不戦の誓いが揺らぐ69年目の終戦記念日 ― 2014年08月15日 21時55分00秒
★戦争をしない、させない国民意識を高めていく アクセスランキング: 113位
毎年のこと、8月15日は祝祭日ではないけれど、おそらく日本人ならば誰にとっても厳粛な気持ちで臨むある特別な日だと思う。言うまでもない日本が先の大戦で降伏し戦争が終結した日だ。そして今日の繁栄と民主主義、戦後の体制はすべてその日をスタートとして始まった。
今の日本、この社会があるのはその日を境にそれまでの旧体制が終焉しこの国は米国の主導する民主主義国家として西側社会の一員となったからで、1945年のその日を体験していない戦後世代ばかりの今日でもやはり8.15は日本人には大きな意味を持つ。
だが、今年の8月15日こそ昨今の政治状況を鑑みれば多くの人が複雑な思いを抱いたことであろう。自分もまた今年は特別な感慨がある。
不戦と恒久平和を誓ったはずの、いや、憲法には今もきちんとそう記してあるのに、その憲法をないがしろにして一内閣の判断で、解釈として集団的自衛権行使容認となった今、69年目にして再び戦争国家へと大きく舵を切ろうとしてしているからだ。
今更説明不要だろうが、集団的自衛権を行使するとは、日本が攻撃受けていなくとも米国など同盟国が攻撃を受けた場合、海外であってもこの国も参戦するということに他ならない。
それが世界の安全保障のためだとしても憲法に禁じられている戦争行為が、憲法じたいをかえることなく可能となる理屈が自分には理解できないしどうして司法がそれを容認するのか不可解でならない。自分が社会科で習った三権分立とは嘘っぱちだったのか。国会で大多数を占める政党とその内閣ならば憲法に記してあることすらも解釈として簡単に変更可能となればそもそも憲法なんて意味がないことになる。
また、もし仮に、一内閣とそのときの国会の判断でそうした解釈改憲が可能だとしてもそれは、国民の信を得てからするのが筋であろう。確かに国民は自公に衆参多くの議席を与えた。が、そのときの選挙では「集団的自衛権の行使容認」は公約の俎上にも上がっていなかったではないか。先の秘密保護法しかり、選挙公約に表立ってなかったことを政権奪取後、数の力で無理強行するのはあまりに身勝手、アンフェアだと断ずる。
ときの政権が勝手にそうしたことをやりたいと望むのならまずは国会解散し、選挙で争点として国民に信を問うのが筋というものだ。
しかしそんなことを今さら叫んだとしても現実のはなし、いったん右へと舵を切ったこの国の路線はいまだ異常に高い安倍政権支持率を背景に元には戻せない。そして安倍政権のあいだはどうかはわからないが、不穏な世界情勢を受けて近い将来この国は再び戦争という最悪の政治選択を選ぶか判断を迫られるときが必ずくるだろう。
大事なのはそのときとそこに至るまでの時間だ。
今のようなご時世をうけて最近よく考える。平和とか民主主義とかいうものは、そもそも上から、たとえば米国から与えられるものであって然るべきだったのか。またそれは田畑のように代々そのまま当然のものとして受け継いでいけばすむものであったのか。
確かに、体験としての悲惨な戦争があったから戦争は絶対嫌だ、してはならない、不戦を誓うということは当然なりたつ。しかし、語り継ぐとしたとしても戦後も70年近く、人も三代も過ぎてしまえば「平和」という状態が当たり前、デフォルトになってしまってその有難さと必要性が感じられなくなってしまう。
それは「民主主義」なるものだって同じで、自らが求め勝ち得たものでないかぎり、最初から与えられ持たされてしまえばその有難さも意味も価値すらもわからなくなるのも仕方あるまい。だから誰も選挙に行かなくなるし、政治に関心すら持とうとしなくなる。
