9月に入りました2021年09月02日 13時42分34秒

★やっと新パソコン諸々の設置、設定が終わった。

 長月九月に入ったとたん雨模様の日が続き、急に涼しくなった。
 昨日は、父不在ということもあって、朝も寝坊したのに、午後も昼食後、夕方までひたすら昼寝してしまった。大したことはしていないのに、どっと疲れが出た感じがしていた。
 春眠暁を覚えず、ではなく秋眠であるが。まあ、それだけ様々な気苦労で疲れ果てていたのだろう。

 前回も書いたが、コロナ陽性となってずっと自宅療養を余儀なくされていた友人も無事回復途上にあり、自宅隔離も解かれたし、私事だが、クラッシュしたパソコンに代わって新しくメインに用いる富士通のデスクトップのパソコンをプリンタなどと繋ぐ設定作業もほぼすべて終わった。
 もうこれでブログもフェイスブックも自在にアクセスできるし、印刷も今回新たに購入したものだけでなく、旧のプリンタも新パソコンで起動できるように繋げられたので、パソコン&ネット環境だけは元に戻っただけでなくグレードアップできた。
 しかしこれで本当に元通りかと言えば、まったくそうではない。壊れたパソコンに入っていた様々なデータが一切合切失われてしまったので、様々な過去のデータ、情報だけでなく、印刷などの際のフォーム、我が拵えた形式そのものを一から作り直さないとならない。
 例えば、コンサートのチラシや歌集を作るにしても、パソコンが壊れる前は、過去に使用したフォームをそのままコピペしたり入れ替えたりしてそこに新たに付け加えるだけですぐに「完成」させられた。
 しかし、もうそうした過去のデータ、フォームは新しいパソコンには何も入っていないのだから、またすべて最初から入れ直す、つまり何であれ作り直さないとならない。
 ライブの画像なども古いものは、外付けハードディスクに入っていないので、どこかに収蔵してあるはずのSDカードを探し出してまた一枚づつデータを取り出し確認してはパソコンやHDなどに取り込んでいかねばならない。

 これからの様々な作業を思うとき、正直、前途遼遠、うんざりした気分にもなるが、これはある意味、これまで果たせなかった我のデータベース構築の機会ともなるわけで、積年自分の抱えている、録りためた画像、映像、音源などを今度こそ全てきちんと年度、月日ごとに整理・保存し直して、ゆくゆくは公開できるものは世に広く示したいと思っている。
 そういう意味で、まだ何も始まりも始めてもいないが、ようやく新たなスタート位置に立った、というか今風の言葉を使えば、新しいステージの幕が開けたというところだ。

 そう、やっとこれで緒に就いた、というか、新たな旅支度は整った。さあ、ここからだという気分になった。人もモノもデータの類も失ったものを悔やみ嘆き悲しんでも無意味、無駄であろう。
 こぼしたミルクは戻らないのならば、新たなミルクを探し求めることも大事だが、もう一度冷蔵庫の中も整理整頓して見通し良くしてまず不要なものは処分して新たな収納スペースを拵えて快適な生活を送れるよう生活そのものを立て直していくことだ。

 7月の19日にパソコンがクラッシュしてから約一か月半、ずっと我が人生は迷走し、さらに周囲あちこちでコロナ陽性者も出てしまい、ずいぶん気苦労は絶えなかったが、新しい季節を迎えてようやく騒動は収束へ、今は再スタートの緒に就けた。
 間もなく9月8日は母の5回目の命日、そして10月に入れば父の97歳の誕生日が来る。さらに、いよいよ天下分け目の決戦、政権交代の期待が高まる衆院選の日程も出たようだ。やること、できることはいっぱいある。だが、それこそが良いこと、生きているということではないか。

 多事多難の人生はこれからも続くが、いまは、ともかく我もまたここに生きて在るだけで満足であり有難いことだと思っている。
 一人は皆のために、皆は一人のために、今こそ共に手を携えてこの危機を乗り越えていきましょう!!

