3月に入りました。これからのことなど。 ― 2019年03月01日 06時39分36秒
★ともかく一つづつ、少しづつでも。諦めず焦らずに。
春三月、雨の弥生の朝である。
2月は逃げる、と言ったものだが、まさにあっという間に過ぎ去り、今日からまた新たな月、三月となった。外は春らしく雨が降っている。が、今はかなり強く音立てて、しかも今朝はやや冷え込んだ。
けっきょく自分事は毎度のことほとんど何もできずに、山梨へも一回も行けずに二月は過ぎ去ったわけだが、ともかく第6回目の「共謀」コンサートを無事に成し終えたのでそれだけで良しとしたい。
正直なところ、それを終えたからといって我には何一つ儲けも益もない。常にほとんどが持ち出しで、ときに自腹切って演者に支払い店にもカンパしている。
ときに労多くして、という気持ちにもなって、それで起こる様々な人間関係にうんざりしたり倦み疲れ果てることも多い。ミュージシャンはときに面倒で手のかかる人も多いし客もまた気まぐれなのだから。
しかし、若い頃からずっと好きな音楽に今も関われて、多くの素晴らしい敬愛すべきミュージシャン、歌い手たちと知り合え、コンサートとという形式で、音楽を企画できること、そうした立場にあることは実に嬉しい光栄なことだと常に思う。特にそれがイベントとして「成功」したときは。
そうした企画、プロデュース作業は、ある意味、究極の自己満足であり、「趣味」としてもかなり異質なものだと自分でも思う。
※この音楽が好きで、そうしたミュージシャンを招くため「店」を始めた人は多いだろうが。
むろん「護憲と反戦平和のため」というコンセプトはあるけれど、それは目的ではなく、あくまでも我と我らのスタンス、ステートメントであり、我に言わせれば、この音楽、フォークソングがもともと持っていたもので、このコンサートに出られる方は当然その資質がある。
我マスダは、ただそうした人たちとコンタクトをとり都合をつけ、うまく集まれる日を定め店側と確認の上、宣伝活動をして当日、滞りないよう進行させていくだけだ。
それでお客様も大勢来られて、店側にもお金が落ちて、演者にもその演奏に見合う額がきちんと支払えれば万々歳というわけだ。
我が選択して声かけした歌い手たちなのだから当然誰もが常に素晴らしいステージを見せてくれるのは言うまでもない。が、問題はそれに相応しいだけの観客が来るかということで、音楽不況といまはあちこちでライブ企画活動が盛んだから、ときに出演者の数より客の数のほうが少ないという悲惨な状況もまま起こりうる。
前回のときは、その傾向大で、我も本調子でなかったこともあり、演者の皆さんにはご不快な思いとご迷惑をおかけしたと悔やみ後々悶々欝々とした。
が、今回は事前にチラシ配布など、多くの方々にもご協力いただいた成果もあり、さらに演者側の働きかけもあったようで、有り難くも満席となり投げ銭の収益も上がった。ほっとした。久々に興行的にも満足のいくコンサートとなった。
そして何より今回うれしく思うのは、かなりの数のいちげんさん、つまり初めて店に来られた方、今回のミュージシャンや音楽を知ったと思われる人たちが多かったことだ。自分にはそのことが最も嬉しい。
例えば20人のお客が来たとして、そのほとんどが顔見知りであるのと、半数が初めての方というのとは、意味と価値が違う。
むろん常連客も有り難く、こちらも構えずやれて心安い存在だが、同じ顔触れを前に同じことを続けていけば、やがては末枯れとなろう。つまり広がりはそこにないわけで、何であれ新陳代謝がない活動、運動は、サヨク政党を見たってわかるように衰退していく。先がない。
日本のフォークソングもまた同様であり、かつての嬬恋的ヒットソングを持つ高名シンガーが、その当時の若者層だったファン相手に、「夢コンサート」的に集うのなら、「彼ら」がいなくなったら、この音楽は消滅する。
いや、じっさいそうした「フォーク」は、なくなろうが続こうが今の我にはどうでもいいようなもので、マスコミで流行った懐メロフォークには何の思いも関心もない。いや、同時代を生きた者としての思いはなくはないが、この本文ではどうでもいい。
大事なことは、うたが「今」とどう関わり、どう「今」を語り映し出し、どう「明日」へ、未来へと思いを繋ぐことができるかどうかだ。
そのうたが、懐かしい若き日々を思い起こさせてくれる、というものでもかまわない。そうした音楽もあろう。が、それだけでなく、もっと今のこと、今の時代の「真実」、ほんとうのことを、しっかりうたとしてうたっているか、だ。それが「フォークソング」だと信ずる。そうした素晴らしい音楽が間違いなくある。
そして、そのものを、きちんと示せる力ある歌い手たちを、さらに世に知らしめる、その音楽を広めていく。それこそが我の役割であり、使命のようなものだとセンエツながら思っている。
その意味で、すでにそれがご理解されている方よりも、新たな観客、つまりは新しい仲間たちが一人でも増えること、来られることを常に願っている。その新たな「出会い」こそ意味と価値がある。有り難いことだ。
人は「経験」でしか学べないし変われない。知識というものも実は経験であり、知る経験、体験でしか人は変わらない。うたもそのきっかけなのだ。
今回、そうした新しい出会いがそこにあったのならば、我としては望外の喜びと言うしかない。つまり我がなしえたけではないが、我マスダの「思いつき」がなければそれは起こらなかったのだから。我は自分の使命を少しでも果たし終えたのだ。
これを書き終えたら外は雨も上がり、明るく陽ざしも出てきた。そろそろ父を起こさねばならない。
昨日、今日と在宅の日で、昨日は耳鼻科へ雨の中、手を引いて連れて行った。今日は週一の訪看さんが来る日だ。
23日の疲れもやっと癒えた。さあ、また次がある。3/31、我はどう関わるべきか。何をすれば良いのだろう。人気者みほこんだからお客はかなり来られると思うが・・・
今秋には、中川五郎と「共謀」するコンサートもある。早く日程出さねば、超お忙氏のこと、企画が流れてしまう。
父のことも書こうとしたのだった。ともかくあと少し、日々今できる、すべことを、一つ一つやっていくしかない。もたもたしていると今月もあっという間だ。これが我のフォークソング、いやブルーズということか。
春三月、雨の弥生の朝である。
2月は逃げる、と言ったものだが、まさにあっという間に過ぎ去り、今日からまた新たな月、三月となった。外は春らしく雨が降っている。が、今はかなり強く音立てて、しかも今朝はやや冷え込んだ。
けっきょく自分事は毎度のことほとんど何もできずに、山梨へも一回も行けずに二月は過ぎ去ったわけだが、ともかく第6回目の「共謀」コンサートを無事に成し終えたのでそれだけで良しとしたい。
正直なところ、それを終えたからといって我には何一つ儲けも益もない。常にほとんどが持ち出しで、ときに自腹切って演者に支払い店にもカンパしている。
ときに労多くして、という気持ちにもなって、それで起こる様々な人間関係にうんざりしたり倦み疲れ果てることも多い。ミュージシャンはときに面倒で手のかかる人も多いし客もまた気まぐれなのだから。
しかし、若い頃からずっと好きな音楽に今も関われて、多くの素晴らしい敬愛すべきミュージシャン、歌い手たちと知り合え、コンサートとという形式で、音楽を企画できること、そうした立場にあることは実に嬉しい光栄なことだと常に思う。特にそれがイベントとして「成功」したときは。
そうした企画、プロデュース作業は、ある意味、究極の自己満足であり、「趣味」としてもかなり異質なものだと自分でも思う。
※この音楽が好きで、そうしたミュージシャンを招くため「店」を始めた人は多いだろうが。
むろん「護憲と反戦平和のため」というコンセプトはあるけれど、それは目的ではなく、あくまでも我と我らのスタンス、ステートメントであり、我に言わせれば、この音楽、フォークソングがもともと持っていたもので、このコンサートに出られる方は当然その資質がある。
我マスダは、ただそうした人たちとコンタクトをとり都合をつけ、うまく集まれる日を定め店側と確認の上、宣伝活動をして当日、滞りないよう進行させていくだけだ。
それでお客様も大勢来られて、店側にもお金が落ちて、演者にもその演奏に見合う額がきちんと支払えれば万々歳というわけだ。
我が選択して声かけした歌い手たちなのだから当然誰もが常に素晴らしいステージを見せてくれるのは言うまでもない。が、問題はそれに相応しいだけの観客が来るかということで、音楽不況といまはあちこちでライブ企画活動が盛んだから、ときに出演者の数より客の数のほうが少ないという悲惨な状況もまま起こりうる。
前回のときは、その傾向大で、我も本調子でなかったこともあり、演者の皆さんにはご不快な思いとご迷惑をおかけしたと悔やみ後々悶々欝々とした。
が、今回は事前にチラシ配布など、多くの方々にもご協力いただいた成果もあり、さらに演者側の働きかけもあったようで、有り難くも満席となり投げ銭の収益も上がった。ほっとした。久々に興行的にも満足のいくコンサートとなった。
そして何より今回うれしく思うのは、かなりの数のいちげんさん、つまり初めて店に来られた方、今回のミュージシャンや音楽を知ったと思われる人たちが多かったことだ。自分にはそのことが最も嬉しい。
例えば20人のお客が来たとして、そのほとんどが顔見知りであるのと、半数が初めての方というのとは、意味と価値が違う。
むろん常連客も有り難く、こちらも構えずやれて心安い存在だが、同じ顔触れを前に同じことを続けていけば、やがては末枯れとなろう。つまり広がりはそこにないわけで、何であれ新陳代謝がない活動、運動は、サヨク政党を見たってわかるように衰退していく。先がない。
