五郎さんと僕2019年10月17日 18時16分30秒

★中川五郎祝・古希&音楽活動半世紀越え・記念コンサート10/19日@谷保かけこみ亭

 その『五郎と「共謀」コンサート』が明後日に迫って来た。いま、改めて彼と自分・マスダとの関わりを振り返ろうと思う。

 五郎氏は、いや、五郎さんは、昭和24年の生まれだから、我よりは十歳近く年上で、その初めての出会いからすれば、もう40年近く経つ。そのとき僕は、17か18歳だったか。
 いや、それだと計算が合わない。ならば40年以上時が過ぎているはずだ。

 正確な日月は思いせないのだが、1977年か76年だと思う。今も昔も政権与党は、様々な勝手な法律を拵えては、国民にそれを無理やり押しつけてくる。そして常にそれに抗議の声を上げる民衆がいる。
 尺貫法の法改正だったか、それと銃刀法、モデルガン規制の法律が出来、それらに反対する文化人、市民によるコンサートがあった。場所はもうどこだったか思い出せない。
 当時、僕は福生で、高校の後輩たちとミニコミを作っていて、彼らを連れて取材も兼ねて都内で行われたそのコンサートに出向いた。出演者も今ではほとんど記憶にないが確か永六輔さんも出ていたはずだ。
 そのとき、中川五郎さんも登場し、何曲か歌ったのだ。何を唄ったのか全く記憶にない。

 終わって、帰り道、皆と夜道を歩いていたら、ふとその道の先に、五郎さんが青木ともこさんと一緒に歩いている後ろ姿があった。
 で、声かけて、呼び留めて、何か手持ちの紙に、サインしてもらい少しだけ話したのが初めての出会いであった。今も変わらず才人の彼は、そのときもさっさっとモデルガンのイラストをその場で書き加えてくれた。
 が、彼のライブは、一人で東京から夜行列車で出かけて観た大阪天王寺公園での「春一番」コンサートのほうが先だった気もする。

 その以前からURCのレコードとか、受験生ブルースの作詞家とかではお名前は知っていた人だったが、当時、わいせつ裁判も抱えていたせいか、春一ステージの彼はともかく元気がなかった。
 情けないうたを弱弱しく情けなく歌う人というイメージをまず持った。客席からは、「ゴロ―!元気出せ!」という野次が飛んでいたことを今も思い出す。

 僕は高校生の頃から、吉祥寺にあった伝説的喫茶店「ぐゎらん堂」に出入りしていて、その店は、「中川五郎わいせつ裁判支援東京本部」であったから、僕も支援会員にもなっていたかと記憶する。
 店では、週一で、ライブもやっていて、友部正人やシバ、渡氏を生で見知ったのもそこであった。その流れで大阪・春一番に行くことになったのだ。
 が、当時既に東京に居を移していたはずの五郎さんのライブはその店で見た記憶はない。
 それだから、僕にとっての中川五郎とは、ずっと情けないうたを情けなく歌う人というイメージしかなかった。
 が・・・人は変わる。時の流れと環境、状況で人は良くも悪くも変わっていく。

 十代の頃は、わざわざフォークソングの祭典・春一番コンサートを観に、大阪まで大垣行き夜行列車でキセルして出向くほどのフォーク少年だった僕も、大学を出て、社会に飛び込むようになると、仕事や新生活に追われてフォークのライブにも吉祥寺にも足が遠くなってしまった。
 折しも時代は80年代のバンドブームで、かつて一時代のを築いたムーブメントであったアコギによる「日本のフォークソング」は、すっかり古臭い、時代遅れのものだという風潮に代わってしまった。
 地道に歌い続けたシンガーもいたかと思うが、多くのフォークシンガーは、うたと離れて、別の生業に手を染めるしかなかったようだ。
 五郎さんもマガジンハウスで、雑誌編集に携わったり(その頃のことは、彼の小説『ロメオ塾』に描かれている)、レコードのライナーノーツ書きや音楽評論、洋楽の歌詞などの翻訳家として、その名を目にすることが多くなった。
 あの五郎さんは、今こんなことをしているのかと紙媒体を通してその動向はよく伺い知れた。
 僕もすっかり音楽からは離れてしまいJポップも含めて、日本の音楽シーンには関心を失いまったく疎くなってしまっていた。あんなに好きだったフォークソングは過去のもの、青春時代の思い出の一コマと化していた。そして20世紀も終わる。

