世界はミーハーで動いている・2 ― 2013年01月08日 22時55分01秒
★日本人特有の横並び意識とミーハーそして尾崎豊
俗に日本人は他国、他民族より横並び意識が強いと昔から言われている。
例えば戦後様々な家電が家庭に入ってきたときも、隣が冷蔵庫を買ったから、近所は皆テレビがあるからウチも早く・・・という隣近所に倣うという意識で家電は一気に普及したことはよく知られている。
こうした周りの人に倣う意識、人と同じでありたいという心理は当然今もある。曰く、皆が大学に行くので自分も・・・から、周囲の皆がスマホを持っているから自分も持たないと・・・皆がそれをするなら自分もそれをしないと・・・と常に周囲の流行に合わせていく。
そうした気質は、日本人社会に多い血液型A型の気質と近しいという指摘もあり、突出したり目立つことを嫌い、人と同調することを好む=協調性が高く横並び意識が強い国民性はA型という血液型の人が多いからかどうか結論はともかくその指摘はなかなか面白い。西欧では人と同じということは確固たる自分が無いということであり恥すべきことであるのに、目立つこと、つまり出る釘は打たれるのだからまさに国民性の違いであろう。
ただ、ではそうした横並び意識とミーハーは即同じかというとちょっと微妙に違うような気がする。極めて近しいしその根底にある心理はほぼ重なるとは思えるが、横並び意識というのは、まさに国民性であり世代を越えた国民的傾向であるのに対し、ミーハーはもう少し個々の人格、性質に大きく寄っている。横並び意識が「志向」であるのに対してミーハーは「嗜好」なのである。
尾崎豊、というと今では伝説のカリスマであり死後も人気高い大スターであろう。和製ジェームス・ディーンとしておそらくこれからも何度かリバイバルブームが起きるだろうし、世代が変わっても新たなファンに広く支持されるかと思う。
しかし、彼をデビュー当時から知る者としては、彼が今ほど「ビッグ」になれたのは二十代半ばで死んだからであり、もし今も生きていたらもう忘れさられ人気も凋落した「あの人は今」の一人でしかなかったはずだというのは言いすぎか。
彼を不当に貶める気はないが、才能あるシンガーだと当初は注目したものの若く勢いだけの人という印象ばかりで当時自分はさほど評価していなかった。「もう尾崎はいいよ」、とマス坊の周囲では話していた。彼も反抗する若者のカリスマとしてのイメージに自ら苦しみ、死の直前はもうほとんど活動はしていなかったように覚える。一頃の人気も凋落し早くも「過去の人」化していた。彼の死は今も不審なところが多いが、要するに音楽的に行き詰まった末の自堕落的自滅死ではなかったのか。
しかし、その謎の死が報じられてからがすごかった。マスコミは彼を競って取上げ、楽曲を流し続けアルバムは飛ぶように売れた。それは決して彼のファンが反応したからではない。彼が死んでから初めて彼のことを知り関心を抱き聴いて気に入って新たなファンが膨大に生まれたからであった。それから何年間も彼の生前のセールスの何十倍ものCD、写真集、書籍が飛ぶように売れた。むろん良い曲も沢山残しているしようやく正しい評価が与えられたと言えよう。しかしそれは死んでマスコミが大きく取上げてミーハー層が一気に激しく反応したからであって、今も健在であれば絶対に今ほど売れることはなかった。
尾崎は1965年の生だから、今も生きていれば既に40代半ば過ぎ。おそらくでっぷり太って俳優業に転身しているか、引退してビジネスでも手がけてたまにフォーク懐メロ特番に出ていたかもしれない。しかし、そのとき彼は何を唄っているか、と考えると、まさに和製バンクロッカーとして十代の頃の怒りや悩みを激しく唄った人ゆえにやはりその姿は全く想像できない。つまりあまりに早く燃焼しつくした人ということなのだろう。むろん、ピストルズのジョニー・ロットンのような余生も有り得るが。
前衛と一般大衆との距離は二歩も三歩も遅れているとよく言わている。つまり、ファションでも思想でも何であろうと先端を走る人たちがもう古臭いと投げ捨てたものに、ようやくそれから大衆は飛びつくのである。尾崎豊のケースを思うときそのことを深く得心した。一度ミーハーが大挙して動けばこうしたブームが常に起きるのである。それは政治でも何でも同じことだ。