日本のフォークソングもまた同様であり、かつての嬬恋的ヒットソングを持つ高名シンガーが、その当時の若者層だったファン相手に、「夢コンサート」的に集うのなら、「彼ら」がいなくなったら、この音楽は消滅する。
いや、じっさいそうした「フォーク」は、なくなろうが続こうが今の我にはどうでもいいようなもので、マスコミで流行った懐メロフォークには何の思いも関心もない。いや、同時代を生きた者としての思いはなくはないが、この本文ではどうでもいい。
大事なことは、うたが「今」とどう関わり、どう「今」を語り映し出し、どう「明日」へ、未来へと思いを繋ぐことができるかどうかだ。
そのうたが、懐かしい若き日々を思い起こさせてくれる、というものでもかまわない。そうした音楽もあろう。が、それだけでなく、もっと今のこと、今の時代の「真実」、ほんとうのことを、しっかりうたとしてうたっているか、だ。それが「フォークソング」だと信ずる。そうした素晴らしい音楽が間違いなくある。
そして、そのものを、きちんと示せる力ある歌い手たちを、さらに世に知らしめる、その音楽を広めていく。それこそが我の役割であり、使命のようなものだとセンエツながら思っている。
その意味で、すでにそれがご理解されている方よりも、新たな観客、つまりは新しい仲間たちが一人でも増えること、来られることを常に願っている。その新たな「出会い」こそ意味と価値がある。有り難いことだ。
人は「経験」でしか学べないし変われない。知識というものも実は経験であり、知る経験、体験でしか人は変わらない。うたもそのきっかけなのだ。
今回、そうした新しい出会いがそこにあったのならば、我としては望外の喜びと言うしかない。つまり我がなしえたけではないが、我マスダの「思いつき」がなければそれは起こらなかったのだから。我は自分の使命を少しでも果たし終えたのだ。
これを書き終えたら外は雨も上がり、明るく陽ざしも出てきた。そろそろ父を起こさねばならない。
昨日、今日と在宅の日で、昨日は耳鼻科へ雨の中、手を引いて連れて行った。今日は週一の訪看さんが来る日だ。
23日の疲れもやっと癒えた。さあ、また次がある。3/31、我はどう関わるべきか。何をすれば良いのだろう。人気者みほこんだからお客はかなり来られると思うが・・・
今秋には、中川五郎と「共謀」するコンサートもある。早く日程出さねば、超お忙氏のこと、企画が流れてしまう。
父のことも書こうとしたのだった。ともかくあと少し、日々今できる、すべことを、一つ一つやっていくしかない。もたもたしていると今月もあっという間だ。これが我のフォークソング、いやブルーズということか。
平成30年間と半世紀50年を思うあれこれ・前 ― 2019年03月04日 08時13分11秒
★平成も間もなく終わる
元号の是非について我の周囲では喧しいご意見、異論があるのは知っているが、今ここではふれない。
今は、平成31年であり、それも間もなく終わる。実質30年間、「平成」という時代は続いたことになる。
このところ終わりゆく「平成」を回顧する企画がテレビや雑誌、メディアでは溢れている。どんな時代であったかは、きちんとその時代を生きていた者たちが記憶し検証することが大事であろう。権力側の意向に沿った大手メディア任せではなく、我々個人一人一人が、だ。
そしてその最後の頃に、あたかも符号のように、相次いで噂の真相誌の岡留安則と橋本治が、亡くなったことは、まさに一つの時代の終わりの象徴だと思える。
平成の象徴ではない。我が生きて来た「昭和」という時代がまさに終わった、遠くに過ぎ去ったということの証だ。新元号の時代になれば、この二人について、知る者も語る者も少なくなって過ぎ去った「平成」という時代だけがやがて懐かしく語られていくことだろう。
しかし、我は思う。この二人こそが、この平成の終わりにあたってその時代、いやこれまでの時代を統括する意味でも大きなキーマンではないか。
まず橋本治である。
平成とは何か、昭和(戦後の)とは、何がどう違ったかを考えると、我は、「知的」から「カワイイ」に、人々の関心、価値が移行したことだと考える。
昭和の終わりまでは、人は「知的」であることが大事だと思っていたし誰もが憧れ重きを置いていた。だからその時代は「知的~」と題した本が巷に溢れていた。
しかし、橋本治がデビュー作「桃尻娘」で登場したときから、「知的」はしだいに衰退し、男も女も「カワイイ」ものに憧れ、そこに価値を見出し置き、誰もが女性的になった。何故なら「知的」とは、実は男性的価値観であったからだ。今では、老いも若きも男も女もすべてカワイイければそれで良しなのである。難解な哲学書などもう流行らない。
橋本治自身は東大卒のもっとも知的な人であったし、そのソフトな語り口で、わかりやすく知的なことを生涯書き続けた人だったが、少女マンガの評伝本「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」も含めて、「カワイイ」という価値観に誰よりも早く先鞭をつけた人ではなかったか。
そして岡留安則は、自らの雑誌を武器に権力と権力者のいつの時代も常変わらぬ腐敗と不正、欺瞞を突いてきた。それはトランプ氏に象徴される「フェイクニュース」蔓延の今の時代をいち早く「予言」していたからではないか。どんな時代もメディアは大衆操作、不安煽動を意識的、無意識的に行い、結果として権力側を利するものだから。
噂の真相誌がなくなって、「噂」は堂々と、ネット上に解き放たれ肥大巨大化しその「真相」は検証されることすら少なくなった。世界中で「都合のいい真実」だけが1人歩きし、米国を見るならばトランプ氏の熱狂的支持者たちは、どんな嘘や詭弁であろうとも自らの都合良く彼を「信ずる」のである。
平成の次の元号が何になろうと、どんな時代になろうと関心ないし、どうでも良いことだ。それはそのときの話である。今の我には、この二人、聖書でいえば、荒野で叫ぶヨハネのような先駆者が消えたことが悔やまれる。情けないことは、現実社会には、キリストは現れず地上に富を積むカルロス・ゴーン的に悪しき不正な金持たちの世界が続いていることだ。
と、毎度ながらこれは前置きである。終わりゆく平成時代を振り返るようなことではなく、我なりにこの30年を、いや、昭和から振り返ってみたいと思う。
じっさい、30年間なんてあっという間だった。昭和が終わった日がつい昨日のことように思い出される。
元号の是非について我の周囲では喧しいご意見、異論があるのは知っているが、今ここではふれない。
今は、平成31年であり、それも間もなく終わる。実質30年間、「平成」という時代は続いたことになる。
このところ終わりゆく「平成」を回顧する企画がテレビや雑誌、メディアでは溢れている。どんな時代であったかは、きちんとその時代を生きていた者たちが記憶し検証することが大事であろう。権力側の意向に沿った大手メディア任せではなく、我々個人一人一人が、だ。
そしてその最後の頃に、あたかも符号のように、相次いで噂の真相誌の岡留安則と橋本治が、亡くなったことは、まさに一つの時代の終わりの象徴だと思える。
平成の象徴ではない。我が生きて来た「昭和」という時代がまさに終わった、遠くに過ぎ去ったということの証だ。新元号の時代になれば、この二人について、知る者も語る者も少なくなって過ぎ去った「平成」という時代だけがやがて懐かしく語られていくことだろう。
しかし、我は思う。この二人こそが、この平成の終わりにあたってその時代、いやこれまでの時代を統括する意味でも大きなキーマンではないか。
まず橋本治である。
平成とは何か、昭和(戦後の)とは、何がどう違ったかを考えると、我は、「知的」から「カワイイ」に、人々の関心、価値が移行したことだと考える。
昭和の終わりまでは、人は「知的」であることが大事だと思っていたし誰もが憧れ重きを置いていた。だからその時代は「知的~」と題した本が巷に溢れていた。
しかし、橋本治がデビュー作「桃尻娘」で登場したときから、「知的」はしだいに衰退し、男も女も「カワイイ」ものに憧れ、そこに価値を見出し置き、誰もが女性的になった。何故なら「知的」とは、実は男性的価値観であったからだ。今では、老いも若きも男も女もすべてカワイイければそれで良しなのである。難解な哲学書などもう流行らない。
橋本治自身は東大卒のもっとも知的な人であったし、そのソフトな語り口で、わかりやすく知的なことを生涯書き続けた人だったが、少女マンガの評伝本「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」も含めて、「カワイイ」という価値観に誰よりも早く先鞭をつけた人ではなかったか。
そして岡留安則は、自らの雑誌を武器に権力と権力者のいつの時代も常変わらぬ腐敗と不正、欺瞞を突いてきた。それはトランプ氏に象徴される「フェイクニュース」蔓延の今の時代をいち早く「予言」していたからではないか。どんな時代もメディアは大衆操作、不安煽動を意識的、無意識的に行い、結果として権力側を利するものだから。
噂の真相誌がなくなって、「噂」は堂々と、ネット上に解き放たれ肥大巨大化しその「真相」は検証されることすら少なくなった。世界中で「都合のいい真実」だけが1人歩きし、米国を見るならばトランプ氏の熱狂的支持者たちは、どんな嘘や詭弁であろうとも自らの都合良く彼を「信ずる」のである。
