他生の縁と縁なき衆生 ― 2012年09月04日 23時03分11秒
★「縁」について考えたことを少し
昨日書いたことの続き。
自分は、運命論者ではないが、人が生きているということは人間だけではない何か見えない別のものに常に動かされていると考えている。運、不運ということもあるかもしれないが、それは禍福はあざなえる縄の如しと言われるように単純に判別はできまい。それよりもよく思うのは、縁こそ確かにあるということだ。
人と人とが出会うのも縁であり、出会わぬのもまた縁であり、それは全てのことに当てはまる。会いたいと思う人、例えばミュージシャンならその人のライブに行きたいと常々考えていてもどうしてもスケジュールが合わず行けない人もいる。逆にやたらあちこちで出会い、自然に親しくなる人もいる。
そこに人為的な努力や思いはあまり関係ない。何か見えざるものの計らいによって人と人は出会い、あるいは離れるのだと考える。人だけでなく何かと出会うこと、手に入れること、逆に叶わぬことだって同じで、そのものと出会う、モノならば自らのものにすることが叶うのはやはりそこに縁があったからなのである。
ただ、座して何もせずに待っていてもそれは棚からぼた餅が落ちてくるを待つようなもので何も起きないし出会いも別れもない。基本的に最低限のアクションを起こすところから全てが始まるのは言うまでもない。買わない限り宝くじは当らないのである。
その上で、縁のあるなしということが出てくる。そしてそこに時節というものも大きく関係してくる。「時」というものは全てに大きく影響している。いつの時代もその時々脚光を浴び、人気を得る人がいる。その反面、時代に合わないゆえ認められない人もまた多々いる。
それは時代遅れということもあり、また逆にうんと早すぎたということもある。往往にして天才とはそうした早すぎた人であり、逆に時代に一時は合ってもやがて時代から置き忘れにされていく人もいる。時代が彼を生み、そして時代が彼を捨てたということだ。古本の世界などそれの縮図である。
自分に言わせればそれもまた時代との「縁」であって、うたに関して言えば、すごく良いもの、良いうたを唄っていても今の時代には受け入れられないだろうという人も知っている。ただ、そんな人でもやがては時代も変わればそこで世と縁が出来るかとも考える。
また「縁なき衆生は度し難し」ということも確かにある。言葉にしろ思想にしろ「うた」にしろ、いくら説いても縁のない人には全く届かない。逆に縁ある人にはすぐにピンと来るしこちらが驚くほど受け入れてくれる。しかしだからといってそうした縁だけを頼りに信じていてはるまい。逆にいつの日か、縁のなかった人にも縁が出来、思いが届く日が来るかもしれない。
人と人との関係も同じことで、今は縁がなくてもやがては縁が出来、きちんと繋がるようになることもきっとある。だから諦めてはいけない。しかし、人為でどうすることもできないのが「縁」なのだから、今は縁がなくてもそれはそれで仕方ないと割り切るしかない。縁が切れてしまったと、このところそう思う人もできた。
抽象的なことを書いていると思う。何のことかわからないかもしれないが、わからない人はまだ縁がないからであり、読んでもらえただけでもそこに些かの縁があったということでありそれは有り難いことなのである。
これからのこと、いろいろ不安にも思うところも多々あるが、今は何も考えないし焦りも慌ても諦めもしない。縁あらばまたきっと新たに誰かと出会えるだろうし、疎遠になってしまった人ともまた繋がることであろう。ただ、自分は自ら縁を切るようなことはしていないか、自戒するこの頃だ。縁とは全てを受け入れて心を開いて待つものなのだから。
昨日書いたことの続き。
自分は、運命論者ではないが、人が生きているということは人間だけではない何か見えない別のものに常に動かされていると考えている。運、不運ということもあるかもしれないが、それは禍福はあざなえる縄の如しと言われるように単純に判別はできまい。それよりもよく思うのは、縁こそ確かにあるということだ。
人と人とが出会うのも縁であり、出会わぬのもまた縁であり、それは全てのことに当てはまる。会いたいと思う人、例えばミュージシャンならその人のライブに行きたいと常々考えていてもどうしてもスケジュールが合わず行けない人もいる。逆にやたらあちこちで出会い、自然に親しくなる人もいる。
そこに人為的な努力や思いはあまり関係ない。何か見えざるものの計らいによって人と人は出会い、あるいは離れるのだと考える。人だけでなく何かと出会うこと、手に入れること、逆に叶わぬことだって同じで、そのものと出会う、モノならば自らのものにすることが叶うのはやはりそこに縁があったからなのである。
ただ、座して何もせずに待っていてもそれは棚からぼた餅が落ちてくるを待つようなもので何も起きないし出会いも別れもない。基本的に最低限のアクションを起こすところから全てが始まるのは言うまでもない。買わない限り宝くじは当らないのである。
その上で、縁のあるなしということが出てくる。そしてそこに時節というものも大きく関係してくる。「時」というものは全てに大きく影響している。いつの時代もその時々脚光を浴び、人気を得る人がいる。その反面、時代に合わないゆえ認められない人もまた多々いる。
それは時代遅れということもあり、また逆にうんと早すぎたということもある。往往にして天才とはそうした早すぎた人であり、逆に時代に一時は合ってもやがて時代から置き忘れにされていく人もいる。時代が彼を生み、そして時代が彼を捨てたということだ。古本の世界などそれの縮図である。
自分に言わせればそれもまた時代との「縁」であって、うたに関して言えば、すごく良いもの、良いうたを唄っていても今の時代には受け入れられないだろうという人も知っている。ただ、そんな人でもやがては時代も変わればそこで世と縁が出来るかとも考える。
また「縁なき衆生は度し難し」ということも確かにある。言葉にしろ思想にしろ「うた」にしろ、いくら説いても縁のない人には全く届かない。逆に縁ある人にはすぐにピンと来るしこちらが驚くほど受け入れてくれる。しかしだからといってそうした縁だけを頼りに信じていてはるまい。逆にいつの日か、縁のなかった人にも縁が出来、思いが届く日が来るかもしれない。
人と人との関係も同じことで、今は縁がなくてもやがては縁が出来、きちんと繋がるようになることもきっとある。だから諦めてはいけない。しかし、人為でどうすることもできないのが「縁」なのだから、今は縁がなくてもそれはそれで仕方ないと割り切るしかない。縁が切れてしまったと、このところそう思う人もできた。
抽象的なことを書いていると思う。何のことかわからないかもしれないが、わからない人はまだ縁がないからであり、読んでもらえただけでもそこに些かの縁があったということでありそれは有り難いことなのである。
これからのこと、いろいろ不安にも思うところも多々あるが、今は何も考えないし焦りも慌ても諦めもしない。縁あらばまたきっと新たに誰かと出会えるだろうし、疎遠になってしまった人ともまた繋がることであろう。ただ、自分は自ら縁を切るようなことはしていないか、自戒するこの頃だ。縁とは全てを受け入れて心を開いて待つものなのだから。
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