新年あけましてよろしく願います。2015年01月01日 03時04分35秒

★この位置、ここから、この場所から~北からの向い風に胸張っていく     アクセスランキング: 177位

 2015年の年が明けた。今さっき国立から帰ってきた。大晦日は終夜運転していることを良いことについ零時過ぎどころか深夜まで谷保のかけこみ亭で旧知の人たちと話しかつだらだら呑んで大晦日の夜を遅くまで過ごしていた。

 南武線はやっていないとのことなので、そのまま大学通りをまっすぐ歩いて国立まで出て中央線、そして立川から青梅線の臨時電車で無事に帰ってこれたという次第。電車は深夜というのにかなりの人出で込み合っていた。これもまた大晦日の光景と言えよう。

 数年前はまだいくらか若く元気もあったから、西荻の呑み亭で呑んで年を越してそのままウチに帰らずに青梅線で御岳まで出て雪の残る山道を歩き御岳山の参道を登り山頂の神社で初詣したこともあったが、今思うとまさに夢のようだ。今や谷保から国立まで歩くだけでへとへとなのである。
 しかし強い北からの向い風を受けて、気持ちは高揚した。とにもかくにもまだ生きているのなら失敗続きの人生だとしても人からどう扱われようと落ち込まずしっかり前を向いていかねばならない。鬱々して引きこもっている暇はない。吹き付ける強い北風を受けて胸をはって生きて行こうと拳を握りしめた。そう、今年こそしっかりと。

 大晦日は、夕刻狛江でさこ大介大兄と会いミートステーションで呑みながらマス坊の悩みや愚痴を聞いてもらい、その後、谷保のかけこみ亭で、館野公一さんにもあれこれ話を聞いて頂きアドバイスも受けてようやく気持ちは立ち直った。

 過ぎたことは過去のことであり、悔やんでばかりでも仕方ない。むろんその反省を糧にもう失敗しないよう学びこれからに生かしていけば良いだけの話で、戦争や人殺しのような本当の悪事でないのなら人様に多大な迷惑をかけたとしても二度とすべきではないとか、してはならないという程のことではないのだとようやくそこまで気持ちが回復した。

 それもこれもさこさんや館野さんら心から敬愛する音楽の先達と会って屈託する気持ちを深く話せたからで、彼らからの励ましこそが卑俗非才な我を肯定する力になった。ある意味それを期待して甘えにも行った気もしているが、自分が高く評価し信頼する方から、云わば、お前もまだ生きていても良いのだよ、と赦しを頂いたことで、ならばよし、また気持ち新たに頑張らねばという気持ちにやっと戻った。

 北風が今も音たてて吹いている。大学通りを中央線まで北からの強い風を真正面から受けて歩きながら今年の企画ややりたいこと、そしてやるべきことが次々と頭に浮かんできた。

 こんな我にもまだできることがあるはずだしまだできると思うし、まだすべきことがたくさんある。またもやご批判受けるときもあろうが自分のヘン、異能を信じて自分のできる、すべきことを真摯にやっていく。ディランのうたではないけれどそれが正しければきっと神が味方もしてくれよう。もう何も期待はしないがもう何も恐れない。

前を向いてしっかり胸をはって生きていきたい。

初詣に見る景気回復度2015年01月02日 22時17分07秒

拝島大師2015
★まったく景気は回復どころか悪化している。        アクセスランキング: 175位

 毎年、正月二日、三日は近くの拝島大師という「御大師様」へ初詣でに行く。犬たち連れて歩きである。むろん、大晦日の晩、除夜の鐘が鳴る頃には、ウチから一番近くの地元の氏神様、日枝神社へ行ってお神酒をもらい並びの寺で除夜の鐘を聞く。今年は、つい、かけこみ亭で、顔見知りの方々とだらだらと呑んでいてまだその神社に詣でていない。たいへん遺憾なことである。

 唯物論者というわけではないが、マルクスを多少でも齧った者として神仏に詣でるとは分裂している気もするが、いや、それ以上に、キリストは我以外の神を崇めるなとされているのだから他の神に祈願するなどけしからぬことだとも思うけれども、それはそれとして人の心としては赦されると自分は考えている。何しろ昔からの習いであり、新年の行事なのだから。信仰以前にこれは日本人の慣習なのである。さておき。

