気持ちを切り替えて ― 2012年08月01日 23時14分07秒
★今日から8月
今日は曇りがち。いくぶん涼しかった。気持ちを切り替えてやるべきことをきちんとさせていこうと思う。
今日から8月。夕方の散歩では日が暮れてから膝差にやや遠くまで足を伸ばした。まだまだ暑い日は続くがそろそろ陽射しも弱まってやがて秋風が吹く。もう少しの辛抱だと思う。
走っている電車から途中で降ろされ、ホームで皆が乗っている電車が通り過ぎていくのをただ見ているような気がするが、まあそんなときもあろう。いや、考えてみれば自分はずっと電車には乗らずすぐに降りて、あちこちのいろんな電車に乗ったものの目的地まで行ったことはなかった。
そうした生き方もある。電車に乗るだけが正しいわけでもなかろう。ホームにいても通り過ぎていく人たちは観ることもできるし手を振ることもできる。問題はそこでも何ができるか、何をしたのかだけなのだ。
今日は曇りがち。いくぶん涼しかった。気持ちを切り替えてやるべきことをきちんとさせていこうと思う。
今日から8月。夕方の散歩では日が暮れてから膝差にやや遠くまで足を伸ばした。まだまだ暑い日は続くがそろそろ陽射しも弱まってやがて秋風が吹く。もう少しの辛抱だと思う。
走っている電車から途中で降ろされ、ホームで皆が乗っている電車が通り過ぎていくのをただ見ているような気がするが、まあそんなときもあろう。いや、考えてみれば自分はずっと電車には乗らずすぐに降りて、あちこちのいろんな電車に乗ったものの目的地まで行ったことはなかった。
そうした生き方もある。電車に乗るだけが正しいわけでもなかろう。ホームにいても通り過ぎていく人たちは観ることもできるし手を振ることもできる。問題はそこでも何ができるか、何をしたのかだけなのだ。
心の穴を何で埋めるか ― 2012年08月02日 23時57分10秒
★実体としてのモノの存在価値・淋しい男も太る?
全てのことは神の意思、天の計らいだと心している。だから抗わずおきたことは受け入れねばならない。
それは頭ではわかっているのだけれど心、気持ちの部分ではなかなか納得できない。人間というのは面倒なものだとつくづく思う。何にせよ、別れには哀しみや痛みの感情が伴うものなのだ。心に穴が空いたような。
最愛の猫をネコババされて、やはり気持ちは鬱々としてしたままだ。哀しみ、憂鬱、ブルーな気分である。猫と人間を同列にしたら怒られるだろうが少しは北による拉致被害者家族の気持ちがわかったような気がする。行方不明は単に不安や心配の感情でしかないが、相手があってのことだとわかるとそこに強い怒りの感情が加わる。ゆえにご家族の方々はあんなにエキセントリックになってしまうのだろう。それは絶対に赦せない気持ちであり当然のことである。
それを日本も戦時中は同様もしくはもっとひどいことをしたのだから仕方ないという論を聞いたことがあるが、強制的連行、拉致行為という人権侵害はいつの時代でも強く非難され断罪すべきものであり、絶対あってはならないことだ。悪いことをしたのはお互い様だからという詭弁に与してはならない。
さて、ほんの少しだが暑さも和らいだ昨日夕、より若いといっても初老の黒犬と散歩に足を伸ばし、近くのリサイクルショップを覗いて中古レコード、LPを5枚ほど買った。そしたら気分はだいぶ軽くなった。
俗に「淋しい女は太る」とか「買い物依存症」の女性の話があれこれ本や話題になっている。要するに満たされない心を何かで満たす、埋めるという代償行為なのだと思うが、自分もまたともかく何かが今欲しくてたまらない。それは心を占めていたもの、なくなってしまったもの、あるいはかなえられない欲求を何かで埋めなくてはならないからだ。
そこでは、言葉や新たな考え、気分転換などではなかなか解消されないことに気づく。いちばん手っ取り早いのは、食べて飲んで食欲をとことん満たすという手であり、同時に何らかの物品の購入だろう。金を使いモノを買うという行為には何故か快楽と共にカタルシスを伴う。それもデータファイルとか実体のないものではなく、できるだけしっかりとしたカタチ有るしっかりした高価な価値あるもののほうがなお良い。
ブランド品を次々買い漁るバカ女はそれが快楽であると同時に満たされない心をその行為で埋めている。つまりそれは目的ではなく、愛する男との結婚生活でも良いのだろうが、本当の願望、心の欲求が満たされるまでの代償なのであろう。ただ、そのことを下らない無意味なことだと否定すべきではない。
それはブログでも同じであり、何かのマニア、追っかけのような行為だって違わなくない。本来目的でないものがいつの間にか目的や最大の関心事にってしまうことは多々ある。心したいことだ。
で、増坊はいったい何のレコードを買ったのか。何千枚ものレコードを持っている自分が今さら買うレコードがあるのかと自分でも訝るがここに記しておく。
◆all about the brothers four ※2枚組 CBSソニーから出た日本盤邦題「ブラザース・フォアの全て」
◆ベリー・ベスト・オブ・ハンク・ウィリアムス
◆DEEP PURPLE/LIVE IN JAPAN
◆地獄の狂獣/キッス・ライブ ※2枚組
◆ザ・スター・イン・ヒビヤ★矢沢永吉 ※1976年の日比谷野音ライブ2枚組
である。
もしかしたらどれも既に持っているかもしれないが、一枚100円だったし、カントリー系は昔は自分の守備範囲外だったのでとりあえず買っておいた。洋楽ロックは、ブリッティシュ系を中心に聞いていたこともあり、その頃はキッスなどは全く相手にしなかった。が、今思うとあれはあれで子供だましでもそれなりに味わいもありやはりライフ盤で聴きたくなった。そしてまたあいも変わらずパープルである。
そしてちょっと恥ずかしいし意外に思われるかもしれないが、永ちゃんである。実はキャロル時代から自分は彼のファンであり、そのステッカーを車に貼るようなコアなマニア、当時は「つっぱり」と呼ばれた奴ら、ではなかったが、ずっと好きなシンガーである。近年はさすがに鼻につき関心外の人ではあるけれど、若い頃、特にキャロル時代は「和製ビートルズ」として大いに憧れたこともある。その彼の若い頃のライブである。きっと泣かせてくれる筈だ。
というわけで中古LP5枚で気分は戻った。それにしても安上がりな男だと自分でも呆れ果てる。心の穴は500円で埋まったのである。
全てのことは神の意思、天の計らいだと心している。だから抗わずおきたことは受け入れねばならない。
それは頭ではわかっているのだけれど心、気持ちの部分ではなかなか納得できない。人間というのは面倒なものだとつくづく思う。何にせよ、別れには哀しみや痛みの感情が伴うものなのだ。心に穴が空いたような。
最愛の猫をネコババされて、やはり気持ちは鬱々としてしたままだ。哀しみ、憂鬱、ブルーな気分である。猫と人間を同列にしたら怒られるだろうが少しは北による拉致被害者家族の気持ちがわかったような気がする。行方不明は単に不安や心配の感情でしかないが、相手があってのことだとわかるとそこに強い怒りの感情が加わる。ゆえにご家族の方々はあんなにエキセントリックになってしまうのだろう。それは絶対に赦せない気持ちであり当然のことである。
それを日本も戦時中は同様もしくはもっとひどいことをしたのだから仕方ないという論を聞いたことがあるが、強制的連行、拉致行為という人権侵害はいつの時代でも強く非難され断罪すべきものであり、絶対あってはならないことだ。悪いことをしたのはお互い様だからという詭弁に与してはならない。
さて、ほんの少しだが暑さも和らいだ昨日夕、より若いといっても初老の黒犬と散歩に足を伸ばし、近くのリサイクルショップを覗いて中古レコード、LPを5枚ほど買った。そしたら気分はだいぶ軽くなった。
俗に「淋しい女は太る」とか「買い物依存症」の女性の話があれこれ本や話題になっている。要するに満たされない心を何かで満たす、埋めるという代償行為なのだと思うが、自分もまたともかく何かが今欲しくてたまらない。それは心を占めていたもの、なくなってしまったもの、あるいはかなえられない欲求を何かで埋めなくてはならないからだ。
