ぼけまる生前葬を画像で・52020年08月10日 06時35分46秒

★店の常連客代表が弔辞を述べて

ぼけまる生前葬を画像で・42020年08月10日 06時33分31秒

★さまよえる亡者に驚くネズミたち

ぼけまる生前葬を画像で・12020年08月10日 06時14分33秒

お二方、お疲れさまでした!!
★かけこみ亭に住むネズミ二匹。祖母とくいしんぼうの孫。

ぼけまるの「生前葬」を終えて2020年08月09日 23時34分09秒

2020/8/9 ぼけまるの生前葬 葬儀写真画
★コロナ禍中、最高最良のイベントに、「生」で参加・体験できた喜び~生きているって素晴らしい!!

 谷保かけこみ亭のぼけまる氏の「生前葬」に行ってきた。いまもコーフン冷めやらぬ気持ちでこれを記す。
 このコロナ感染蔓延中、果たして開催できるかと危ぶまれたが、国立市民芸術小ホール・地下スタジオにて、昨日8/9日、彼の72歳の誕生日に合わせて無事大盛況のうちに終えられた。※むろん三密を避けるため客席数を半減させ万全の感染対策の上で。その報告をしていきたい。

 当日の様子は、かけこみ亭のHPから開演から終わりまでライブ配信されていて、またこれからも観覧できるようだから、ネットを通した「見た」方は多いかと思う。状況はそれで確認、知ることはできる。
 ただ、当日その場で、リアルに生で観た者として、その不安と感動、そして喜びはきちんと記しておかねばと思う。やはり「その場」にいた者の感想は、現場で生で楽しみ、体感した者だけ独自のものだろう。

 我にとって生涯心に残る素晴らしいコンサート、いや、イベントとなった。当初の予想よりはるかに素晴らしく大いに感心、感動させられた。
 我も含め誰もが老境に入って来て、友人知人の訃報が相継ぐ昨今、、ほけまる曰く、「葬式でしか会えないのはいやだ!!」、しかも死んでしまっては本人は葬式に来た人に何も言えないし何もできない、のだからと『72th Bithday Event!~ぼけまるのコンサート(その22)生前葬大会』として、当人は唄わず棺桶に入って彼の楽曲を参列者たちが唄う「コンサート」として当初は企画されていた。

 だから、我も毎度の彼が企画する音楽イベントだと思い、ある程度予測・想定し臨んだ。が、実際は全く違った。予想はいい意味で裏切られた。真に驚かされた。
 一言で言えば彼の葬式を題材にした唄と笑いと感動の「演芸バラエティショー」であった。そしてそれはとても良くできていた。ほんとうに感心させられた。まるで吉本の公演である。きちんとした舞台監督もいないと思うのに、全てがうまく進み、台本もよく練られていた。大いに楽しめた。

 葬儀の喪主、司会進行役として友人代表・館野公一が「葬儀」を進めるのだが、じっさいは、かけこみ亭の屋根裏に住む二匹のネズミが、狂言回しとして転換時に何度も登場しショートコントで場を動かしていく。  その合間に、縁のシンガーや友人たちが次々手際よくうたや思い出を語り、弔電だけでなく、今回参加できなかったミュージシャンたちからもサプライズで「リモート」でのメッセージが届く。そして最後は、全員で「死んでいない音頭」を踊ってぼけまる氏の今後の健勝とかけこみ亭の繁栄を祈り願った。

 午後1時過ぎから始まり休憩を挟んで5時半頃までの約4時間、我は涙が出るほど笑い大いに楽しめた。感動した。繰り返しになるが非常によくできた「演芸バラエティショー」であった。かけこみ亭という場に集った人たちの思いと力が結集した、奇跡の最良最高のイベントとなった。
 当日その場に、生で観客として立ち会った者として順次画像で流れを報告していきたい。
 ※登場した方々の了解はとっていないが、当日は「生配信」もしていたので、基本問題はないものと考え掲載していく。が、氏名・肩書、我からのコメントは極力付けないことにしていく。

