まずは撮り溜めた画像から ― 2020年11月15日 23時42分44秒
★自分が関わったライブの写真すら上げていない
情けないことにあれこれ忙しいのと体調もすぐれなかったりで、ブログもなかなか更新できないだけでなく、「共謀コンサート」すら終えてもきちんと報告していない。
書きかけのまま放擲してしまった記事も多々あるし、自分では後で書き足してその回は終わりにするつもりでいるが、ともかく時間がなく書けないまままたさらに時間は過ぎていく。
アメリカ大統領選の結果についても書き記したいこと思っている。トランプ退陣で世界の終わりは少しだけ先に延びたか、だ。
その他、このところ亡くなった方々、弘田三枝子や筒美京平たち、個人的に強い思い入れある人たちについてもしかと「追悼」したいと願いつつ、書きたいことは多々あれどそれについて書く時間的余裕がない。
何一つきちんとできないまま時間だけは確実に過ぎて今年も残すは僅かとなった。ひと月半しかないではないか。まったく情けない。
しかし冬が近づき、秋はまた家事あれこれ忙しい。庭先の落葉掃きだって放擲すればご近所さまは目が三角である。また市役所や警察に通報される。
ともあれまずは、デジカメから画像だけはパソコンにやっと取り込めた。きちんと報告できていないのは、今夏の「ぼけまる生前葬」の後半からだが、次いで、9月の回の「共謀コンサート」、そして前回10月の回も画像上げていない。
さらには、豊田勇造のミヤザワさん宅での畳の上での完全生ライブに、先日の砂川秋まつりまでたくさんある。
というわけで、まずは先月27日の勇造ライブ@ミヤザワさん宅の1シーンから。和風古民家、個人宅というなかなかユニークな場での、まさにアットホームなライブであった。
情けないことにあれこれ忙しいのと体調もすぐれなかったりで、ブログもなかなか更新できないだけでなく、「共謀コンサート」すら終えてもきちんと報告していない。
書きかけのまま放擲してしまった記事も多々あるし、自分では後で書き足してその回は終わりにするつもりでいるが、ともかく時間がなく書けないまままたさらに時間は過ぎていく。
アメリカ大統領選の結果についても書き記したいこと思っている。トランプ退陣で世界の終わりは少しだけ先に延びたか、だ。
その他、このところ亡くなった方々、弘田三枝子や筒美京平たち、個人的に強い思い入れある人たちについてもしかと「追悼」したいと願いつつ、書きたいことは多々あれどそれについて書く時間的余裕がない。
何一つきちんとできないまま時間だけは確実に過ぎて今年も残すは僅かとなった。ひと月半しかないではないか。まったく情けない。
しかし冬が近づき、秋はまた家事あれこれ忙しい。庭先の落葉掃きだって放擲すればご近所さまは目が三角である。また市役所や警察に通報される。
ともあれまずは、デジカメから画像だけはパソコンにやっと取り込めた。きちんと報告できていないのは、今夏の「ぼけまる生前葬」の後半からだが、次いで、9月の回の「共謀コンサート」、そして前回10月の回も画像上げていない。
さらには、豊田勇造のミヤザワさん宅での畳の上での完全生ライブに、先日の砂川秋まつりまでたくさんある。
というわけで、まずは先月27日の勇造ライブ@ミヤザワさん宅の1シーンから。和風古民家、個人宅というなかなかユニークな場での、まさにアットホームなライブであった。
コロナ禍(下)時代の世相をうたにしてみた ― 2020年09月17日 23時53分51秒
★二人の恋はアフターコロナ
というわけで、まずは替え歌をいくつか作ってみた。
が、我もフォークシンガーのはしくれ、として(先日、東中野じみへんで太田さんの前座でデビューした)、やはりきちんとオリジナル曲をつくりたいと考えた。
で、ともかくつくってみたのは、コロナ感染拡大下、夜の街で出会った若い男女の切ない恋の物語をうたにしてみた。当然流行りの言葉もいくつか入れて。
題して『二人の恋はアフターコロナ』※完成版 詞/マス坊 曲/太田三造、マス坊