平成の次の元号が何になろうと、どんな時代になろうと関心ないし、どうでも良いことだ。それはそのときの話である。今の我には、この二人、聖書でいえば、荒野で叫ぶヨハネのような先駆者が消えたことが悔やまれる。情けないことは、現実社会には、キリストは現れず地上に富を積むカルロス・ゴーン的に悪しき不正な金持たちの世界が続いていることだ。
と、毎度ながらこれは前置きである。終わりゆく平成時代を振り返るようなことではなく、我なりにこの30年を、いや、昭和から振り返ってみたいと思う。
じっさい、30年間なんてあっという間だった。昭和が終わった日がつい昨日のことように思い出される。
平成30年間と半世紀50年を思うあれこれ・中 ― 2019年03月05日 23時40分15秒
★昭和の終わりの頃と平成移行時のこと
30年数か月で終わりを迎える「平成」という時代であるが、10年ひと昔、という言葉を借りるならば、三昔、ということになる。
そのぐらい大昔のことだととらえる人もいるかもしれない。じっさい30年というと一世代であり、つまり、人が生まれ育ち成人して子をつくり、新たに次の世代に繋ぎ渡す年月が30年なのである。
ゆえに、もはや生まれも育ちも「平成」という世代が、立派な社会人として活躍して家庭を営んでいてもちっともおかしくない。
じっさい我の周りにもそうした立派な「平成人」がいる。しかし、その始まりそのものが、ついこないだ、という記憶を持つ者として、何とも不思議な気持ちにとらわれる。そのときは、この世に存在しなかった世代が、しっかり大人としてそこに居ることにだ。
明治や昭和に比べるとかなり短い「平成」だが、30年は、それなりに長い、一つの固まり、ある時代区分としてきちんと考え直さねばと思う。
平成は、1989年、昭和64年1月8日から始まった。その前日の7日、昭和天皇裕仁が亡くなり、昭和というとてつもなく長い世紀がついに終わったわけだが、その日、我はどうしてたのか。
我は、その崩御の日、その頃付き合い恋人となっていた女の子と、近くの昭和の森テニスコートに、手に手を取りお遊びでテニスをしに行った。今から思うと、この自分がそんなことを、と思い半信半疑でもあるが、それは間違いない。つまりそれだけ若く、まだ「青春」時代だったのだろう。
途中の消防署の前を通ったら日の丸の国旗が半旗になっていて、何かヘンだな、とは二人で思った。が、それが天皇の死を意味していたことは一汗かいて家に帰ってからテレビで知った。
そして翌日から、新元号が発表され「平成」という新時代の大騒動が始まるのである。
その頃は、前年の秋頃からか、天皇の容態がじょじょに悪化して来て、その暮れも何度も輸血と下血が報じられ、もはや危険な状態だとわかってきていた。かなりの高齢でもありいつ亡くなられても、という「雰囲気」が世相には蔓延していた。
しかし、それでもけっこう長く持ちこたえられていたから、まだすぐには、であろうと我も思っていたから、その死の報にはちょっと驚かされた。そして翌日8日、改元がなされ「平成」の時代が始まったのである。
その昭和の終わりの歳末から正月にかけては、陛下が死にそうだとということで、今思ってもじつに何とも重苦しい雰囲気がこの国には満ちていたことをまず記さねばならない。
国全体に陛下がこんな状況のときに、メリークリスマスも、明けましておめでとう、どころではない、という風潮が広がり、歌舞音曲の類は自粛を余儀なくされ例年のお祭り騒ぎはひかえざるえなかったからだ。天皇を敬愛し心配して回復を祈っていたゆえ、そうした国民もいたかと思うが、マスコミも含めて国家の無言の重圧が蔓延し何とも地味なクリスマス、正月になったと記憶する。
前年の秋の頃か、車のテレビCMで、井上陽水が車に乗っていて、車窓から「お元気ですか!」と語りかけるのがあった。メーカーも車種も忘れたが、そのCMに、陛下がこんな状態であるのに、不謹慎だとクレームがつきとりやめになったりもした。
国家の象徴である天皇の容態によって国全体が沈黙を余儀なくさせられたと今振り返って思う。陛下の体調を案じ自粛せねば、そう国民は忖度させられたのだ。
そうした国民が困惑し自粛せねばならない事態は、そもそも代替わり、改元は、天皇が亡くなるまで行われないという、人の死という不確定かつ不条理な問題に基づいていたからで、今回の現天皇の自主的退位は、まさに国民のことを思う大「英断」だと我も思える。早くから、退位の日時が決まっていれば、準備も進み全てに予定が立つのである。あの昭和の終わりの憂鬱な沈滞を繰り返してはならない。
※むろん天皇制など廃止すればすむ話だというご意見は当然だし賛同もするが、それは今はさておき。
改元は一日にして始まり、新しい元号の時代となるわけだが、人の暮らし、生活は何も変わらない。そうした移行の手続きは、出来るだけ簡便でスムーズであるべきで、後は、その新しい時代区分の中で、記録に残すべき何が起きるか、そして人はそのときどう生きるかだけだ。
30年数か月で終わりを迎える「平成」という時代であるが、10年ひと昔、という言葉を借りるならば、三昔、ということになる。
そのぐらい大昔のことだととらえる人もいるかもしれない。じっさい30年というと一世代であり、つまり、人が生まれ育ち成人して子をつくり、新たに次の世代に繋ぎ渡す年月が30年なのである。
ゆえに、もはや生まれも育ちも「平成」という世代が、立派な社会人として活躍して家庭を営んでいてもちっともおかしくない。
じっさい我の周りにもそうした立派な「平成人」がいる。しかし、その始まりそのものが、ついこないだ、という記憶を持つ者として、何とも不思議な気持ちにとらわれる。そのときは、この世に存在しなかった世代が、しっかり大人としてそこに居ることにだ。
明治や昭和に比べるとかなり短い「平成」だが、30年は、それなりに長い、一つの固まり、ある時代区分としてきちんと考え直さねばと思う。
平成は、1989年、昭和64年1月8日から始まった。その前日の7日、昭和天皇裕仁が亡くなり、昭和というとてつもなく長い世紀がついに終わったわけだが、その日、我はどうしてたのか。
我は、その崩御の日、その頃付き合い恋人となっていた女の子と、近くの昭和の森テニスコートに、手に手を取りお遊びでテニスをしに行った。今から思うと、この自分がそんなことを、と思い半信半疑でもあるが、それは間違いない。つまりそれだけ若く、まだ「青春」時代だったのだろう。
途中の消防署の前を通ったら日の丸の国旗が半旗になっていて、何かヘンだな、とは二人で思った。が、それが天皇の死を意味していたことは一汗かいて家に帰ってからテレビで知った。
そして翌日から、新元号が発表され「平成」という新時代の大騒動が始まるのである。
その頃は、前年の秋頃からか、天皇の容態がじょじょに悪化して来て、その暮れも何度も輸血と下血が報じられ、もはや危険な状態だとわかってきていた。かなりの高齢でもありいつ亡くなられても、という「雰囲気」が世相には蔓延していた。
しかし、それでもけっこう長く持ちこたえられていたから、まだすぐには、であろうと我も思っていたから、その死の報にはちょっと驚かされた。そして翌日8日、改元がなされ「平成」の時代が始まったのである。
その昭和の終わりの歳末から正月にかけては、陛下が死にそうだとということで、今思ってもじつに何とも重苦しい雰囲気がこの国には満ちていたことをまず記さねばならない。
国全体に陛下がこんな状況のときに、メリークリスマスも、明けましておめでとう、どころではない、という風潮が広がり、歌舞音曲の類は自粛を余儀なくされ例年のお祭り騒ぎはひかえざるえなかったからだ。天皇を敬愛し心配して回復を祈っていたゆえ、そうした国民もいたかと思うが、マスコミも含めて国家の無言の重圧が蔓延し何とも地味なクリスマス、正月になったと記憶する。
前年の秋の頃か、車のテレビCMで、井上陽水が車に乗っていて、車窓から「お元気ですか!」と語りかけるのがあった。メーカーも車種も忘れたが、そのCMに、陛下がこんな状態であるのに、不謹慎だとクレームがつきとりやめになったりもした。
国家の象徴である天皇の容態によって国全体が沈黙を余儀なくさせられたと今振り返って思う。陛下の体調を案じ自粛せねば、そう国民は忖度させられたのだ。
そうした国民が困惑し自粛せねばならない事態は、そもそも代替わり、改元は、天皇が亡くなるまで行われないという、人の死という不確定かつ不条理な問題に基づいていたからで、今回の現天皇の自主的退位は、まさに国民のことを思う大「英断」だと我も思える。早くから、退位の日時が決まっていれば、準備も進み全てに予定が立つのである。あの昭和の終わりの憂鬱な沈滞を繰り返してはならない。
※むろん天皇制など廃止すればすむ話だというご意見は当然だし賛同もするが、それは今はさておき。
改元は一日にして始まり、新しい元号の時代となるわけだが、人の暮らし、生活は何も変わらない。そうした移行の手続きは、出来るだけ簡便でスムーズであるべきで、後は、その新しい時代区分の中で、記録に残すべき何が起きるか、そして人はそのときどう生きるかだけだ。
平成30年間と半世紀50年を思うあれこれ・後 ― 2019年03月06日 09時46分08秒
★人生の半分を「平成」に生きた者として
と書いて来て、我は平成よりも生まれた「昭和」という時代に重きを置き、昭和を愛しそこに属する者だと自負しているが、ふと、よく考えてみれば我の人生の半分は既に「平成」なのだと気がついた。
今、還暦を少し過ぎて、自分の年齢を振り返るとき、昭和が終わった頃はちょうど30歳であり、そしてそれから30年過ぎて還暦過ぎた今の我がありその平成もほぼ30年で終わりとなる。