 まずは、当日の祭壇から。これもすごく巧く描けていて感心した。まあ、じっさいのぼけまる本人はもっと「毒」のある人だが、葬儀写真としてはこれでいいのである。手前の花檀、線香立ても素晴らしく描かれている。手前の棺桶に、ぼけまる氏は眠っていることになっている。

リモートでの「コンサート」を終えて思う・追記2020年07月29日 22時16分20秒

★顔が見える関係を今だからこそ築いていきたい

 ケータイやスマホが物心ついた頃から身近にあり、日常生活の必需品である今の若い人たちは当たり前だと思うだろうが、我のような旧い世代の者には、誰もがごく簡単にスマホ一つで文字や文章だけでなく画像や映像、音楽までも素人でもごくカンタンに世に発信できる時代が来るなんてまさに夢のように思える。
 昔はチラシや文集などの印刷ですら、自分でやるとしたらごく簡単にでもガリ版刷りや「プリントごっこ」でいろいろ下準備して一枚づつ手作業で刷っていくしかなかった。
 写真だってカメラは 広く一般大衆に普及したものの高級趣味として自宅に暗室つくって自ら現像、焼き付けいる人もいたけれど、フツーは街の写真屋やプリントショップという専門店に持ち込んで焼いてもらうしかなかった。
 映像などはまたさらに金のかかる趣味であり、自分の子どもの成長を動画で記録。保存したいとしたら、フジカなどの8ミリカメラでの1本僅か3分という方式しか手はなかった。
 音楽に至っては、カセットテープの普及により、誰もがラジカセやカセットデッキなどで宅録もできるようになったが、友人や恋人に配布はともかく、それを世に発表する方法は、各種オーデション、コンテストのようなものや関係者にそのカセットを直接送ってまず聴いてもらうしかなかった。
 何にせよ 自らでするとしたらどれもが非常に手間と時間、そして金もがかかり、またそのための作業は楽しくもあったが、誰もがすぐできる簡便なことでは絶対なかった。
 我も十代の頃、ガリ版での様々な文芸同人誌的なものや軽オフでのミニコミ誌、プリントゴッコでの漫画同人誌などあれこれ各種出した懐かしき思い出がある。
 また拙い自分のフォークソングも、テレコに録音して友人に配ったものだ。

 それが今日では、スマホ一つあれば、事故や火災などの現場の映像も個人でカンタンに撮影してそのまますぐさまネットにアップすることもできるし、文章も長い小説のようなものでも自らサイトを作って配信することも可能だし、音楽でさえ映像付きで、コンサートそのものを世界中に生配信できるのである。それもプロや専門家でなく誰でも素人がだ。
 昔なら世間にそれを発表するのに時間だけでなくひと手間もふた手間も、さらにはお金もかけなくてはできなかったことが、今ではスマホやパソコンなどネット環境にあれば誰でも即時世界中に発信できるのだ。
 まさに今は、昔の、隔世の感がわいてくる。ものすごく便利で簡便である。しかし、ではそれで人と人はより繋がったのか、人との関係は深まったのか。

