今年一年を振り返ると・前2014年12月29日 05時29分29秒

★心労、心痛と胃痛、そして寒さ考          アクセスランキング: 168位

 寒い冬である。秋口の予報では今年は暖冬とか報じていたように記憶するが、実感ではこの冬もまた去年に引き続きかなり寒い。たぶん誰もが感じているのではないか。
 
 数年前まではほんとうに暖冬で、12月のうちは氷など張らなかったし、冬が来たといっても大して厚着することなくても、つまり冬物を引っ張り出さなくても秋物を重ねる程度で何とか冬を越すことができた。気がつけば春が来ていたように思う。雪も多く降ることはまずなかったしそれもまた地球温暖化の恩恵かと思っていた。
 が、近年、また寒い冬が戻ってきて特に去年、正確には今年あけには二度にわたる大雪もあって関東でもかなりの被害があった。
 そして今年も初雪も既にあったし、天気予報では今日もまた雪のマークが出て、あちこちで早くも豪雪がニュースになっている。

 個人的に寒いのは嫌いではないし、昔北海道にもいたことがあるので寒さには慣れているが、やはりあまり寒い冬はいろいろ支障をきたす。このところ拙ブログもなかなか更新できないのは寒さも関係している。
 ブログは常に書きたいこともあるし書くことも決めてはあるのだが、そのためには一定の時間をとらねばならない。
 今までは夕食後、老親たちが寝静まってからがやっと自分の時間で、二階の自室でギター弾いたりパソコンであれこれ作業したり、その流れで日ごとのブログを記していた。
 が、自室には基本的に部屋全体を暖める暖房はないので、あまりに寒いと起きてられずすぐに布団に入って寝てしまう。一度早めに寝て早く起きてそれからブログなり作業を、と考え、ブログも「見出し」だけ記して後で書き足すつもりでいる。

 そして確かに、深夜の2時頃には目は覚めるのだが、部屋は深閑と完全に冷え切っている。とても暖かい布団から抜け出して零度近い真夜中に起きだして何かやる元気もない。かといって一度目が覚めるとすぐには眠れず、ベッドの中でしばらく聖書を読んだりして悶々として数時間過ごしそれからまた寝なおす。その深夜の時間がかなり辛い。
 夏の頃は、早朝うんと早く起きてもすぐに外は白み明るくなって長く一日が使えたが今は6時でもまだ暗い。そんなでヘンなライフサイクルになってしまい、作業効率がともかく悪い。

 いくらもこもこに着込んでも部屋全体を暖めないことには手もかじかんでギターも弾けやしない。さすがに何か対策を立てねばと今考えている。無頼庵として人が集まる大広間にはエアコンはある。が、そこを全体温めるのには毎月何万もの電気代が請求されてしまうのだ。自分の一人のためには極めて非効率であろう。しかも先日のクリスマスイベントでは、暖房入れても来場者からはこの家は寒い寒いと不評であった。これもまた課題だ。何にしろこの家は各部屋の仕切りがなく冷房にしろ暖房にしろ効かないのである。

 さておき、このところ胃痛が治まらず困っていた。一時よりはだいぶ良くなってきたのでもう悪化はしないと思うが、あのイベント以後のことだ。
 もともと大食はできても胃が弱く、それは精神的影響からのもので、何か悩みや心配事があるとすぐに胃が痛くなってしまう。気が小さくてできているのである。若いころは胃カタルだか胃アトニーだったか、医師の診断で薬も飲んでいたことがある。が、歳と共にずぶとく鈍感になって、お気楽にも生きてきたのでもう10年来胃の痛みは感じていなかった。
 が、11.30の阿佐ヶ谷のライブイベントの後から、しでかした人間関係の失態、失敗のことであれこれ自己を苛んだせいか胃痛がまた起きて真夜中、寝ていても胃痛で深く眠れない晩も何日かあった。
 原因もわかっていることだから医者にかかっても鎮痛剤のようなものを出されるだけのことで根本解決にはならないのはわかっている。まあ、時間とともに治まっていくと思うので悩み考えないようにしようと思うが、先のクリスマスイベントを終えた晩もなぜか胃痛がひどくほとんど眠れないでいた。まったくストレスに弱い人間だと情けなくもなる。