次の元号がどのぐらい続くかはともかく、こうしてほぼ30年ごとに区切ると、あと30年先は、次は90歳ということになる。未だ健在の我が父の齢まで生きられれば、十分次の30年もアリだが、我はとてもそんなに長く無事に生きられそうにないし、第一この国も地球環境さえ何も変わらずあり続けるとはとても思えない。
ともあれ、我にとっては昭和こそが意味があり、そこに価値と意味を重く置いているわけで、平成なんて何もなかった、無意味なつまらない時代だと漠然と思っていた。
しかし、今の我の仕事も人間関係も、音楽のことなど好きでやっていることもその全ては平成になってから知り得て始めたことであることに気づく。
繰り返し書いて来たが、元々究極のアナログ人間である我も、平成が10年過ぎ、1900年代が終わり21世紀になった頃から生活に行き詰まり、さすがに何とかせねばと生活の術をパソコン上に求めた。
親に借金して慣れないパソコンを手に入れ北尾トロ氏の指南本で学び、当時流行り始めたネット上の古書店を始めて古本販売で糊口をしのぎ始めた。じっさいその頃は、今みたいに「1円本」とか本自体が売れない時代ではなく、競合者も少なくかなり注文も収益もあった。
だが、ネット古書店仲間に誘われて、2005年の高田渡の死の直後に開催された、今はなき小金井公会堂での「追悼コンサート」に出向いたことで我の人生は、本から音楽へと軌道が大きく変えられてしまった。
すぐさま十代の頃に一時期関わりをもった中川五郎氏と連絡を取って、日本のフォークの世界に再び「帰還」することとなった。そして今に至るわけだが、そうした経緯は、以前のエキサイトブログも含めてずっとこうしてブログなどで逐一記してきたことだからもう改めて書かない。
で、結局のところ、今は、Amazonマーケットプレイスで、高額の手数料を「搾取」されながらも古本販売はそこで続けて、まあ小遣い銭程度を稼ぎ、後は自宅で老いて衰弱して来た90代半ばになろうとする父を介護しつつ二人で暮らしているというしだいだ。
そして国立市谷保のかけこみ亭などで、懇意にして頂いてるフォークシンガーを迎えては、コンサート企画を続けているわけで、そのどれも誰もが平成になってから出会い知り得たわけだと気づく。
昔ながらの、昭和の時代から友人知人で今も繋がりがあるのは、学生時代のほんの数人に過ぎない。後は誰もいない。
ということは、自分の人生は、昭和が終わるまでの生まれてから30年間という基礎の上に、平成の時代30年間があり、そこで多くの大きな出会いがあり、そうした「発展期」があって「今」があるということだ。※何であれ人より常に遅い、バカで遅れている我は、30になるまで自立できなかったのである。
平成とはどんな時代であったか。バブル崩壊や世界的テロや国内で多くの自然災害や戦前回帰の悪法が次々成立施行された時代であったが、何はともあれ、戦争がなく誰も死なず殺さず無事に過ぎた時代だったと言えるのだろう。現天皇が言うまでもなく。
それはまさに字のごとく、平和に成った時代であった。明治大正昭和と近代の元号で初めて戦争が起きないまま終わる元号となったわけだ。
その平和は、ひとえに、戦後からの70数年に続くわけで、そのことは「平和憲法」がこの国にあったからだと誰もが気づく。憲法が戦争参加の抑止力となって、今もぎりぎりのところで戦争には踏みとどまっているのである。改憲し自衛隊を書きこめば、たちどころにアメリカに請われるまま自衛隊は侵略されずとも他国を攻撃しに行き多くの市民をも殺害することだろう。
昨今あちこちで、祝・開店50周年とか、~活動50周年、画業50年、発刊50年、~生活50周年等という文字をよくみかける。そう半世紀も何かが続くことも昨今は特に珍しいことではない。半世紀50年がそうなら、思えば、平成の30年が我にはあっという間に思えるのも、何よりまず平和であったからにすぎない。
もしその期間に、戦時や非常時があれば、何であれモノゴトは中断を余儀なくされてしまう。そんな風に安穏穏便安閑に時は過ぎていくことはまずありえない。
次の元号の時代、名前は何であれ、とにもかくにも戦争が起きない、起こさせないため、この平和が続くためにも「平和憲法」を変えてはならないのである。そのために自分ができることを少しでも続けていく。
そして余談となるが、我のフォークソングの恩師・中川五郎がこの夏で古希を迎えるのと、音楽活動半世紀超えの記念と、これからも元気で活躍を祈念して、護憲と反戦平和のため「五郎と共謀」コンサートの企画が進んでいる。
ほんとうは、この夏中にと考えていたが、超お忙氏であるため8月、9月は彼のスケジュールは既にいっぱいだった。
なので早くても秋口となるが、決定次第お知らせしたい。
と書いて来て、我は平成よりも生まれた「昭和」という時代に重きを置き、昭和を愛しそこに属する者だと自負しているが、ふと、よく考えてみれば我の人生の半分は既に「平成」なのだと気がついた。
今、還暦を少し過ぎて、自分の年齢を振り返るとき、昭和が終わった頃はちょうど30歳であり、そしてそれから30年過ぎて還暦過ぎた今の我がありその平成もほぼ30年で終わりとなる。
次の元号がどのぐらい続くかはともかく、こうしてほぼ30年ごとに区切ると、あと30年先は、次は90歳ということになる。未だ健在の我が父の齢まで生きられれば、十分次の30年もアリだが、我はとてもそんなに長く無事に生きられそうにないし、第一この国も地球環境さえ何も変わらずあり続けるとはとても思えない。
ともあれ、我にとっては昭和こそが意味があり、そこに価値と意味を重く置いているわけで、平成なんて何もなかった、無意味なつまらない時代だと漠然と思っていた。
しかし、今の我の仕事も人間関係も、音楽のことなど好きでやっていることもその全ては平成になってから知り得て始めたことであることに気づく。
繰り返し書いて来たが、元々究極のアナログ人間である我も、平成が10年過ぎ、1900年代が終わり21世紀になった頃から生活に行き詰まり、さすがに何とかせねばと生活の術をパソコン上に求めた。
親に借金して慣れないパソコンを手に入れ北尾トロ氏の指南本で学び、当時流行り始めたネット上の古書店を始めて古本販売で糊口をしのぎ始めた。じっさいその頃は、今みたいに「1円本」とか本自体が売れない時代ではなく、競合者も少なくかなり注文も収益もあった。
だが、ネット古書店仲間に誘われて、2005年の高田渡の死の直後に開催された、今はなき小金井公会堂での「追悼コンサート」に出向いたことで我の人生は、本から音楽へと軌道が大きく変えられてしまった。
すぐさま十代の頃に一時期関わりをもった中川五郎氏と連絡を取って、日本のフォークの世界に再び「帰還」することとなった。そして今に至るわけだが、そうした経緯は、以前のエキサイトブログも含めてずっとこうしてブログなどで逐一記してきたことだからもう改めて書かない。
で、結局のところ、今は、Amazonマーケットプレイスで、高額の手数料を「搾取」されながらも古本販売はそこで続けて、まあ小遣い銭程度を稼ぎ、後は自宅で老いて衰弱して来た90代半ばになろうとする父を介護しつつ二人で暮らしているというしだいだ。
そして国立市谷保のかけこみ亭などで、懇意にして頂いてるフォークシンガーを迎えては、コンサート企画を続けているわけで、そのどれも誰もが平成になってから出会い知り得たわけだと気づく。
昔ながらの、昭和の時代から友人知人で今も繋がりがあるのは、学生時代のほんの数人に過ぎない。後は誰もいない。
ということは、自分の人生は、昭和が終わるまでの生まれてから30年間という基礎の上に、平成の時代30年間があり、そこで多くの大きな出会いがあり、そうした「発展期」があって「今」があるということだ。※何であれ人より常に遅い、バカで遅れている我は、30になるまで自立できなかったのである。
平成とはどんな時代であったか。バブル崩壊や世界的テロや国内で多くの自然災害や戦前回帰の悪法が次々成立施行された時代であったが、何はともあれ、戦争がなく誰も死なず殺さず無事に過ぎた時代だったと言えるのだろう。現天皇が言うまでもなく。
それはまさに字のごとく、平和に成った時代であった。明治大正昭和と近代の元号で初めて戦争が起きないまま終わる元号となったわけだ。
その平和は、ひとえに、戦後からの70数年に続くわけで、そのことは「平和憲法」がこの国にあったからだと誰もが気づく。憲法が戦争参加の抑止力となって、今もぎりぎりのところで戦争には踏みとどまっているのである。改憲し自衛隊を書きこめば、たちどころにアメリカに請われるまま自衛隊は侵略されずとも他国を攻撃しに行き多くの市民をも殺害することだろう。
昨今あちこちで、祝・開店50周年とか、~活動50周年、画業50年、発刊50年、~生活50周年等という文字をよくみかける。そう半世紀も何かが続くことも昨今は特に珍しいことではない。半世紀50年がそうなら、思えば、平成の30年が我にはあっという間に思えるのも、何よりまず平和であったからにすぎない。
もしその期間に、戦時や非常時があれば、何であれモノゴトは中断を余儀なくされてしまう。そんな風に安穏穏便安閑に時は過ぎていくことはまずありえない。
次の元号の時代、名前は何であれ、とにもかくにも戦争が起きない、起こさせないため、この平和が続くためにも「平和憲法」を変えてはならないのである。そのために自分ができることを少しでも続けていく。
そして余談となるが、我のフォークソングの恩師・中川五郎がこの夏で古希を迎えるのと、音楽活動半世紀超えの記念と、これからも元気で活躍を祈念して、護憲と反戦平和のため「五郎と共謀」コンサートの企画が進んでいる。