そこでは、言葉や新たな考え、気分転換などではなかなか解消されないことに気づく。いちばん手っ取り早いのは、食べて飲んで食欲をとことん満たすという手であり、同時に何らかの物品の購入だろう。金を使いモノを買うという行為には何故か快楽と共にカタルシスを伴う。それもデータファイルとか実体のないものではなく、できるだけしっかりとしたカタチ有るしっかりした高価な価値あるもののほうがなお良い。
ブランド品を次々買い漁るバカ女はそれが快楽であると同時に満たされない心をその行為で埋めている。つまりそれは目的ではなく、愛する男との結婚生活でも良いのだろうが、本当の願望、心の欲求が満たされるまでの代償なのであろう。ただ、そのことを下らない無意味なことだと否定すべきではない。
それはブログでも同じであり、何かのマニア、追っかけのような行為だって違わなくない。本来目的でないものがいつの間にか目的や最大の関心事にってしまうことは多々ある。心したいことだ。
で、増坊はいったい何のレコードを買ったのか。何千枚ものレコードを持っている自分が今さら買うレコードがあるのかと自分でも訝るがここに記しておく。
◆all about the brothers four ※2枚組 CBSソニーから出た日本盤邦題「ブラザース・フォアの全て」
◆ベリー・ベスト・オブ・ハンク・ウィリアムス
◆DEEP PURPLE/LIVE IN JAPAN
◆地獄の狂獣/キッス・ライブ ※2枚組
◆ザ・スター・イン・ヒビヤ★矢沢永吉 ※1976年の日比谷野音ライブ2枚組
である。
もしかしたらどれも既に持っているかもしれないが、一枚100円だったし、カントリー系は昔は自分の守備範囲外だったのでとりあえず買っておいた。洋楽ロックは、ブリッティシュ系を中心に聞いていたこともあり、その頃はキッスなどは全く相手にしなかった。が、今思うとあれはあれで子供だましでもそれなりに味わいもありやはりライフ盤で聴きたくなった。そしてまたあいも変わらずパープルである。
そしてちょっと恥ずかしいし意外に思われるかもしれないが、永ちゃんである。実はキャロル時代から自分は彼のファンであり、そのステッカーを車に貼るようなコアなマニア、当時は「つっぱり」と呼ばれた奴ら、ではなかったが、ずっと好きなシンガーである。近年はさすがに鼻につき関心外の人ではあるけれど、若い頃、特にキャロル時代は「和製ビートルズ」として大いに憧れたこともある。その彼の若い頃のライブである。きっと泣かせてくれる筈だ。
というわけで中古LP5枚で気分は戻った。それにしても安上がりな男だと自分でも呆れ果てる。心の穴は500円で埋まったのである。
レーザープリンターってすごい! ― 2012年08月03日 22時19分42秒
★企業と経営者の社会的責任について考える~キャノン社製品はもう使わない。
増坊は、パソコン歴は約10年ほどで、本来はこうしたハイテクなものには一切興味も関心もなかった。その必要もなかった。しかし、その頃本当に食えなくて、友人の勧めもあってネット古本屋を志し、そのためにパソコンを導入した。爾来、試行錯誤しつつ今に至っている。
食えないのは相変わらずでも多少の小銭は動くようになってきたし、こうしてブログは大いに活用しとても大切な情報発信の手段とさせてもらっている。じっさいインターネットを通して多くの友人知人が出来た。その意味でパソコン様様、深く感謝せねばならない。パソコンがなければ自分は単なる老いた引きこもりでしかない。いや老パラサイトか。
まあ、フェイスブックとかツィッターとかも勧められたり誘われてはいるのだが、不器用で慌しい今の自分にはこれ以上手を広げるのは不安な気持ちも強い。なので大して読み手のいない拙ブログだけでちまちまと心の内を書き記すだけで今は十分な気持ちでいる。ろんそうしたニューメディアに関心が全くないわけではないが、今は手いっぱいというところだ。
そのパソコン、最初に手に入れたのはウィンドウズXPが出たばかりのソーテック社製のデスクトップで、次いで今の富士通の同タイプ、その他に昨年春に東芝ダイナブックのノートを買った。これには7が入っている。しかし主にそれは音楽や画像だけ取り込んでいて、普通の作業は相変わらず富士通のずいぶん容量いっぱいで重くなったXPでやっている。今もそれで打っている。※ソーテックのは処分してはないがやはりあまりに重くなったので使わなくなって今も埃被ったままだ。
自分の場合、パソコン本体のほうは常にいろいろなメーカーを使っているけれど、印刷のためのプリンタはずっとキャノンのを使っていた。それはカメラメーカーの頃からずっと好きなブランドだったし、一度使い始めるとサポートのこともあって他のメーカーののなかなか移れなかった。また、プリンタは他にエプソンが並ぶ程度でもともと選択肢が少ないのである。仕方なくという側面もあった。
が、ずっとこのところはもうキャノン社のはやめたいと思うようになっていた。理由は一つだけ、会社そのものや製品じたいに不満があるのではなく、そのトップである御手洗前会長の発言がどうにも自分とは相容れないものだったから。そう、あの経団連会長だった人である。
彼は「財界の総理」として様々な提言を時の政権に申し入れしてきた。そのことごとくが、大企業中心に更なる利便を図り、労働者、特に派遣など非正規労働者の権利をさらに低めるものであった。そして自らは偽装請負事件や自社工場を巡る脱税事件など様々な事件の渦中にあった。
そうした極めてダーティーな人間をトップに抱く企業製品をもはや使うことは自分にとってずっと悩み苦痛であった。そこで今回ついにプリンタが壊れたのをきっかけに初めて他企業の製品に乗り換えたという次第。これで自分は彼の悪事の片棒を担がずに済むことになる。消費者ができる抵抗とはすなわちこうした不買運動によってしか抗議できなのだから。【もう一回書き足します】
増坊は、パソコン歴は約10年ほどで、本来はこうしたハイテクなものには一切興味も関心もなかった。その必要もなかった。しかし、その頃本当に食えなくて、友人の勧めもあってネット古本屋を志し、そのためにパソコンを導入した。爾来、試行錯誤しつつ今に至っている。
食えないのは相変わらずでも多少の小銭は動くようになってきたし、こうしてブログは大いに活用しとても大切な情報発信の手段とさせてもらっている。じっさいインターネットを通して多くの友人知人が出来た。その意味でパソコン様様、深く感謝せねばならない。パソコンがなければ自分は単なる老いた引きこもりでしかない。いや老パラサイトか。
まあ、フェイスブックとかツィッターとかも勧められたり誘われてはいるのだが、不器用で慌しい今の自分にはこれ以上手を広げるのは不安な気持ちも強い。なので大して読み手のいない拙ブログだけでちまちまと心の内を書き記すだけで今は十分な気持ちでいる。ろんそうしたニューメディアに関心が全くないわけではないが、今は手いっぱいというところだ。
そのパソコン、最初に手に入れたのはウィンドウズXPが出たばかりのソーテック社製のデスクトップで、次いで今の富士通の同タイプ、その他に昨年春に東芝ダイナブックのノートを買った。これには7が入っている。しかし主にそれは音楽や画像だけ取り込んでいて、普通の作業は相変わらず富士通のずいぶん容量いっぱいで重くなったXPでやっている。今もそれで打っている。※ソーテックのは処分してはないがやはりあまりに重くなったので使わなくなって今も埃被ったままだ。
自分の場合、パソコン本体のほうは常にいろいろなメーカーを使っているけれど、印刷のためのプリンタはずっとキャノンのを使っていた。それはカメラメーカーの頃からずっと好きなブランドだったし、一度使い始めるとサポートのこともあって他のメーカーののなかなか移れなかった。また、プリンタは他にエプソンが並ぶ程度でもともと選択肢が少ないのである。仕方なくという側面もあった。
が、ずっとこのところはもうキャノン社のはやめたいと思うようになっていた。理由は一つだけ、会社そのものや製品じたいに不満があるのではなく、そのトップである御手洗前会長の発言がどうにも自分とは相容れないものだったから。そう、あの経団連会長だった人である。
彼は「財界の総理」として様々な提言を時の政権に申し入れしてきた。そのことごとくが、大企業中心に更なる利便を図り、労働者、特に派遣など非正規労働者の権利をさらに低めるものであった。そして自らは偽装請負事件や自社工場を巡る脱税事件など様々な事件の渦中にあった。
