誰もが自らの「正義」で他者を裁く時代に2019年03月14日 07時34分09秒

★ピエール瀧のことからあれこれ思う

 この数日憂鬱である。いや、憂鬱であった、と書くべきか。
 先日の雨の晩、久々に出かけて多くの人と会い楽しいときを過ごしたのだが、何故かその後ものすごく疲れが出て、気力体力失せて消沈してしまっていた。
 そうした気鬱しているときに限って、その心の隙に付け入ると言うか、忍び寄るように、予期しない不運なこと、トラブルや事件が起こる。
 長く生きて来たから人生とはそうしたものだとわかっていたはずなのに、つい油断していた。
 幸い我のそのことは回避できたけれど、疲れ気持ちが落ち込んでいるときこそ、人生にネグレクトしてはならないのだと今改めて誓うところだ。気を張ることはせずとも常に一定の結界、自らを守るバリアのようなものを張っておかないと、我が人生をハメツに導く「悪意」がそっと忍び寄る。
 悪意と書いたが、そもそもそれは「悪」だとかご当人は意識していない。むしろ善意でないにしろ「正義」だと考え、正しい当然のこととしてやっている。しかし、結果としてそれが誰か他者を傷つけたり、貶めたりトラブルの種ともなる。

 ピエール瀧が覚醒剤所持とかで逮捕された。まだ容疑者の段階で、真相は定かではないが、マスコミは揃って、悪いことをした犯人、として大騒ぎである。
 近くのホームセンターに買い物に出たら、そこの大型テレビに昼過ぎのワイドショーが流れていて、ピエールの親として、かなり高齢の老人が出てきて、息子が世間を騒がして申し訳ない・・・とお詫びしていた。呆れた。
 ピエールも50歳を過ぎたいいオヤジなのである。大人も大人ではないか。なのにその男の親、そんな高齢の父親が、息子が事件を起こしたとしても「保護者」として登場させる国があろうか。親にまで取材しカメラを向けるのもどうかと思うが、テレビで顔をさらして謝る親も親である。
 あれも大人ですから、彼に訊いてくれ、私は関知していない、と言うのが常識ではないか。人は子をつくり一たびその親となったら死ぬまでその製造責任を取らねばならなぬのか。嫌な国である。そしてメディアを上げて誰もが糾弾叫ぶ嫌な時代だと思う。

 ピエールは、直接の面識はないが、友人の古い友人であり、その人柄は昔からよく聞いて何となく親近感を覚えていた。役者としても良い味があって好きな男だ。
 むろん彼の容疑が事実だとしたら当然裁かれるべき「犯罪」であり、弁護の余地は全くない。しかし現時点での大騒ぎ、出演番組の中止、見合わせなどで、損害賠償の話まで喧しいのはあまりに拙速でありおかしなことだと思う。「事実」は何も報じられていないではないか。※NHKに至っては、彼が脇でちょこっと出ていたというだけで過去の作品まで配信停止である。
 覚醒剤が軽微な犯罪だと言う気はないが、誰か他者を傷つけたり被害を与えたわけではないのだろう。強い罰則は当然だが、まだ何も解明されていない現時点でのSNSをも巻き込んでの大騒動には強い違和感を覚えるのは我だけか。

 「一億総白痴化」と、テレビがお茶の間に普及した時代に国民を揶揄した大家壮一の名言があるが、元々は敗戦後の「一億総懺悔」からとっている。陪審制度ができたからではないだろうが、インターネットが普及した今では「一億総裁判官」、だと我は言いたい。
 むろん事実を探り真実を追い求めることは誰にとっても重要で必要なことだ。問題は、で、その結果、「人を裁く」として、、何を基準にするかだろう。
 自らの「正義」ほどアテにならないものはないと言ったのは、山本夏彦であったか。

 そもそも人には他者を裁く権利はあっても「義務」はない。ところが今日、様々な商行為にしろ、フェイスブックなどのSNSの投稿にしろ、「評価付け」という「裁き」の場と機会が満ち溢れている。
 そしてその場で、人は自らの「正義」や「常識」を基準として他者の行いに気軽にコメントし、ときに厳しく自らの正義で「裁く」のである。
 
 このところずっと頭の中には、休みの国のうたう「追放のうた」が流れている。

 この稿もう一回だけ続く。我が受けた裁きについても記さねばならない。