ほんとうは、この夏中にと考えていたが、超お忙氏であるため8月、9月は彼のスケジュールは既にいっぱいだった。
なので早くても秋口となるが、決定次第お知らせしたい。
デストロイヤーというひとつの時代の分水嶺 ― 2019年03月08日 22時49分16秒
★ある世代の男子は誰もが知っている男の死
デストロイヤーさんが亡くなった。と、夜のNHKニュースが報じていた。彼の死の年齢について何も思うこと等はないが、「ボブ・ディランさん」もそうだが、~さんと、「さん付け」されてキャスターに呼ばれると、そういうふうに世間一般でも広く認知されている存在なのだとわかって少し不思議な気持ちになる。
デストロイヤーはデストロイヤー、我らが世代には白い覆面魔王であり、必殺四の字固めである。まあ、その訃報に驚きはしない。何しろあの力道山とも死闘をくり広げた世代なのだから。
しかしふと思う。果たして今の人たち、平成生まれもだが、おそらく四十代でもその名をご存知の人は少ないのではないか。
むろんリングを離れても、何故か日本テレビのバラエティ番組で、ゴッドねえちゃんこと、和田アキ子らと共に、笑いをとっていた人だからそうした姿は記憶している人もいるだろうが。
ニュースでは、かなり初老の人たち、男性中心にマイクを向けて皆一様に訃報に驚いていたが、今の人たちにとっては誰それ??だと思う。
今の子はどうか知らないが、昔の子は、男の子の憧れは、プロレスラーか野球選手であり、女の子は、バレリーナかスチュワーデスと決まっていた。
こんな我でも、唯一好きなスポーツは、プロレスであり、祖父と共に、大昔の日本プロレス、つまり力道山の試合をテレビで生前から観ていた。
さすがに力さんとの試合ははっきり記憶にはないが、ジャイアント馬場との試合は、鉄の爪エリックやボボ・ブラジルらと共に今もありありと思い出す。体は大きくないが、圧倒的凄みがあった。それは覆面という正体のわからなさも大きい。彼唯一の得意技、四の字固めが決まれば誰もがギブアップするしかなかった。まさに一芸必殺である。
昔の男子でデストロイヤーを知らない奴は誰一人いなかった。悪役でありながらその強さに憧れた。
我にとって昭和の三大ヒールは、※ヒールというのは、「悪役」のことで、吸血鬼・フレッド・プラッシーと黒い呪術師・アブドラ・ザ・ブッチャー、そして覆面魔王デストロイヤーだと断言する。
昔の男の子たちは、体育の授業の折など、マットさえあれば、すぐさま誰もが足四の字固めのかけっこをよくしたものだった。そしてそれはカンタンだが、きまるとじっさい実に痛い。
猪木のコブラツイストとか卍固めという技も、皆でやってみるのだが、はっきりいってこれはなかなかきまらない。きまらないといのは、その技はあくまでもリングの中で、相手がそれを受けて、技にかかってくれる、受けてくれるから「きまる」技だということで、実際にやってみると、プロレス的了解のうえでのただの見せ技だとわかってくる。
むろんバックドロップとか、ブレンバスター、ジャーマンスープレックスホールドなど大技は、やろうと思ってもやれないし、危険すぎてやるべきではないと子供心にも皆了解していたから、やりはしない。だからこそデスロイヤーの四の字固めである。ごくカンタンだが、じっさいにプロレス的にその痛みを実体験できるのである。なんちゃってプロレスラーに誰もがなれるわけだ。それは素晴らしいことではないか。
今思えば、それは関節技の一種ととらえるべきなのだと思うが、デストロイヤーといえば、白覆面、そして四の字固め、という必殺技のレスラーとしてまさに一世を風靡した。
本場米国でも実績を残している人だが、その後も大の親日家として、日本に拠点を移し、縁深い日テレのそのバラエティー番組で、コメディアンとしてもお茶の間に広く浸透した。和田アキ子の手下に成り下がっても、必殺四の字固めは健在で、「いじめ」ではなく本気で若手タレントに仕掛けては笑いをとっていた。
今にしては実に懐かしい。本名ディック・ベイヤー、体は大きくなかったが、覆面レスラーの鼻祖であり、足四の字固め、フィギィア・フォー・レッグロックという一芸だけで、日米の頂点に上り詰めた男。昭和という時代を思い出し語るときに欠かせない人だった。
君はデストロイヤーを知っているか。四の字固めができるか。それだけである世代、一つの時代の分水嶺となる男がまた一人死んだ。
デストロイヤーさんが亡くなった。と、夜のNHKニュースが報じていた。彼の死の年齢について何も思うこと等はないが、「ボブ・ディランさん」もそうだが、~さんと、「さん付け」されてキャスターに呼ばれると、そういうふうに世間一般でも広く認知されている存在なのだとわかって少し不思議な気持ちになる。
デストロイヤーはデストロイヤー、我らが世代には白い覆面魔王であり、必殺四の字固めである。まあ、その訃報に驚きはしない。何しろあの力道山とも死闘をくり広げた世代なのだから。
しかしふと思う。果たして今の人たち、平成生まれもだが、おそらく四十代でもその名をご存知の人は少ないのではないか。
むろんリングを離れても、何故か日本テレビのバラエティ番組で、ゴッドねえちゃんこと、和田アキ子らと共に、笑いをとっていた人だからそうした姿は記憶している人もいるだろうが。
ニュースでは、かなり初老の人たち、男性中心にマイクを向けて皆一様に訃報に驚いていたが、今の人たちにとっては誰それ??だと思う。
今の子はどうか知らないが、昔の子は、男の子の憧れは、プロレスラーか野球選手であり、女の子は、バレリーナかスチュワーデスと決まっていた。
こんな我でも、唯一好きなスポーツは、プロレスであり、祖父と共に、大昔の日本プロレス、つまり力道山の試合をテレビで生前から観ていた。
さすがに力さんとの試合ははっきり記憶にはないが、ジャイアント馬場との試合は、鉄の爪エリックやボボ・ブラジルらと共に今もありありと思い出す。体は大きくないが、圧倒的凄みがあった。それは覆面という正体のわからなさも大きい。彼唯一の得意技、四の字固めが決まれば誰もがギブアップするしかなかった。まさに一芸必殺である。
昔の男子でデストロイヤーを知らない奴は誰一人いなかった。悪役でありながらその強さに憧れた。
我にとって昭和の三大ヒールは、※ヒールというのは、「悪役」のことで、吸血鬼・フレッド・プラッシーと黒い呪術師・アブドラ・ザ・ブッチャー、そして覆面魔王デストロイヤーだと断言する。
昔の男の子たちは、体育の授業の折など、マットさえあれば、すぐさま誰もが足四の字固めのかけっこをよくしたものだった。そしてそれはカンタンだが、きまるとじっさい実に痛い。
猪木のコブラツイストとか卍固めという技も、皆でやってみるのだが、はっきりいってこれはなかなかきまらない。きまらないといのは、その技はあくまでもリングの中で、相手がそれを受けて、技にかかってくれる、受けてくれるから「きまる」技だということで、実際にやってみると、プロレス的了解のうえでのただの見せ技だとわかってくる。
むろんバックドロップとか、ブレンバスター、ジャーマンスープレックスホールドなど大技は、やろうと思ってもやれないし、危険すぎてやるべきではないと子供心にも皆了解していたから、やりはしない。だからこそデスロイヤーの四の字固めである。ごくカンタンだが、じっさいにプロレス的にその痛みを実体験できるのである。なんちゃってプロレスラーに誰もがなれるわけだ。それは素晴らしいことではないか。
今思えば、それは関節技の一種ととらえるべきなのだと思うが、デストロイヤーといえば、白覆面、そして四の字固め、という必殺技のレスラーとしてまさに一世を風靡した。
本場米国でも実績を残している人だが、その後も大の親日家として、日本に拠点を移し、縁深い日テレのそのバラエティー番組で、コメディアンとしてもお茶の間に広く浸透した。和田アキ子の手下に成り下がっても、必殺四の字固めは健在で、「いじめ」ではなく本気で若手タレントに仕掛けては笑いをとっていた。
今にしては実に懐かしい。本名ディック・ベイヤー、体は大きくなかったが、覆面レスラーの鼻祖であり、足四の字固め、フィギィア・フォー・レッグロックという一芸だけで、日米の頂点に上り詰めた男。昭和という時代を思い出し語るときに欠かせない人だった。
君はデストロイヤーを知っているか。四の字固めができるか。それだけである世代、一つの時代の分水嶺となる男がまた一人死んだ。
久々にさこ大介さんと会う ― 2019年03月10日 17時02分12秒

★今日は、狛江のバルで、敬愛するさこ大介さんのライブがある
渋い喉と軽妙な語りは健在でした。いつまでもどうかお元気で。
渋い喉と軽妙な語りは健在でした。いつまでもどうかお元気で。
いつまでも続くと思うな、「ある」のが当たり前と思うなかれ ― 2019年03月11日 09時18分42秒
★3.11大震災の日の朝に
昨日の夜から降り出して一晩中かなり強く降り続いていた雨は今ようやく上がってきた。外は明るく陽ざしも出て来た。今日は晴れて暖かくなる。そう、あの日と同じように。
8年目の大震災の日の朝である。
昨晩は、敬愛するブルースシンガーさこ大介さんのライブが、彼の地元狛江のイタリア料理店の三階の一室であり、久々にお会いしてうたもお話も堪能した。考えてみれば数年ぶりの再会ではないか。
何度も同報メールでライブのお誘いは受けていたが、なかなか都合がつかず、昨年夏も行こうと決めた日は出る矢先に颱風で電車が動いていなかったりと何故かタイミングも合わなかった。毎年お招きしていた年末の拙宅でのクリスマス謝恩パーティにも昨年のは来られなかったし。