異論はあろうが、自分はこの国の平和も民主主義も賞味期限が切れたというか、そもそもの成立からして安直で脆弱だった分だけ経年疲労の末についに期限切れとなってきたと考えている。
体験を通して戦争の悲惨さを説き不戦を訴えるという手法とまたそれを同様に後の世代が語り継ぎ繰り返すというのでは何故戦争が絶対悪なのか、未来永劫してはならないのかという根源的問いかけを前には弱い。また、時間と共にそうした「記憶」と誓いは薄れていくことも当然であり仕方ないことだ。
有事に際し国家の専門的軍事組織による武力による解決手段も世界平和のための一つの選択肢だという正論もあろう。つまり対話による事態解決などにいっさい応じない独裁者と独裁国家を前にしては日本の平和憲法など空証文に過ぎないという現実もあろう。
そうした複雑化する国際情勢だからこそ、なぜ武力によって平和を得てはならないのか誰もが深く考えるべきだし、まして平和とは何か、戦争がない状態とはどういうものなのか、一人ひとり自らで問いなおさねばならない。
つまりもはや本当に「戦後」は終わり、これからは「戦前」となる今だからこそ、その戦争が起きようとする危機的状況だからこそ平和の大切さ、必要さ、有難さが大きく取り上げられ問題視されていく。それはこんな悪い最悪の政治を国民が選んでしまった今だからこそ、今こそ改めて民主主義とは何なのか考え直すときが来ているのと同様だ。
繰り返す。平和も民主主義もお上から与えられるものではない。国民一人一人が自ら求め強く欲するものだ。ならばこそ今からの時代こそ真に平和と民主主義にとっての出番であり誰もが戦争を前にして深く考え直すチャンスだとも言えよう。
人は冬が来ないと冬支度はしない。冬ものは買わない。ならばこれから来る冬の時代こそ、平和と民主主義にとっては真価が問われる良い時代なのである。
だからこそ、何故に人は人を殺してはならないのかと同様に、戦争は絶対悪なのか、非寛容さに対しても寛容でならねばならないのか、自分は非力ながらも語っていくつもりでいる。
毎年のこと、8月15日は祝祭日ではないけれど、おそらく日本人ならば誰にとっても厳粛な気持ちで臨むある特別な日だと思う。言うまでもない日本が先の大戦で降伏し戦争が終結した日だ。そして今日の繁栄と民主主義、戦後の体制はすべてその日をスタートとして始まった。
今の日本、この社会があるのはその日を境にそれまでの旧体制が終焉しこの国は米国の主導する民主主義国家として西側社会の一員となったからで、1945年のその日を体験していない戦後世代ばかりの今日でもやはり8.15は日本人には大きな意味を持つ。
だが、今年の8月15日こそ昨今の政治状況を鑑みれば多くの人が複雑な思いを抱いたことであろう。自分もまた今年は特別な感慨がある。
不戦と恒久平和を誓ったはずの、いや、憲法には今もきちんとそう記してあるのに、その憲法をないがしろにして一内閣の判断で、解釈として集団的自衛権行使容認となった今、69年目にして再び戦争国家へと大きく舵を切ろうとしてしているからだ。
今更説明不要だろうが、集団的自衛権を行使するとは、日本が攻撃受けていなくとも米国など同盟国が攻撃を受けた場合、海外であってもこの国も参戦するということに他ならない。
それが世界の安全保障のためだとしても憲法に禁じられている戦争行為が、憲法じたいをかえることなく可能となる理屈が自分には理解できないしどうして司法がそれを容認するのか不可解でならない。自分が社会科で習った三権分立とは嘘っぱちだったのか。国会で大多数を占める政党とその内閣ならば憲法に記してあることすらも解釈として簡単に変更可能となればそもそも憲法なんて意味がないことになる。
また、もし仮に、一内閣とそのときの国会の判断でそうした解釈改憲が可能だとしてもそれは、国民の信を得てからするのが筋であろう。確かに国民は自公に衆参多くの議席を与えた。が、そのときの選挙では「集団的自衛権の行使容認」は公約の俎上にも上がっていなかったではないか。先の秘密保護法しかり、選挙公約に表立ってなかったことを政権奪取後、数の力で無理強行するのはあまりに身勝手、アンフェアだと断ずる。