 毎年、特に正月二日の拝島大師は寺の入り口辺りはもう歩くのもやっとのほどの込み合いを見せる。そして境内あちこちにびっしり並ぶいわゆる縁日の屋台を冷かしつつ買い食いするのも参拝者の楽しみの一つのはずなのだが、今年はかなり閑散としていた。
 あきらかに全体的に人出が少なく、寒い正月ということを差し引いても大師様の参拝者は長蛇の列が続いていても外れのほうの屋台となると人影もまばらで、呼び込みのオヤジの声がひときわ大きく寒空に響いていた。あきらかに消費税不況であろう。

 何しろ、もの皆高くなっていて、毎年そこでは、霞ケ浦の川エビを茹でたのを買い求めるのだが、去年までは一パック300円で、二つ買えば500円だったのが、今年は最初から一パック500円に代わっていた。※偽関西人でもあるマス坊は、そのエビと京芋を煮て、毎年中川五郎氏ら関西出身者にのみ亭での新年会ライブの折など振る舞っているのだ。

 他の屋台の食べ物はあまり買ったことないのでわからないが、値段は変わらずともおそらく量は減り大きさも小さくなっているのではないか。つまりこうした縁日では常に消費税込みでのやりとりとだから、外税にはできないのだからどこかで増税分を削らねばならない。あるいは値上げするかだ。そして値上げしてしまったこともあるのだろうが、人は新年の初詣出には来ても皆屋台などでは金を落とさないのである。そのどれもが一品500円からだから、何も汚い屋台で人ごみの中で立ち食いするより、たこ焼き、お好み焼き、ヤキソバにせよ、フランクフルト、じゃがバタにせよ家で作って食べれば安上がりと考えてしまうのではないか。

 これが景気の良い時ならば、正月でもあり、初詣出に来て気も浮かれてつい屋台で散財もしよう。それぐらい当たり前だったはずなのが今年はかなり皆さんシブい。お参りだけ済ませて屋台などにはほとんど見向きせずさっさと帰ってしまうようだ。
 アベノミクスで景気は回復しつつあるとずっと言われている。じっさい景気回復にはその道しかない、と訴えてまたしても自民党は大勝した。が、じっさいのところ庶民は、消費税増税の反動も大きく、明らかに昨年の正月よりも懐は厳しく固くなっている。

 マス坊もけっきょく千円分川エビを買い求め、その量の少なさに憤りさえ覚えたが、それだけしか金は使わず犬たち連れて急ぎ足で家路を急いだ。
 消費税はこの後、どんな経済状況であろうと必ず延期することなくまたさらに10%へ上げることになっている。庶民の懐具合が物価の上昇にいったいいつになれば追いつくのであろうか。
 来年もまた拝島大師に自分は行くだろう。今年よりも景気が回復しているか。それはここに来れば一目でわかる。

さこ大介2015年第一弾は渋谷百軒店1/9日2015年01月03日 15時07分34秒

★久々のレコ発を前に、初の実力派4人ユニットおひろめ!

今年もシバの作陶展が国立で2015年01月03日 15時07分47秒

★フォーク界きっての異能異才・シバの陶芸家としての個展がまた今年も。

世界の格差と差別、紛争の根源は教育の貧しさから2015年01月03日 15時08分06秒

★教育の貧困コンサートにぜひご参加を!

脱ダメ宣言20152015年01月03日 21時04分16秒

★今年がダメならもう来年はない アクセスランキング: 197位

 寒い年明け、寒い正月の三日である。毎年、記憶の中の正月はたいてい晴れて穏やかなぽかぽか陽気で、拝島大師に行く道筋にはろう梅なども咲き出していて、春の訪れが近いことを肌で感じるのだが、今年は違う。
 元旦は曇って小雪がぱらつき、昨日も曇りがちで午後からは晴れてきたがとても寒かった。そしてようやく今日は晴れたもののまだ気温も低くとても新春という気はまったくしない。こう寒いとまた去年のような大雪があってもおかしくない。ウチの老人たちは手足が霜焼けになって母など鼻の頭が赤くなっている。
 家の中の水道も午前中は凍って出てこない。仕方なくヤカンに汲み置きした水で朝食の支度をやっている。
 それでも季節は常に動いていくものだから、まだ寒い日が続こうともう少しすれば暖かくなり陽も伸びて春になろう。そしてもたもたしているとすぐにまた暑い夏となり秋が来て一年なんてあっという間に終わってしまう。