そうこうしているうちに、老いた甲斐犬もやたら手がかかるようになってきて、我は父不在の日でも気軽に家を空けることが出来なくなってしまったのだ。
今回、3/31の、みほこんのライブに、特別ゲスト出演お願いした手前、その前に一度お会いしてカンタンな打ち合わせもしたかったので、狛江はウチからもさほど遠くないので、久々に南武線で登戸まで出て小田急で多摩川越えて行ってきた次第。もう七十過ぎたはずだが、軽妙な語りに渋い喉は健在で、お元気そうで一安心した。
だからといっていつまでもこうして達者にライブ活動が続くとは達観してはならないと思う。まだまだお元気だからいつでも観れる、会えると楽観してお会いするのを怠ってると必ず後悔するときが来る。
そう、先のことは誰もわからない。何がいつ起こるかは神のみぞ知るわけで、その采配、サイコロの目はどう出るかまさに明日をも知れないのである。※もちろんいつまでも長くお元気でさらなる活躍を祈り期待することは当然のことであるが。
あの様々な神話が崩れた大震災の日も、その起こる直前までは誰一人予測も想像もできなかった。そして突然それが起きて、命も家族も家もすべて何もかも失ってしまった人が何万にも達したのだ。
そして八年が過ぎた今でも多くの人たちが仮設住宅で暮らし、避難生活を強いられている人が5万人を超すとされるのに、「復興五輪」を謳い浮かれるこの国の政府とは・・・
拙宅は幸いにして古家を増改築し終えた時だったので被害と言えるほどの被害は何もなかった。ただ、この8年の歳月を振り返れば、そのときはまだ生きていた母は既に亡く、母の愛した犬猫たちも一新されて、今も変わらずに在るのは、父だけだと気づく。
その父だって果たして来年の今頃はこの世にいるか定かでない。
先だっての「共謀」コンサートの折、参加してくれた、このブログを読んでくれている友人から、このところブログでは年中、お前の父が死にそうだとか書いてるけどちっとも死なないじゃないか、お前も元気そうだしこれは「死ぬ死ぬ詐欺だ」と批判的ご意見を受けた。それでこんな我でもかなり傷ついた。世間とはそうしたものなのか!である。
じっさいもう九十半ばになるのである。これが70代ならばともかく、この先5年も10年も生きられるはずがないではないか。しかも誤嚥性肺炎と認知症、さらに身体不自由となって、今はかろうじてデイサービスとかショートに通えているが、向うでは車椅子で移動して食事から排便まで何につけても手もかかるのでそろそろ利用限界と言われているのである。
本来は治療を目的としない病院施設に入所すべき段階の超高齢の人を、死にそうだと言うのがどうして詐欺なのかと憤る。もう口から食べるのも咽て大変なので胃ろう(腹に穴開けて経口栄養液をそこから入れる)も検討されているのだ。
今度誤嚥性肺炎を発症したら、間違いなく即入院、認知症も悪化するだろうからそのまま死ぬまで院内で過ごすという手筈なのである。
ただ幸い今のところは肺炎にも至らず、当人も呆けがひどくないときは、この家で死ぬまで暮らしたいと強く意思表示しているから、行政や医者の度重なる施設入所要請も断り、この老いて来た息子が一人で尻の穴まで拭いてやっているのである。
まさに日々「薄氷を踏む思い」で生活を共にしているのだ。それで自分も疲弊して、つい愚痴もこぼしてしまう。そうした「現実」と「不安」を記してきて「詐欺」だと言われるのは不本意かつ心外でならない。いや、それもこれもこの我の不徳のいたすところか。
幸いにして今年の冬は、本格的風邪はひかずインフルエンザにも罹らず、何とかまた年を越せて春を迎えられた。が、深夜など階下の眠っている父の部屋から苦しそうな咳が聞こえてくるたび、我は目覚め不安な気持ちで耳をすまし様子をうかがう。
その咳が軽くてすぐ収まって、静かにまた父は眠りに就いたようでも我は真夜中に、父のことも含めてあれこれ考えてしまう。
いったいいつまで父と共に暮らせるのか。今が、この生活がどこまで続いていくのか。いつこれが終わるのだろうかと。
ウチの近所に、駅に向かう途中の角に、長年続いていた手作りパン屋の店があった。ウチは犬が何匹もいたので、その店でサンドイッチ作ったときに出る切り落とした耳の部分をよく貰いに行っていた。むろんそこの手作り総菜パンも買うついでのことだ。
その店は先代から続いていて、今の店主は、その家の、我とは同級生だった女の子の兄だと思うのだから、60代半ばか70代近くであろうか。そのご夫婦で切り盛りしていて、この街の名物パン屋であった。小さい店だが、サンドイッチだけでなく多数の意欲的な手作りの菓子パンがショーケースには常にいっぱい並んでいた。
その店に行くのは、かつては父と母の役割で、10年ぐらい前、元気な頃は二人で犬の散歩がてら毎週行ってはしこたまパンを頂いて来た。閉店間際に行くと売れ残ったパンは、「おまけ」にくれたのである。思えば家族ぐるみで付き合いがあったのだ。
ただ母が死に、父もパンはすぐに喉に詰まり咳き込むため、近年はなかなか利用することはなくなってしまいこのところは縁遠くなっていた。それでも我家とは長年の顔見知りであったから、その店の前を通ったり、オバサンと街で偶然会えば、「お父さんは元気?」と挨拶される関係であった。
その店が、昨年の晩秋ぐらいからずっと店を閉めていて、一時期は「しばらく都合によりお休みします」と貼り紙が出ていてこちらもどうされたのかと心配していた。
年が明けてもずっと店は閉まったままで、家の人は誰も見かけない。貼り紙もなくなってしまい、いったい何が起きたのか、いつ再開するかと常に店のことは気になっていたらば、先月の半ば、またシャッターに貼り紙があった。おそるおそる見たらば「都合により閉店いたします。長い間有難うございました。なお、体調不良によりお問い合わせなどはお断りします。」と記してあり、末尾に「代理人」と付け加えてあった。
何の情報もないので想像だが、パンを作っていた店主かその妻のオバサンが、病気か何らかで入院してしまい回復の目途も立たず、廃業を決断したのであろうか。誰の姿も見かけないから二人してのことかもしれない。
長年、何十年もそこにあった店、我が子どもの頃から親しんできたパン屋がこうして突然なくなるとはまったく予想もしなかった。不況とか商売的にやっていけなくなったわけではない。地元タウン誌やケーブルテレビやらにも紹介されて近年は常にお客で賑わっていたから、ご夫婦の都合であろう。
まさかあの店がなくなるとは思ってもいなかった。我が父のことを心配してくれた人たちが病み?、店を閉めざるをえなくなり、我が父はまだとりあえず元気なのである。先のことはわからない。いつまでもそれがそこに「在る」と思ってはならない。つくづくそう思う。
そう、いつ何が起こるかわからない。まさに明日をも知れないのである。だからこそ、日々、一日一日をとことん精いっぱい今日限りと、一期一会の気持ちで生きていかねばならないのだ。
不慮の病気などに見舞われなくても地震列島日本、またある日突然大地は揺れ、すべての文化、文明が破壊され尽すときが来るかもしれない。いや、我家の頭上にオスプレイが墜落するかもしれない。
それがそこに在る事は当たり前ではない。そう考えてはならない。今まだ、有ること自体こそが「有難き」ことなのだ。そう心して人は生きて行かねばならぬ。いつかそのうち、と後回しや先送りにしてはならない。
すべては今だけ、今日一日だけなのだ。明日ありと思う心の仇桜、なのである。
昨日の夜から降り出して一晩中かなり強く降り続いていた雨は今ようやく上がってきた。外は明るく陽ざしも出て来た。今日は晴れて暖かくなる。そう、あの日と同じように。
8年目の大震災の日の朝である。
昨晩は、敬愛するブルースシンガーさこ大介さんのライブが、彼の地元狛江のイタリア料理店の三階の一室であり、久々にお会いしてうたもお話も堪能した。考えてみれば数年ぶりの再会ではないか。
何度も同報メールでライブのお誘いは受けていたが、なかなか都合がつかず、昨年夏も行こうと決めた日は出る矢先に颱風で電車が動いていなかったりと何故かタイミングも合わなかった。毎年お招きしていた年末の拙宅でのクリスマス謝恩パーティにも昨年のは来られなかったし。
そうこうしているうちに、老いた甲斐犬もやたら手がかかるようになってきて、我は父不在の日でも気軽に家を空けることが出来なくなってしまったのだ。
今回、3/31の、みほこんのライブに、特別ゲスト出演お願いした手前、その前に一度お会いしてカンタンな打ち合わせもしたかったので、狛江はウチからもさほど遠くないので、久々に南武線で登戸まで出て小田急で多摩川越えて行ってきた次第。もう七十過ぎたはずだが、軽妙な語りに渋い喉は健在で、お元気そうで一安心した。
だからといっていつまでもこうして達者にライブ活動が続くとは達観してはならないと思う。まだまだお元気だからいつでも観れる、会えると楽観してお会いするのを怠ってると必ず後悔するときが来る。
そう、先のことは誰もわからない。何がいつ起こるかは神のみぞ知るわけで、その采配、サイコロの目はどう出るかまさに明日をも知れないのである。※もちろんいつまでも長くお元気でさらなる活躍を祈り期待することは当然のことであるが。
あの様々な神話が崩れた大震災の日も、その起こる直前までは誰一人予測も想像もできなかった。そして突然それが起きて、命も家族も家もすべて何もかも失ってしまった人が何万にも達したのだ。
そして八年が過ぎた今でも多くの人たちが仮設住宅で暮らし、避難生活を強いられている人が5万人を超すとされるのに、「復興五輪」を謳い浮かれるこの国の政府とは・・・