 スマホとさまざまなSNSアプリの普及で、まったくの素人でもときには誰でもユーチューバ―やブロガーとして世の注目を集めるようになった。数々の人気者や話題になる人たちも登場している。有名タレントや芸能人でなくてもフォロワーなる人たちを何百人、何千人も抱えている人もいるようだ。これも実に21世紀的な現象だと感嘆感心してしまう。
 そうした事象についても思うところ多々あるが、話を戻して、コンサートの生配信についてである。
 今回は、フェイスブックの機能を使って無観客コンサートの途中から「生配信」をお願いしたのだが、こうした「リモートでの「観客」は、やはり観客とは言えないのではないか。
 YouTubeもだが、コンサートの映像などをこうして配信をすれば、そのコンサートに来れなかった人や関心がなかった人、こちらを知らなかった人たちにも見て、知ってもらえる。それはとても良いことで大きな意味と宣伝効果もある。
 が、同時配信で、見ながらすぐさま感想を映像上に書き込んでくれたとしても、観客は観客だとしてもやはりそれはただ「見た」のであって、その場に来て、じっさいの観客として体験してくれたのとはやはり根本的に異なる。
 何故なら我々、ステージ側からは、その「顔」が見えないからで、向き合う顔が見えて、良くも悪くも「反応」がその場ですぐ確認できてこそ「観客」であり、それがコンサートなのだと気がつく。
 よってやはり残念だが、リモートで「見る」ことと、じっさいの「観覧」、つまり「体験」とはまったく別なものだと言うしかない。むろん「見て」「知って」もらうこともちっとも悪いことではないしそこにも大きな意義と価値があろう。
 が・・・

 いつの頃か、YouTubeなどにプロの有名ミュージシャンでなくても、アマプロ問わず、様々な映像がアップされるようになって、我も時おり調べ者的に覗いてみることがある。
 内外問わず貴重なものや昔の懐かしいものなどまさに映像の宝庫であり、しかもタダで観覧できるとあれば、これは素晴らしいライフラリーである。
 そしてミュージシャンやシンガー自らがその音楽映像をアップしてることもあるが、ファンや関係者が撮ったライブのものも多く、画像の質も様々であることに気づく。
 巷では、グーグルで検索するがごとくに、YouTubeでよく知らないシンガーや楽曲を確認する人も多いかと思われる。じっさい、音楽好き仲間が集まってとあるシンガーの話題になったときなど、すぐさまスマホ取り出してYouTubeからそのシンガーのライブ映像を探し出し、その場で見せてくれたこともある。特に我が知らなかったシンガーの場合は。
 だが、我は基本的に、まだ生で見たことのない未知のシンガーやミュージシャンについてはその映像を見ないようにしている。
 というのは、じっさいのライブで観るのとYouTubeなどに上がったものとは出来が大きく違うことが多いからだ。画質も音質も違うだけでなく、その場の状況、雰囲気がわからないから、その「切り取られた」一部分だけで判断して、この人はこういう感じの人だ、と即断、決めつけてしまうのは大いに危険かつ誤りではないかと考えるからだ。

 我は、若い頃から人の話はろくに聞かず、それは友達が好きなかったからでもあるが、ともかく独断専行、自分勝手に自分のルールで生きてきた。それは、自分の目と耳で見たこと、聴いたこと以外は信じないということだ。
 そう、何であれ、体験してみないことには実際、ほんとうのことはわからない。特にそれは芸術こそ顕著で、何でもオリジナルかそれにできるだけ近いものに直接ふれるにこしたことはない。
 中でも音楽こそ、生の歌声、そのステージを観て評価、判断すべきはずのものであろう。YouTubeであれ、画質も音も悪い映像を見て、それでこんな感じのシンガーかと即断してしまうのは実に非礼なことだ。
 そしてそれはニンゲン関係もまた同様のはずで、我は百人の「顔の見えない」フォロワーよりも一人のそこにいる実際の「観客」が嬉しいし有難い。
 いや、これは音楽に関係する人は皆そう思っているはずだ。コンサートの告知に対して、100のいいね!よりも、一人の生の観客こそが有難いと。

 このコロナ感染拡大最中、人と人とが直に出会い集える場はきわめて難しい。しかし、だからこそ我は、これからも顔の見える関係をもう一度築けるよう、できるかぎりのことを模索していきたい。

再開「共謀」コンサート、無観客で終えて2020年07月27日 20時11分14秒

★ともかく疲れた。そしてこの「もやもや」感は何だ!?

