新しい命、まっさらな魂 ― 2013年01月02日 22時59分00秒
★新しい家族、子犬を迎えて
正月そうそうかなり疲れている。年末に栃木まで車で日帰りで出かけたこともあるし、人が来たりして忙しいより慌しかったこともあるが、一番の原因は子犬である。
我家に新規参入してきた子犬・ベルの世話というか、扱いにかなり気をとられ時間と体力を奪われている。それは予想もし覚悟もして新しい家族の一員として迎えたわけだが、想定以上にたいへんだったというわけだ。
最初は全く家族の誰にも慣れず不安と淋しさで夜中に泣いたり騒いだりもしたがすぐにこの家が新たな家庭だと覚悟も決めわかってきたようで、わりと早く家人にはなついた。当初の「脱走」したらもう絶対みつからないと目が離せなかった段階は終わった。
紐をつけての散歩も無理なく行けるようになったし、トイレも外ですることを覚えた。室内でおもらししたのは、来たその晩だけであった。まだ室内飼いしているわけだが、大小便したいときは騒いで知らせるし、庭先に出せはそこで用を済ます。散歩で用便をすることも覚えたので下の心配はなくなった。元の飼主が言っていたとおりかなり賢い子である。
ただ、図体はでかくてもまだ子犬であるのは変わらないわけで、当初大人しくしさは家人に慣れてくるとすっかり消え、ともかく甘えるし、その姿が見えず一人にされると吠えたり大騒ぎをする。また何でも齧るしどこへでもスタスタ行ってしまうので、うっかり目が話せない。つまり人間の幼児と同じなのである。ほっておくと危険でならない。
まだ名前はわかっていないようだし、空地で紐から離したりもできない。名前を呼んでも戻ってこない。しかし、ずいぶん家人にはじゃれたり甘えるようになってきたし子犬がいる生活というのは笑いがたえず、口数の少ないボケ老人もみょうに多弁となった。それもまた子犬効果であろう。
一人にすると鳴いて騒ぐので今は仕方なく夜もマス坊のベッドに入れて一緒に寝ている。おかげで湯たんぽもいらず暖かいのは助かるが、やはり隣に寝ている子犬に気を使うので熟睡は難しい。早朝から大慌てで抱きかかえて散歩に連れて行く。
しかし、子犬と散歩するのは実に興味深い。というのは彼女は全てのものに関心を示す好奇心の固まりであり、草むら、藪の中、あらゆるところの臭いを嗅ぎ、見たり聞いたり寄り道ばかりしている。よくまあこんなに何にでも興味を持つのか感心する。考えてみれば生まれてからずっとビルの中の室内で育ち、外の世界、自然界は何も知らなかったのだ。だから見るもの聞くもの嗅ぐものすべてが彼女にとっては未知であり、驚きであり関心があるのであろう。それはたぶんペットショップのゲージの中の犬猫もまた同じであろう。
考えてみれば、犬に限らず人もまた同じで、子犬ならぬ子供は皆そうしてこの世に来たときからじょじょに外の世界を知り関心を示し驚きでそれを受け入れていく。ただ、その好奇心、関心はやがて時と共に褪せていき、全ては自明のこととして何の興味も持たなくなっていく。そしてやがては生活に倦み人生にうんざりしていく。
ウチの親父に至っては、この世のすべてのこと、そのほとんどが、下らない、バカバカしい、どうでもいいの三つの言葉で片づけてしまうが、そのように「世界」に対して無関心になっていくことが大人になることであり老いていくことだと考えられなくもない。
犬だって、今いる老犬たちは同様で、バドおじさんに至ってはほぼ日がな一日うつらうつらしているだけで、食べること以外に関心はまず示さない。小屋に入ってほとんど出てこないし、散歩さえも用便だけが目的でおざなりなのである。それが老いることであり人も犬も猫も皆同じ道筋を通るということだ。「老人」は全てにうんざりして面倒になってどうでもよくなっていく。
若い生まれたばかりの命、子犬が来て気がついた。子犬でも子供でも若い人が外の世界に強い関心を示す姿はとても素晴らしい。人は誰でも自分も含めて昔はこうしてまっさらな魂で、曇りない目で世界をみつめ関心を強く持っていたはずなのだ。それがいつしか全てがわかったような気になり、真剣に何も見なくなってしまった。身近な風景さえも実はろくに見ていないことに気がつく。世界は日々新たに移り変わり存在しているはずなのにこちら側の魂が朽ちてそれを新鮮に受け取れなくなってしまっているのだ。
子犬のような心と目で、もう一度世界を、人生を新たな気持ちでとらえ直していきたい。自分をとりまくすべてのことに関心を持ちたい。それこそが「生きる」ということだ。魂はまっさらにはなれないが気持ちはまっさらにするのに新年は適しているではないか。ベルが来て良かった。
