さっきまでそこにいた人が、もう今はいない ― 2025年01月29日 13時52分59秒
★森永さん死んじゃった・・・と、
昨夜、女友達からのショートメールで、経済アナリストの森永卓郎さんの訃報が届いた。
容態が悪化してきたのは、知っていたし、その覚悟もしてはいたが、まさかこんなに早く突然亡くなるとは思いもしなかった。
※彼は、その前日まで、ラジオ番組にリモートで出ていて、体調悪化が進み、もう長くないとの報告を自ら語っていたのだ。
直接の友人知人ではないし、顔や声は知っていても会ったこともない。が、その女友達の友達の方で、もう数十年も前から彼のことはよく知っていたし、近年の活躍と政権に対しての歯に衣を着せぬ発言には深く共感し、常に注視していた。
その彼が原発不明の癌にかかり、見る影もないほど痩せてしまい、その闘病の過程を包み隠さず生放送のラジオをはじめ、様々なメディアで「発信」していたので、我も日々その動向、お身体の状態は気にかかっていた。
治ることはないとしても今年もまた桜の咲く頃までは何とか持ちこたえてほしいと祈っていたのだが・・・
いまの時代、70代でも若い頃と全く変わらず元気に、精力的に活動している人もたくさんいる。また、80歳過ぎでも現役の政治家も多い。
が、やはり齢と共にとうぜん死ぬ人は増えて来るし、森永さんのように癌に罹り、闘病を続けた末に亡くなる方も実に多い。高齢になる以前に。
彼なんて、我と同世代なのである。では、何で我でなく、彼は死んでしまったのか。
そして、ついさっきまで、昨日までそこに生きて「居た」人が、もう今はいない、消えてしまった喪失感に不思議ささえ覚える。
もう会えないどころか、声も聞けない。二度と何も死者は我らに語りかけない。
我は、キリスト者のはしくれとして信仰上は、命の復活、死後の生、死者の復活を教会では祈り唱えはしている。
が、ほんとうにそれがあるのか、かなうのか、死後の世界も含めて正直確信は持てないことを告白する。
結局のところ、死んでみないとその先のことはわからないし、何一つどうなるのか、死者たちは皆どこに行くのか、どこにいるのか語ることはできない。
そう、死後の世界は果たしてあるのか、だ。
つまるところ一つだけ確実なことは、死んでしまえば、その人の人生はその時点で全て終わりとなり、もはやこの現世とは一切の関わりを失うということだけだ。
残された者たちも同様で、死者にはもう何一つ為すべきことはできない。
もう森永さんの得難い、鋭いご意見が聞けなくなることは哀しいし残念でならない。できれば、日本経済のご意見番として、あと20年は舌鋒鋭く、今の経済、好景気はバブルであること、市場に踊らされてはならないこと、資本主義の虚妄を訴え続けてほしかった。
癌にさえならなかったら、それは十分可能であったはずなのに・・・
彼がまたエライのは、今日誰もが罹る国民病となった癌の罹患に対して、自らの状態を数値も含めてまったく包み隠さず常に世に、公に発表してきたことだ。
世には、「死者は生者を煩わすべからず」という美学というか理念が広く出回っている。我の周りにも死ぬまで不治の病となったことを隠し続けていた人もいた。そして突然死の報に驚かされたが、それはある意味、身勝手な死に方ではないか。
ヒトは誰でも死ぬし、必ず死んでいくイキモノなのだから、死への道筋を避けたり隠しても全く意味がない。
森永さんのように癌罹患を発表して堂々としかも悲観的にならず、その時々の状態、体調を冷静に世に曝す生き方というか、発信していく「死に方」はまさに画期的かつ立派だと我は思う。
さすれば、やがて後を追う者にとって大いに参考と指針にもなる。
そうした意味でも得難い人を喪った。ただ、彼自身としてはもはや何も悔いはないのではないか。
多趣味多才の人だったから、病が癒えたらまだまだいくらでもやりたいことはあったかと思うが、癌とわかり、「死」を見据えてからやるべきこと、したいこと、つまり死ぬまでになすべき、やりたい懸案のことはほぼ全て為し終えたと思える。書きたかった本も何冊も出した。まさに驚異的スピードで。
苦しい治療を続けながらわずか1年間でそれを為し終えたこと。それは実にすごい偉大なことだと感嘆する。
そうして社会的にも家庭的にも恵まれて、好きなこと、やりたいことは何でもやって、短くても満ち足りた素晴らしい一生だったのではないか。
彼の魂よ、安かれ。その志を継いでいくことこそが供養だと我は信ずる。
これからも世の動向、そのときどきに、森永さんがまだ生きていたら何て言うだろうかと何度も思うだろう。そのときこそ、彼の教えというべきか、心の内の指針として彼のことを思い自ら問い考え続けていきたい。
森永卓郎さん、ご苦労様でした。迫りくる「死」を克服した生き方、後を追う者たちに、大きな励ましと勇気となりました。