 自分だけではなくおそらく誰もが年頭にあたり新たな決意や願いを心に誓ったことであろう。皆誰もが今年こそは、とより良くなるように、よりマシになるようにと初詣などで神仏に祈願したのではないか。
 じっさいのところ、毎年毎年いくら気持ち新たに誓ったとしてもいつも通りに毎年相変わらずダメのままで、新年に誓ったことは何も果たせずまた翌年に先送りしてきた自分であった。が、あまりに昨年は自分のダメさのために多くの友人知人に多大な迷惑をおかけしてしまい叱咤叱責を受けて、こりゃあかんなあと心底思い至った。

 むろんどんな結果になろうと自業自得で、自分が困るだけなら自己責任の世界なのだからどうなろうと良いのである。ただそのことにより他人様にご迷惑をおかけし不快なツライ目に合わせてしまうことは全く本意ではない。我は根本的に人間関係がズレているというか、対人関係がよくわかっていない、普通の人とは違うおかしなところがあって、ましてすべてに迂闊であり考えが至らないと言うか認識が甘かったがために先の手がけたイベントでは失態失敗をしでかして皆に多大なご迷惑をおかけしてしまった。
 根本がバカであることも含めて、本当にダメであったとつくづく認識した。そして今年こそはそれを踏まえて、ダメからの脱出、「脱ダメ宣言」を表明したい。これは公約であり、どこそかの民主党のようにすぐに撤回したり豹変はしない。

 じっさいのはなし、ここらでとっちらかったこの人生を、収拾していかないことには先はないのである。欲深いがゆえあれもこれも手を広げて結果としてどれも中途半端のままに投げ出してきてしまった。
 じっさい今だってやりたいことは山ほどある。同時にやらなければならないこともその数倍溜まっている。いつだって思い付きで始めて、けっきょくきちんとカタチにするところまでいかず、また後で時間出来たらと後回しに、そのまま放擲してきたことのなんと多さよ。
 若いときからずっとそうした身勝手好き勝手な生き方をし続けて気がついたらもうすぐ還暦の老人なのである。振り返ればゴミの山と化したいつだって「そのまま~そのうちに」と放擲(ネグレクト)してきた過去の残骸しかない。

 こんな生き方では何一つ成し得ないし、常に人様に迷惑をかけるだけで誰からも相手にされなくなる。今はただ全てをきちんとさせていきたいと願う。むろんすべてなど実際はできやしないだろう。でもそのつもりで一つ一つ全てをきちんとさせていくしかない。でないと行き詰って早晩自ら生きていけなくなるだろう。
 
 思うに・・・今まではめちゃくちゃにあちこちにボールを投げまくっていた。ときにごくたまに返ってくるボールもあったが、たいていは誰にも届かずただ周囲を呆れさせるだけであった。そして自分でも疲弊するばかりであった。いったい何がやりたかったのだろうか。
 これから球数は少なくともしっかりと相手を見てきちんと受け取ってもらえるよう見定めて一球づつ丁寧に投げていきたい。スライダーなど覚える気などさらさらないが、まずはしっかりとストレートでミットめがけて外さないようきちんと届くようゆっくりでも投げていく。

 自分ができる、考えるダメからの脱出とはそうしたことしかない。今年の暮れにもう一度どれだけきちんとしっかりと球が投げられたか、そしていくつ戻ってきたのか検証し直す。もし相変わらずダメのままならば、もうその先はあり得ない。2015年の正月に誓う。

2015年も本格スタート2015年01月04日 23時22分24秒

★今月のライブ情報から         アクセスランキング: 180位

 新しい年の正月気分も本日4日の日曜で終わり、明日からはいよいよ新年が本格的にスタートとなる。今や正月は三が日だけが休日というご時世だから、今年は4日が日曜で一日長い正月休みとなったのではないか。来年は3日が日曜となっているので今年よりさらに短い年末年始の休みとなる。