夜の街で 出会った二人
会ったとたんに魅かれ合う
もっと近しい仲になりたい
けれど二人の間にはコロナウィルスがある
もっとそばに近づきたい
吐息がかかるほどに
そしていっしょに甘い夜を
二人で同じ夢を見よう
でもダメね ダメね それはダメ
濃厚接触だから
愛し合いたい でも愛し合えない ソーシャルディスタンス
二人の恋は アフターコロナ
おしゃれなラウンジで二人 見つめ合い
愛のカクテル 交わしたい
夜が更けるまで肩寄せ合いたい
だけどお店は今は時短営業中
もっとそばに近づきたい
吐息がかかるほどに
そしていっしょに甘い夜を
二人で同じ夢を見よう
でもダメね ダメね それはダメ
飛沫感染しちゃうから
会いに行きたい でも会いに行けない ステイホーム
二人の恋は アフターコロナ
二人の恋は アフターコロナ
※曲も詞とほぼ同時にすらすらできた。
我が思い描いたメロディーは、ラテンのリズムのムード歌謡で、ロス・プリモスとか、そういう歌謡グルーブが、女性シンガーも入れて、歌詞も男女交互にデュエット出来るように書いてみた。
いちばん近いイメージとしては、おっさん歌謡バンド『ペーソス』が唄うようなものを思い描いてじっさいそんな感じにできた。
が、ダメですね。リズムもアレンジもコーラスも全て頭の中にはできているのに、自分ではギターでそれをきちんと表現できない。今はやりのDTMの技術をマスターすれば、たぶんある程度は自分のイメージ通りのものを世に示せるとは思うけど、そんな技量はないし、拙いギター1本と我の「うた」では今はとてもそれをカタチにできやしない。
いっそ、寒空はだか師匠のように、ギターも伴奏も一切排して口だけで演ろうかと思ったが、そうなるとフォークシンガーではなく演芸の域になりそうで今もどうしたものか思案中だ。
で、その詞を先達のベテランフォークシンガー太田三造さんに送ったら、さっそく彼が親しみやすく明るいメロディーをつけてすぐさま唄ってくれた。なかなかいい曲だと一聴してすぐ思った。
そして、同時に『受験生ブルース』を当初の暗いメロディーから、高石友也氏によって明るいメロディに作り替えられた中川五郎少年の気持ちはこんな感じかも、とも思った。
さておき、せっかくできた曲だ。できればこれからもコロナが収束したとしても機会あらば彼と共に唄っていきたいと思ってる。そして願わくば、我は我の作ったメロディーの版も、きちんとムード歌謡としてペーソスのようにシミジミと切なく唄ってみたいと今も願う。
何であれ、そもそも思い通りに作れないことより、思い通りに作れて既に頭に思い描いていることが、きちんとカタチにできないこと、自分では表現できないことこそ真に辛いと今回も今さらながら思い至った。
そう、我の作ったうたは、京都の詩人・有馬敲氏の詩に曲を付けた『広島のクスノキ』もそうだが、常に誰からも皮肉交じりによく言われるのは、複雑かつ難しすぎるのである。情けないことに作った当人ですら上手く歌えなかったりきちんと演奏できないのだ。
じっさい頭の中ではどの曲もフルオーケストラの伴奏で、あたかも筒美京平のかつてのアイドル歌謡のごとく女性コーラスまでアレンジできている。が、それは頭の中だけのことで、小中の音楽授業の劣等生だった我は譜面すら読めず書けないのである。
今さらだが、がんばって受験勉強して、どこそこの音大に入って基礎から音楽教育を学び直すか。
いや、冗談抜きで、もう少し今の状況と事情が一段落したら、近くのピアノ教室に通い、まずは譜面が読めるようになりたいと思ってる。でないと、かんたなスコアさえ他のミュージシャンに示せない。言葉では、ここをこうして云々と他者に伝えられないのだから。
そう、音楽は文字にできないものだ。文章ならばいくらでも思い通りに拙くともカタチにできるのに。
★お断り―――
ここで載せた歌詞は、マスダバージョンのもので、太田三造が唄う、彼がつけたメロディのものは歌詞がビミョーに異なります。