ときの政権が勝手にそうしたことをやりたいと望むのならまずは国会解散し、選挙で争点として国民に信を問うのが筋というものだ。
しかしそんなことを今さら叫んだとしても現実のはなし、いったん右へと舵を切ったこの国の路線はいまだ異常に高い安倍政権支持率を背景に元には戻せない。そして安倍政権のあいだはどうかはわからないが、不穏な世界情勢を受けて近い将来この国は再び戦争という最悪の政治選択を選ぶか判断を迫られるときが必ずくるだろう。
大事なのはそのときとそこに至るまでの時間だ。
今のようなご時世をうけて最近よく考える。平和とか民主主義とかいうものは、そもそも上から、たとえば米国から与えられるものであって然るべきだったのか。またそれは田畑のように代々そのまま当然のものとして受け継いでいけばすむものであったのか。
確かに、体験としての悲惨な戦争があったから戦争は絶対嫌だ、してはならない、不戦を誓うということは当然なりたつ。しかし、語り継ぐとしたとしても戦後も70年近く、人も三代も過ぎてしまえば「平和」という状態が当たり前、デフォルトになってしまってその有難さと必要性が感じられなくなってしまう。
それは「民主主義」なるものだって同じで、自らが求め勝ち得たものでないかぎり、最初から与えられ持たされてしまえばその有難さも意味も価値すらもわからなくなるのも仕方あるまい。だから誰も選挙に行かなくなるし、政治に関心すら持とうとしなくなる。
異論はあろうが、自分はこの国の平和も民主主義も賞味期限が切れたというか、そもそもの成立からして安直で脆弱だった分だけ経年疲労の末についに期限切れとなってきたと考えている。
体験を通して戦争の悲惨さを説き不戦を訴えるという手法とまたそれを同様に後の世代が語り継ぎ繰り返すというのでは何故戦争が絶対悪なのか、未来永劫してはならないのかという根源的問いかけを前には弱い。また、時間と共にそうした「記憶」と誓いは薄れていくことも当然であり仕方ないことだ。
有事に際し国家の専門的軍事組織による武力による解決手段も世界平和のための一つの選択肢だという正論もあろう。つまり対話による事態解決などにいっさい応じない独裁者と独裁国家を前にしては日本の平和憲法など空証文に過ぎないという現実もあろう。
そうした複雑化する国際情勢だからこそ、なぜ武力によって平和を得てはならないのか誰もが深く考えるべきだし、まして平和とは何か、戦争がない状態とはどういうものなのか、一人ひとり自らで問いなおさねばならない。
つまりもはや本当に「戦後」は終わり、これからは「戦前」となる今だからこそ、その戦争が起きようとする危機的状況だからこそ平和の大切さ、必要さ、有難さが大きく取り上げられ問題視されていく。それはこんな悪い最悪の政治を国民が選んでしまった今だからこそ、今こそ改めて民主主義とは何なのか考え直すときが来ているのと同様だ。
繰り返す。平和も民主主義もお上から与えられるものではない。国民一人一人が自ら求め強く欲するものだ。ならばこそ今からの時代こそ真に平和と民主主義にとっての出番であり誰もが戦争を前にして深く考え直すチャンスだとも言えよう。
人は冬が来ないと冬支度はしない。冬ものは買わない。ならばこれから来る冬の時代こそ、平和と民主主義にとっては真価が問われる良い時代なのである。
だからこそ、何故に人は人を殺してはならないのかと同様に、戦争は絶対悪なのか、非寛容さに対しても寛容でならねばならないのか、自分は非力ながらも語っていくつもりでいる。
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