拙宅は幸いにして古家を増改築し終えた時だったので被害と言えるほどの被害は何もなかった。ただ、この8年の歳月を振り返れば、そのときはまだ生きていた母は既に亡く、母の愛した犬猫たちも一新されて、今も変わらずに在るのは、父だけだと気づく。
その父だって果たして来年の今頃はこの世にいるか定かでない。
先だっての「共謀」コンサートの折、参加してくれた、このブログを読んでくれている友人から、このところブログでは年中、お前の父が死にそうだとか書いてるけどちっとも死なないじゃないか、お前も元気そうだしこれは「死ぬ死ぬ詐欺だ」と批判的ご意見を受けた。それでこんな我でもかなり傷ついた。世間とはそうしたものなのか!である。
じっさいもう九十半ばになるのである。これが70代ならばともかく、この先5年も10年も生きられるはずがないではないか。しかも誤嚥性肺炎と認知症、さらに身体不自由となって、今はかろうじてデイサービスとかショートに通えているが、向うでは車椅子で移動して食事から排便まで何につけても手もかかるのでそろそろ利用限界と言われているのである。
本来は治療を目的としない病院施設に入所すべき段階の超高齢の人を、死にそうだと言うのがどうして詐欺なのかと憤る。もう口から食べるのも咽て大変なので胃ろう(腹に穴開けて経口栄養液をそこから入れる)も検討されているのだ。
今度誤嚥性肺炎を発症したら、間違いなく即入院、認知症も悪化するだろうからそのまま死ぬまで院内で過ごすという手筈なのである。
ただ幸い今のところは肺炎にも至らず、当人も呆けがひどくないときは、この家で死ぬまで暮らしたいと強く意思表示しているから、行政や医者の度重なる施設入所要請も断り、この老いて来た息子が一人で尻の穴まで拭いてやっているのである。
まさに日々「薄氷を踏む思い」で生活を共にしているのだ。それで自分も疲弊して、つい愚痴もこぼしてしまう。そうした「現実」と「不安」を記してきて「詐欺」だと言われるのは不本意かつ心外でならない。いや、それもこれもこの我の不徳のいたすところか。
幸いにして今年の冬は、本格的風邪はひかずインフルエンザにも罹らず、何とかまた年を越せて春を迎えられた。が、深夜など階下の眠っている父の部屋から苦しそうな咳が聞こえてくるたび、我は目覚め不安な気持ちで耳をすまし様子をうかがう。
その咳が軽くてすぐ収まって、静かにまた父は眠りに就いたようでも我は真夜中に、父のことも含めてあれこれ考えてしまう。
いったいいつまで父と共に暮らせるのか。今が、この生活がどこまで続いていくのか。いつこれが終わるのだろうかと。
ウチの近所に、駅に向かう途中の角に、長年続いていた手作りパン屋の店があった。ウチは犬が何匹もいたので、その店でサンドイッチ作ったときに出る切り落とした耳の部分をよく貰いに行っていた。むろんそこの手作り総菜パンも買うついでのことだ。
その店は先代から続いていて、今の店主は、その家の、我とは同級生だった女の子の兄だと思うのだから、60代半ばか70代近くであろうか。そのご夫婦で切り盛りしていて、この街の名物パン屋であった。小さい店だが、サンドイッチだけでなく多数の意欲的な手作りの菓子パンがショーケースには常にいっぱい並んでいた。
その店に行くのは、かつては父と母の役割で、10年ぐらい前、元気な頃は二人で犬の散歩がてら毎週行ってはしこたまパンを頂いて来た。閉店間際に行くと売れ残ったパンは、「おまけ」にくれたのである。思えば家族ぐるみで付き合いがあったのだ。
ただ母が死に、父もパンはすぐに喉に詰まり咳き込むため、近年はなかなか利用することはなくなってしまいこのところは縁遠くなっていた。それでも我家とは長年の顔見知りであったから、その店の前を通ったり、オバサンと街で偶然会えば、「お父さんは元気?」と挨拶される関係であった。
その店が、昨年の晩秋ぐらいからずっと店を閉めていて、一時期は「しばらく都合によりお休みします」と貼り紙が出ていてこちらもどうされたのかと心配していた。
年が明けてもずっと店は閉まったままで、家の人は誰も見かけない。貼り紙もなくなってしまい、いったい何が起きたのか、いつ再開するかと常に店のことは気になっていたらば、先月の半ば、またシャッターに貼り紙があった。おそるおそる見たらば「都合により閉店いたします。長い間有難うございました。なお、体調不良によりお問い合わせなどはお断りします。」と記してあり、末尾に「代理人」と付け加えてあった。
何の情報もないので想像だが、パンを作っていた店主かその妻のオバサンが、病気か何らかで入院してしまい回復の目途も立たず、廃業を決断したのであろうか。誰の姿も見かけないから二人してのことかもしれない。
長年、何十年もそこにあった店、我が子どもの頃から親しんできたパン屋がこうして突然なくなるとはまったく予想もしなかった。不況とか商売的にやっていけなくなったわけではない。地元タウン誌やケーブルテレビやらにも紹介されて近年は常にお客で賑わっていたから、ご夫婦の都合であろう。
まさかあの店がなくなるとは思ってもいなかった。我が父のことを心配してくれた人たちが病み?、店を閉めざるをえなくなり、我が父はまだとりあえず元気なのである。先のことはわからない。いつまでもそれがそこに「在る」と思ってはならない。つくづくそう思う。
そう、いつ何が起こるかわからない。まさに明日をも知れないのである。だからこそ、日々、一日一日をとことん精いっぱい今日限りと、一期一会の気持ちで生きていかねばならないのだ。
不慮の病気などに見舞われなくても地震列島日本、またある日突然大地は揺れ、すべての文化、文明が破壊され尽すときが来るかもしれない。いや、我家の頭上にオスプレイが墜落するかもしれない。
それがそこに在る事は当たり前ではない。そう考えてはならない。今まだ、有ること自体こそが「有難き」ことなのだ。そう心して人は生きて行かねばならぬ。いつかそのうち、と後回しや先送りにしてはならない。
すべては今だけ、今日一日だけなのだ。明日ありと思う心の仇桜、なのである。
5月5日のかけこみ亭「共謀」フォークジャンボリー、出演者確定しました。 ― 2019年03月12日 20時24分24秒
★実力派シンガーが勢ぞろいしました。
・五十嵐正史とソウルブラザーズ
・ウッディ―
・太田三造
・小林直樹&楠瀬咲琴
・志万田さをり
・館野公一
・西島寛二
・広瀬波子
・藤しんいちろう
・ぼけまる
・槙篤
・山口敦子
・弱つよむ ※五十音順 敬称略
・司会進行よろず請負担当 マスダ昭哲
というわけで、10数名もの出演者、本場「春一番」並に、昼前から始めないと収まらない気もするが、まさかそうもいかず、たぶん2時頃開場、3時頃開始となるかと思う。それでも各自30分枠だとしても単純計算で6時間!! 終演9時のロングランコンサートとなる。まあ、サポート専門の方もおられるのでそんなに長い時間はならないとも思えるが・・・
我としては、あの「両国フォークロアセンター40周年コンサート」以来のロングタイム大人数コンサート企画である。
まあ、翌日もお休みの、改元騒ぎの超大型連休の合間の日曜、子供の日だから、陽気に誘われ昼間から多くの観客が入れ替わり立ち代わり来られることを期待してやるしかない。
きちんとしたチラシもつくりたいが、どうしたら多くの集客成るか皆さんのお知恵も拝借したい。そろそろ今月内には全部確定させて、仮チラシでも3/31のみほこんのレコ発の場には間に合わせねば。
あれこれ今から考えると不安にもなってくるが、さておき本格派や実力者たちがよくぞ集ったものだと企画側としても思う。一観客としても楽しみでならない。
出演者とも相談し調整のうえ、どういう形式、順番で進めていくか早め早めに決めていきたい。
※ちなみに画像は、以前の共謀コンサートの一コマ。今回も出られる左から藤、館野、槙、ぼけまる の皆さん。
・五十嵐正史とソウルブラザーズ
・ウッディ―
・太田三造
・小林直樹&楠瀬咲琴
・志万田さをり
・館野公一
・西島寛二
・広瀬波子
・藤しんいちろう
・ぼけまる
・槙篤
・山口敦子
・弱つよむ ※五十音順 敬称略
・司会進行よろず請負担当 マスダ昭哲
というわけで、10数名もの出演者、本場「春一番」並に、昼前から始めないと収まらない気もするが、まさかそうもいかず、たぶん2時頃開場、3時頃開始となるかと思う。それでも各自30分枠だとしても単純計算で6時間!! 終演9時のロングランコンサートとなる。まあ、サポート専門の方もおられるのでそんなに長い時間はならないとも思えるが・・・
我としては、あの「両国フォークロアセンター40周年コンサート」以来のロングタイム大人数コンサート企画である。
まあ、翌日もお休みの、改元騒ぎの超大型連休の合間の日曜、子供の日だから、陽気に誘われ昼間から多くの観客が入れ替わり立ち代わり来られることを期待してやるしかない。
きちんとしたチラシもつくりたいが、どうしたら多くの集客成るか皆さんのお知恵も拝借したい。そろそろ今月内には全部確定させて、仮チラシでも3/31のみほこんのレコ発の場には間に合わせねば。
あれこれ今から考えると不安にもなってくるが、さておき本格派や実力者たちがよくぞ集ったものだと企画側としても思う。一観客としても楽しみでならない。
出演者とも相談し調整のうえ、どういう形式、順番で進めていくか早め早めに決めていきたい。
※ちなみに画像は、以前の共謀コンサートの一コマ。今回も出られる左から藤、館野、槙、ぼけまる の皆さん。
誰もが自らの「正義」で他者を裁く時代に ― 2019年03月14日 07時34分09秒
★ピエール瀧のことからあれこれ思う