ちなみにそれは次回9/26の共謀コンサートでコーラスも含めた完成版として唄う予定ですので、「配信」できたらぜひお聴きください。名曲です。また、このうたは誰でも唄ってかまいません。ただし作詞作曲の権利、全責任は当方にあります。
というわけで、まずは替え歌をいくつか作ってみた。
が、我もフォークシンガーのはしくれ、として(先日、東中野じみへんで太田さんの前座でデビューした)、やはりきちんとオリジナル曲をつくりたいと考えた。
で、ともかくつくってみたのは、コロナ感染拡大下、夜の街で出会った若い男女の切ない恋の物語をうたにしてみた。当然流行りの言葉もいくつか入れて。
題して『二人の恋はアフターコロナ』※完成版 詞/マス坊 曲/太田三造、マス坊
夜の街で 出会った二人
会ったとたんに魅かれ合う
もっと近しい仲になりたい
けれど二人の間にはコロナウィルスがある
もっとそばに近づきたい
吐息がかかるほどに
そしていっしょに甘い夜を
二人で同じ夢を見よう
でもダメね ダメね それはダメ
濃厚接触だから
愛し合いたい でも愛し合えない ソーシャルディスタンス
二人の恋は アフターコロナ
おしゃれなラウンジで二人 見つめ合い
愛のカクテル 交わしたい
夜が更けるまで肩寄せ合いたい
だけどお店は今は時短営業中
もっとそばに近づきたい
吐息がかかるほどに
そしていっしょに甘い夜を
二人で同じ夢を見よう
でもダメね ダメね それはダメ
飛沫感染しちゃうから
会いに行きたい でも会いに行けない ステイホーム
二人の恋は アフターコロナ
二人の恋は アフターコロナ
※曲も詞とほぼ同時にすらすらできた。
我が思い描いたメロディーは、ラテンのリズムのムード歌謡で、ロス・プリモスとか、そういう歌謡グルーブが、女性シンガーも入れて、歌詞も男女交互にデュエット出来るように書いてみた。
いちばん近いイメージとしては、おっさん歌謡バンド『ペーソス』が唄うようなものを思い描いてじっさいそんな感じにできた。
が、ダメですね。リズムもアレンジもコーラスも全て頭の中にはできているのに、自分ではギターでそれをきちんと表現できない。今はやりのDTMの技術をマスターすれば、たぶんある程度は自分のイメージ通りのものを世に示せるとは思うけど、そんな技量はないし、拙いギター1本と我の「うた」では今はとてもそれをカタチにできやしない。
いっそ、寒空はだか師匠のように、ギターも伴奏も一切排して口だけで演ろうかと思ったが、そうなるとフォークシンガーではなく演芸の域になりそうで今もどうしたものか思案中だ。
で、その詞を先達のベテランフォークシンガー太田三造さんに送ったら、さっそく彼が親しみやすく明るいメロディーをつけてすぐさま唄ってくれた。なかなかいい曲だと一聴してすぐ思った。
そして、同時に『受験生ブルース』を当初の暗いメロディーから、高石友也氏によって明るいメロディに作り替えられた中川五郎少年の気持ちはこんな感じかも、とも思った。
さておき、せっかくできた曲だ。できればこれからもコロナが収束したとしても機会あらば彼と共に唄っていきたいと思ってる。そして願わくば、我は我の作ったメロディーの版も、きちんとムード歌謡としてペーソスのようにシミジミと切なく唄ってみたいと今も願う。
何であれ、そもそも思い通りに作れないことより、思い通りに作れて既に頭に思い描いていることが、きちんとカタチにできないこと、自分では表現できないことこそ真に辛いと今回も今さらながら思い至った。
そう、我の作ったうたは、京都の詩人・有馬敲氏の詩に曲を付けた『広島のクスノキ』もそうだが、常に誰からも皮肉交じりによく言われるのは、複雑かつ難しすぎるのである。情けないことに作った当人ですら上手く歌えなかったりきちんと演奏できないのだ。
じっさい頭の中ではどの曲もフルオーケストラの伴奏で、あたかも筒美京平のかつてのアイドル歌謡のごとく女性コーラスまでアレンジできている。が、それは頭の中だけのことで、小中の音楽授業の劣等生だった我は譜面すら読めず書けないのである。