そうした極めてダーティーな人間をトップに抱く企業製品をもはや使うことは自分にとってずっと悩み苦痛であった。そこで今回ついにプリンタが壊れたのをきっかけに初めて他企業の製品に乗り換えたという次第。これで自分は彼の悪事の片棒を担がずに済むことになる。消費者ができる抵抗とはすなわちこうした不買運動によってしか抗議できなのだから。【もう一回書き足します】
レーザープリンターってすごい!・続き ― 2012年08月04日 23時10分03秒
★企業とそのトップこそ、消費者の側に立って行動し発言せよ。
考えてみるとこの10年間いったい何台プリンタを買い換えたのだろうか。数えてみるともう今回で4台目、いや5台目になるかもしれない。
プリンタなんてどれも一万円もしない安いものだったし、自社の純正インクの売り上げで儲けるものだとわかって割り切って使っていた。これは消耗品であり、数年使うとたいてい調子が悪くなり修理にも出したこともあるが、キャノンの場合、修理代は一律7000円かそこらで(今は知らない。4年前のとき)、結局そうなると新しいのを買い換えたほうが安いぐらいだからそうして数年おきに使い捨てにしていたのだ。
前回のときは、新宿のサービスセンターに慌てて持ち込んだらもう修理はできないと言われて困っていたらサービス担当の人が良い人で、型は古いけれど・・・と別のプリンターを奥からだしてきて修理代金分で「交換」してくれた。それを2007年の2月から使い続け、それで年賀賞のみならずイベントのチラシなども印刷していた。さすがにその専用インクもなかなか手に入りづらくなってきたし、印刷すると線が出てきたり綺麗に印刷ができなくなってきたのでそろそろ買い替えの時だと考えていたのだ。
そしたら先日、印刷途中で紙を巻き込み、紙詰まりを起こして以降、リセットボタンを押してもガーガーとすごい音がして電源さえも切れなくなりもう完全に壊れたなと判断したのだった。
元々が旧いタイプのもので7000円で入手したものだし今までなら修理に出しても7000円以上かかるならそろそろ最新のキャノンの製品を購入していたはずだった。繰り返しになるが、ウチはパソコン本体はともかく、昔からずっとキャノン党だったから。今でもスキャナーはキャノン製である。
しかし、その会長、そしてまた社長に復帰したらしいが、問題の御手洗(みたらい)氏がトップにいる限り、残念だがもうキャノン製の購入はありえない。むろん、代表個人と企業はまた別と考えるべきだし、良い製品ならばそれはそれ、これはこれとして分けて考えるのが大人かもしれない。じっさい、個人的にも買った製品に不具合が起きたときに対応してくれる窓口担当たちはキャノンの人は親切で好感を今も持っている。また製品にも純正インクがバカ高いと思う以外何の不都合も特になかった。気持ちとしてはこれからもキャノンという会社を応援したい。
しかし、利益最優先主義、コスト削減、労働者に対して徹底的削減と偽装請負の当事者の会社の製品をまた新たに購入することは御手洗氏の経営手法を容認することにも繋がろう。何しろ「TPPなしで日本の雇用守れず」と政治家達の尻を叩き、消費税を上げろと悪政を推進させてきた張本人がトップにいる会社なのだ。自分と相反する考えの男の懐を潤す気はさらさらない。これもまた抗議行動なのである。
まあ大企業なんてどこも皆こうした「悪い奴ら」で占められているのが現実であり、弱肉強食の資本主義社会では、民主的な経営者なんて探してもみつかるかどうかすらわからない。つまり常に自らと自社の儲け最優先で考えあらゆる無駄を削るコストカッターでない限り経営者は失格なのである。労働者の権利や雇用の確保などは彼らの頭に最初からない。
3.11以降、このところずっと考えているのは全てのものを出来るだけ自ら作り出すことはできないものかということだ。つまり大企業などに頼らずに全て可能な限り自給自足させていけたらという夢である。それは電力に始まり、農作物、衣類、そしてこうした家電さえも含まれる。パソコン本体とかオーディオアンプはじっさいパーツを集めて自分でも作ることは出来よう。そう考えた時、いちばん難しいのはやはりプリンタだと思える。この技術は素人ではとても作れない。労働者自身が立ち上げた民主的な電気会社などがあれば最善なのであるが。中小の工場なら有り得るし、退職した技術者が集って出来た工房なら自分も知っている。
肝心なことを書き忘れた。けっきょく今回新たに買ったのは、NEC社製のマルチライター5600Cというレーザープリンタである。そもそもレーザープリンタとは何かもわからないままネットでたまたま格安で買えそうだったので慌てて手に入れた。それがスゴイ。実に綺麗に印刷できる。
今までのはずっとインクジェット方式のやつで、特に不自由はしていなかったが、印刷したばかりのときはこするとインクが流れて汚くなることがあった。だが、レーザー印刷では、発色もくっきり鮮やかにすぐさわっても市販の印刷物と全く同じくインクが手に付いたりすることはまったくない。特に黒のくっきり度が明らかに違う。驚きそして感動した。家庭の域を超えている。
ランニングコストがどのぐらいかかるのか、またインク交換した場合いったいどのぐらいするのか考えずに買ってしまったが、こんなに綺麗に、まさにプロ同様に印刷できるならそれだけでこれを買って良かったと満足している。むろんキャノン社にも同タイプの製品はあるわけだが。
思うに、企業はそこで働く労働者もまた「消費者」なのだから、本来消費者の側、その立場にたち経営者は考え発言すべきでないのか。それが財界側、つまり自分たちの儲けしか頭になく、労働者=消費者のことを全く顧みないのであればその企業はいつの日か誰も相手にしなくなる。自分はキャノンが潰れることを願うわけではないが、経営者の傲慢がけっか会社自体の存続を危うくすることは大いにありえる。
自分もまた商売人の端くれとして心していることはあくまでも「お客様は神様」なのである。
考えてみるとこの10年間いったい何台プリンタを買い換えたのだろうか。数えてみるともう今回で4台目、いや5台目になるかもしれない。
プリンタなんてどれも一万円もしない安いものだったし、自社の純正インクの売り上げで儲けるものだとわかって割り切って使っていた。これは消耗品であり、数年使うとたいてい調子が悪くなり修理にも出したこともあるが、キャノンの場合、修理代は一律7000円かそこらで(今は知らない。4年前のとき)、結局そうなると新しいのを買い換えたほうが安いぐらいだからそうして数年おきに使い捨てにしていたのだ。
前回のときは、新宿のサービスセンターに慌てて持ち込んだらもう修理はできないと言われて困っていたらサービス担当の人が良い人で、型は古いけれど・・・と別のプリンターを奥からだしてきて修理代金分で「交換」してくれた。それを2007年の2月から使い続け、それで年賀賞のみならずイベントのチラシなども印刷していた。さすがにその専用インクもなかなか手に入りづらくなってきたし、印刷すると線が出てきたり綺麗に印刷ができなくなってきたのでそろそろ買い替えの時だと考えていたのだ。
そしたら先日、印刷途中で紙を巻き込み、紙詰まりを起こして以降、リセットボタンを押してもガーガーとすごい音がして電源さえも切れなくなりもう完全に壊れたなと判断したのだった。
元々が旧いタイプのもので7000円で入手したものだし今までなら修理に出しても7000円以上かかるならそろそろ最新のキャノンの製品を購入していたはずだった。繰り返しになるが、ウチはパソコン本体はともかく、昔からずっとキャノン党だったから。今でもスキャナーはキャノン製である。
しかし、その会長、そしてまた社長に復帰したらしいが、問題の御手洗(みたらい)氏がトップにいる限り、残念だがもうキャノン製の購入はありえない。むろん、代表個人と企業はまた別と考えるべきだし、良い製品ならばそれはそれ、これはこれとして分けて考えるのが大人かもしれない。じっさい、個人的にも買った製品に不具合が起きたときに対応してくれる窓口担当たちはキャノンの人は親切で好感を今も持っている。また製品にも純正インクがバカ高いと思う以外何の不都合も特になかった。気持ちとしてはこれからもキャノンという会社を応援したい。