 漱石は、大量の血を吐き一時意識不明となった「修善寺の大患」を見るまでもなく、生涯胃を病み、けっきょくそれで命を縮めて50歳そこらで死んでしまった。彼の場合、新聞の連載時期と胃病の悪化はまさにシンクロしていて、連載のないとき、連載が終われば健康で、連載開始、小説に向き合うと悪化していくことが実に如実であった。
 つまり胃が痛くなるような思いで真剣に悩みつつ小説に向き合い、じっさいにそれが胃に来て胃を悪くして早死に至ったわけだが、胃は心のバロメーターというべきか、心労、心痛があるとすぐに胃に影響が出る方は漱石氏や我だけでないであろう。

 今もそのイベントの後始末というか、それをどうカタチにして残すべきかと「今後の課題」を考えると、胃にずしりと鉛のような重いものが落ちてくる。有馬さんを筆頭に出演者の方々とはかっての話だが、つい大変だとか面倒だと考えてしまう。真夜中にそのことを考えるとまた胃痛がぶり返す。

 まあ、今年も残すは今日をいれてあと3日。あれこれ心配し悪い場合をも考え悩んでも意味がない。モノゴトはなるようにしかならないし、人事は尽くさねばならないが全ては天の計らいでもある。

 漱石が晩年好んで書などに書き記した言葉に「則天去私」がある。まさにその通りの境地に至れば、胃など痛くもかゆくもないはずだが、そう願った人はこの我よりも年下で死んでいるのである。

人を生かすも殺すも人なのだと2014年12月29日 22時51分17秒

★人は人に認められ求められたいと願うものなのだから

 キリスト者としては、地の人を生かすも殺すも天なる神の御心のままに、であるのだけれど、現実のはなし、人を生かすも殺すもやはり人なのだとつくづく思う。

 本日、古本稼業の師匠であるK氏から、彼が出している雑誌に関連してとある相談というか、詳細はまだよくわからないが何らかの原稿に関する依頼の電話が直接あった。
 我、マス坊は、彼の出したネット古書店ハウツウ本を読んでこうしたネットでの古本稼業を知り参入したこともあり、直に親しくはなってはいないが、いわば心から恩人であり、また師匠だと仰いでいる。この商売を始めたときには無論のこと連絡を差し上げた。
 これまで彼の出た古本イベントなどで何度かご挨拶した程度の面識しかないのが残念だが、向こうもこちらのことを覚えて頂けたようで、とある用件で直電があったのだ。お話ししたら何とこの拙ブログも読んで頂いているとのことで、本当に有難く嬉しく思った。その話は何かはっきりしたらまた報告するとして、さておき。

 思うのだが、例えばのはなし、自分がとあるイベントを企画しそのチラシやハガキを友人知人に発送する。あるいは、メールなどで詳細をお知らせして彼らに送信する。
 が、その郵便物、または送ったメールでそのライブの参加があるなし以前に、ほぼ九割がたは何一つ返信も返答もない。中には、わざわざ「メール拝復」として、今回は連絡頂き有難う、残念ながらその日は、これこれの先約もあって参加できない、すみません、とご返答くださる方もごくごく稀にいる。
 しかしそのほとんどが、イベントに来ない以前に何一つ返信も返答もない。そうしたものが今の時代は当然なのかもしれないが、誰彼あたりかまわず送りつけるスパムメールや企業のダイレクトメールの宣伝ではないのである。いちおうマスダの私信的に一筆記して相手の個人名宛で出している。が、届いているのか読まれたかわからないが、まったく何の反応もないのである。※そのことで怒っているのではなく非難でもない。ただ事実を書いている。