今さらだが、がんばって受験勉強して、どこそこの音大に入って基礎から音楽教育を学び直すか。
いや、冗談抜きで、もう少し今の状況と事情が一段落したら、近くのピアノ教室に通い、まずは譜面が読めるようになりたいと思ってる。でないと、かんたなスコアさえ他のミュージシャンに示せない。言葉では、ここをこうして云々と他者に伝えられないのだから。
そう、音楽は文字にできないものだ。文章ならばいくらでも思い通りに拙くともカタチにできるのに。
★お断り―――
ここで載せた歌詞は、マスダバージョンのもので、太田三造が唄う、彼がつけたメロディのものは歌詞がビミョーに異なります。
ちなみにそれは次回9/26の共謀コンサートでコーラスも含めた完成版として唄う予定ですので、「配信」できたらぜひお聴きください。名曲です。また、このうたは誰でも唄ってかまいません。ただし作詞作曲の権利、全責任は当方にあります。
コンサートを終えて ― 2020年08月30日 23時55分31秒
★追記:
実は、この日、とてつもなく有難いことがあった。かけこみ亭と我らが「共謀コンサート」に対して、有志の方から支援・応援のために多額のカンパが届いたのだ。
その方、Tさんは、かなり古くからのフォークソングファンの方で、これまでも我の企画したライブイベントに来られ、それ以外でも度々あちこちでよくお見かけする紳士なのだが、今このコロナ感染騒動下、かけこみ亭が始めた生配信に関連して「お布施」を募っていたところ、先日その方から振り込みがあったと知らされた。
その額、何と 5万円!! お店側にもその倍の額が届いたとのこと。驚きと共にただただ有難く思う。
実のところコロナ騒動が起こる前でも、投げ銭制のライブコンサートは、観客は決して多いわけでもなかったし、来られた方々から頂くその額は、出演者の数に対し残念ながら潤沢なものではなかった。
で、仕方なくというか、最低限の「お車代」としてときに我が「補填」したことも多々あった。しかし、それは企画した者として当然の責務だと考えていたし、その素晴らしいうたや演奏に対しての「対価」は付与されなくてはならないはずだ。そして残念ながらこの企画じたい、ショービジネスで全くないが故、未だ本来あるべくその額は払えずにいることが心苦しかった。
そう、「共謀」するにしろ、それで飯を食っているミュージシャンは手弁当では行き詰ってしまうではないか。
さらにそこに、今回のコロナ禍が起こってしまい、先月から原則無観客で「再開」し始めたわけだが、コンサートの模様を「生配信」するとしても全くの無観客では、投げ銭すらあり得ない。その配信を観られた方からの「お布施」を募るとして、あったとしてもその額は大したものではないと思い込んでいた。
共謀コンサートは、月刊で開催するのだから、年内残り4回予定されている。観客人数制限などコロナ自粛がいつまで続くかも定かでない現状、どうやって続けていくか、運営に正直頭を悩ましていた。ほんとうの「交通費」の実費だけでミュージシャンに声かけることに躊躇いもあった。
が、今回突然の、まさにサプライズのカンパが届き、やっと先行きの目途がついた。むろんこれで残る4回分開催の資金に足るわけではない。
が、原資として、その支援の「思い」だけで我には十分すぎるものがあった。よし、頑張ろう!!頑張れると新たなパワーがふつふつ湧いて来た。
そう、お金とはそもそも「額」ではなく、その思いの具現化なのだ。昨日のたった一人の観客からも有難くもかなりの「投げ銭」を頂いた。
一夜明けて、今、そうしてただただ有難い、という申し訳ないような気持ちと、それ応えるべく今後についてひそかに奮起するところが大きい。
明日から9月。いつまでも過酷な残暑が続くが、月も変われば季節も変わろう。極悪最凶最長安倍政権もついに終わりのときが来た。
年内今年も残すは4カ月。しっかり成果を出していく。我の思いもカタチにしていきたい。
それはできる、それはかなう、と信じて。
※追記の追記。
「共謀コンサート」に関してはその他に、これまでも支援として千葉県の農場から生卵を大量に、箱で二回頂いている。