母の命日に思う2021年09月08日 14時51分16秒

★果たせなかった思いとかなわなかった夢と

 9月に月に入ってから多々いろいろあって、良いことも悪いこともともかく慌ただしくて心労甚だしく落ち着いてブログも書けなかった。今も体調はすぐれない。腰がへんな風に痛い。
 何も解決したわけではないが、明日、明後日はまた父が在宅の日なので、今日はまだ時間があるので近況といま思うところを少しだけ書かせてください。

 今日、9月8日は、母の命日である。2016年の今日早朝、母は逝った。指折り数えてみると今年は2021年で、丸5年となる。思えばあっという間だが、いつしかそれだけの歳月が過ぎたのだ。最近では母も夢にも出てこなくなった。残す我らを案じ無念の死だったはずだが成仏したのであろうか。
 何度も書いてきたと思うが、母の死で、我の人生は新たな段階に入った。それまでは、母を中心に、父と、子である我の三人家族で長年あったのが、その日から父と我だけの男だけの家となってしまった。
 しかもその父は、さらに認知症と高齢で老衰老耄が進み、もはやかつての人格はほとんどなく、生きてはいても形骸に過ぎないようなものだから、何一つ頼むに値せず、我が父の世話と家事家計すべてを担当せざる得なくなった。

 そして当然のことだと今気づくが、万事に無能かつ何一つ片づけられない整理整頓・管理能力が欠如した我の家は、内も外もごみ屋敷と化してしまった。頭がおかしいからである。※これは本当に「病的」なものだと自分でも認識しているが、医者にかかっても治るわけでないので診断は仰がない。
 母の死のショックにかこつけて、全てを放擲、ネグレクトしていたから、モノが片づけられなくて増えるだけでなく、たとえば猫たちは避妊や去勢手術することなくほったらかしにしていたら次々と子を産み、またその子がさらにまた子を産み、我が家は多頭飼い飼育崩壊の寸前となってしまった。
 そしてそれは今も続いている。ずいぶん人手を煩わせ、多くの人に新たな飼い主を見つけてもらったが、今もまだ子猫は増え続けたままだ。打ち止め、終わりの日は来るのであろうか。※さらに実は、また子猫が一匹、後ろ脚に事故に遭い一か月も入院していたのが、昨日やっと帰還したところだ。今はケージに閉じ込めて自宅療養中となった。回復傾向にあるがまだまだ予断は許さない。薬を飲ませたり傷口を消毒したりこれまた手がかかるが仕方ない。

 そこに、先だっては長年使ってきたメインのパソコンもクラッシュする事態が起きた。せめてデータ復旧だけは、とあちこち駆け回ったが、それすらもかなわず徒労に終わった。様々な設定も仕事のデータベースもまた1からから、新たに構築しないとならない。
 もう六十代半ばにならんとする歳で、家のことも仕事に関することも猫のことも多々一人で抱えて維持しつつ今さらやり直さないとならないということは、亡き友人の口癖を借りれば「暗澹たる気持ち」とならざるえないが、若い頃から親たちに甘え依存したうえで野放図に生きてきた愚かな人生の帰結、顛末なのだと覚悟してやっていくしかない。そう、ある意味、自業自得は正しいのである。
 どうしようもない人生を、少しでもましになるよう、そのときどきできること=すべきことを少しづつでもやっていくしかない。そうこうしているうちにやがてこの愚かな人生も終わりの日が来るだろう。それはそんな先のことではない気がしている。どこまで果たせるか、だ。

 と、ここまでが、毎度の前置き、前説であり、ここからが書きたいことだ。
 このところ、父のおむつ交換などもあって、何時に寝ても明け方、四時か五時ごろには一度起きてしまう。
 今朝も父は不在の日なのに、寝たのも遅かったはずなのに、まだ暗い午前四時頃に一度目覚めてしまった。ちょうど母が逝った時刻であったかもしれない。
 在宅で看ていた母の容体が急に悪化したのが、その2016年の9月8日に日付が変わった頃で、その急変に慌てて救急車を手配し隊員たちが来て心臓マッサージなど手を尽くしたがもう心臓は動き直すことはなく、そのまま救急車に乗せられ立川のかかりつけ病院に運ばれた。
 我もその車内で、握っていた母の手が次第に冷たくなっていくのを感じて、人の死とはこうしたものかと妙に冷静に思ったことを今思い出す。そして徐々に外は白み始め、病院で死亡診断書をもらい、静謐な朝の街を早速手配し来てくれた霊柩車で母の遺体と共に帰宅したのであった。
 