 メールでも今の人は、用件のみですませてしまうらしく、こちらがあれあこれ細かい私的なことを書いて送ってもそれに短くとも返信があればよいほうで、届いているのか読まれたか一切返信もしてくれない方も多い。あまりしつこく確認を求め再送信しても相手が女性だとストーカー的に思われてしまうのでたぶん向こうに届いたはず、読んでもらえたかわからないがと諦め自ら納得させるしかない。まあ、それでトラブルは起きなければいちおう読んでもらい用件だけは通じたということなのだと思うしかない。

 つまるところ相手側、向こうの人にとってはこちらの送った連絡やお知らせなどまったくとるに足らない、返信返答も含めて相手にする価値もないことなのかとつい推測してしまう。が、むろんそうとも限らないかもしれない。単に多忙ゆえ、その連絡を受けてイベントに行けなくとも何らかの返信をせねばと思いながらもついそのままにしてしまっているのだろうとも思う。じっさい自分でもそうしてきたこともあった。それは推測できる。

 が、そうしたことがあまりに多いと、この自分の存在自体が空気のようなもので、誰からも相手にされないのではないかと思えてくる。つまり何をやるにしろ、そもそもがまったく存在価値のない者なのだと世間は無視していると自己否定の認識が高まっていく。特に失敗の後、非難の嵐の最中の鬱屈して弱気の時は。
 じっさいの話、人を殺すのは直にひどい言葉をぶつけるとか非難や叱責することではなく、無視が一番なのである。存在していることをまったく無視して一切相手しないように「無視」してしまえば人はすぐ絶望して自ら死んでしまう。たとえ侮蔑であれ直に相手にするのならまだそこに存在を認めてはいる。相手にしている。それをいっさい相手にしない、存在すら無視していくという行為こそが人が人にする一番ひどい仕打ちではないのか。

 むろん人はそうしたことをあえて意識的にはしやしない。ただ単に忙しさや面倒くささで、後回しにしたりしてけっきょく何も返さないだけなのだと推測する。しかしそうしたことが続くとこの社会はやがて皆誰もがとてつもなく孤独な孤立した淋しいものになっていくのではないか。
 むろん多くの友人知人を持ち常にフォローされちやほやされている人は何も淋しくないだろう。また、いちいち届いたメールやらに一つ一つ返信していたらきりがないしとても大変だという理屈もわからなくはない。
 しかし、他者からの連絡を無視していく人はやがてその環境、関係すら他者に無視されるようになっていくのではないのか。

 人の存在、あり方というものは、そもそもが社会的なものゆえ、他者に常に認められたいはずだし、さらには必要とされたい、求められたいと願うはずなのである。なのに、今の人は忙しさにかまけてついつい他者からの関わり、連絡を面倒くささもあってうっかり無視してしまう。
 今回、K氏から直のお電話で連絡頂き本当に有難く嬉しく思った。彼がこんな我のことを覚えてくれていたこと、そしてどのような形であろうと役割として求めてくれたことは実に光栄だと思った。ならばできるだけお役に立ちたいと思う。

 このところ実はまだ例の件以降ずっと鬱々としていて、自分のやっていることの是非以前に、存在価値すら自分でも疑問に思い自信をなくしていたのだから、励ましも含めそれ以前に、こうして人から連絡頂き役割を求められたことは大いに元気にさせられた。本当に有難い。

 ならばこそ、自分は常に他者からの連絡やメールにはできるだけ迅速に返信しているし、基本無視だけは絶対にしやしない。むろんあまりに忙しくてついつい後回しにしてうっかり失念してしまうこともなくはないと告白する。しかし、基本的にどなたでも特に我個人宛てに届いた連絡にはきちんと必ずできるだけ早く返信返答するようにしている。

 汝の望むことを他人にもせよ、とは聖書のおしえにある。そう、人は常にその存在を認められたいものなのである。皆だれもが実はそう願っているはずなのだ。ならばどうして他者からの連絡を無視できるのか。
 どうして人はもっと他者を求め、そしてきちんと認めないのであろうか。人が人にできることは実はそれぐらいしかないはずなのに。

 人は人に必要とされたいし、人として人に認められたい。そして人の役に立ちたい。それこそが人なのである。違いますか。我は心からそう信じる。