一回目のときは、コンサートとタイミングが合わず、お店の常連客の方々の口にほぼ入ってしまったのだが、二回目のときは、4月の詩人の回のとき、ちょうどだったので、出演者・参加者皆でそれぞれ小分けして持ち帰れた。これも嬉しい有難いことであった。御礼の報告が遅れて申しわけありません。
今さらだが、そのこともこの場に付記しておく。
実は、この日、とてつもなく有難いことがあった。かけこみ亭と我らが「共謀コンサート」に対して、有志の方から支援・応援のために多額のカンパが届いたのだ。
その方、Tさんは、かなり古くからのフォークソングファンの方で、これまでも我の企画したライブイベントに来られ、それ以外でも度々あちこちでよくお見かけする紳士なのだが、今このコロナ感染騒動下、かけこみ亭が始めた生配信に関連して「お布施」を募っていたところ、先日その方から振り込みがあったと知らされた。
その額、何と 5万円!! お店側にもその倍の額が届いたとのこと。驚きと共にただただ有難く思う。
実のところコロナ騒動が起こる前でも、投げ銭制のライブコンサートは、観客は決して多いわけでもなかったし、来られた方々から頂くその額は、出演者の数に対し残念ながら潤沢なものではなかった。
で、仕方なくというか、最低限の「お車代」としてときに我が「補填」したことも多々あった。しかし、それは企画した者として当然の責務だと考えていたし、その素晴らしいうたや演奏に対しての「対価」は付与されなくてはならないはずだ。そして残念ながらこの企画じたい、ショービジネスで全くないが故、未だ本来あるべくその額は払えずにいることが心苦しかった。
そう、「共謀」するにしろ、それで飯を食っているミュージシャンは手弁当では行き詰ってしまうではないか。
さらにそこに、今回のコロナ禍が起こってしまい、先月から原則無観客で「再開」し始めたわけだが、コンサートの模様を「生配信」するとしても全くの無観客では、投げ銭すらあり得ない。その配信を観られた方からの「お布施」を募るとして、あったとしてもその額は大したものではないと思い込んでいた。
共謀コンサートは、月刊で開催するのだから、年内残り4回予定されている。観客人数制限などコロナ自粛がいつまで続くかも定かでない現状、どうやって続けていくか、運営に正直頭を悩ましていた。ほんとうの「交通費」の実費だけでミュージシャンに声かけることに躊躇いもあった。
が、今回突然の、まさにサプライズのカンパが届き、やっと先行きの目途がついた。むろんこれで残る4回分開催の資金に足るわけではない。
が、原資として、その支援の「思い」だけで我には十分すぎるものがあった。よし、頑張ろう!!頑張れると新たなパワーがふつふつ湧いて来た。
そう、お金とはそもそも「額」ではなく、その思いの具現化なのだ。昨日のたった一人の観客からも有難くもかなりの「投げ銭」を頂いた。
一夜明けて、今、そうしてただただ有難い、という申し訳ないような気持ちと、それ応えるべく今後についてひそかに奮起するところが大きい。
明日から9月。いつまでも過酷な残暑が続くが、月も変われば季節も変わろう。極悪最凶最長安倍政権もついに終わりのときが来た。
年内今年も残すは4カ月。しっかり成果を出していく。我の思いもカタチにしていきたい。
それはできる、それはかなう、と信じて。
※追記の追記。
「共謀コンサート」に関してはその他に、これまでも支援として千葉県の農場から生卵を大量に、箱で二回頂いている。
一回目のときは、コンサートとタイミングが合わず、お店の常連客の方々の口にほぼ入ってしまったのだが、二回目のときは、4月の詩人の回のとき、ちょうどだったので、出演者・参加者皆でそれぞれ小分けして持ち帰れた。これも嬉しい有難いことであった。御礼の報告が遅れて申しわけありません。
今さらだが、そのこともこの場に付記しておく。
本日の「共謀コンサート」私的大成功・大満足に ― 2020年08月30日 23時11分59秒