しかし、利益最優先主義、コスト削減、労働者に対して徹底的削減と偽装請負の当事者の会社の製品をまた新たに購入することは御手洗氏の経営手法を容認することにも繋がろう。何しろ「TPPなしで日本の雇用守れず」と政治家達の尻を叩き、消費税を上げろと悪政を推進させてきた張本人がトップにいる会社なのだ。自分と相反する考えの男の懐を潤す気はさらさらない。これもまた抗議行動なのである。
まあ大企業なんてどこも皆こうした「悪い奴ら」で占められているのが現実であり、弱肉強食の資本主義社会では、民主的な経営者なんて探してもみつかるかどうかすらわからない。つまり常に自らと自社の儲け最優先で考えあらゆる無駄を削るコストカッターでない限り経営者は失格なのである。労働者の権利や雇用の確保などは彼らの頭に最初からない。
3.11以降、このところずっと考えているのは全てのものを出来るだけ自ら作り出すことはできないものかということだ。つまり大企業などに頼らずに全て可能な限り自給自足させていけたらという夢である。それは電力に始まり、農作物、衣類、そしてこうした家電さえも含まれる。パソコン本体とかオーディオアンプはじっさいパーツを集めて自分でも作ることは出来よう。そう考えた時、いちばん難しいのはやはりプリンタだと思える。この技術は素人ではとても作れない。労働者自身が立ち上げた民主的な電気会社などがあれば最善なのであるが。中小の工場なら有り得るし、退職した技術者が集って出来た工房なら自分も知っている。
肝心なことを書き忘れた。けっきょく今回新たに買ったのは、NEC社製のマルチライター5600Cというレーザープリンタである。そもそもレーザープリンタとは何かもわからないままネットでたまたま格安で買えそうだったので慌てて手に入れた。それがスゴイ。実に綺麗に印刷できる。
今までのはずっとインクジェット方式のやつで、特に不自由はしていなかったが、印刷したばかりのときはこするとインクが流れて汚くなることがあった。だが、レーザー印刷では、発色もくっきり鮮やかにすぐさわっても市販の印刷物と全く同じくインクが手に付いたりすることはまったくない。特に黒のくっきり度が明らかに違う。驚きそして感動した。家庭の域を超えている。
ランニングコストがどのぐらいかかるのか、またインク交換した場合いったいどのぐらいするのか考えずに買ってしまったが、こんなに綺麗に、まさにプロ同様に印刷できるならそれだけでこれを買って良かったと満足している。むろんキャノン社にも同タイプの製品はあるわけだが。
思うに、企業はそこで働く労働者もまた「消費者」なのだから、本来消費者の側、その立場にたち経営者は考え発言すべきでないのか。それが財界側、つまり自分たちの儲けしか頭になく、労働者=消費者のことを全く顧みないのであればその企業はいつの日か誰も相手にしなくなる。自分はキャノンが潰れることを願うわけではないが、経営者の傲慢がけっか会社自体の存続を危うくすることは大いにありえる。
自分もまた商売人の端くれとして心していることはあくまでも「お客様は神様」なのである。
サマークリスマス・2012 ― 2012年08月05日 23時34分47秒
★今年のサマークリスマスは阿佐ヶ谷「あるぽらん」で。
夏、8月はいつも忙しい。
前にも書いたことだが、増坊は、「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」という秘密結社の世話人のようなことをやっている。
これは、TBSのアナウンサーで、2002年に亡くなられた林美雄さんのファンクラブのようなもので、自分も含めた、彼の深夜放送を昔聴いていたリスナーたちが発起人としてクラブを立ち上げ今に至っている。
クラブといっても近年は季節ごとに会員間で集まってオフ会を行う程度の活動しかやっていないのが現状だが、年に一度、真夏8月25日には必ず「サマークリスマス」というイベントをやっている。
これは、故林美雄さんの誕生日であり、彼が1970年代にラジオで深夜放送「パックインミュージック」のパーソナリティを担当していた頃から「真夏にクリスマスがあったって良いじゃないか」とリスナーと親睦の集いとして多彩なゲストを集めてやっていた催しの「再現」なのである。その頃はユーミンこと現・松任谷由実、山崎ハコさんら番組常連の方々も駆けつけリスナーもゲストも参加者全員皆で大いに盛り上がったらしい。
自分は残念なことに当時は参加していなかったが、このクラブを立ち上げたからには何はともあれサマークリスマスは復活させたかった。そしてこれまでも林美雄さん縁の多彩なゲストを招いて会員間で毎年続いてきた。そして今年も阿佐ヶ谷のライブハウスを借り切って25日の土曜日にある。今回のゲスト、名前は表には出せないが、ライブ演奏も交えた楽しい集いとして成功させたいと願っている。※テレビや映画でお馴染みのあの人が唄い踊り、トランペットを吹きまくる!?
で、「秘密結社」と名乗っているが、別に規約も会費も全くなしの極めてゆるい、ルーズな会なのである。ならばそのパックインミュージックという深夜放送を聴いていた人だけでなく、林さんという希代のパーソナリティに多少でも関心を抱く方なら誰でもご参加されても良いかと考えた。当日の会費さえお支払い頂ければ出入り自由でどなたでもご参加願いたい。時間は夕方6時ごろから9時まで、いたんそこで〆てから同所で二次会となる。泊まるところのない方はそこからウチ無頼庵に流れる。
場所は「あるぽらん」というライブ居酒屋で、林さんとも親交のあった豊田勇造らもよく出る店である。場所、行きかたなどは「阿佐ヶ谷 あるぽらん」で検索願いたい。参加費は三千円程度で済むかと思う。
林さんは1970年代、一局アナという立場を越えて極めてリベラルな発言と思想を持っていた人で、当時中学生だった増坊は彼から多くのことを学んだ。彼は番組の中で日本のフォークや洋楽、そしてニューシネマや日活ロマンポルノまで教えてくれた。そしてどんなことでもまず先入観を捨て自由に捉えろ、自分で感じることの大切を常に説いていた。何も知らなかった中坊に社会と世界への扉を開けて導いてくれたナビゲーターであったと今にして気づく。
彼の放送を聴かなかったら今の自分はここにいない。音楽の嗜好のみらず、自分にとっての生きかた、考えかたは彼から教わったと思っている。自分を変えて支えてくれた「恩人」を何人も抱く増坊だが、故林美雄はその筆頭である。そのご恩は語りきれない。
http://homepage2.nifty.com/kotetsu-k/midoributa/frame-head.html
これがクラブのホームページある。ご関心ある方は覗いてみてください。サマークリスマスにご参加希望の方はそこのアドレスに連絡してください。人数確認してお店に伝えますので。
夏、8月はいつも忙しい。
前にも書いたことだが、増坊は、「ハヤシヨシオ的メモリアルクラブ」という秘密結社の世話人のようなことをやっている。
これは、TBSのアナウンサーで、2002年に亡くなられた林美雄さんのファンクラブのようなもので、自分も含めた、彼の深夜放送を昔聴いていたリスナーたちが発起人としてクラブを立ち上げ今に至っている。
クラブといっても近年は季節ごとに会員間で集まってオフ会を行う程度の活動しかやっていないのが現状だが、年に一度、真夏8月25日には必ず「サマークリスマス」というイベントをやっている。
これは、故林美雄さんの誕生日であり、彼が1970年代にラジオで深夜放送「パックインミュージック」のパーソナリティを担当していた頃から「真夏にクリスマスがあったって良いじゃないか」とリスナーと親睦の集いとして多彩なゲストを集めてやっていた催しの「再現」なのである。その頃はユーミンこと現・松任谷由実、山崎ハコさんら番組常連の方々も駆けつけリスナーもゲストも参加者全員皆で大いに盛り上がったらしい。
自分は残念なことに当時は参加していなかったが、このクラブを立ち上げたからには何はともあれサマークリスマスは復活させたかった。そしてこれまでも林美雄さん縁の多彩なゲストを招いて会員間で毎年続いてきた。そして今年も阿佐ヶ谷のライブハウスを借り切って25日の土曜日にある。今回のゲスト、名前は表には出せないが、ライブ演奏も交えた楽しい集いとして成功させたいと願っている。※テレビや映画でお馴染みのあの人が唄い踊り、トランペットを吹きまくる!?