 人生には、大きな転機のときが来る。もし、その日、その場所に行かなかったら、今の自分はなかった、まったく違ったものであったと思うきっかけのときがある。
 それは2005年4月の高田渡の死であり、その直後に、彼の友人知人たちが催した小金井公会堂での、縁のミュージシャン総出のお別れ会コンサートであった。
 ネット古本屋仲間に誘われて行く気もなしに連れていかれたのだが、そこで再びフォークソングと再会し、名状しがたい深い感動を覚えた。焼けポックリに火がついた。
 終わってすぐ感動冷めやらぬうちに、五郎さんにメールか何かで連絡したのだと思う。

 何事においても気さくな、フットワークの軽い彼からすぐ返信があり、近く水道橋の居酒屋スナックでライブがあるから、とお誘いを受けた。向うは、かつてモデルガン規制反対コンサートの帰り道、声かけてきた少年のことなど憶えているはずもない。が、ともかく出かけてみた。
 30年?ぶりに観た五郎さんのステージに僕は度肝を抜かれた。かつての弱弱しく元気のなかった、なさけない歌をなさけなく歌う姿はまったくそこにはなかった。
 パワフルでエキサイティングで逞しく力強く、しっかり声も出ている。まるでイギー・ボップのようなロックンローラーがそこにいた。ほんとうに驚かされた。人は変わる。これほど変わるとは。かつての何か弱弱しかったイメージはどこにもなかった。実に素晴らしい!

 それから僕は、誰彼問わずいつもきさくで親切に接する彼の知己を得て、彼のコンサートの追っかけとなり、そこからみほこんをはじめとして新しく多くの素晴らしいシンガーに出会うことができた。枯れて乾いていた僕の中に、音楽、フォークソングの水脈が再び流れ始めたのだ。
 以後多くの素晴らしいシンガーたちと知り合い、そしていつしか僕自身もコンサートの企画などに関わるようにもなり、今こうしているというわけだ。思えば渡氏の死の年から既に15年過ぎた。
 あの日、渡氏の追悼コンサートに行ってその後すぐ五郎さんに連絡しなければ、今の自分はここにいない。たぶん今でも本の山に埋もれて音楽なんか関係ない人生を歩んでいたはずだ。

 誰かの歌詞の一節ではないが、♪俺をこんなに変えてくれた昔の友がいるんだ、という気がする。
 五郎さんは僕を変えてくれた恩人であり、迷うことばかりの僕の人生を導いてくれる北極星のような不動の存在だ。ならばいつかきちんと恩返しをせねばならない。それも元気に生きているうちに。

 折しも今年2019年は、彼はちょうど70歳の古希にあたる。また、1967年、彼が高三のときに高石友也のコンサートでデビューしてから音楽生活は半世紀を越えた。
 そうした節目の年、7月25日の彼の誕生日辺りに、今住む地元国立でも記念の祝賀コンサートを、と仲間内で企画し始めたが、時遅く、既にその頃はスケジュールが一杯で、何とか今秋、10月19日だけが空いていて、今春やっと押さえられたというわけだ。そしてやっとその日が来た。

 五郎さん、古希おめでとう。そしてこれまでご苦労様。そしてこれからも変わらずお元気で、フォークソングの神髄を歌い続けるトップランナーとして、ピート・シーガーの歳までしっかり歌い続けてください。
 僕らはずっと応援していきますから。フォークって何かと問われたらば、五郎さんを見よ、その存在こそがフォークソングなんだと、僕は答える。
 有難う! ミスター・フォークソング!素晴らしき中川五郎。