 おかげさまで、この全国的にコロナウィルスさらに感染拡大中にも関わらず、月一恒例の「月刊・共謀コンサート」、7月の回は、25日の土曜日に再開・開催し終えた。
 ほっとしているしそれなりに満足感、充足感はある。が、やはり観客がいないのと、リモートでの生配信という初めての事態は、どうにも勝手が違い、失態さらすばかりで自らの限界を今噛みしめている。
 そしてただ何よりも疲れた。いつもと違いギターも手にせず一曲も唄わなかったのにどうしたことか。昨日は終日寝込んでしまった。

 実は、2週間ほど前になるか、父を朝、施設に送り出すときに、迎えが来たので居間に座った彼を慌てて抱き起しエイやっと持ち上げたとき、ぎっくり腰的に激痛が走った。
 幸い、ほんとうのぎっくり腰には至らずに済んで、日常活動には問題なく動けているが、それでも座り仕事したりすると腰が固まってしまいしばらくは痛くて動けなくなる。
 そんなで椅子に座って一定時間パソコンに向き合うブログもなかなか書けずにいたし、今もまだ本調子ではなく腰周辺は鈍く痛みが続いている。
 そんな体調で迎えた三か月ぶりのコンサート、音楽そのものは素晴らしかったし、久々に敬愛するシンガーたちの歌声を堪能して喜びと満足はしたのだが、何か名状しがたいスッキリしないものが残った。いつもより疲労感が開催中もやたらあった。
 理由は一つしかない。体調に加えて何よりまず観客が不在であったからだ。

 このコロナ禍騒動が終息していない今、「コンサート」をやるとしたら、ともかくまずは「無観客」での開催しか手はない。
 むろん少人数の観覧希望者を事前に連絡して集め、座席も空間空けて「観客」を入れることは今はできる。
 が、かけこみ亭でのこのコンサートの場合、基本「投げ銭制」でチャージは取っていないし、前売り券のようなチケットもない。これまでも予約は受け付けたことはあったが、観客は当日自由に来られる方を期待しこちらはただ待つしかない。
 しかしそれではコロナ禍の「新しい様式」に反してしまうし、もしかしたら一見さんがウィルスを持ち込む可能性も生ずる。仕方なく、ならば最初から「無観客」としてお客は入れないで開催となった次第だ。
 そうなると、それは仲間内の練習やセッションとどう違うのか、だ。
 いろいろ悩み迷ったが、無観客だからこそライブでの生配信を、このところよく訊く「リモート」ってやつを試しにやろうじゃないかと思い立った。
 幸いここかけこみ亭では、このところはずっと毎週水曜と土曜日に、店からの生配信として『かけこみ亭からAIをこめて』と題して約30分程度のリモートを始めていた。
 お店側のご厚意と関係者に撮影をお願いして、その枠内で特別に「共謀コンサート」も30分程度だけど生配信してもらうことになった。自分にとっては初の経験である。※当日の模様はかけこみ亭のHP、フェイスブックから今も自由観覧できるはずだ。

 で、30分枠だとして、ネットで流すのならば、当日の様子をそこだけそのまま切り取るのではなく、ダイジェスト的に、今回出られる演者たちをできるだけ全員網羅できたらとも考えた。リモートでの「観客」に向けての「紹介」としても。
 となると、休憩や間合いとらず次々すぐさま転換してもらわねばならない。そのため各々の方の時間配分に「現場」で慌て迷い苦悩した。
 昔、ドリフのテレビ番組などは公開生放送だったので常に「生放送」で流していたから、最後のほうになると、ときには皆でうたうエンディングのテーマ曲『いい湯だな』の替え歌が時間が押して猛スピードになってしまったことがよくあった。
 それと同様に、「生放送」というのは、終わりの時刻が決まってないとしてもかなり緊張して時間配分にいつもより気を遣うことが強いられ、これまでとは違う思いの経験をした。