で、「秘密結社」と名乗っているが、別に規約も会費も全くなしの極めてゆるい、ルーズな会なのである。ならばそのパックインミュージックという深夜放送を聴いていた人だけでなく、林さんという希代のパーソナリティに多少でも関心を抱く方なら誰でもご参加されても良いかと考えた。当日の会費さえお支払い頂ければ出入り自由でどなたでもご参加願いたい。時間は夕方6時ごろから9時まで、いたんそこで〆てから同所で二次会となる。泊まるところのない方はそこからウチ無頼庵に流れる。
場所は「あるぽらん」というライブ居酒屋で、林さんとも親交のあった豊田勇造らもよく出る店である。場所、行きかたなどは「阿佐ヶ谷 あるぽらん」で検索願いたい。参加費は三千円程度で済むかと思う。
林さんは1970年代、一局アナという立場を越えて極めてリベラルな発言と思想を持っていた人で、当時中学生だった増坊は彼から多くのことを学んだ。彼は番組の中で日本のフォークや洋楽、そしてニューシネマや日活ロマンポルノまで教えてくれた。そしてどんなことでもまず先入観を捨て自由に捉えろ、自分で感じることの大切を常に説いていた。何も知らなかった中坊に社会と世界への扉を開けて導いてくれたナビゲーターであったと今にして気づく。
彼の放送を聴かなかったら今の自分はここにいない。音楽の嗜好のみらず、自分にとっての生きかた、考えかたは彼から教わったと思っている。自分を変えて支えてくれた「恩人」を何人も抱く増坊だが、故林美雄はその筆頭である。そのご恩は語りきれない。
http://homepage2.nifty.com/kotetsu-k/midoributa/frame-head.html
これがクラブのホームページある。ご関心ある方は覗いてみてください。サマークリスマスにご参加希望の方はそこのアドレスに連絡してください。人数確認してお店に伝えますので。
核兵器廃絶と世界の恒久平和、そして原発ゼロへ ― 2012年08月06日 08時57分48秒
★67年目の原爆の日
今日は朝から曇り空。陽射しがないだけでずいぶん涼しく過ごしやすい。天気予報では今日は傘マーク、待望の雨が降る様だ。
先ほどテレビで広島の平和式典を観た。広島では今日もまた暑く、あの人同じく炎天下の下、多くの人々が集まっていた。
世間には、核兵器と原子力発電所は全く別であり、核の平和利用という考え方とそうした発言が多々ある。しかし元々の素材が同じものならば兵器として使うのも一度事故が起き周囲に影響を及ぼすのも全く同じことだ。
広島と長崎で原爆を落とされたこの国は、今も多くの放射能障害、後遺症で苦しむ人々いるのに3.11でまた新たな「被爆地」を生んでしまった。ただしくは誰一人被爆もしていないし直接の「事故で死んだ者は一人もいない」のは事実かもしれない。しかし、今も故郷を追われ自宅に立ち入るにも防護服を着なければならない人々がいることも現実であり、原発もまた核兵器とその本質は何一つ変わらないことを世に知らしめたのである。
原発は絶対安全だという神話が崩れた今、そうした危険なものはできるだけ早くゼロにして、国民が真に安心して暮らせるような国家をつくっていくことが被爆国としての責務であろう。
何十年も時間をかけて少しづつ原発はなくしていくという発想もある。しかし、それは姑息な原発推進論者たちの延命策であり、原発を産業として輸出したり原発でこれからも儲けたいと願う人たちを生かす方便に過ぎない。結果この国から原発とその産業はなくなることはない。
核兵器廃絶は世界の流れであり、地球人は世界全体の恒久平和を求めている。原発をゼロにしていくことはその流れの上にある必然なのだと原爆の日に思った。8.6,8.9、そして3.11を再び繰り返しては絶対にならない。
核と人類は共存できない。そのことは世界唯一の被爆国であり、フクシマで原発事故を起こした日本人にとって絶対的真理であり存在証明なのである。
今日は朝から曇り空。陽射しがないだけでずいぶん涼しく過ごしやすい。天気予報では今日は傘マーク、待望の雨が降る様だ。
先ほどテレビで広島の平和式典を観た。広島では今日もまた暑く、あの人同じく炎天下の下、多くの人々が集まっていた。
世間には、核兵器と原子力発電所は全く別であり、核の平和利用という考え方とそうした発言が多々ある。しかし元々の素材が同じものならば兵器として使うのも一度事故が起き周囲に影響を及ぼすのも全く同じことだ。
広島と長崎で原爆を落とされたこの国は、今も多くの放射能障害、後遺症で苦しむ人々いるのに3.11でまた新たな「被爆地」を生んでしまった。ただしくは誰一人被爆もしていないし直接の「事故で死んだ者は一人もいない」のは事実かもしれない。しかし、今も故郷を追われ自宅に立ち入るにも防護服を着なければならない人々がいることも現実であり、原発もまた核兵器とその本質は何一つ変わらないことを世に知らしめたのである。
原発は絶対安全だという神話が崩れた今、そうした危険なものはできるだけ早くゼロにして、国民が真に安心して暮らせるような国家をつくっていくことが被爆国としての責務であろう。
何十年も時間をかけて少しづつ原発はなくしていくという発想もある。しかし、それは姑息な原発推進論者たちの延命策であり、原発を産業として輸出したり原発でこれからも儲けたいと願う人たちを生かす方便に過ぎない。結果この国から原発とその産業はなくなることはない。
核兵器廃絶は世界の流れであり、地球人は世界全体の恒久平和を求めている。原発をゼロにしていくことはその流れの上にある必然なのだと原爆の日に思った。8.6,8.9、そして3.11を再び繰り返しては絶対にならない。
核と人類は共存できない。そのことは世界唯一の被爆国であり、フクシマで原発事故を起こした日本人にとって絶対的真理であり存在証明なのである。
津のええかげん祭り2012 ― 2012年08月07日 23時49分05秒
★今も思い迷い悩むところである。
三重県の津市に、ガスリーさかたさんというフォークソング仲間がいる。彼とはもう何年も前、大阪春一番の会場で知り合った。以来ずっと変わらぬとても大事な「春友」である。
彼が地元津の河芸漁港近くにある漁師小屋を改造したライブハウス「ええかげん」でやっていた毎年夏のフォークイベント「ええかげん祭り」には自分もこの何年か毎年ずっと欠かさず参加していた。これは彼自身が考える中京圏の「春一番」のようなフォークコンサートであり、自分もまたこちらで似たような企画を手がけている以上応援に行かないわけにはいかないものと考えていた。
その会場、昔は水産加工場だったという「ええかげん」は昨年の夏で諸般の事情からいったん閉館となったはずなのだが、実は今年も「ええかげん祭り」は開催すると中川五郎氏らから聞き及んで、ならば自分も行く方向で予定を立てていた。そう、三重には、音楽仲間以外にも、有馬敲氏を通して知り合った詩関係の友もいるので会場で会うのを楽しみにしていた。が、今の状況ではそれはかなわぬ思いとなりそうでこのところずっと心乱れている。
今自分の体調は、おかげ様で腰も治ったし特にどこも悪くはない。この暑さも慣れてきてさほどバテテもいない。ならば行けなくはないのだが、いちばんの問題は老親と老犬のことであり、この猛暑の最中、認知症とがん患者の老人に家のことを託して数日でも空けることはすべきかどうかという迷いである。自分に妻でも大学生の娘でもいて、家事をその間託すことができるなら何も問題ない。しかし、現実のはなし、ボケ老夫婦だけ残してこの季節留守にするのは危険ではないかという不安が強い。
今ウチには、最後の老犬、今春死んだロビンの兄弟でもあるオス犬バドというラブラドル系の雑種の老犬がいる。ロビンと一緒に生まれたのだからもう18歳を越してほとんど歩けないし大小便もほぼ垂れ流し状態に近くなっている。注意して糞尿に連れ出さないと小屋の前で自分の糞尿の中で寝て大変なことになってしまう。人間でいえば100歳近いわけで、紙おむつ状態だと思ってもらいたい。
連日記録更新の猛暑が続くようになってから、涼しく木陰の下となる午前中はまだしも西日が射す午後になると、犬達は冷房入れた家の中に取り込み陽が陰るまで涼しくさせている。そうした気配りで今まで今年の夏もまだ何とか乗り切れている。今年の冬はどうかわからないが、おそらく年内はまだ持ちこたえられるかと思う。でも来年の夏は絶対ない。
問題はそうした犬の世話を老親たちができるかということなのだ。じぶんのことすらやっとという老人が老犬の世話まで手が回るかだ。何年か前のええかげん祭りには、だから犬たちも車に乗せて連れて行った。だが、もし今そんなことをしたら体力的に無理も無理、疲労で死んでしまう。せめてこんな酷い季節でなければと考えるが、いずれにせよもう老親に犬の世話は任せられないしできないと考える。
しかしまだ諦めきれない。今もまだ何とかうまく都合つけて、家ことは誰かに頼み込んで出かけられないものかと迷い悩む。夜行高速バスとかは予約もしていないから、行くとしたら、当日の朝早くの新幹線か、自分の運転するおんぼろマイカーしかない。それも同行者がいるか運転を代わってもらえる人がいるかどうかでもある。