本日19日、中川五郎と「共謀」コンサート! ぜひご参加を!2019年10月19日 09時29分34秒

★ついに当日となりました。

 昨夜もまたかなり本格的な雨が降り続き、天気も悪くおまけにともかく寒い。
 が、今は雨も上がって今日は終日曇り空の予報のようだ。先週の土曜日だったら颱風襲来の当日だったわけで、中止にしなくても誰一人来れなかったはずだから、今日でともかく幸いだったと思うしかない。

 こんな天候だから客の入りも心配だけど、御大五郎氏をはじめ出演者はどんな状況であろうとも最善最良の熱いステージを見せてくれるに違いない。ぜひとも一人でも多くの観客、参加者を皆でお待ちしている。
 先にお知らせした演者の他に、さらに今回は豪華な飛び入りアーチストも来るとのことで、企画した我マスダ自身が楽しみでならない。

 個人的なことだが、コンサートの企画は、ひとまず今日でいったん終わりにするつもりでいる。先のことは何ともわからないが、今の自分にとってこれまでの集大成となるべく最良のイベントにしたい。
 それを敬愛する恩人・フォークソングの伝道師・中川五郎氏と共に、最良のミュージシャンを招いて催し出来るのは、企画者冥利に尽きる。

 今回も豪華メンバーが登場するが、相変わらず投げ銭制とした。消費税10%のご時世に、かけこみ亭は、増税も値上げもせずがんばっている。
 今回も出入り自由で、代金は自由意志である。今日、もしお時間あり出かけられる状況にある方は、ぜひぜひ谷保かけこみ亭へお越し頂きたい。午後4時から夜9時近くまで熱い演奏が繰り広げられる。問/042-574-3602 かけこみ亭

 たくさんの素晴らしい演奏とうたがそこにはある。足りないのはたくさんの素晴らしい観客だけだ。
 心からお待ちしてます。

2019.10.19.中川五郎さんと「共謀」コンサート、無事大盛況で終了す2019年10月20日 09時21分42秒

★さあ、ここからこれから解き放たれる

 昨日19日、谷保かけこみ亭で開催された、中川五郎古希・音楽活動50年過ぎ記念「五郎と共謀コンサート」は、多くの観客、多彩なゲスト、彼を慕い敬愛するたくさんのミュージシャンが集い無事大盛況のうちに終わった。
 参加された多くの皆さん、それに御大中川五郎さん長い時間お疲れさまでした。素晴らしい時間を共に過ごされた皆さんにただ感謝いたします。参加ご協力ありがとうございました。
 歴史と記憶に残る一夜になったと思うし、自分の中でも一つの大きな節目、厳しい峠をやっと乗り越えた気がしている。
 
 このところ自ら企画したコンサートを終えると、いつも翌朝起きたとき感じる気分は、長い旅から帰って来た時のような疲労感と安堵の気持ちであるが、今朝は特にそれが強い。登山を行った日の翌朝の気分にも近い。足腰がだるく痛く、身体の節々も痛くて鈍い頭痛もしている。自分では何も「演奏」はしなかったのに。でも気分は爽快だ。何より解き放たれた気分でいる。

 これから今回の「五郎と共謀」コンサート、当日の模様を時間を追ってこの場で公開していこうと思う。
 が、その前に、こうした音楽企画をいったん終えることにしたことについて、今の気持ちを自らのためにも記しておこう。

 まあ、ともかく大きなイベントを無事に終えて、この先の予定もなく、やっと背負ってきた荷物を降ろすことができる。のんびりは出来ないが、これまでの「旅」を振り返ろうと思う。
 登山家が、山から下りたら、リュックを開けてまず持ち運んだ装備品を点検し、汚れた靴を洗い濡れたシュラフなどを干すだろう。そして登山記録を記す。そうしたことをやろうと思う。
 そしてまた次の新たな登攀する山を定めて、計画を立てて準備を進めていく。我はまだ今はそんな予定は考えないが、まずは荷を降ろして、「点検」と「記録」をきちんとしていきたい。

