世界は大きく変わっていく~武力行使、政権の裁量 閣議決定へ ― 2014年07月01日 07時56分19秒
★不戦の誓い、平和憲法を解釈で捨て去る「三代目」。 アクセスランキング: 125位
6月1日、新しい朝が来た。外はこの季節珍しく晴れわたり陽も出ている。今日は暑くなろう。
残りの人生がどれだけあるのかわからないがもう一度人生を生き直そうと思った。大変な時代であるからこそこのままでは死んでも死にきれない。本当に悔いなきよう、守りではなく攻めの気持ちで改めて生きて行こうと思った。
世の中、人のために生きる。結果そのことが自分のためにもなると信じて。そして日々感謝の心を忘れずに。
待つことも大切だが、待っていてはいつバスが来るか、来ても停まってくれるかわからない。ならばじっとそこでただ待つのではなく、少しでも自分の足で目的地に向かって歩いて行こう。ドアは自ら叩かない限り開かないのだから。
すべてのことには意味がある。この大変な時代に生まれてまだ生きていることの意味を問いつつ、なすべき使命を果たしていこう。期待もしないが、絶望も諦めもしない。時として喜びは喜びとして哀しみは哀しみとしてやってくるだけだ。それを粛々と受け入れていく。
神は人の願いと努力の分に応じて報い応えてくれるならば、いや、たとえそれが正当な値でないと思えてもやっていくしかない。
このところこんなことを考えている。
戦後69年だと先の沖縄戦追悼の儀式で語られていた。
ということは実に長きにわたり戦争のない平和な時代が続いてきたことになる。70年もたてば揶揄としてうたわれた「戦争を知らない子供たち」ばかりに日本の国民はほとんどとなってしまったわけである。
そして今、日本をとりまく国際環境の変化を理由に、憲法という国家の最高法規を一内閣の解釈で真に身勝手に根底から変えようとしている。もう何度も書いてきたし多くの方も自明のことだから繰り返さないが、要するに戦争はしないと武力行使を自ら禁じた国家の方針、憲法に書いた誓いを変え捨て、これからは日本もときの政権の判断で海外でも武力を行使する、戦争に参加できる、戦争ができるようにしていくということだ。
また怖いのはそれを許容する世間の雰囲気もあって、心、良識ある人たちは今大きく反対、阻止の声を上げているけれど残念ながらその勢いは国民的大勢にはまだなっていない。このことがどれほど危険か問題なのか、無関心でよくわかっていない人たちも多いと思える。家のトップが勝手に決めたとしても家族はそれに唯々諾々従う覚悟はできているのか。
筆者マス坊は平和憲法堅持を強く願う者であるが、今日のような状況に至ったのは、戦後も約70年近く過ぎると「本当の戦争」というものを知る世代が減ってしまったからだと考えている。そのことについて書いてみたい。
俗に昔から「家」とは三代以上続けば安泰と言われている。ならばそれは商家、企業に限らず家の集合体「国家」もまた同じであろう。
初代が興した家を守り続けさらには隆盛させられるかあるいは没落させるかは三代目の手腕にかかっている。
つまり、初代はがんばって苦労して家を興した。二代目はその初代の子として間近に見ていたからその苦労と家訓を忘れない。初代も二代目に語り継ぎ志を継いでいく。が、三代目となると初代は既に亡く家もしっかり成っているのでそれが当たり前だと思い、金もあるので結局商いそっちのけで放蕩三昧にふけってしまいには家を潰してしまう。
江戸川柳の「売家と唐様で書く三代目」はそうした初代の志を忘れて道楽にふけって家を潰してしまった三代目の当主を嘲ってのうたであるが、今の日本人こそその「三代目」ではないのか。
※これから山梨へ行く急用があるので全部書ききれなかった。戻ったら書き足すかします。
6月1日、新しい朝が来た。外はこの季節珍しく晴れわたり陽も出ている。今日は暑くなろう。
残りの人生がどれだけあるのかわからないがもう一度人生を生き直そうと思った。大変な時代であるからこそこのままでは死んでも死にきれない。本当に悔いなきよう、守りではなく攻めの気持ちで改めて生きて行こうと思った。
世の中、人のために生きる。結果そのことが自分のためにもなると信じて。そして日々感謝の心を忘れずに。
待つことも大切だが、待っていてはいつバスが来るか、来ても停まってくれるかわからない。ならばじっとそこでただ待つのではなく、少しでも自分の足で目的地に向かって歩いて行こう。ドアは自ら叩かない限り開かないのだから。
すべてのことには意味がある。この大変な時代に生まれてまだ生きていることの意味を問いつつ、なすべき使命を果たしていこう。期待もしないが、絶望も諦めもしない。時として喜びは喜びとして哀しみは哀しみとしてやってくるだけだ。それを粛々と受け入れていく。
神は人の願いと努力の分に応じて報い応えてくれるならば、いや、たとえそれが正当な値でないと思えてもやっていくしかない。
このところこんなことを考えている。
戦後69年だと先の沖縄戦追悼の儀式で語られていた。
ということは実に長きにわたり戦争のない平和な時代が続いてきたことになる。70年もたてば揶揄としてうたわれた「戦争を知らない子供たち」ばかりに日本の国民はほとんどとなってしまったわけである。
そして今、日本をとりまく国際環境の変化を理由に、憲法という国家の最高法規を一内閣の解釈で真に身勝手に根底から変えようとしている。もう何度も書いてきたし多くの方も自明のことだから繰り返さないが、要するに戦争はしないと武力行使を自ら禁じた国家の方針、憲法に書いた誓いを変え捨て、これからは日本もときの政権の判断で海外でも武力を行使する、戦争に参加できる、戦争ができるようにしていくということだ。
また怖いのはそれを許容する世間の雰囲気もあって、心、良識ある人たちは今大きく反対、阻止の声を上げているけれど残念ながらその勢いは国民的大勢にはまだなっていない。このことがどれほど危険か問題なのか、無関心でよくわかっていない人たちも多いと思える。家のトップが勝手に決めたとしても家族はそれに唯々諾々従う覚悟はできているのか。
筆者マス坊は平和憲法堅持を強く願う者であるが、今日のような状況に至ったのは、戦後も約70年近く過ぎると「本当の戦争」というものを知る世代が減ってしまったからだと考えている。そのことについて書いてみたい。
俗に昔から「家」とは三代以上続けば安泰と言われている。ならばそれは商家、企業に限らず家の集合体「国家」もまた同じであろう。
初代が興した家を守り続けさらには隆盛させられるかあるいは没落させるかは三代目の手腕にかかっている。
つまり、初代はがんばって苦労して家を興した。二代目はその初代の子として間近に見ていたからその苦労と家訓を忘れない。初代も二代目に語り継ぎ志を継いでいく。が、三代目となると初代は既に亡く家もしっかり成っているのでそれが当たり前だと思い、金もあるので結局商いそっちのけで放蕩三昧にふけってしまいには家を潰してしまう。
江戸川柳の「売家と唐様で書く三代目」はそうした初代の志を忘れて道楽にふけって家を潰してしまった三代目の当主を嘲ってのうたであるが、今の日本人こそその「三代目」ではないのか。
※これから山梨へ行く急用があるので全部書ききれなかった。戻ったら書き足すかします。
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