俗に日本人は他国、他民族より横並び意識が強いと昔から言われている。
例えば戦後様々な家電が家庭に入ってきたときも、隣が冷蔵庫を買ったから、近所は皆テレビがあるからウチも早く・・・という隣近所に倣うという意識で家電は一気に普及したことはよく知られている。
こうした周りの人に倣う意識、人と同じでありたいという心理は当然今もある。曰く、皆が大学に行くので自分も・・・から、周囲の皆がスマホを持っているから自分も持たないと・・・皆がそれをするなら自分もそれをしないと・・・と常に周囲の流行に合わせていく。
そうした気質は、日本人社会に多い血液型A型の気質と近しいという指摘もあり、突出したり目立つことを嫌い、人と同調することを好む=協調性が高く横並び意識が強い国民性はA型という血液型の人が多いからかどうか結論はともかくその指摘はなかなか面白い。西欧では人と同じということは確固たる自分が無いということであり恥すべきことであるのに、目立つこと、つまり出る釘は打たれるのだからまさに国民性の違いであろう。
ただ、ではそうした横並び意識とミーハーは即同じかというとちょっと微妙に違うような気がする。極めて近しいしその根底にある心理はほぼ重なるとは思えるが、横並び意識というのは、まさに国民性であり世代を越えた国民的傾向であるのに対し、ミーハーはもう少し個々の人格、性質に大きく寄っている。横並び意識が「志向」であるのに対してミーハーは「嗜好」なのである。
尾崎豊、というと今では伝説のカリスマであり死後も人気高い大スターであろう。和製ジェームス・ディーンとしておそらくこれからも何度かリバイバルブームが起きるだろうし、世代が変わっても新たなファンに広く支持されるかと思う。
しかし、彼をデビュー当時から知る者としては、彼が今ほど「ビッグ」になれたのは二十代半ばで死んだからであり、もし今も生きていたらもう忘れさられ人気も凋落した「あの人は今」の一人でしかなかったはずだというのは言いすぎか。
彼を不当に貶める気はないが、才能あるシンガーだと当初は注目したものの若く勢いだけの人という印象ばかりで当時自分はさほど評価していなかった。「もう尾崎はいいよ」、とマス坊の周囲では話していた。彼も反抗する若者のカリスマとしてのイメージに自ら苦しみ、死の直前はもうほとんど活動はしていなかったように覚える。一頃の人気も凋落し早くも「過去の人」化していた。彼の死は今も不審なところが多いが、要するに音楽的に行き詰まった末の自堕落的自滅死ではなかったのか。
しかし、その謎の死が報じられてからがすごかった。マスコミは彼を競って取上げ、楽曲を流し続けアルバムは飛ぶように売れた。それは決して彼のファンが反応したからではない。彼が死んでから初めて彼のことを知り関心を抱き聴いて気に入って新たなファンが膨大に生まれたからであった。それから何年間も彼の生前のセールスの何十倍ものCD、写真集、書籍が飛ぶように売れた。むろん良い曲も沢山残しているしようやく正しい評価が与えられたと言えよう。しかしそれは死んでマスコミが大きく取上げてミーハー層が一気に激しく反応したからであって、今も健在であれば絶対に今ほど売れることはなかった。
尾崎は1965年の生だから、今も生きていれば既に40代半ば過ぎ。おそらくでっぷり太って俳優業に転身しているか、引退してビジネスでも手がけてたまにフォーク懐メロ特番に出ていたかもしれない。しかし、そのとき彼は何を唄っているか、と考えると、まさに和製バンクロッカーとして十代の頃の怒りや悩みを激しく唄った人ゆえにやはりその姿は全く想像できない。つまりあまりに早く燃焼しつくした人ということなのだろう。むろん、ピストルズのジョニー・ロットンのような余生も有り得るが。
前衛と一般大衆との距離は二歩も三歩も遅れているとよく言わている。つまり、ファションでも思想でも何であろうと先端を走る人たちがもう古臭いと投げ捨てたものに、ようやくそれから大衆は飛びつくのである。尾崎豊のケースを思うときそのことを深く得心した。一度ミーハーが大挙して動けばこうしたブームが常に起きるのである。それは政治でも何でも同じことだ。
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