 最後のほうで我はスタッフから質問に戸惑いうろたえ醜態をさらしてしまったが、ともかく約30分の枠内で、演者四方をそれぞれハイライトシーン的に収録、流すことはできた(と思う)。
 生配信を終えたとたん、我は腰の痛みと緊張感が途切れてその場にへなへなと座り込んでしまった。それからかなり長い休憩時間をとって、詩人の奥主榮氏の朗読と館野公一、太田三造のシンガーお二方にフィナーレ的に〆てもらい何とか無事にこの初の無観客・一部生配信のコンサートを終えることができた。

 終えて・・・
 ともかく疲労感が残った。腰の痛みも続いていたこともあったからだが、これまではどんなに寝不足や体調不良でもコンサートが始まってしまえば我はテンションが上がり帰宅後はともかくも開演中は一切疲れなど感じなかった。時間は常に始まればあっという間に過ぎて行った。
 が、久しぶりの再開ということはともかく、その最中も腰痛も続き身体はしんどくいつもより短時間のライブのはずなのにその日は一日がずいぶん長く疲労感が続いていた。こんなことは初めてのことだ。
 そして良いコンサートだったと思うのに何か心の底には満足いかない、もやもやとした正体のわからない何かが残った。

 それが何かずっと自問して今は何かわかった。それはその場に一人も「観客」がいなかったからだ。居たのは全て出演者も含めて店の関係者、つまり友人知人だけであった。
 むろんリモートで、「観客」は少ながらずいたかと信ずるし、後々もバックナンバー的にかけこみ亭のHPからその生配信したシーンを「観覧」してくれる方々もいると信ずるが、その日、その場にはじっさいの「観客」は一人もいなかった。
 そのこと、じっさいの観客が不在だったということが、企画者として、進行役としての我にとってすごく大きいことで何かもう一つスッキリしない「何か」の原因だと今は思える。
 我は常に、その場のそこにいる「観客」を意識して、たとえごく数人でも彼らに向き合って、ある意味顔色を窺いつつコンサートを進めてきた。
 が、今回はそこに常にいるはずの「観客」は一人もいないとなるとそうした反応、反響が読み取れないし確認ができない。これが困惑の理由でありもう一つ今回乗らない、満足できないわけはそこにあると気づいた。※むろん店には来れない「観客」というのもその場にはいたはずだと思いたいが・・・

 つまりボールを投げるにも、そこに相手の顔が見えるかどうかということだ。直の反応が確認できることをいつも我は求めていたのだ。
 ライブとはそうしたものこそが最も大事であって、ライブ「配信」とはやはり異なると気がつく。むろん、リモートでもすぐに流れている映像に書き込みがあったり、即レスポンスも返ってくるものなのだと理解できる。
 しかし、やはりそれは観客であっても「参加者」ではない。様々な媒体、メディアを通して多くの観客、つまり「見てくれた人」は増えたとしてもその場に「参加」したこととはまさに次元が異なる。

 しかしそれでも今はこうしてやっていくしかないのである。コロナの感染拡大はこの先もさらに続くだろう。その中で最良のこと、最善のあり方を模索していく。
 次回は、8月30日だ。

 この件についてもう少し書き足したい。

そしてこれからのこと2020年04月27日 23時52分20秒

★進むも地獄、引くも地獄ならば・・・

 一夜明けた。久しぶりにぐっすりたっぷり眠れたが、何も体使う仕事はしていないのに、起きたら身体の節々がなぜか痛く怠い。まあ、それだけ心身ともに体力を費やした証かと思うが、興奮覚めて思うは、果たして開催でき無事終えられたからといって手放しで身勝手に喜んで良かったのか、だ。