正月そうそうかなり疲れている。年末に栃木まで車で日帰りで出かけたこともあるし、人が来たりして忙しいより慌しかったこともあるが、一番の原因は子犬である。
我家に新規参入してきた子犬・ベルの世話というか、扱いにかなり気をとられ時間と体力を奪われている。それは予想もし覚悟もして新しい家族の一員として迎えたわけだが、想定以上にたいへんだったというわけだ。
最初は全く家族の誰にも慣れず不安と淋しさで夜中に泣いたり騒いだりもしたがすぐにこの家が新たな家庭だと覚悟も決めわかってきたようで、わりと早く家人にはなついた。当初の「脱走」したらもう絶対みつからないと目が離せなかった段階は終わった。
紐をつけての散歩も無理なく行けるようになったし、トイレも外ですることを覚えた。室内でおもらししたのは、来たその晩だけであった。まだ室内飼いしているわけだが、大小便したいときは騒いで知らせるし、庭先に出せはそこで用を済ます。散歩で用便をすることも覚えたので下の心配はなくなった。元の飼主が言っていたとおりかなり賢い子である。
ただ、図体はでかくてもまだ子犬であるのは変わらないわけで、当初大人しくしさは家人に慣れてくるとすっかり消え、ともかく甘えるし、その姿が見えず一人にされると吠えたり大騒ぎをする。また何でも齧るしどこへでもスタスタ行ってしまうので、うっかり目が話せない。つまり人間の幼児と同じなのである。ほっておくと危険でならない。
まだ名前はわかっていないようだし、空地で紐から離したりもできない。名前を呼んでも戻ってこない。しかし、ずいぶん家人にはじゃれたり甘えるようになってきたし子犬がいる生活というのは笑いがたえず、口数の少ないボケ老人もみょうに多弁となった。それもまた子犬効果であろう。
一人にすると鳴いて騒ぐので今は仕方なく夜もマス坊のベッドに入れて一緒に寝ている。おかげで湯たんぽもいらず暖かいのは助かるが、やはり隣に寝ている子犬に気を使うので熟睡は難しい。早朝から大慌てで抱きかかえて散歩に連れて行く。
しかし、子犬と散歩するのは実に興味深い。というのは彼女は全てのものに関心を示す好奇心の固まりであり、草むら、藪の中、あらゆるところの臭いを嗅ぎ、見たり聞いたり寄り道ばかりしている。よくまあこんなに何にでも興味を持つのか感心する。考えてみれば生まれてからずっとビルの中の室内で育ち、外の世界、自然界は何も知らなかったのだ。だから見るもの聞くもの嗅ぐものすべてが彼女にとっては未知であり、驚きであり関心があるのであろう。それはたぶんペットショップのゲージの中の犬猫もまた同じであろう。
考えてみれば、犬に限らず人もまた同じで、子犬ならぬ子供は皆そうしてこの世に来たときからじょじょに外の世界を知り関心を示し驚きでそれを受け入れていく。ただ、その好奇心、関心はやがて時と共に褪せていき、全ては自明のこととして何の興味も持たなくなっていく。そしてやがては生活に倦み人生にうんざりしていく。
ウチの親父に至っては、この世のすべてのこと、そのほとんどが、下らない、バカバカしい、どうでもいいの三つの言葉で片づけてしまうが、そのように「世界」に対して無関心になっていくことが大人になることであり老いていくことだと考えられなくもない。
犬だって、今いる老犬たちは同様で、バドおじさんに至ってはほぼ日がな一日うつらうつらしているだけで、食べること以外に関心はまず示さない。小屋に入ってほとんど出てこないし、散歩さえも用便だけが目的でおざなりなのである。それが老いることであり人も犬も猫も皆同じ道筋を通るということだ。「老人」は全てにうんざりして面倒になってどうでもよくなっていく。
若い生まれたばかりの命、子犬が来て気がついた。子犬でも子供でも若い人が外の世界に強い関心を示す姿はとても素晴らしい。人は誰でも自分も含めて昔はこうしてまっさらな魂で、曇りない目で世界をみつめ関心を強く持っていたはずなのだ。それがいつしか全てがわかったような気になり、真剣に何も見なくなってしまった。身近な風景さえも実はろくに見ていないことに気がつく。世界は日々新たに移り変わり存在しているはずなのにこちら側の魂が朽ちてそれを新鮮に受け取れなくなってしまっているのだ。
子犬のような心と目で、もう一度世界を、人生を新たな気持ちでとらえ直していきたい。自分をとりまくすべてのことに関心を持ちたい。それこそが「生きる」ということだ。魂はまっさらにはなれないが気持ちはまっさらにするのに新年は適しているではないか。ベルが来て良かった。

最近のコメント