 自分はミュージシャンやシンガーではなく、そもそも観客の延長から「企画」側に立った者だから、コンサートに対する感覚は、彼らとはまったく違う。
 演者というか、ステージに立つ側は、その日そのときが全てであり、基本終えたライブのことはあれこれ振り返らない。失敗も成功も含めて過ぎたことであり、また次の新たなるステージと観客のことしか考えない。
 それは、高坂一潮のうた『だびよんの鳥』が描いているように、「長い旅」の続きであり、日々次の演奏時にベストを尽くすだけなのだ。彼らはいつまでもそこに留まっていない。ある意味、ミュージシャンは旅芸人なのである。
 だが、観客側は、つねにここにいて、優れた映画を観たら何度も思い出して反芻し、ときに感想記をつけるようにその過ぎたときを記憶に留めるものだ。

 まして企画側は、その日そのときそこであった事を責任もって記録しないとならない。どんなミュージシャン、シンガーが登場し何が唄われたのか、観客の入りや反応はどうであったかも含めて。
 演者側は、歌い演奏することしかできないからこそ、観る側、特に企画する側はレスポンスとして終演後それをしないとならないのではないか。
 いや、観客としてただ純粋に音楽や演劇、映画を楽しむ側は、次々また新たなそれを楽しみに観に行けばよい。日々新たな旅芸人は、そこにやってくるのだから。
 そう、企画した側の責任だけが問われているのであった。それと我が関わり観たコンサートも同様に。

 思えば、1970年代半ば、大阪天王寺野音での春一番コンサートに出向いた時から、我はずっとそこでの音を録り写真も撮ってきた。それはそこであったことを記録しておかねばと考えたからだ。何でか?それは感心感嘆するほど素晴らしいものであったからだ。
 建物や風景は、モノだから基本そこに存在している。むろん日々少しづつ移り変わり消えたり新しいものになったり変貌していくものだが、いつでもこちらの都合で記録できる。
 しかし、パフォーマンス行為、中でもライブ音楽は、映画演劇などよりも可変的要素、即興性が高く、同じうた、演奏でもその日そのとき、場と参加メンバー、観客も異なれば出来はまったく違う。

 芸能音楽は形がない。絵画などの芸術は、作品として残るからどれほど時間が経とうとも条件があろうが鑑賞可能だ。が、目に見えない音楽、演者はそこにいても音と演奏は、あたかも風のように、その場を通り過ぎていく。そこにいた人の耳と心に深い余韻を残しながら。
 風の歌をきけ、という小説があったが、まさに歌、音楽とは風のようなもので、本来はその場にいてそれを聞いた人だけのものだった。
 今は科学の発達で、映像も含めて誰もがそれを記録保存、さらに公開、拡販することも可能になった。誰でも、その場にいなくても後でいつでも観ることができるようにしたのは、YouTubeの偉業であろう。
 しかし、それはいつの時代も変わらず、それを記録していた人がいてのはなしだ。どんなに素晴らしい歴史的価値がある出来事、イベント、記録的事件であろうと、文字も含めてそれを記録した人がいてのことだ。

 歴史とは何か、と問われて、文字に書かれたことこそが歴史だと言う至言が中島敦の小説にあったが、まさにあったこと、起こったことは、それをその場で観た人が、何であれ「記録」に残さないと、そしてそれを世に「公開」しないと「あったこと」にはならない。
 我はそう意識してずっと近年、高田渡の死の年、2005年から可能な限り、条件が許されるならば、行ったイベント、コンサートは音と写真などで記録するようにしてきた。それは膨大な量に上るはずだ。
 が、記録はしても「公開」しない限り、いや、公開しなくともそれが残ってることを告知・周知させない限り、それがあったことは世に残らない。なかったことになってしまう。
 特にこの我が死んでしまえば、すべては雲散霧消して「なかった」ことになる。老いてこのところその恐怖、不安を強く感じる。