 葬式や死後の様々な手続きに追われていた頃は、慌ただしくやること多々で、淋しさなど感じなかったが、一段落したとたん我は母なき現実に打ちのめされ何もかもめちゃくちゃになってしまった。
 あの日から5年が過ぎて、今やっとその事実、事態そのものを冷静に俯瞰するように見つめ直し受け容れられるようになった。当初はなかなか受け入れられなかったが、最愛の母の死もまた起こるべくして起こった意味ある事であったと今思う。

 それが良いことであろうと、悪いことであろうと、この世に「起こること」にはすべて意味がある。
 若い時から漠然とそう感じていたが、年とった今は、確信をもって断言できる。そう、起こることは全てには、理由、原因があると同時に、意味がある。すべてのことは、メッセージなのである。
 それを、容認するか以前に、まずその出来事、起こったことをどう人は受け取るか、である。読み取る、と言ってもいい。
 母の死のように、それは絶対に「良いこと」だととても思えなくても、そこには意味がある。それは天の配剤、キリスト教的に言えば、神の御心の顕れ、なのである。
 とてもそう思えないであろう。誰だってつらいこと、特に人の死、それも最愛の人の死は受け入れがたい。

 今、NHKの朝ドラ『おかえりモネ』では、三陸出身の主人公の友人の親父が、あの3.11の大津波で妻を亡くしアル中になっているエピソードが描かれている。
 浅野忠信演じる元漁師のその男は、行方不明となった妻の死を認められず、酒におぼれ役所に出す死亡報告書をずっと拒み続けている。周りから提出の勧めに(妻の死を)「俺は絶対に認めねえよ」と号泣する姿に我もつられて泣いてしまった。その気持ちは今も我は共有している。
 が、受け容れられなくとも、起こること、起きてしまったことはすべて意味があるのだとしたら、人はそれぞれどう解釈してどう捉えるかということこそが求められているのではないか。

 人生はつらく苦しく悲しいことばかりが起きる。思わず天を仰ぎ、何でだ!!と憤りの声が出る。神を呪う言葉すら出る。それはとても良いことだとは思えないことばかりが続く。自死すらも頭をよぎる。
 しかし、その苦難と苦渋の中にこそ何か意味、希望の光、発芽のようなものを少しでもみつけていくしかない。パンドラの函の底に残るものは何か、だ。
 人の幸、不幸は、そのメッセージをどう受け取るかなのである。たとえ絶対に受け容れられなくても。意味は見いだせる。

 そして、まだ生きている我らは、先に逝ってしまった人たちの残した、果たせなかった思いとかなわなかった夢を大切にして抱えて生きていかねばならないと気づく。
 そうして遺された思いと夢とを受け取り、また次へと手渡すこと。それこそが人生であり、やがてはそれが「歴史」となっていくのではないか。
 ならばしんどくてもともかく生き続けていくしかない。がんばりたい。がんばらねば。

10月10日、「共謀コンサート」開催確定!!!2021年09月11日 21時48分23秒

★ハード・フォークの雄、バラッドショットと五十嵐正史とソウルブラザーズの激突・共謀!!

