「敵」も「問題」も我が中にあり2012年09月17日 22時59分17秒

★歳をとって見えてきたこと

 今日17日は月曜だが敬老の日で祝日。おまけに今週は土曜日が秋分の日でまた祝日の連休。暦の上のこととはいえ昨今は人為的なことも絡んでいるわけで何かこうした連休は意味があるのかと訝しく思う。こうした短い休みを利用して旅行に行く人などいるのだろうか。
 お役所など公共機関、郵便局、銀行などは休みで不便でならない。これは連休が続くと有り難い仕事に就いたことがない者の僻みだろうか。

 それはともかく、今日は遠くの台風の影響なのか時折強い風が吹き、日に何度もザーとかなり激しい雨が繰り返し降った。晴れたかと思うと短時間だが窓から吹き込むほどの豪雨。明日も似たような天気だと報じられている。まあ、都心はともかくウチのほうはようやくこの雨で涼しくなってきたが。
 やや蒸し暑くても植木や畑の水遣りから開放されたのでホッと一息である。ただ今日も偏頭痛は続いてなかなかスッキリしない。
 
 さて、最近になって気づいた、というか思い至ったことを少しだけ。

 このところ世界各地で、米国や日本に対して抗議活動の名を借りた暴動のような騒ぎが発生している。その原因となる事態は全く別であるしその原因の是非、成否は今は問題とせずにこうした騒擾について考えてみたい。

 米国に対してのイスラム世界での騒動はともかくも、今お隣の中国で起きている反日暴動は、日系企業を襲って略奪したり現地の日本人の命と財産を脅かすほどの勢いで、常識的な抗議活動の域を越えてしまっている。ニュース解説などでも報じられているように、そこには中国大衆の現体制に対する不満やストレスが内在していて、その怒りの矛先として「敵国」日本は格好の標的であり、いわば当局もガス抜きのためこうした反日デモ、抗議活動を厳しく取り締まらないのだという。下手に厳しく規制したりすると今度は大衆の怒りは反日ならぬ反体制へと向かい始める。こうした見方はあながち穿ったものではないと思える。
 そう、人と言うものは、悩みはともかく、怒りや不満、ストレスは外に向けて発散したいと願う動物なのである。日本でも60年代の終わり頃、若者たちによる学園紛争、反米闘争などかなり過激な、今の視点で捉えれば「暴動」と捉えられる抗議活動が全国的に勃発していた。

 自分はその運動、活動に参加するには幼すぎたので迂闊なことは言えないが、あの騒動は若者特有の正義感と騒動の要因となった時代状況が噛み合った、抗議活動に名を借りたストレス発散のための集団ヒステリーのようなものではなかったのではないかとも考えている。その行動自体を無意味だとかバカバカしいと否定はしない。そこには解決すべき矛盾や問題が多く存在していた。が、今思うとその行動はあまりに人間的に幼く、頭でっかちで冷静さを欠いていたと言わざるえない。もっと誰もが内省的に深く考えて行動すべきだったと思えるが、全てがそうした「時代」だったんだと肯定するしかないという思いもある。

 それから40数年。今もまた抗議活動として脱原発を掲げて、今も週末金曜日ごとに首相官邸前に何万人もの人が集まり抗議の声を上げている。3.11を機に再び熱い季節が戻った。大規模な集会を呼びかければ十数万人もの人間が一同に集まる。しかし、昔ならそこからデモ隊が警官や機動隊と衝突したり暴徒化したりしただろうに、今は実に大人しく一定の時間が過ぎれば粛々と自然解散となる。昔を知る者としてはやや物足りなくも思うし、これもまた「時代」なんだと思うがそのぶんこの国の民意も成熟してきたのだと気づく。

 つまり、昔はその個々内側のストレス、怒りの矛先として、官憲、機動隊、大学当局、教授会など「敵」が安易に想定できた。抗議の声を上げる、シュプレヒコールだけでは物足りない、革命のためならもっとゲバルト、実力行使でという思想も受け入れやすかった。確かにそのほうがカッコいいしスカッとストレスは発散できる。たぶん、今の中国の反日デモ、暴動に与する人たちもその思いでいるのだと思う。怒りはまず行動で示せと。だからついエスカレートしていく。
 彼らからすれば官邸前で、ただ、再稼動反対!と叫ぶだけの抗議活動などは生ぬるいし意味のないことと思われよう。首相がそれに耳を傾けるはずもない。しかし、その行動は無意味ではないしその地道さこそが力を持つ。
 この国の民意もやっとそこまで成熟し大人になったのだと自分は考える。暴徒化することなく冷静に声を上げ続ける。これは素晴らしいことだと思える。何よりそこに集う人たちは昔のように学生、若い労働者だけではない。むしろ中高年の姿すら目立つ。子供連れの若い夫婦層やカップルも多い。60年代末の異常な熱気はそこにはないが自らの内面をみつめ問う真摯な思いが誰からも感じられる。それはストレス発散のためではない。もっともっと深いところから出てくる正しい怒りだ。それこそが真の抗議活動であり、政治と向き合うことだ。今この国の民もようやく大人になったのだと感心する。

 今も世界中で多くの人々が抗議の声を上げ集会を開きデモ行進をしている。ただそれが暴徒化し暴動となるのではその運動はやがて無意味なものになり失敗に終わる。目先のもの、目の前にあるものは実は敵ではない。テロや実力行使の時代は既に終わった。非礼を承知で書く。抗議活動がすぐに暴動へとなってしまう国は民度が低いのである。そう、この日本がかつてそうだったように。