 願わくば、そうして録りためた音源、画像をすべて時間と場所、個人こどに分別整理しデジタル化して、私的アーカイブスをつくりたいと思う。
アメリカには議会図書館があり、かのローマックス親子がいたことで、レッドベリーをはじめとして貴重なシンガーのうたが彼らの収集・尽力で残され今日も「生きて」歌われいる。
 日本では、伝統芸能、歌舞伎や能、狂言、落語などの一部の演芸は、公的機関の庇護の元にあるが、音楽、中でもポピュラーソング、ロックやフォークソングなどの大衆芸能、民衆音楽は国家は取り締まりはしたとしてもまったく価値を認めていない。まさに風のようにその日そのとき、どこかで吹いてはたちまち消えていく。その場にいた人たちだけが記憶に留めるが、彼らが死ねばそこに何も残らない。

 そうならぬためにも自分はこれまで録り溜めたライブ音源・映像などをきちんと整理してデジタル化してCD、DVD、あるいは、YouTubeなどに演者の了解・承諾が得られたらアップしていきたいと考えている。
 むろんこれからも時間とお金があれば、お誘い受けたライブ、イベントにはできるかぎり顔出してまた記録は続けるつもりでいる。また、音楽イベントもまた新たに企画出来たらという腹案もなくはない。
 が、いまは、まずは父の介護の傍ら、ひたすら家に籠って猫たちに餌やりつつ、パソコンに向かい音源と映像整理に取り組んでいくつもりでいる。
 その日そのとき、そこで何があったか。拙宅無頼庵は、それを鑑賞・公開できる場、アーカイブとして再開させたい。むろんいっぺんにはできない。少しづつ少しでも進めていく。

「共謀」コンサート、終わり始まる2019年10月20日 21時08分05秒

この本は面白い!!
★第一章の「最後の回」は、半世紀前からの「首謀者」中川五郎を迎えて10/.19日無事大盛況で終了。

 谷保かけこみ亭での連続企画コンサート『護憲と反戦平和のための「共謀」コンサート』は、昨日19日、御大中川五郎をメインに据えて、大盛況のうちに終了した。
 安倍自公政権による「共謀罪」が強行的に成立してから、我・マスダは、かけこみ亭の店主ら友人知人と相談し、共謀罪ができても護憲と反戦平和のために、ミュージシャン、音楽家たちが音楽を通してできることとして、『「共謀」コンサート』をやろうとカクサクし始めた。※同様の企画は、ぱぎやんたちが大阪で今も続けている。

 そして2017年8月11日、李政美with矢野敏弘さんをメインに迎えて、まず第一回を開催。その後も数か月おきに回を重ねて、番外編も加えれば計約10回、この2年間に同所で、「共謀」コンサートを続けてきた。
 そして、とりあえずの最終回は、今年70歳の古希を迎え、音楽活動歴も半世紀を越えた、まさにフォークソングのレジェンド御大中川五郎をお迎えして、彼を慕い敬愛する、彼からの薫陶を受けたミュージシャンたちが前半を務めて、たっぷりとフォークソングの神髄をうたって頂いた。
 思えば、「護憲と反戦平和」ということは、市民の「自由」と「権利」と同義であって、中川五郎は、高校生のとき、あの関西フォークムーブメントの時代からずっとそれを歌い続けている。※一時期うたを離れた期間があったとしても、文筆活動でそれを続けていたのだ。

 同時期に活動し始めたシンガーたちでまだ健在の方もいるにはいるが、当初の志を変わらず抱いて同じスタンスで今も現役で精力的に活動続けている人はもはや五郎氏以外には見当たらない。
 そうした意味で、護憲と反戦平和のための「共謀」~という趣旨からすれば、彼こそが元祖その「首謀者」であり、我も今回前座役を務めたミュージシャンたちも皆彼のうたを聴き、彼の撒いた種から育ったと言えよう。五郎ズ・チルドレンなのだ。

 ならば最後の回は彼をお迎えするしかないと思い、折しも今夏古希70歳となられる記念の年に、そのバースデーの頃に、彼の住む地元国立のかけこみ亭で、開催したいと考えていた。だが、今春早々彼のスケジュールを確認した時点で、超お忙氏の彼は、夏はもう土日祝日は全部埋まっていて、かろうじて直近で空いていたのが、10月19日だけで、この日となったというわけだ。