この数日憂鬱である。いや、憂鬱であった、と書くべきか。
先日の雨の晩、久々に出かけて多くの人と会い楽しいときを過ごしたのだが、何故かその後ものすごく疲れが出て、気力体力失せて消沈してしまっていた。
そうした気鬱しているときに限って、その心の隙に付け入ると言うか、忍び寄るように、予期しない不運なこと、トラブルや事件が起こる。
長く生きて来たから人生とはそうしたものだとわかっていたはずなのに、つい油断していた。
幸い我のそのことは回避できたけれど、疲れ気持ちが落ち込んでいるときこそ、人生にネグレクトしてはならないのだと今改めて誓うところだ。気を張ることはせずとも常に一定の結界、自らを守るバリアのようなものを張っておかないと、我が人生をハメツに導く「悪意」がそっと忍び寄る。
悪意と書いたが、そもそもそれは「悪」だとかご当人は意識していない。むしろ善意でないにしろ「正義」だと考え、正しい当然のこととしてやっている。しかし、結果としてそれが誰か他者を傷つけたり、貶めたりトラブルの種ともなる。
ピエール瀧が覚醒剤所持とかで逮捕された。まだ容疑者の段階で、真相は定かではないが、マスコミは揃って、悪いことをした犯人、として大騒ぎである。
近くのホームセンターに買い物に出たら、そこの大型テレビに昼過ぎのワイドショーが流れていて、ピエールの親として、かなり高齢の老人が出てきて、息子が世間を騒がして申し訳ない・・・とお詫びしていた。呆れた。
ピエールも50歳を過ぎたいいオヤジなのである。大人も大人ではないか。なのにその男の親、そんな高齢の父親が、息子が事件を起こしたとしても「保護者」として登場させる国があろうか。親にまで取材しカメラを向けるのもどうかと思うが、テレビで顔をさらして謝る親も親である。
あれも大人ですから、彼に訊いてくれ、私は関知していない、と言うのが常識ではないか。人は子をつくり一たびその親となったら死ぬまでその製造責任を取らねばならなぬのか。嫌な国である。そしてメディアを上げて誰もが糾弾叫ぶ嫌な時代だと思う。
ピエールは、直接の面識はないが、友人の古い友人であり、その人柄は昔からよく聞いて何となく親近感を覚えていた。役者としても良い味があって好きな男だ。
むろん彼の容疑が事実だとしたら当然裁かれるべき「犯罪」であり、弁護の余地は全くない。しかし現時点での大騒ぎ、出演番組の中止、見合わせなどで、損害賠償の話まで喧しいのはあまりに拙速でありおかしなことだと思う。「事実」は何も報じられていないではないか。※NHKに至っては、彼が脇でちょこっと出ていたというだけで過去の作品まで配信停止である。
覚醒剤が軽微な犯罪だと言う気はないが、誰か他者を傷つけたり被害を与えたわけではないのだろう。強い罰則は当然だが、まだ何も解明されていない現時点でのSNSをも巻き込んでの大騒動には強い違和感を覚えるのは我だけか。
「一億総白痴化」と、テレビがお茶の間に普及した時代に国民を揶揄した大家壮一の名言があるが、元々は敗戦後の「一億総懺悔」からとっている。陪審制度ができたからではないだろうが、インターネットが普及した今では「一億総裁判官」、だと我は言いたい。
むろん事実を探り真実を追い求めることは誰にとっても重要で必要なことだ。問題は、で、その結果、「人を裁く」として、、何を基準にするかだろう。
自らの「正義」ほどアテにならないものはないと言ったのは、山本夏彦であったか。
そもそも人には他者を裁く権利はあっても「義務」はない。ところが今日、様々な商行為にしろ、フェイスブックなどのSNSの投稿にしろ、「評価付け」という「裁き」の場と機会が満ち溢れている。
そしてその場で、人は自らの「正義」や「常識」を基準として他者の行いに気軽にコメントし、ときに厳しく自らの正義で「裁く」のである。
このところずっと頭の中には、休みの国のうたう「追放のうた」が流れている。
この稿もう一回だけ続く。我が受けた裁きについても記さねばならない。
この数日憂鬱である。いや、憂鬱であった、と書くべきか。
先日の雨の晩、久々に出かけて多くの人と会い楽しいときを過ごしたのだが、何故かその後ものすごく疲れが出て、気力体力失せて消沈してしまっていた。
そうした気鬱しているときに限って、その心の隙に付け入ると言うか、忍び寄るように、予期しない不運なこと、トラブルや事件が起こる。
長く生きて来たから人生とはそうしたものだとわかっていたはずなのに、つい油断していた。
幸い我のそのことは回避できたけれど、疲れ気持ちが落ち込んでいるときこそ、人生にネグレクトしてはならないのだと今改めて誓うところだ。気を張ることはせずとも常に一定の結界、自らを守るバリアのようなものを張っておかないと、我が人生をハメツに導く「悪意」がそっと忍び寄る。
悪意と書いたが、そもそもそれは「悪」だとかご当人は意識していない。むしろ善意でないにしろ「正義」だと考え、正しい当然のこととしてやっている。しかし、結果としてそれが誰か他者を傷つけたり、貶めたりトラブルの種ともなる。
ピエール瀧が覚醒剤所持とかで逮捕された。まだ容疑者の段階で、真相は定かではないが、マスコミは揃って、悪いことをした犯人、として大騒ぎである。
近くのホームセンターに買い物に出たら、そこの大型テレビに昼過ぎのワイドショーが流れていて、ピエールの親として、かなり高齢の老人が出てきて、息子が世間を騒がして申し訳ない・・・とお詫びしていた。呆れた。
ピエールも50歳を過ぎたいいオヤジなのである。大人も大人ではないか。なのにその男の親、そんな高齢の父親が、息子が事件を起こしたとしても「保護者」として登場させる国があろうか。親にまで取材しカメラを向けるのもどうかと思うが、テレビで顔をさらして謝る親も親である。
あれも大人ですから、彼に訊いてくれ、私は関知していない、と言うのが常識ではないか。人は子をつくり一たびその親となったら死ぬまでその製造責任を取らねばならなぬのか。嫌な国である。そしてメディアを上げて誰もが糾弾叫ぶ嫌な時代だと思う。
ピエールは、直接の面識はないが、友人の古い友人であり、その人柄は昔からよく聞いて何となく親近感を覚えていた。役者としても良い味があって好きな男だ。
むろん彼の容疑が事実だとしたら当然裁かれるべき「犯罪」であり、弁護の余地は全くない。しかし現時点での大騒ぎ、出演番組の中止、見合わせなどで、損害賠償の話まで喧しいのはあまりに拙速でありおかしなことだと思う。「事実」は何も報じられていないではないか。※NHKに至っては、彼が脇でちょこっと出ていたというだけで過去の作品まで配信停止である。
覚醒剤が軽微な犯罪だと言う気はないが、誰か他者を傷つけたり被害を与えたわけではないのだろう。強い罰則は当然だが、まだ何も解明されていない現時点でのSNSをも巻き込んでの大騒動には強い違和感を覚えるのは我だけか。
「一億総白痴化」と、テレビがお茶の間に普及した時代に国民を揶揄した大家壮一の名言があるが、元々は敗戦後の「一億総懺悔」からとっている。陪審制度ができたからではないだろうが、インターネットが普及した今では「一億総裁判官」、だと我は言いたい。
むろん事実を探り真実を追い求めることは誰にとっても重要で必要なことだ。問題は、で、その結果、「人を裁く」として、、何を基準にするかだろう。
自らの「正義」ほどアテにならないものはないと言ったのは、山本夏彦であったか。
そもそも人には他者を裁く権利はあっても「義務」はない。ところが今日、様々な商行為にしろ、フェイスブックなどのSNSの投稿にしろ、「評価付け」という「裁き」の場と機会が満ち溢れている。
そしてその場で、人は自らの「正義」や「常識」を基準として他者の行いに気軽にコメントし、ときに厳しく自らの正義で「裁く」のである。
このところずっと頭の中には、休みの国のうたう「追放のうた」が流れている。
この稿もう一回だけ続く。我が受けた裁きについても記さねばならない。
古川豪、東京近辺ライブのお知らせ ― 2019年03月15日 15時32分19秒
★関西フォークの最後の巨人・京都の古川豪さんが今年もまたやってきます!!
我、マス坊が心から敬愛し尊敬しているフォークシンガー、古川豪さんが今年もまた上京され東京中心にコンサートが企画されている。
卓越したバンジョーのテクニックと、深い心に染み入る包み込むような歌声は、彼唯一のもので、フォークソングの師として、常に道に迷い続ける我にとっては、闇夜の灯台のように暖かく存在し続ける有難い人だ。
ぜひまだご存知ない方は、この機会に足を運んでお聞き願いたい。「うた」とは何か、フォークソングとはいかなるものか、人はうたに何を託して生きていくか、全ての答えが彼のステージには存在している。
真に本物の素晴らしいシンガーの歌声をぜひぜひこの機会にご堪能ください。
我、マス坊が心から敬愛し尊敬しているフォークシンガー、古川豪さんが今年もまた上京され東京中心にコンサートが企画されている。
卓越したバンジョーのテクニックと、深い心に染み入る包み込むような歌声は、彼唯一のもので、フォークソングの師として、常に道に迷い続ける我にとっては、闇夜の灯台のように暖かく存在し続ける有難い人だ。
ぜひまだご存知ない方は、この機会に足を運んでお聞き願いたい。「うた」とは何か、フォークソングとはいかなるものか、人はうたに何を託して生きていくか、全ての答えが彼のステージには存在している。
真に本物の素晴らしいシンガーの歌声をぜひぜひこの機会にご堪能ください。
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