しかしまたこうも思う。老犬バドと過ごす最後の夏であり、今秋米寿を迎える認知症の父と癌がまた再発した八十過ぎの母と共に過ごせるのは今年の夏が最後となるかもしれない。ならばこそ、たとえ数日でも家を空けずにいっしょに過ごせる時間を大事にすべきではないのか。と。
先のことはわからない。神のみぞ知ることだ。来年の夏もまた皆で共に暮らしていられたらこんな有り難いことはない。しかし、その可能性はかなり低いのが現実だ。ならば残りの日々をできるだけ慈しみ大切にして共に過ごすほうを選ぶべきかと考える。
しかし今も思い迷い悩む。
三重県の津市に、ガスリーさかたさんというフォークソング仲間がいる。彼とはもう何年も前、大阪春一番の会場で知り合った。以来ずっと変わらぬとても大事な「春友」である。
彼が地元津の河芸漁港近くにある漁師小屋を改造したライブハウス「ええかげん」でやっていた毎年夏のフォークイベント「ええかげん祭り」には自分もこの何年か毎年ずっと欠かさず参加していた。これは彼自身が考える中京圏の「春一番」のようなフォークコンサートであり、自分もまたこちらで似たような企画を手がけている以上応援に行かないわけにはいかないものと考えていた。
その会場、昔は水産加工場だったという「ええかげん」は昨年の夏で諸般の事情からいったん閉館となったはずなのだが、実は今年も「ええかげん祭り」は開催すると中川五郎氏らから聞き及んで、ならば自分も行く方向で予定を立てていた。そう、三重には、音楽仲間以外にも、有馬敲氏を通して知り合った詩関係の友もいるので会場で会うのを楽しみにしていた。が、今の状況ではそれはかなわぬ思いとなりそうでこのところずっと心乱れている。
今自分の体調は、おかげ様で腰も治ったし特にどこも悪くはない。この暑さも慣れてきてさほどバテテもいない。ならば行けなくはないのだが、いちばんの問題は老親と老犬のことであり、この猛暑の最中、認知症とがん患者の老人に家のことを託して数日でも空けることはすべきかどうかという迷いである。自分に妻でも大学生の娘でもいて、家事をその間託すことができるなら何も問題ない。しかし、現実のはなし、ボケ老夫婦だけ残してこの季節留守にするのは危険ではないかという不安が強い。
今ウチには、最後の老犬、今春死んだロビンの兄弟でもあるオス犬バドというラブラドル系の雑種の老犬がいる。ロビンと一緒に生まれたのだからもう18歳を越してほとんど歩けないし大小便もほぼ垂れ流し状態に近くなっている。注意して糞尿に連れ出さないと小屋の前で自分の糞尿の中で寝て大変なことになってしまう。人間でいえば100歳近いわけで、紙おむつ状態だと思ってもらいたい。
連日記録更新の猛暑が続くようになってから、涼しく木陰の下となる午前中はまだしも西日が射す午後になると、犬達は冷房入れた家の中に取り込み陽が陰るまで涼しくさせている。そうした気配りで今まで今年の夏もまだ何とか乗り切れている。今年の冬はどうかわからないが、おそらく年内はまだ持ちこたえられるかと思う。でも来年の夏は絶対ない。
問題はそうした犬の世話を老親たちができるかということなのだ。じぶんのことすらやっとという老人が老犬の世話まで手が回るかだ。何年か前のええかげん祭りには、だから犬たちも車に乗せて連れて行った。だが、もし今そんなことをしたら体力的に無理も無理、疲労で死んでしまう。せめてこんな酷い季節でなければと考えるが、いずれにせよもう老親に犬の世話は任せられないしできないと考える。
しかしまだ諦めきれない。今もまだ何とかうまく都合つけて、家ことは誰かに頼み込んで出かけられないものかと迷い悩む。夜行高速バスとかは予約もしていないから、行くとしたら、当日の朝早くの新幹線か、自分の運転するおんぼろマイカーしかない。それも同行者がいるか運転を代わってもらえる人がいるかどうかでもある。
しかしまたこうも思う。老犬バドと過ごす最後の夏であり、今秋米寿を迎える認知症の父と癌がまた再発した八十過ぎの母と共に過ごせるのは今年の夏が最後となるかもしれない。ならばこそ、たとえ数日でも家を空けずにいっしょに過ごせる時間を大事にすべきではないのか。と。
先のことはわからない。神のみぞ知ることだ。来年の夏もまた皆で共に暮らしていられたらこんな有り難いことはない。しかし、その可能性はかなり低いのが現実だ。ならば残りの日々をできるだけ慈しみ大切にして共に過ごすほうを選ぶべきかと考える。
しかし今も思い迷い悩む。
ええかげん祭りご参加を願って ― 2012年08月09日 16時50分09秒
★音楽と自由の最後の砦「ええかげん」。
かつて音楽、それもクラッシックのように氏について学ぶのではなく自ら自己流ではじめたフォークやロックは自由そのものではないが、自由への入り口であった。つまり自己表現において、そこにはあらゆる自由が許されていたし、既製の社会、学校や社会、政治体制、世間や常識への「反抗」であり「異議申し立て」でもあった。
だからコンサート会場というのは、限りなく自由であったし、観客は演者に不満あれば野次るだけでなく、石もて投げたり引きずり降ろしたり
まさに何でもありのアナーキーな空間でもあった。果たしてそれがほんとうに「自由」であったか、今にして思えば甚だ怪しいが、「自由」に近いものがあったことは当時を少しでも知る者として書き記しておきたい。※その頃の様子は、豊田勇造の名曲「さあ、もういっぺん」にうたわれている。
だが、そうした音楽が「商売」として多額の利益を上げるものだと広く認知されてからは、コンサートからそうした「自由」は失われてしまった。ホールでのコンサートに至っては席から立ち上がることすら禁じられ、観客がステージ前に駆け寄ろうとしたりすれば警備員に制止され場合によってはつまみ出される。外タレのコンサートに至っては、ステージよりもステージ前に立ち並ぶ警備員の顔を眺めに行ったようなものである。
観客もいつしかコンサートとはそうしたものだと思い込まされ、曲ごとに終われば拍手し、どんなつまらない演奏であっても一応お義理のアンコールを求め拍手する。そして全て計算と予定調和の中で粛々とコンサートは繰り返される。それはショーであり多額の金が動き、客はその分のうたと演奏を味わう。そこに問題は何もない。しかしそこに自由は一つもない。全てが既製品であり、出来合いのシナリオがある。それがショービジネス、音楽公演という催しなんだと理解できる。
そうしたものがコンサートだといつしか理解し諦め受け入れていた自分に、2006年、久々に参加した大阪・緑地公園での「春一番コンサート」は驚き以外のなにものでもなかった。それは、昔高校生の頃に東京から夜行列車でキセルして出かけた天王寺での「春一番」といささかも変わらず、さすがに浮浪者やオカマは会場を闊歩していなかったが、野次を飛ばしてはステージに上ろうとするオカモトさんを始め、そこには何でもありの「自由」が色濃く残っていた。
しかし時の流れだろうか。主催者福岡風太氏の相方、阿部ちゃんが急逝してからは、春一番コンサートは急速に管理色を強め、かつてそこに残っていた「自由」は失われてしまった。まあ、一般の観客にとっては大した問題でもないかと思うが、少なくとも警備担当スタッフの言いつけに従わなかった自分は中日で彼らにつまみ出され、来ても今後一切入れないと「出入り禁止」を言い渡されてしまった。まあ、それはそれで彼らの企画するコンサートなのだからいた仕方ない。自分の要求がかなわないのだから行く理由もなくなった。
結局自由というのは、常に失われていくものなのだと改めて気づく。新たに自由な場所など生まれるはずもなく、かつて残っていたそんな場所も時の流れでどんどん不自由に管理、規制されていく。やがてマイナンバー制度が導入されて、国民には全員背番号が付けられ、増坊に至っては常にあちこちで騒動を起こす要注意人物として様々な制約や迫害を受けることになるだろう。
近未来SFのような政府や国家に管理された社会となる前に今一度音楽を通して自由ということの意味を考えてみたいと思う。公園で唄うことも路上で唄うことも全て禁止され許可を受けなくてはならない世界。ならばうたう場を自ら自分たちで作っていくしかない。そう、秘密結社的に。
前置きが長くなったが、三重県津市の海辺のライブ小屋「ええかげん」はそんな自由あふれる素晴らしいスペースであった。再開?後の今はどうか知らないが、知る限り昔の自分が感じ憧れた自由の雰囲気がそこには満ちていた。むろんいくらかは当然商売として考えねばならないことも多々あろう。しかしそれ以前に、企画責任者ガスリー氏は自由な人であり、良い意味での「ええかげん」な人で本当に素晴らしい。
増坊にとってそこへ行くことは当然今はなき自由を満喫しに行き、かつて音楽と共にあった自由を再確認することなのである。以下は随分前の情報で、あくまでも目安で違う部分もあろうが、今年のええかげん祭りの「詳細」である。
★丸三水産ええかげん祭り2012
2012年8月12日(日)
12:00~オープニングステージ
chabo、nano-sec、岩ちゃん、かわさきさん、キタムラリョウ……more
メインステージ
15:00~鎌倉研
16:00~村上律
17:00~中川五郎
18:00~金森孝介
19:00~いとうたかお
20:00~ウェルカムバック
※時間は、目安で変動します。
入場 \2500(予約、当日とも)
※熱中症、防虫対策は自己責任でお願いします。