 この秋はやたら台風も次々こらちにやってきて、先週であったら19号直撃の当日であったから、開催中止となっていたことは間違いなく、雨上がり曇り空の日であったが、多くのミュージシャン仲間も来てくれて熱く大盛況の一夜となった。
 「共謀」コンサートは、今回で、とりあえずまずは「終了」とするけれど、それは第一章が終わったということで、五郎氏の昔のアルバムのタイトルの如く、「終わり始まる」ということにすぎない。また始めるために終わるのである。
 近くもう一度コンセプトも含めて態勢を立て直して「共謀コンサート」、より盛大に、エキサイティングに、小泉環境大臣的に言うならば「クールでセクシー」に、第二章再開したいと考えている。そう、口先やスローガンではなく真に効果的に、この閉塞状況を打ち破る、じっさいの威力となるにはどう企画開催していくか、だ。

今日は我が父95歳の誕生日2019年10月21日 23時11分54秒

★私ごとを書かせてください

 今日10.21は、昔で言えば、国際反戦ディ、もっと古くは、神宮外苑競技場での雨の中、学徒出陣壮行会の日であった。76年前のことだと先ほどNHKのニュースで報じていた。※もう今の人たちには戦時中の学徒動員、学徒出陣とかいったい何のことかもわからないかと思う。が、あえて説明はしない。問われれば答えるけれど。

 そして追悼の行事がそれに合わせて今日あったわけだが、当時の学生で今も生きて参加された方はわずか二人だとのことで、お二人とも96、97歳と、父と同世代であり、感慨深く思った。
 そう、この世代で今もまだ生きているのは、もはやほとんどいないのである。我が父は、今日が誕生日で、大正13年の生まれだから95歳となる。良くも悪くも溜息のような感慨しか出ない。※父は家が貧しかったから大学などへは行きたくても行けず給仕の仕事していたと聞く。が、やはり学徒動員の頃、徴兵され一兵卒として大陸に連れていかれ九死に一生を得た。

 それにしても・・・まさかここまで長生きしてくれるとは、である。嬉しくないわけはないが、連れ合いである我が母は三年前に先に逝き、息子である、妻も子もない我が、唯一の家族としてすべての面倒見ているわけだから、その苦労、大変さは言うまでもない。
 いや、言わなくても拙ブログでは繰り返し愚痴めいたことを書き連ねてきた。それに対してそんなつまらないこと、どこにでもあるようなことは書くな、つまらないと言うご意見も受けた。
 が、そうした「息抜き」、愚痴こぼしの発散の場がなければ、たぶん我はストレスで父を殺して家に火をつけ自殺していたかもしれない。そうした老老介護の末の破綻、行き詰まりの悲惨な事件は今は珍しくない。
 そうならずにここままで父を生かし、父と共に無事生きてこれたのは、我に表現する場、外に向けた場があったからで、どうかご理解願いたい。
 これがプロの、金が入る仕事なら、我もプロに徹して家庭内の個人的事情は、おくびにも出さず、読み手の興味ある事を面白おかしく書いていたかと思う。それもできなくはない。
 が、これは、タダなのである。いくら真剣に時間かけて書いたとして1円にもならない。ならば、読み手に忖度せずとも好き勝手に自分のコトを書いたって良いのではないか。むろんそれで読みたくない方は読まないで、またコイツは親父とのこと、愚痴めいたことを書いてやがる、つまらない、とタイトルだけでスルーすれば良いではないか。

 ただ、あえて言わせてもらえば、これはヒトゴトではないのである。老いも介護も自分とはカンケイないと思っている方は、いつかやがてその過ちにきづくはずだ。
 また、もう親たちはいないから、関係ないとお考えの方も自らの老後、そのとき誰に介護されるか、それはどういうことか考えないのであろうか。
 安倍内閣のキャッチフレーズ、人生百年時代とは、元気で働きながら百歳を迎えられるということではない。おそらくこれから医学の進歩で、誰もがじっさい百歳近くまで生きられるだろう。
 じっさい身体は癌などにやられず健康ならば百歳近くまで長寿はできる。しかし、頭のほうは、果たして呆けずに百までいられるか。
 父を見ていると、やはり頭の方が身体より先にダメになった。今は幸いにして身体も相応に衰弱して動けなくなってきたから勝手に徘徊もできなくなって介護する側は楽になったが。