 皆さんこの年末年始はどうお過ごしになりましたか。ゆっくりのんびりした正月休みを過ごされたでしょうか。

 マス坊家は、いろいろあって今年はおせち料理など何一つ作らなかった。消費税増税で生活が苦しいと言うこともあるけれど、クリスマス忘年ライブ以降、その後片付けやら何だかんだ後始末に追われて大晦日となり、まったく新年を迎える準備もその気持ちにもなれなかった。

 けっきょく、正月から部屋やトイレの掃除、溜まった本や雑誌の移動や整理に励み、ようやくベッドや机の周りやすっきり綺麗にすることができた。明窓浄机という言葉があるが、昨年からの溜まった古い書類がとりあえずなくなったのですっきりしてまさに気持ち新たに新年という気分になれた。
 せいぜい正月らしいのは、餅だけは買ってあったので、年明けてからいきなり半額になった蒲鉾や伊達巻類だけ買って、老親と三人だけでささやかな新年の祝いはしたことだ。例年なら都内に住んでいる甥っ子が来るのでそれなりにお節料理は準備するのだが、今年は九州に帰省して来ないこともあって何一つ正月らしいことは大掃除も含めてやっていないマス坊家であった。

 さて、去年の有馬さんとのライブイベントの後始末も残ってはいるが、今年もいくつか関わるライブが既にいくつも出そろっている。先にまとめてそのチラシ類だけアップさせておいたが、今月の参加予定のライブだけ簡単にお知らせしておきたい。

 まず喫緊では、9日の金曜日に渋谷で、我がソウルブラザー、さこ大介大兄の本格的ライブコンサートがある。これは、今現在彼がもっとも信頼し共に演奏活動を続けているベース、ギター、そしてカホーンという計4人での揃っては初顔合わせで、今春に久々のソロアルバム発売を予定している彼にとって先行の、顔見世興行ライブでもある。
 大介バンドとはまた一味違う、最小の実力派ミュージシャンを揃えたユニットでのライブは彼のうたの持ち味がいかんなく発揮されよう。まさにこいつぁ、春から縁起がいい、ライブである。

 そして、11日の日曜には、毎年恒例、中川五郎ののみ亭新年会があり、中川五郎、オラン、磯部舞子の昨年同様、熱いステージが繰り広げられよう。マス坊は企画者から料理のケータリングを依頼されているので行かねばならない。また「エビいも」他作ってもっていく。

 17日の土曜日は、シバが今年も国立の古民家画廊でやっている作陶展で、トーク&ミニライブがある。ライブがあるのはその日だけだが、彼の陶芸作品もまさにプロの芸術の域なので、ぜひお時間のある方は期間中一度は足を運んで頂きたい。

 そして24日は、今年も「教育と貧困のコンサート」が歌舞伎町の元の労音会館で催される。マス坊もスタッフとして駆り出させれているのでぜひ多くの方々にご参加お願いしたい。フリーコンサートなので、基本はタダ!! で中川五郎、よしだよしこ他豪華ミュージシャンが多数登場するビッグイベントなのである。我らがみほこんも出るので応援お願いしたい。時間は、午後2時半開場、3時開演で夜の7時までやっております。

 そして詳細はまだ未定なのだが、31日の土曜に、谷保のかけこみ亭では年末に急逝された笠木透氏を追悼するライブコンサートを予定している。館野公一氏他、多摩地区のミュージシャンを中心に多くの皆で彼の遺したうたの数々をうたって偲ぶイベントとなろう。こちらもぜひ多くの方々にお気軽にご参加いただきたい。

 無頼庵としてはまた詩朗読ライブと三留まゆみの映画塾も来月からまた再開としたいと考えてはいるのだが、今まだ日時の調整中で、確定したらすぐ告知いたしたい。

 いずれにせよ、我マス坊が自ら企画して中心となったイベントは常に失敗失態しでかすので、これからは良い企画の協力という形でやっていこうとまたしても臥薪嘗胆という気分の2015年の正月であった。