★「月刊共謀コンサート」8月号、本日コロナ禍続く中無事終了す。
本日の谷保かけこみ亭の「月刊・共謀コンサート」、前回に引き続きほぼ無観客だったものの、企画側としては久々に満足のいく、手応えのある出来に終えれた。いま、心から久々の満足感にひたっている。ただただ有難いという思いだ。
というのも一名だけだけれど、事前に問い合わせのあった観覧希望者が来られて、出演陣のほうがはるかに人数は大いに関わらず、その方を前にして、「コンサート」がやっと成り立ったからだ。
彼がかねてよりよく見知った顔なじみの人であろうと、仲間内、身内でない「お客」がそこにいるという有難さを今回はっきりと認識できた。
コンサートというものは、たった一人でもいい、そこに「お客」、つまり我らこちら側、つまり「主観」ではない、まさに「客観」がいるかどうかが肝要なのだと、今回改めてはっきりとわかった。
それはこのコロナ禍のライブ配信状況だって同じことであり、どこかで誰かが、顔は見えない誰かが見ている、観てくれている、という意識も意味ある有難いことだとは思うが、有り難きは、まさにその「百人」よりも一人の、そこにいる「生の」客だ、とは言ったもので、今回その「彼」がそこにいてくれて、我はやっと自分を取り戻せたと思う。ようやく気持ちが戻った。
たぶんそれは出られた方々も同様で、多かれ少なかれその思いを抱いたに違いない。オンラインではなく、そこに間違いなく誰かがいる、という「存在」の重さ、確かさを。
オンライン配信とかリモート何タラというバーチャルな繋がりもこの時代まさに有難く、極めて便利なことだと思うものの、やる側としてはじっさい観客が眼前にいないと何とも拍子抜けというか、反応が即つかめず「実感」がわかないというのが正直な気持ちだと思う
我は演者ではないが、企画・進行側として、何よりその場の雰囲気、
反応を常に確かめつつ、場を進めてきた。ステージ上や楽屋からだが、観客はいまどう感じているか、その「顔色」をまさに常に伺ってきたのだ。
前回もコロナ感染拡大防止中ということもあり、無観客名目で何とか開催は出来たものの、誰ひとり「客」を入れず、いや、来る人もなく、ミュージシャン側と撮影スタッフ側だけでことを成し終えたのだが、何とも終わって筆舌に尽くし難いもやもや感が残った。※そのことも拙ブログで先に書いた。
このコロナ騒動下、無観客でとなると、そもそも当然ギャランティも発生しようもなく、我が出演お願いに旧知のシンガーに声かけてもなかなか快諾は得られない。結局ごく親しい友人的関係にあるミュージシャンに頼るしかなく、今月も前回とさほど顔ぶれは違わないのだが、それでも今回ははるかに出来も手応えも大きかった。久々に満足感があった。
何故ならそれもこれもやっとどうにかお客さんが1人でもそこにいてくれて「コンサート」が成り立ったからで、そのことがとてつもなく大きい。今やっと気づいたが、我は常にその観客と演者、そして場とのリアルなキリスト教で言うところの「三位一体」を求めていたのだと。
オンライン、リアルタイムで、観てくれている人がいたとしても、我々はそれを即その場で実感、体感できないのならば、それはやはり喪失感でしかなく、三位一体は成り立たない。
いかにそこで素晴らしいライブ演奏、そのステージが行われようと、リアルな場、つまりそこに「観客」そのものが存在しなければ、真にライブとして完成は成り立たない。
ライブとはまさにその場の「レスポンス」そのものであり、その「返答」、つまり良くも悪くも反応が即返らない限り、それはライブコンサートとして不完全かつ、あるべき正しい姿ではないと断言する。
どれほどオンラインで、生のライブ配信が成功し観客がいようと、それはそもそもコンサートとは呼べない。場を同時に共有しない限り、ライブでは絶対ない。
前回も決して悪い出来ではなかったと我は甘くも思うものの、何ともすっきりしないものがいつまでも残った。そしてそれで本当に体調もおかしくなってしまった。
理由も原因もわからず、もやもや感だけがずっと残った。