 俗に、行き詰まり、引くに引けないがもう身動き取れない状況のとき、「進むも地獄、引くも地獄」と喩えが用いられる。
 今回の企画開催に関しては、開催するも地獄、中止(自粛)するも地獄という迷いと苦悩の間で気持ちは大きく揺れ動いた。
 そしてそのことで出演者をはじめ関係する多くの人たちにご迷惑をかけてしまった。
 開催でき、無事終えられたからといってそれで万々歳と言うのは早すぎる。そう、2~3週間先、その時点で感染者が我の周囲、関わった人たちの間から一人も出なかったと確認できない限り、開催の是非は定まらないのだろう。
 一夜明けて、昨日の我が撮った画像をデジカメからパソコンに取り込み、それをいつものようにまず当ブログで時間を追ってアップしようと考えたが、それは今回は控えることにした。
 ※一部の承諾得た人たちの姿はアップしてあるけど、全体、全様については、コロナ騒動が完全に終息してまた元通りに全ての文化活動が再開されたら再掲したいと考えた。

 昨日出られた方々とメールで確認・相談したところ、その画像もお名前も今回は現時点では対外的に発表しないほうが良いということで同意したからだ。
 その理由は説明するまでもない。自粛の嵐が吹き荒れる中、内内であろうともライブ行為を行ったこと自体、世の人々の耳目をよくも悪くも集めるだろうし、もしものことだが、そこ、かけこみ亭から感染者が出、クラスターが発生した場合、出られた方々は、大変なバッシングを受けよう。ある意味社会的制裁、活動停止に追い込まれてしまう。

 我は毎度のコト、愚かで考えなしだから、終わってからやっと事の重大性に気づく。自らのエゴで、結果として多くの人たちを危険にさらしてしまったのだ。
 引くも地獄と書いたが、考えてみると、引くこと、つまり「中止」のほうが、現況下ではもっともたやすく理性的経済的なことであった。
 というのは、自粛が当たり前の風潮なのだからそうしたとしても誰も文句も苦言も出ないだろうし、会場を予約して広く宣伝活動を行いチケット売って準備進めるようなコンサートではないのだから、むしろ「中止」したほうが、常に自腹切ることとなる「お車代」すら不要となるのだから経済的負担も少ない。

 逆に冷静になって現下の諸状況を終えた今俯瞰して見ると、開催する方があまりにもリスクが大きかった。状況が見通せる利口な人だったらば、現況を冷静に判断すれば医療的、人道的見地、その他あらゆる見地からしてもどのようなやり方、規模であれ開催はすべきではないというのが「常識」的判断であったと思い至る。
 が、我はやった。終えた今になって覚めて気づいたからそうワカルわけで、ともかく毎度のことだが、やってしまったのからそれは悔いはない。そう、時間は戻せないのだから。

 尾籠な例え話で失礼だが、道に犬のウンコが落ちていたとする。が、それはかりんとうかもしれない。そっくりで見かけではわからない。さて、どうするか。
 誰もがそれは拾わないし、そんな道は通らないか、横目で見てそこを避けて過ぎ去るだろう。だが、この我はまずそれを拾って食べてみて判断する。※じっさいの話しではなくあくまでも喩え話。

 いや、実際のこと、そんな風にして常にリスクを怖れず、いや、そもそもバカ故にリスクに気づかず、むしろリスクに自ら飛び込んで生きてきた。ひとにそうした話をすると、それでよく無事でこれまで生きてこれましたね、と呆れ果てられる。

 過去の我のしでかした愚かで危険な冒険譚に比べれば、今回の一件などごく軽い方だが、結果として自らだけでなく多くの関わってくれた方々にも危険かつ不安な思いを味あわせてしまったかと申し訳なく今思う。じわじわと後悔の念が湧いて来る。
 自分はどうでもいい。どうなろうとかまわない。自らもその父すらもコロナ禍による死の覚悟はできている、としても他者までも巻き込み、危険な目に遭わせるようなことは絶対すべきではなかったのだ。