 このコロナ禍中、いろいろありましたが、そして今もいろいろまだはっきりしないこともありますが、谷保かけこみ亭での連続企画「季刊・共謀コンサート」、秋の回は、当初の予定通り、来る10月10日の日曜日に開催決行いたします。
 出演は、今話題のスーパーハードフォークトリオ、バラッドショットが再登場。迎え打つのは、かけこみ亭おなじみの熱烈バンド・五十嵐正史とソウルブラザーズの面々。
 今最も熱い両バンドが、コロナ退散の思いで駆け込み亭で初激突いたします。
 開始時間など詳しいことは、また後ほどお知らせしますが、ぜひぜひこの両巨頭の対決ライブをぜひぜひお見逃しなく。
 ※パソコンが壊れたため、先の回で、配布したチラシをアップいたしました。

追伸2021年09月14日 00時11分24秒

★これが自分そのものなのだ、と。

 このところあれこれ多々頭悩まし心痛めることが続いている。神はその人に背負えぬ荷、つまり分相応以上の労苦は与えないとされるが、そろそろ限界というか、もう一人では背負えない気がしてきている。
 ケガして入院していた猫が退院できたのは良いことだが、一か月間の入院治療費と手術代など、ずいぶん割り引いてくれても総額30万円を超してしまい、とりあえずカード決済はできたが、さてどこからその金を引き落とし日の来月頭までにどう工面するかまず頭悩ましている。
 その他、次々また新たな事態が突発して我一人で汗みずくであれもこれもと必死に動き回り目が回るような日が続いている。
 そして結果、今更ながら思うのは、自らの愚かさと無力さ、つまり「無価値」さである。何につけても自分は何一つきちんとできない、対人、対社会においてまったく無価値な人間だという自覚だ。

 昔、うんと若い頃なら、そうした「現実」に真剣に思い悩み、悲嘆と絶望のあまり自死すら考えただろうが、この年までともかく生きてくると、もうそんな甘いことは考えない。いったん逃げたとしてもあの世でまたさらにひどい目にあうだけのことだ。あの世でもまた償いはしたくない。借金に追われるのはこの世だけにしたい。
 結局、これが自分なのだ。自分という人間そのものなのだから、どんなに人に呆れられ蔑まされようともそれはそれで仕方ない。ともかく生きていくしかない。
 もとより無価値な人間として、誰からも相手にされなくてもまだ我が神だけは見捨てずにいてくれている。それは自らの愚かさ故に何度も死んでもおかしくない目に遭ったが、この歳まで生きながらえたことで示されている。その都度何度も何度も僥倖という思いを得てきた。
 ならば、この危機もきっとまた何とかなるに違いない。老父の体調もだが、まさに毎日綱渡り、薄氷を踏み進むような日が当分続くのだろうが、ともかく一日一日うまくやり過ごす、何とか乗り切っていくしかない。

 同世代の友人知人のフェイスブックなど見ると、皆それぞれまさに悠々自適の、仕事や子育ても終わった後の第二の青春を謳歌している様子が窺い知れる。
 趣味や旅行など好きなことに自由に時間と金が使えている彼らと、日々生活に追われ死ぬまで金の工面に頭痛めて次々多事多難なことが尽きない我とどちらが幸せか、考えても意味がない。
 世間的な成功や幸福はむろん彼らにあろう。だが、この人生は自業自得とはいえ、自らが選び、生きてきたその結果なのだから、比べても意味ないし良くも悪くも仕方がない。

 どれほど無価値で、誰からも相手にされなくても、ある意味、だからこそ生きていかなくてはならない。自分だけの人生なのだから、外からの非難や侮蔑を背にともかくあと少し、死ぬまでは生きていく。
 どうしようもない人生でも、どうしようもない人生だからこそ、必死に生き終えたとき、そこに何かしらの「価値」が見いだせると信じてともかくやっていこう。神だが仏だか、見えないその方と同行二人で。

我が人生、三度目の苦難の渦中において2021年09月23日 16時59分52秒

★何が起きているのか、何が起きたのか、ようやく心が落ち着いてきたので。

 まったく恥ずかしく情けない話だが、できるだけ包み隠さず正直に書く。
 また、ブログが前回書いてからずっと空いてしまった。ご心配おかけしたらまずお詫びしたい。
 その続きを書こうと思っていた矢先、予想していない「事件」が起きた。自らの迂闊さと愚かさをひたすら噛みしめ、まさに今も胸が締め付けられる思いがする。世間の人にはなんだ、そんなことか、とまた嗤われるだろうけれども。

