、マスコミにとって彼はメジャーシーンで活躍した人でもなくヒット曲があるのでもない故、記事にしにくいのではないかと思う。
個人的に直接会い、語り、知り合う機会はなかったし、世代的にもかなり上の方であったのでまさに「伝説の・・・」というイメージはあるけれど、彼の残した曲は意外に知っていることに気がつくし、彼の存在、活動を顧みるとき、自分にとっても大きな意味を持つことに今気がつく。
それは歌とは何か、何を唄にして、どう唄っていくかという根本的な問いかけである。
うたをビジネスとして、商業ベースに乗せてやっていくことは簡単そうに見えて難しい。今ではインディーズと称して自らの楽曲をCDなどに制作し自主制作から販売までも手掛ける道筋も確立している。しかし、この国にフォークソングという「若者たちの、若者たちによる、若者たちの歌」とそれをうたう運動が生まれたとき、そのうたう場と共に、ではどうそれをレコードなりにして普及させていくかということは大きな障壁であった。
むろんそれに風穴を開けたのは秦政明氏のURCであったし、以後その成功に倣い、エレックなり大手レコード会社内にもキングのベルウッドのようにそうした専門レーベルを立ち上げ「ビジネス」として手広く展開させる手法もあった。
が、それはつまるところ常にヒット曲を求められ、人気アーチストと収益との狭間で当初の志の行方を問われる結果となっていく。つまり売れたものが良いとは限らないし、売れないものが悪いわけではないが、商業ビジネスの世界では、そこでしか結果が見えないという悪弊的ジレンマであった。
そうしたシステムにフォークソング自体が組み込まれ、後にニューミュージック、やがてJ・ポップなるものへ変質していく流れの中でフォークジャンボリーの仕掛け人がとった行動こそ、うたの根本原理主義的なものであった。つまり極めてアマチュア的スタンスで、自ら自分たちでうたを作り、その唄う場を求めレコードも自ら作りマスコミやショービジネスとは一線を置き音楽活動をやっていこうというものではなかったのかと推察する。
それが成功し実を結びまたさらに芽を吹いたかの判断はともかく、彼のやったことや考えたことは全く正しいと言えよう。じっさい高石友也氏や藤村直樹氏、坂庭省吾氏、中島光一氏、それにやや異なるが豊田勇造ら同様な思いを抱き、メジャーシーンとは距離をあえて置いて独自に活動をつづけたシンガーも多々いたのだから。
うたが、当初持っていた「志」のようなものが、それがレコードとして売れヒットすることで失われ変質していった中、笠木氏のとった行動と運動は実に今なお大きな価値を持つと断言する。
最近になって拙くも歌いだした者として、今ようやく気がついたのは、うたとは歌いたいから唄うのであってはならないということだ。うたとは、歌いたい以前に「訴えたい」もの、つまりうたを通して伝えたいものがあってこそ歌なのだと、今残された笠木透の作り唄ったうたを思い浮かべて確信する。
彼は死んでも彼の残したうたはこれからも彼からバトンを手渡された者たち、たとえば若きバイオリン弾き社会派シンガーのみほこんらに間違いなく歌い継がれていくことであろう。
作家は必ずいつか死ぬ。しかしうたは死なない。歌い継ぐ者たちがいるかぎり。
実は、昨日クリスマスの朝早くから、また山梨の古民家へ久々に老親を連れて一家で出掛けて一泊し今日の夕方帰ってきた。
向こうでは、時間はあまりなかったが増冨の湯へ足を伸ばし、薬効あらたかな温い湯に浸かり秋からの疲れをじっくり癒してきた。
そこで考えたことや新たに得た思い、決意などはまた書き記しておきたいと思うが、戻って昨日25日の新聞をようやく開いたら訃報欄に笠木透氏の名と顔写真が載っていて驚きと共に哀しみの複雑な気持ちにさせられた。77歳で癌とあったかと思うが、相応の年代なのかもしれないが直接の面識はなくとも惜しい方をまた失った気がしている。