かつて音楽、それもクラッシックのように氏について学ぶのではなく自ら自己流ではじめたフォークやロックは自由そのものではないが、自由への入り口であった。つまり自己表現において、そこにはあらゆる自由が許されていたし、既製の社会、学校や社会、政治体制、世間や常識への「反抗」であり「異議申し立て」でもあった。
だからコンサート会場というのは、限りなく自由であったし、観客は演者に不満あれば野次るだけでなく、石もて投げたり引きずり降ろしたり
まさに何でもありのアナーキーな空間でもあった。果たしてそれがほんとうに「自由」であったか、今にして思えば甚だ怪しいが、「自由」に近いものがあったことは当時を少しでも知る者として書き記しておきたい。※その頃の様子は、豊田勇造の名曲「さあ、もういっぺん」にうたわれている。
だが、そうした音楽が「商売」として多額の利益を上げるものだと広く認知されてからは、コンサートからそうした「自由」は失われてしまった。ホールでのコンサートに至っては席から立ち上がることすら禁じられ、観客がステージ前に駆け寄ろうとしたりすれば警備員に制止され場合によってはつまみ出される。外タレのコンサートに至っては、ステージよりもステージ前に立ち並ぶ警備員の顔を眺めに行ったようなものである。
観客もいつしかコンサートとはそうしたものだと思い込まされ、曲ごとに終われば拍手し、どんなつまらない演奏であっても一応お義理のアンコールを求め拍手する。そして全て計算と予定調和の中で粛々とコンサートは繰り返される。それはショーであり多額の金が動き、客はその分のうたと演奏を味わう。そこに問題は何もない。しかしそこに自由は一つもない。全てが既製品であり、出来合いのシナリオがある。それがショービジネス、音楽公演という催しなんだと理解できる。
そうしたものがコンサートだといつしか理解し諦め受け入れていた自分に、2006年、久々に参加した大阪・緑地公園での「春一番コンサート」は驚き以外のなにものでもなかった。それは、昔高校生の頃に東京から夜行列車でキセルして出かけた天王寺での「春一番」といささかも変わらず、さすがに浮浪者やオカマは会場を闊歩していなかったが、野次を飛ばしてはステージに上ろうとするオカモトさんを始め、そこには何でもありの「自由」が色濃く残っていた。
しかし時の流れだろうか。主催者福岡風太氏の相方、阿部ちゃんが急逝してからは、春一番コンサートは急速に管理色を強め、かつてそこに残っていた「自由」は失われてしまった。まあ、一般の観客にとっては大した問題でもないかと思うが、少なくとも警備担当スタッフの言いつけに従わなかった自分は中日で彼らにつまみ出され、来ても今後一切入れないと「出入り禁止」を言い渡されてしまった。まあ、それはそれで彼らの企画するコンサートなのだからいた仕方ない。自分の要求がかなわないのだから行く理由もなくなった。
結局自由というのは、常に失われていくものなのだと改めて気づく。新たに自由な場所など生まれるはずもなく、かつて残っていたそんな場所も時の流れでどんどん不自由に管理、規制されていく。やがてマイナンバー制度が導入されて、国民には全員背番号が付けられ、増坊に至っては常にあちこちで騒動を起こす要注意人物として様々な制約や迫害を受けることになるだろう。
近未来SFのような政府や国家に管理された社会となる前に今一度音楽を通して自由ということの意味を考えてみたいと思う。公園で唄うことも路上で唄うことも全て禁止され許可を受けなくてはならない世界。ならばうたう場を自ら自分たちで作っていくしかない。そう、秘密結社的に。
前置きが長くなったが、三重県津市の海辺のライブ小屋「ええかげん」はそんな自由あふれる素晴らしいスペースであった。再開?後の今はどうか知らないが、知る限り昔の自分が感じ憧れた自由の雰囲気がそこには満ちていた。むろんいくらかは当然商売として考えねばならないことも多々あろう。しかしそれ以前に、企画責任者ガスリー氏は自由な人であり、良い意味での「ええかげん」な人で本当に素晴らしい。
増坊にとってそこへ行くことは当然今はなき自由を満喫しに行き、かつて音楽と共にあった自由を再確認することなのである。以下は随分前の情報で、あくまでも目安で違う部分もあろうが、今年のええかげん祭りの「詳細」である。
★丸三水産ええかげん祭り2012
2012年8月12日(日)
12:00~オープニングステージ
chabo、nano-sec、岩ちゃん、かわさきさん、キタムラリョウ……more
メインステージ
15:00~鎌倉研
16:00~村上律
17:00~中川五郎
18:00~金森孝介
19:00~いとうたかお
20:00~ウェルカムバック
※時間は、目安で変動します。
入場 \2500(予約、当日とも)
※熱中症、防虫対策は自己責任でお願いします。
全てことは時と場所を選ぶ ― 2012年08月10日 09時52分06秒
★たかが音楽。だからこそ「場所」が大きく関係してくる。
ええかげん祭りについて宣伝を兼ねて書いた。東京からでも本当はツアー組んで行けたらと思う。こんな話を人にして誘うと、「五郎さんにしろ、律ちゃんにせよ、マスダのとこでも演っただろうし、何もそんな遠いところまで足伸ばすことはないだろう」という声が届く。
だが、それは個々のミュージシャンしか捉えていない言いであり、音楽のイベント、特にフォークフェスというものは個々の出演者以前に場所、会場というものが大きく影響してくる。ある意味、ミュージシャンなんてものは基本的にいつも同じ歌を唄い同じことを繰り返すものなのだ。だからこそ、場所と他の出演者などの「関係性」が大きく影響してくる。場の雰囲気、そのときどきのサポートメンバー、そして観客の多寡、反応の大小などで歌や演奏の出来はかなり違ってくる。
うたとはある意味、生き物であり、同じ曲でも、作った頃と何十年も唄い続けた後は全く違ってくる。そこに歳月と歌い手自身の内面の変化が加わりうたそのものに対する意識すら変わってくる。そして出来不出来以前に日々カタチを変えていく。歌謡曲、中でも演歌のようなものは同じ伴奏カラオケで常に唄うものだから変わりようがないし、変わらない事こそ商品価値がある。自分が考える「うた」はそうしたものとは真逆のところにずっと位置している。
うたは常にその時々の「時代」と「場所」=観客との関係性の間で揺れ動いている。そうでないものを「うた」と考える人たちもいよう。しかしうたに限らず、詩でも小説でも絵画でも実は全ての芸術とはそうした時と場所との関係性から抜け出せない。それは人の営みすべてが同じことなのだ。
ゆえに、聴き慣れた音楽、歌い手であろうとも場を変えるとまた新鮮だったり全く違う印象を受ける。人は環境の動物であるなら芸術もまた同じく環境のものなのである。そのいつみとは異なる環境で歌い手も聴き手も音楽に新たな気持ちで向き合う。そこに意義がある。中川五郎氏はつい先日もライブで観た。しかし、そこ、津のええかげんという異空間で聴く彼はまた別なものである。彼自身がどこがいちばん好きかとか唄いやすいとかあるかも知れないが、律さんにせよ大好きなシンガーだからこそ、えええかげんでたっぷり観たい、聴きたいと願う。彼らの音楽にはこの場所がいちばん似合うような気がする。
そして全てのことには「時」があり「場所」もある。来年もまたええかげんで夏祭りとしてフォークフェスはあるかもしれない。そして同様のメンバーが登場するかもしれない。しかしそれは今年のものと同じではない。そこで唄われるうたも同じだとしても全く違う出来であり、観客も全てが違ってくる。人は移ろい変わっていく。ならばうただって同じことだ。
ある意味、2012年のええかげん祭りはその日、そのときだけことで、後にも先にもない。また来年あるさ、とか東京でも観れると考えないほうが良い。先のことは誰もわからない。全ては刻々変わっていく。
「今」はいつだって今このときだけであり、つかまえたとたん、するっと過去へ後ろへと逃げていく。だからこそそのときそのときその場しか
ないんだと、ようやくわかってきた。いつかこれから、また今度なんてないのである。
全てのことには時があるるならばその時を逃してはならない。何事もいつかそのうち、と先延ばしにしてきた自分の愚かさを呪うしかない。
ええかげん祭りについて宣伝を兼ねて書いた。東京からでも本当はツアー組んで行けたらと思う。こんな話を人にして誘うと、「五郎さんにしろ、律ちゃんにせよ、マスダのとこでも演っただろうし、何もそんな遠いところまで足伸ばすことはないだろう」という声が届く。
だが、それは個々のミュージシャンしか捉えていない言いであり、音楽のイベント、特にフォークフェスというものは個々の出演者以前に場所、会場というものが大きく影響してくる。ある意味、ミュージシャンなんてものは基本的にいつも同じ歌を唄い同じことを繰り返すものなのだ。だからこそ、場所と他の出演者などの「関係性」が大きく影響してくる。場の雰囲気、そのときどきのサポートメンバー、そして観客の多寡、反応の大小などで歌や演奏の出来はかなり違ってくる。