そし今回、ほぼ同様のメンバーでほぼ無観客のコンサートを終えて、心ははるかに前回より燃えている。それはたった一人でもそこに観客がいてくれたからだ。そしてそのことですべてがはっきりした。
このコロナ禍状況下、「新しい生活様式」というスローガンのまやかし、うさん臭さも含め、リモートとかオンライン、そうした代替の手段では実は何もほんとうに解決していないことも。
我ら生きている人間が真に求めていることは、生の、ほんとうのそこにある顔、そこに見える、今在る関係なのだと。
このコロナによる世界的「分断の時代」、だからこそ今一度、真に友愛と連帯を求めて、生の、リアルなアクションをこれから動かしていく。そのしかけをしていく。
我はバカで真にダメな非力な存在だが、生きているうちに何を成すべきか今ようやくはっきりわかった。そう、そこにいる眼前の相手に、いかに誠実に向き合えるか、だったのだ。その関係こそが全てだったのだ。
自分には荷が重い、そもそも大それたことだと思う。しかしやっとわかった。ようやく見えてきた。もう目はつぶらない。見て見ぬふりはしない。
自分の役割を、生きているうちにとことん果たしていく。どうせもうすぐ死ぬ。
こんなことは有難くもたった一人の観客が、そこにいてくれたからだ。世界はその一人の些細な動きから始まるのだ。
そう、アメリカの公民権運動が、一人の黒人女性の勇気ある行動から始まったように。
そして我は日本人・大阪なおみ選手を心から支持したい。
人の価値は肌の色や国籍ではない。人は、その自分のあるがままの姿に対して、いかにとことん誠実に向き合えるかなのだ、と。当たり前のことが当たり前だと公言でき、認められる、認め合う社会こそが真に誰もが幸せになれる社会なのだ。そうした当たり前のアクションこそが世界を根本から変える動きになっていく。それは誰も批判できない。
本日の谷保かけこみ亭の「月刊・共謀コンサート」、前回に引き続きほぼ無観客だったものの、企画側としては久々に満足のいく、手応えのある出来に終えれた。いま、心から久々の満足感にひたっている。ただただ有難いという思いだ。
というのも一名だけだけれど、事前に問い合わせのあった観覧希望者が来られて、出演陣のほうがはるかに人数は大いに関わらず、その方を前にして、「コンサート」がやっと成り立ったからだ。
彼がかねてよりよく見知った顔なじみの人であろうと、仲間内、身内でない「お客」がそこにいるという有難さを今回はっきりと認識できた。
コンサートというものは、たった一人でもいい、そこに「お客」、つまり我らこちら側、つまり「主観」ではない、まさに「客観」がいるかどうかが肝要なのだと、今回改めてはっきりとわかった。
それはこのコロナ禍のライブ配信状況だって同じことであり、どこかで誰かが、顔は見えない誰かが見ている、観てくれている、という意識も意味ある有難いことだとは思うが、有り難きは、まさにその「百人」よりも一人の、そこにいる「生の」客だ、とは言ったもので、今回その「彼」がそこにいてくれて、我はやっと自分を取り戻せたと思う。ようやく気持ちが戻った。
たぶんそれは出られた方々も同様で、多かれ少なかれその思いを抱いたに違いない。オンラインではなく、そこに間違いなく誰かがいる、という「存在」の重さ、確かさを。
オンライン配信とかリモート何タラというバーチャルな繋がりもこの時代まさに有難く、極めて便利なことだと思うものの、やる側としてはじっさい観客が眼前にいないと何とも拍子抜けというか、反応が即つかめず「実感」がわかないというのが正直な気持ちだと思う
我は演者ではないが、企画・進行側として、何よりその場の雰囲気、
反応を常に確かめつつ、場を進めてきた。ステージ上や楽屋からだが、観客はいまどう感じているか、その「顔色」をまさに常に伺ってきたのだ。
前回もコロナ感染拡大防止中ということもあり、無観客名目で何とか開催は出来たものの、誰ひとり「客」を入れず、いや、来る人もなく、ミュージシャン側と撮影スタッフ側だけでことを成し終えたのだが、何とも終わって筆舌に尽くし難いもやもや感が残った。※そのことも拙ブログで先に書いた。