 百歳近くまで生きるということ、その歳まで生かすということは、本人よりも家族の問題としてものすごく大変なのだ。
 周りを見回しても我が知人友人には、父と同世代の人でまだ生きている人はもう誰もいない。本人は何も感慨ないようだが、息子である我はよくまあ、ここまで生きた、生かせたという驚きに近い感心する気持ちがわく。むろん喜びの気持ちもなくはない。が、これまでもだが、この先はいったいどんな事態が待っているのか、まさに未知のゾーンに入っていくわけで、その「地獄」はどんなものか、怖れつつも楽しみでもある。

 介護側も含めて、老いの苦労や呆けの実相については古今東西いろんな本や話を聴いて漠然と理解はしていた。しかし、じっさいに超老人と暮らしてみて、こういうものか!と日々新たに知り得ることばかりだ。
 何であれ、見ると聞くとは大違いというが如く、頭で知識としてわかっているつもりでも:現実問題として実際に体験してみないと真にわかりはしない。そのことを日々痛感している。
 老いとは、認知症、呆けるとは、誰にも起こることだが、一般的であり、かつ人の数だけそれぞれ大きく異なる。

 父は今夏要介護4となり、もう在宅では生活介護の限界となって来たけれど、まあ今は、ともかくまだ当人が意識と感情があり、意思意向が示されるうちはショートステイなど利用しつつこの家で共に暮らしていこうと思っている。
 もうどうせそれほど先は長くはないのだから。が、そう思っているうちにここまで来たわけだから、ヘタ打てば、我のほうが先に逝くかもと還暦過ぎてこのところ不安にもなって来た。まあ、あと5年、百歳までは生きることは絶対ないと思うが、戦禍をくぐり抜けてきた「最後の日本兵」は、信じられないほど頑健で、痩せ衰え今にも死にそうに見えてもなかなか死なないのである。
 そんな父を我は誇りに思えてきた。人はここまで自分勝手に生きて良いのだと。

10.19五郎と「共謀」コンサートを画像で振り返る・序2019年10月22日 08時12分54秒

★広瀬波子と共に
★五郎さん、毎度の熱演熱唱お疲れさまでした!

 谷保かけこみ亭で、2019年10月19日開催された、護憲と反戦平和のための「共謀」コンサート『番外編』・中川五郎を迎えて、古希祝賀&音楽活動半世越え記念『五郎と「共謀」コンサート』の詳細は下記のとおり。

 ・開演:午後4時 終演:午後8時半 ※途中6時ごろに休憩アリ

 ・出演順  マスダ昭哲 司会進行
       
        ペピータ
        ウッディ with共謀ダンサーズ
        火炎瓶テツ ※飛び入り参加
        館野公一
        五十嵐正史とソウルブラザーズ
           ~~~休憩~~~
        中川五郎 with広瀬波子+香村かをり
+共謀ミュージシャンズ※当日出演アーチスト
★全ステージサポート 広瀬波子 槙篤

 当日の模様を画像で追っていきます。※文中敬称略。どうかご了承を。

五郎と「共謀」コンサートを画像で①-12019年10月23日 06時34分16秒

この日は、山谷ブルース2019版を歌いました。
★ペピータ・1

 毎度おなじみ、マスダの共謀コンサートテーマ曲『ケ・サラ』のあと、オープニングに槇篤のパーカション独奏。
 そしてトップに登場したのは、ペピータ!

五郎と「共謀」コンサートを画像で①-22019年10月23日 07時17分50秒

槙さん、波子さんはこの日フル稼働で叩き吹きまくります。
★ペピータ+槇篤&広瀬波子

五郎と「共謀」コンサートを画像で②2019年10月24日 07時22分28秒

飄々と味わいあるうたと卓越したハーモニカを披露した
★ウッディ

五郎と「共謀」コンサートを画像で②-22019年10月24日 07時26分32秒

★ウッディのステージに共謀ダンサーズ※火炎瓶テツ&三留まゆみ