 実は、先だって記した、後ろ脚をケガして大手術をした猫が、帰宅後、失踪してしまった。先週の金曜の明け方に気がついたのだから、もう一週間がたとうとしている。が、あちこち探しまわったものの姿は確認できていない。
 まだ通院治療中で、近く体内に入っている、骨を固定してある金属製のピン、人間でいえばボルトを抜く再手術をしなくてはならないだけでなく、患部の感染を抑える抗生剤も当分の間は飲ませ続けないと危ないと医師から言われているのに、自らケージの隙間から「脱走」してしまったのだ。
 その病院で診察受けて、骨折していた部分の骨の部分がかなり腐っていて、一時期は脚一本切断することも検討されたが、医師の努力によって何とか切らずに今現在は様子見という状態で、我が家に返されたのだった。
 一か月間の入院費と手術代で、30万円を超したということも書いたが、その額がかかった猫がいなくなってしまったということよりも、これから先、果たして生きていけるのか、ともかく帰ってきてはくれないかという不安と哀しみ、失意のほうが心を占めている。
 まさに我の過失であった。しかし、どうしてこんな辛く悲しく苦しいことが起きるのだろうか。この事件にも何か意味があるのであろうか。

 このところ、起こることすべては神の愛、神の計らいだと我は自らに言い聞かせていた。その出来事には必ず意味があるはずだと。
 しかし、今はまだこのことは、良いことだなんて絶対に思えない。夜も昼も思うはいなくなったまだ子猫と呼べるほどの小さい猫のことばかりだ。開け放してある猫ドアから自ら自分で帰ってくるのをひたすら待つしかない。

 我はもともと、親譲りの不安神経症があり、不意に何か根拠のない不安に襲われてドキドキ心臓が痛くなる。気になることがあるとあれこれ考えて眠れなくなることも多い。
 が、歳とってさすがに鈍感力もついてきたのと、神の存在を確信してから、もうそれは表に出なくなったと思っていた。
 しかし、今回、猫がいなくなった日から、パニック障害まで起こして、汗がだらだら止まらず、何も食べ物は喉も通らず、自分でもこれが続いたら死ぬな、と不安になった。
 ひたすら水をがぶがぶ飲み、下痢もしたが、幸いにして一日半で、ともかく少しは食欲も戻り今はまだ食は細いが何とか食べられている。
 しかし今も事態は何も解決したわけではないので、子猫の入っていた空のケージを見る都度、胸が苦しくなってくる。日に何度も名前を呼んで、「しんのすけ、しんのすけ、帰っておいで」と猫ドアに向かって呼び掛けている。

 わが生涯の過去二つの試練的出来事は、一番目は、これもまた我が不注意から近所の女児を車で跳ねて脳挫傷となり、一時期は危篤状態で、一週間、腫れた脳を冷やしてまさに奇跡的に一命をとりとめたことだ。
 その一週間もまさにこちらも生きた心持ちせず、不眠で神に祈り続けた。幸いにして後遺症もなく先日その子は、成人式を迎えたらしく振り袖姿を垣間見たのだから、もう十数年が経過したということになる。
 二番目は、いうまでもなくは最愛の母の死であり、今思うと、死そのものは覚悟もしていたからさほど苦難ではないことに気づく。
 何が苦しくつらかったと振り返れば、じょじょに死にゆく姿であり、死の瞬間まで共に暮らせたからそのことには悔いはないが、やはりもっともっと何かできたことがあったはずだし、結果として我の不手際で死なせてしまったという苦い思いである。
 その二つの時も、しばらくの間、見る景色すべてが色を失い、我にとってまったく無意味、無価値となってしまった。外の世界のことは何もかもどうでもよくなってしまった。
 元に戻るまでどれだけ時間がかかったことかもう思い出せない。