このコロナ騒動下、無観客でとなると、そもそも当然ギャランティも発生しようもなく、我が出演お願いに旧知のシンガーに声かけてもなかなか快諾は得られない。結局ごく親しい友人的関係にあるミュージシャンに頼るしかなく、今月も前回とさほど顔ぶれは違わないのだが、それでも今回ははるかに出来も手応えも大きかった。久々に満足感があった。
何故ならそれもこれもやっとどうにかお客さんが1人でもそこにいてくれて「コンサート」が成り立ったからで、そのことがとてつもなく大きい。今やっと気づいたが、我は常にその観客と演者、そして場とのリアルなキリスト教で言うところの「三位一体」を求めていたのだと。
オンライン、リアルタイムで、観てくれている人がいたとしても、我々はそれを即その場で実感、体感できないのならば、それはやはり喪失感でしかなく、三位一体は成り立たない。
いかにそこで素晴らしいライブ演奏、そのステージが行われようと、リアルな場、つまりそこに「観客」そのものが存在しなければ、真にライブとして完成は成り立たない。
ライブとはまさにその場の「レスポンス」そのものであり、その「返答」、つまり良くも悪くも反応が即返らない限り、それはライブコンサートとして不完全かつ、あるべき正しい姿ではないと断言する。
どれほどオンラインで、生のライブ配信が成功し観客がいようと、それはそもそもコンサートとは呼べない。場を同時に共有しない限り、ライブでは絶対ない。
前回も決して悪い出来ではなかったと我は甘くも思うものの、何ともすっきりしないものがいつまでも残った。そしてそれで本当に体調もおかしくなってしまった。
理由も原因もわからず、もやもや感だけがずっと残った。
そし今回、ほぼ同様のメンバーでほぼ無観客のコンサートを終えて、心ははるかに前回より燃えている。それはたった一人でもそこに観客がいてくれたからだ。そしてそのことですべてがはっきりした。
このコロナ禍状況下、「新しい生活様式」というスローガンのまやかし、うさん臭さも含め、リモートとかオンライン、そうした代替の手段では実は何もほんとうに解決していないことも。
我ら生きている人間が真に求めていることは、生の、ほんとうのそこにある顔、そこに見える、今在る関係なのだと。
このコロナによる世界的「分断の時代」、だからこそ今一度、真に友愛と連帯を求めて、生の、リアルなアクションをこれから動かしていく。そのしかけをしていく。
我はバカで真にダメな非力な存在だが、生きているうちに何を成すべきか今ようやくはっきりわかった。そう、そこにいる眼前の相手に、いかに誠実に向き合えるか、だったのだ。その関係こそが全てだったのだ。
自分には荷が重い、そもそも大それたことだと思う。しかしやっとわかった。ようやく見えてきた。もう目はつぶらない。見て見ぬふりはしない。
自分の役割を、生きているうちにとことん果たしていく。どうせもうすぐ死ぬ。
こんなことは有難くもたった一人の観客が、そこにいてくれたからだ。世界はその一人の些細な動きから始まるのだ。
そう、アメリカの公民権運動が、一人の黒人女性の勇気ある行動から始まったように。
そして我は日本人・大阪なおみ選手を心から支持したい。
人の価値は肌の色や国籍ではない。人は、その自分のあるがままの姿に対して、いかにとことん誠実に向き合えるかなのだ、と。当たり前のことが当たり前だと公言でき、認められる、認め合う社会こそが真に誰もが幸せになれる社会なのだ。そうした当たり前のアクションこそが世界を根本から変える動きになっていく。それは誰も批判できない。
ぼけまる生前葬を画像で・16 ― 2020年08月14日 09時59分37秒
ぼけまる生前葬を画像で・14 ― 2020年08月14日 09時57分55秒
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