うたとはある意味、生き物であり、同じ曲でも、作った頃と何十年も唄い続けた後は全く違ってくる。そこに歳月と歌い手自身の内面の変化が加わりうたそのものに対する意識すら変わってくる。そして出来不出来以前に日々カタチを変えていく。歌謡曲、中でも演歌のようなものは同じ伴奏カラオケで常に唄うものだから変わりようがないし、変わらない事こそ商品価値がある。自分が考える「うた」はそうしたものとは真逆のところにずっと位置している。
うたは常にその時々の「時代」と「場所」=観客との関係性の間で揺れ動いている。そうでないものを「うた」と考える人たちもいよう。しかしうたに限らず、詩でも小説でも絵画でも実は全ての芸術とはそうした時と場所との関係性から抜け出せない。それは人の営みすべてが同じことなのだ。
ゆえに、聴き慣れた音楽、歌い手であろうとも場を変えるとまた新鮮だったり全く違う印象を受ける。人は環境の動物であるなら芸術もまた同じく環境のものなのである。そのいつみとは異なる環境で歌い手も聴き手も音楽に新たな気持ちで向き合う。そこに意義がある。中川五郎氏はつい先日もライブで観た。しかし、そこ、津のええかげんという異空間で聴く彼はまた別なものである。彼自身がどこがいちばん好きかとか唄いやすいとかあるかも知れないが、律さんにせよ大好きなシンガーだからこそ、えええかげんでたっぷり観たい、聴きたいと願う。彼らの音楽にはこの場所がいちばん似合うような気がする。
そして全てのことには「時」があり「場所」もある。来年もまたええかげんで夏祭りとしてフォークフェスはあるかもしれない。そして同様のメンバーが登場するかもしれない。しかしそれは今年のものと同じではない。そこで唄われるうたも同じだとしても全く違う出来であり、観客も全てが違ってくる。人は移ろい変わっていく。ならばうただって同じことだ。
ある意味、2012年のええかげん祭りはその日、そのときだけことで、後にも先にもない。また来年あるさ、とか東京でも観れると考えないほうが良い。先のことは誰もわからない。全ては刻々変わっていく。
「今」はいつだって今このときだけであり、つかまえたとたん、するっと過去へ後ろへと逃げていく。だからこそそのときそのときその場しか
ないんだと、ようやくわかってきた。いつかこれから、また今度なんてないのである。
全てのことには時があるるならばその時を逃してはならない。何事もいつかそのうち、と先延ばしにしてきた自分の愚かさを呪うしかない。
消費税10%の社会へ ― 2012年08月10日 19時20分42秒
★消費税は日本の将来に向けて安定した財源ではない。
本日の参議院本会議で、民自公の大増税連立談合トリオの賛成多数でついに税と社会保障の一体化法案が成立し近く消費税が現行の倍にまで上がることが決定した。
野田首相となったとき、政治生命をかけてやり遂げるとした悪法がついに成立したことは特に驚くに値しない。そもそも消費税のアップは、財界の意を受けた自民党政権の頃からの財界、霞ヶ関の悲願であり課題であったのだから、政権をとって代わった民主党までが増税法案を出すなら数においてそもそも成立しないはずがなかった。
けっきょくこれが夢の二大政党制の本質なのである。さんざんマスコミは日本でも米国や英国に倣って政権交代がたやすくなる二大政党が必要だとさんざん煽ってきた。そしてついに自民党から民主党に政権交代はなったが、何のことはない元々第二自民党でしかなかった綱領すらはっきりしない寄せ集めの政党は、掲げたマニフェストはほとんど成し得ずに迷走、政権運営に行き詰まり自民党にすり寄る他なく念願の消費税大増税だけは成し遂げたのだ。
民主党に期待し一票を託した国民はまんまと騙され増税と言う煮え湯を飲まされる羽目となった。まあ自業自得と言えなくもない。元々政策に自民党とはほとんど差がなかったはずの民主党が、選挙に臨んではできもしない、耳当りの良い公約をいくつも並べた。しかしコンクリートから人へ、どころかダム建設は続くし、沖縄の基地移転は相変わらず、子供手当ての迷走、そしてマニフェストにはなかった、まずは増税ありきの社会保障一体化法案成立なのである。
確かに日本の近い将来を考えるとき、世界でも類のない少子高齢化社会を迎えるこの国は、社会保障の安定のためには新たな財源が必要だというのは事実であろう。しかし、そのために国民が身を切って、多額の消費税を負担するというのはどう考えてもおかしな理屈ではないか。それはタコが自らを足を食べているのと同じで、社会保障の財源をそれを利用する側に求めるのは理に合わない。益を受ける側と負担する側が同じで、しかも低所得者層がさらに多く負担するのである。
それでもそれは「増収分は全額社会保障で還元される」とする首相の約束が守れての話であり、あろうことか三党合意には「成長戦略や防災及びに減災に資する分野に資金を配分する」と明記されているのだから、またまた公共事業に消費税増税分は回される可能性が高い。
日本の将来を憂うマジメな国民の多くはこのままではこの国は大変だと、大新聞などのメディアに煽られて、増税もまた仕方なしとしぶしぶ消費税増税を追認する声もあるが、増えた消費税は社会保障に果たして使われるのか自分はかなり怪しいとにらんでいる。これもまた毎度の政治的詐欺、国民をだますイカサマなのである。
社会保障のあり方は、財源を消費税に頼り、広く国民に負担させるのではなく、ワーキングプアなど新たな貧困者層が増えているということはどこかに富が蓄積されていることに他ならないわけで、そこに課税するしかない。それは大企業や法人、富裕層に対する課税と官僚などの天下りの絶対禁止などさらなる無駄の削減である。そして米軍への思いやり予算の廃止、政党助成金の廃止、軍事費の削減など別な安定財源から回していくべきである。
このまま国民に更なる増税を課せば、やがてはタコが自らの足を食べつくしたら死ぬように、国民は生きていけなくなる。生活保護者バッシングのように、消費税を上げても社会保障は安定も改善もされない。
本日の参議院本会議で、民自公の大増税連立談合トリオの賛成多数でついに税と社会保障の一体化法案が成立し近く消費税が現行の倍にまで上がることが決定した。
野田首相となったとき、政治生命をかけてやり遂げるとした悪法がついに成立したことは特に驚くに値しない。そもそも消費税のアップは、財界の意を受けた自民党政権の頃からの財界、霞ヶ関の悲願であり課題であったのだから、政権をとって代わった民主党までが増税法案を出すなら数においてそもそも成立しないはずがなかった。
けっきょくこれが夢の二大政党制の本質なのである。さんざんマスコミは日本でも米国や英国に倣って政権交代がたやすくなる二大政党が必要だとさんざん煽ってきた。そしてついに自民党から民主党に政権交代はなったが、何のことはない元々第二自民党でしかなかった綱領すらはっきりしない寄せ集めの政党は、掲げたマニフェストはほとんど成し得ずに迷走、政権運営に行き詰まり自民党にすり寄る他なく念願の消費税大増税だけは成し遂げたのだ。
民主党に期待し一票を託した国民はまんまと騙され増税と言う煮え湯を飲まされる羽目となった。まあ自業自得と言えなくもない。元々政策に自民党とはほとんど差がなかったはずの民主党が、選挙に臨んではできもしない、耳当りの良い公約をいくつも並べた。しかしコンクリートから人へ、どころかダム建設は続くし、沖縄の基地移転は相変わらず、子供手当ての迷走、そしてマニフェストにはなかった、まずは増税ありきの社会保障一体化法案成立なのである。
確かに日本の近い将来を考えるとき、世界でも類のない少子高齢化社会を迎えるこの国は、社会保障の安定のためには新たな財源が必要だというのは事実であろう。しかし、そのために国民が身を切って、多額の消費税を負担するというのはどう考えてもおかしな理屈ではないか。それはタコが自らを足を食べているのと同じで、社会保障の財源をそれを利用する側に求めるのは理に合わない。益を受ける側と負担する側が同じで、しかも低所得者層がさらに多く負担するのである。
それでもそれは「増収分は全額社会保障で還元される」とする首相の約束が守れての話であり、あろうことか三党合意には「成長戦略や防災及びに減災に資する分野に資金を配分する」と明記されているのだから、またまた公共事業に消費税増税分は回される可能性が高い。
日本の将来を憂うマジメな国民の多くはこのままではこの国は大変だと、大新聞などのメディアに煽られて、増税もまた仕方なしとしぶしぶ消費税増税を追認する声もあるが、増えた消費税は社会保障に果たして使われるのか自分はかなり怪しいとにらんでいる。これもまた毎度の政治的詐欺、国民をだますイカサマなのである。
社会保障のあり方は、財源を消費税に頼り、広く国民に負担させるのではなく、ワーキングプアなど新たな貧困者層が増えているということはどこかに富が蓄積されていることに他ならないわけで、そこに課税するしかない。それは大企業や法人、富裕層に対する課税と官僚などの天下りの絶対禁止などさらなる無駄の削減である。そして米軍への思いやり予算の廃止、政党助成金の廃止、軍事費の削減など別な安定財源から回していくべきである。
このまま国民に更なる増税を課せば、やがてはタコが自らの足を食べつくしたら死ぬように、国民は生きていけなくなる。生活保護者バッシングのように、消費税を上げても社会保障は安定も改善もされない。



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