そう、あの中津川フォークジャンボリーの仕掛け人、の笠木さんである。新聞にはフォークシンガーという肩書があったが、むろんその通りであるけれど、自分にとってはやはり全日本フォークジャンボリーを企画した岐阜労音の人というイメージは変わらない。つまりまずその企画者として知られ、後にシンガーとして活動を本格化された方ではなかったか。
マスコミでの扱いもそのフォークジャンポリーの人、という捉え方がやはり多く、フォークシンガーとしての扱い、評価は小さいようであった。いずれにせよ、マスコミにとって彼はメジャーシーンで活躍した人でもなくヒット曲があるのでもない故、記事にしにくいのではないかと思う。
個人的に直接会い、語り、知り合う機会はなかったし、世代的にもかなり上の方であったのでまさに「伝説の・・・」というイメージはあるけれど、彼の残した曲は意外に知っていることに気がつくし、彼の存在、活動を顧みるとき、自分にとっても大きな意味を持つことに今気がつく。
それは歌とは何か、何を唄にして、どう唄っていくかという根本的な問いかけである。
うたをビジネスとして、商業ベースに乗せてやっていくことは簡単そうに見えて難しい。今ではインディーズと称して自らの楽曲をCDなどに制作し自主制作から販売までも手掛ける道筋も確立している。しかし、この国にフォークソングという「若者たちの、若者たちによる、若者たちの歌」とそれをうたう運動が生まれたとき、そのうたう場と共に、ではどうそれをレコードなりにして普及させていくかということは大きな障壁であった。
むろんそれに風穴を開けたのは秦政明氏のURCであったし、以後その成功に倣い、エレックなり大手レコード会社内にもキングのベルウッドのようにそうした専門レーベルを立ち上げ「ビジネス」として手広く展開させる手法もあった。
が、それはつまるところ常にヒット曲を求められ、人気アーチストと収益との狭間で当初の志の行方を問われる結果となっていく。つまり売れたものが良いとは限らないし、売れないものが悪いわけではないが、商業ビジネスの世界では、そこでしか結果が見えないという悪弊的ジレンマであった。
そうしたシステムにフォークソング自体が組み込まれ、後にニューミュージック、やがてJ・ポップなるものへ変質していく流れの中でフォークジャンボリーの仕掛け人がとった行動こそ、うたの根本原理主義的なものであった。つまり極めてアマチュア的スタンスで、自ら自分たちでうたを作り、その唄う場を求めレコードも自ら作りマスコミやショービジネスとは一線を置き音楽活動をやっていこうというものではなかったのかと推察する。
それが成功し実を結びまたさらに芽を吹いたかの判断はともかく、彼のやったことや考えたことは全く正しいと言えよう。じっさい高石友也氏や藤村直樹氏、坂庭省吾氏、中島光一氏、それにやや異なるが豊田勇造ら同様な思いを抱き、メジャーシーンとは距離をあえて置いて独自に活動をつづけたシンガーも多々いたのだから。
うたが、当初持っていた「志」のようなものが、それがレコードとして売れヒットすることで失われ変質していった中、笠木氏のとった行動と運動は実に今なお大きな価値を持つと断言する。
最近になって拙くも歌いだした者として、今ようやく気がついたのは、うたとは歌いたいから唄うのであってはならないということだ。うたとは、歌いたい以前に「訴えたい」もの、つまりうたを通して伝えたいものがあってこそ歌なのだと、今残された笠木透の作り唄ったうたを思い浮かべて確信する。
彼は死んでも彼の残したうたはこれからも彼からバトンを手渡された者たち、たとえば若きバイオリン弾き社会派シンガーのみほこんらに間違いなく歌い継がれていくことであろう。
作家は必ずいつか死ぬ。しかしうたは死なない。歌い継ぐ者たちがいるかぎり。
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