 しかし、時間は戻せないし、何であれ、常に行動して痛い目に遭わない限り気づくことのないのが我の本質なのだから、開き直るようだが、それは仕方ない。時間は戻せないし、たぶん「中止」したとしてまた別の悔いに苛まれ鬱々悶々としたことは間違いない。
 ならばリスクあろうと決行したほうが、精神衛生上は良いわけで、問題は我のエゴが他者をも巻き込み危険な状態に引き入れてしまったことだけだ。
 今さらだが、ほんとうに以後自戒したい。ただただ申し訳なく今思う。

 さておき、次回の「月刊・共謀」コンサート、5月の回は、早くから企画自体、そのプロデュースを年下の信頼できる友人に全面的にお任せしてあるので、我自身は演者として関わるだけで実質的に一回お休みの気持ちでいた。そう、ここいらで一回楽したいと考えたのだ。
 そしてそこにこのコロナウィルス騒動である。一か月後はどういう状況となっているか全くわからないが、お任せした彼の判断で決行されるのか、中止とするか決まるはずだし、その意向に全面的に従うつもりでいる。次回も開催ありきとして、その彼が中止と決断したのに、代わって我がまた一人でも開くなんて無謀なことはしない。

 6月の回も企画自体は決定しているが、現時点ではまったく先が見えず、その月に入って感染状況の収束いかんであろう。いくらなんでも6月末の頃には、感染拡大も収まっているのではないか、そう期待したい。いや、少なくともイベント「自粛」のムードは解消されていてほしいと祈る気持ちでいる。

 何であれ、先のことはわからないし、我のバカも治らない。自分でも何をしでかすかわからない。しかしそれで自分を責め絶望しても仕方ない。そんな時間あれば、ともかく今できる、すべきことを粛々と自分に課すだけだ。
 ともかくもこの「集い」をやれたことで、その場の「うた」と詩、音楽から大きな力を我は頂いた。その感謝の気持ちをこれからもカタチにしていきたい。
 そう、我が、一人でできることをやっていく。その責がきちんと負えることを。

「共謀コンサート」4月の回は、「自粛」。代わりに、粛々と「詩朗読とフォークソングの集い」を内内で。2020年04月17日 19時58分41秒

★4月26日、午後3時半から

 今月末の日曜、26日に開催予定していた「月刊・共謀コンサート」4月の回だが、諸般の事情から、「休止」として、当日は規模を縮小し、場としての、かけこみ亭側も営業時間を短縮したうえで、その時間内、午後3時半から、遅くとも閉店の8時まで内内の催しとして「詩朗読とフォークソングの催し」を行うことにした。

 理由は説明するまでもないが、緊急事態宣言下、コロナ拡大感染防止への都側の要請を受けて、ということと、当初から予定していた出演者を束縛しないよう、その自由意志に委ねてのことだ。
 で、出演者は、現時点では未確定ということにして、いちおう詩人とシンガーは各一人は来られる予定なので、規模を縮小して粛々とやる予定でいる。

 といっても状況は日々推移して、さらなる感染拡大の嵐が吹き荒れ、他の都市に倣い、都知事の望む一切の外出禁止というロックアウトの事態となるかもしれない。
 その場合は、またその時点で再考するとして、現時点では26日は、規模を縮小の上、内内で粛々と「三密」を避けながら詩人とシンガーの「詩・うた」に耳を傾けたい。その方向でやっていくつもりでいる。
 
 また何か新たに決まったり当日が近づいたら状況をお知らせします。


 出演者も含め詳しいこと、ご意見、お問い合わせ等は、我マスダに連絡頂きたい。090-8175-8479

3月の回を画像で・フィナーレ~みんな有難う!!2020年04月04日 13時47分28秒

有難うございました。コロナウィルス退散!!
★皆さんお疲れさまでした!!

3月の回を画像で・フィナーレ-12020年04月04日 13時40分31秒

やはり最後の最後はこの曲を全員で。
★フィナーレは、今回「共謀」のコンセプトであった故・高坂一潮さんの「創造者よ」を、熱く熱唱!!