昨夜、女友達からのショートメールで、経済アナリストの森永卓郎さんの訃報が届いた。
容態が悪化してきたのは、知っていたし、その覚悟もしてはいたが、まさかこんなに早く突然亡くなるとは思いもしなかった。
※彼は、その前日まで、ラジオ番組にリモートで出ていて、体調悪化が進み、もう長くないとの報告を自ら語っていたのだ。
直接の友人知人ではないし、顔や声は知っていても会ったこともない。が、その女友達の友達の方で、もう数十年も前から彼のことはよく知っていたし、近年の活躍と政権に対しての歯に衣を着せぬ発言には深く共感し、常に注視していた。
その彼が原発不明の癌にかかり、見る影もないほど痩せてしまい、その闘病の過程を包み隠さず生放送のラジオをはじめ、様々なメディアで「発信」していたので、我も日々その動向、お身体の状態は気にかかっていた。
治ることはないとしても今年もまた桜の咲く頃までは何とか持ちこたえてほしいと祈っていたのだが・・・
いまの時代、70代でも若い頃と全く変わらず元気に、精力的に活動している人もたくさんいる。また、80歳過ぎでも現役の政治家も多い。
が、やはり齢と共にとうぜん死ぬ人は増えて来るし、森永さんのように癌に罹り、闘病を続けた末に亡くなる方も実に多い。高齢になる以前に。
彼なんて、我と同世代なのである。では、何で我でなく、彼は死んでしまったのか。
そして、ついさっきまで、昨日までそこに生きて「居た」人が、もう今はいない、消えてしまった喪失感に不思議ささえ覚える。
もう会えないどころか、声も聞けない。二度と何も死者は我らに語りかけない。
我は、キリスト者のはしくれとして信仰上は、命の復活、死後の生、死者の復活を教会では祈り唱えはしている。
が、ほんとうにそれがあるのか、かなうのか、死後の世界も含めて正直確信は持てないことを告白する。
結局のところ、死んでみないとその先のことはわからないし、何一つどうなるのか、死者たちは皆どこに行くのか、どこにいるのか語ることはできない。
そう、死後の世界は果たしてあるのか、だ。
つまるところ一つだけ確実なことは、死んでしまえば、その人の人生はその時点で全て終わりとなり、もはやこの現世とは一切の関わりを失うということだけだ。
残された者たちも同様で、死者にはもう何一つ為すべきことはできない。
もう森永さんの得難い、鋭いご意見が聞けなくなることは哀しいし残念でならない。できれば、日本経済のご意見番として、あと20年は舌鋒鋭く、今の経済、好景気はバブルであること、市場に踊らされてはならないこと、資本主義の虚妄を訴え続けてほしかった。
癌にさえならなかったら、それは十分可能であったはずなのに・・・
彼がまたエライのは、今日誰もが罹る国民病となった癌の罹患に対して、自らの状態を数値も含めてまったく包み隠さず常に世に、公に発表してきたことだ。
世には、「死者は生者を煩わすべからず」という美学というか理念が広く出回っている。我の周りにも死ぬまで不治の病となったことを隠し続けていた人もいた。そして突然死の報に驚かされたが、それはある意味、身勝手な死に方ではないか。
ヒトは誰でも死ぬし、必ず死んでいくイキモノなのだから、死への道筋を避けたり隠しても全く意味がない。
森永さんのように癌罹患を発表して堂々としかも悲観的にならず、その時々の状態、体調を冷静に世に曝す生き方というか、発信していく「死に方」はまさに画期的かつ立派だと我は思う。
さすれば、やがて後を追う者にとって大いに参考と指針にもなる。
そうした意味でも得難い人を喪った。ただ、彼自身としてはもはや何も悔いはないのではないか。
多趣味多才の人だったから、病が癒えたらまだまだいくらでもやりたいことはあったかと思うが、癌とわかり、「死」を見据えてからやるべきこと、したいこと、つまり死ぬまでになすべき、やりたい懸案のことはほぼ全て為し終えたと思える。書きたかった本も何冊も出した。まさに驚異的スピードで。
苦しい治療を続けながらわずか1年間でそれを為し終えたこと。それは実にすごい偉大なことだと感嘆する。
そうして社会的にも家庭的にも恵まれて、好きなこと、やりたいことは何でもやって、短くても満ち足りた素晴らしい一生だったのではないか。
彼の魂よ、安かれ。その志を継いでいくことこそが供養だと我は信ずる。
これからも世の動向、そのときどきに、森永さんがまだ生きていたら何て言うだろうかと何度も思うだろう。そのときこそ、彼の教えというべきか、心の内の指針として彼のことを思い自ら問い考え続けていきたい。
森永卓郎さん、ご苦労様でした。迫りくる「死」を克服した生き方、後を追う者たちに、大きな励ましと勇気となりました。
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