 今回はたかが子猫のことである。しかし、数日であったが、やはり同様の感覚に陥った。苦しかった。
 
 今もまだ気持ちは元に戻っていない。今も諦めずにともかく自分できっと帰ってくると信じて待ち続ける気持ちに変わりはない。
 このまま、ブログも何の説明もなく更新しないままだと、こんな我を支えて助けてくれた皆様にも申し訳ない。
 ともかくざっとだが、現況だけお知らせした次第だ。

まだできること、すべきことがあるのならば2021年09月28日 07時26分51秒

★状況は何も変わっていないけれど

 彼岸過ぎて、季節もようやく夏から秋に変わり、朝晩はめっきり肌寒いほど涼しくなってきた。
 失踪した猫が帰ってこない状況は相変わらずなのだが、ようやく気持ちは戻ったというか、踏ん切りがついた。切り替わった。

 まだ、できることとやるべきことがある。そのための時間も(多くはないが)まだある。ならば、ともかく一つ一つ、一日一日きちんとしっかり生きていこうと思った。そう、できることはそれしかない。
 どんなに大変でもやるべきこと、すべきことがあるのは有難い。そうして一日一日何とか乗り切っていけばこの人生も終わる。いや、終えられるだろう。
 公的なことというか、我の対社会的な活動は、来月10日開催の「共謀コンサート」と、それの12月の最終回だけで、ともかく年内のその二つのイベントをなし終えたら、もうそうした企画活動は当面終わりにしようと今は考えている。

 迫りくる父の死を間近に、準備というか、今一度真剣に、成すべきことを検討しなければならないし、「遺産」などはないが、煩雑な死後の手続きなども今まだ生きているうちに変更できることは済ませておいたほうが良いだろうと考えたからだ。
 いろいろご心配おかけしたが、もう今回の危機は乗り越えられそうだ。猫は帰ってくるときは帰ってくるだろうし、帰らないのならば、それもまた意味と理由があるのだろう。
 昨今、自分がつくったうたの文句ではないけれど、愚かさを抱えて生きていく、愚かさと向き合い生きていこうと今更ながら誓った。そう、バカだから、バカだからこそ、だ。
 結局できることはそれしかない。愚かでだらしなく不器用だからこそ、拙を守ることだ。
 ※陶淵明『守拙帰園田』。

 慌ただしさと心労でこのブログもずいぶん更新できずその間隔が空いてしまったが、順位はうんと下がってはいないのは、アクセス数だけは、あまり減っていないことなんだろうと好意的に思いたい。
 コメントなどは皆無でも、つまりそれだけ誰かさんたちが我が窮状を気にかけてたまには覗きに来てくれているのだと考えてこれからもできるだけ書き続けていきたい。
 まだできること、すべきことだと考えて。いろんなことを今更ながらだが、きちんとしていこう。
 ご心配おかけしました。ともかく皆さん有難うございました!!!

失踪した猫は帰ってきました!2021年09月30日 23時54分08秒

★これでやっと憂いなく元に戻れるかと

 先に拙ブログで記した、後ろ脚に大ケガして一か月間入院して、どうにか手術し終えて自宅療養中にケージから脱走して、この半月行方不明だった中猫のしんのすけは、昨夜八時頃、やっと自ら猫ドアから帰宅してきたのを確保しました。
 そして本日、朝一で動物病院に連れていき、全身くまなく骨から血まで再検査をした結果、幸いにして壊死していた部分も悪化することなく全体として回復傾向にあるとのことで、やっと心から安堵いたしました。
 正直なところを記せば、この二週間まったくどこにも姿が見えず、先日、夕時に一回だけチラッと猫ドア付近で見かけた気がしたものの、それがしんのすけなのか確定までは至らずで、我自身がもう帰ってこないだろうと半ば諦めかけた矢先でした。
 これで自らの迂闊さ、愚かさを責め続けることからの憂鬱感と喪失感に苛まれることなく、ようやく自分のことに向き合えることに。
 
 またまたご心配おかけしました。皆様のご祈念有難く思いました。まずはその報告まで。