 なお、先の23日のクリスマス忘年LIVEで起きた「靴とり違え」事件はようやく解決いたしました。ご心配おかけいたしました。

教育と貧困は表裏一体だからこそ2015年01月05日 22時14分18秒

コンサートチラシ裏面の呼びかけ文
★貧困をなくすには教育の充実から               アクセスランキング: 197位
 
 マス坊の祖母など昔の人はよく言っていた。「貧すれば鈍す」と。格言にもなっているのだからあえて書く。バカは考えないし何も感じないと。

 まあ、そういう我こそがいちおう三流大学は出たはずなのだが、貧乏でバカも極まりなのだから人様をとやかく言う資格はない。人の価値は学歴ではかったり差別したりしてはならないことは言うまでもないが、昔の人がいうように、学問がない者は貧乏であることが多いし、そして貧乏であるがゆえ学校に行けずその将来は閉ざされるということは事実として認めなくてはならない。例外はあってもそれが世界的にも現実なのである。

 自分のような者は例外としても学歴と貧乏は大概の場合深く結びついている。いや、今の時代、国公立大学を出たならともかく、名もない三流私大など出たぐらいでは大学を出たとしても裕福な将来は保障されないだろうけれど。
 問題は、低学歴と貧困とが結びつき今や階層の固定化がこの日本でも明確になってきたことだ。つまり貧乏な家庭に生まれた者は貧乏ゆえに進学の道は閉ざされてまた貧乏な家庭を築く。そしてその一族は低学歴かつ貧困のままその状態が固定化されてしまうのである。階層の固定化は良いことだと言う者は誰もいないであろう。人は平等だと憲法に保障されているのであるから。

 昔ならばこの国でも貧しい家庭から出て一年発起し立身出世した偉い人たちが美談、英雄談として語り継がれた。アメリカでもそうしたことが可能だとして「アメリカンドリーム」という言葉すらあった。昔の親たちは、自分に学歴がないがため貧乏したと、子どもには身を削っても高等教育を受けされた。そして天下泰平の高度成長時代には自分も含めて知的レベルは別として街には多くの大学生があふれるほど進学率も高まった。おそらく今も少子化ということもあり、アベノミクスで貧困層が増大してきたとしても大卒の親を持つ家庭の子は進学したければ学校を選ばなければ大学へは行けるのではないか。
 が、これ以上安倍自公政権によって貧困層が増大してていけば両親は大卒なのに子は大学進学できないという逆のことが結婚と同様起きるであろう。

 一方、ヤンキーの家は代々ヤンキーになると言われるように、低学歴で、高校すらも中退することも多い人たちもまた多々いて、彼らは男女問わず早婚多産で、低学歴と定収入は深く結びつき、そうした家庭に生まれた子供は当人の意思とは関係なく給食費さえも払えず不登校となったり親からも含めて虐めの対象になったり逆に問題児として事件を起こすこともまた多いとされている。
 そして世界に目を向ければ、貧富の差の拡大=所得格差の増大により、勉強したくても学校に行けないばかりか児童労働させられている子どもも何億人もいる。また、一部のイスラム圏では、女子に教育は不要と進学を求める女子を迫害し襲撃するような事件すら起きている。
 そしてそうした国、地域では紛争や戦闘が絶えない。平和や安定は程遠い。
 ノーベル平和賞を得たマララさんが語ったように、世界中の全ての紛争の根底には、教育の問題が深く関係していて、無知が無知を生み、貧困を生み出し貧困は無知ゆえに戦争へと結びついていくのだと自分は考える。
 今世界中を跋扈しているネオナチ的右翼主義もまた無知と貧困を餌に肥大してきているのだ。

 先に学歴ということを書いたが実は大事なことは学歴なんかではない。知識も情操、道徳的面も含めて含めて真に豊かで確かな教育、それは言葉を変えれば「真理」ということに尽きるが、男女問わず不変の学問をしっかり体系的に学べば、彼らの前に世界は無限に広がっていく。その教育の先に個々に適した様々な可能性を追求していけば、本来貧困はあり得ない。また他者を差別したり格差を良しとはできやしない。
 そこにはもう争いも貧困もない。よって世界中から戦争もなくなっていく。そのためには、まず教育の貧困の問題をこの国からなくしていくことだ。教育は豊かな家庭に生まれた一部のエリート候補生のためのものではない。どれほど貧乏であろうとも学びたい子どもたち誰もがしっかり学べる環境つくりこそが21世紀の日本の喫緊の課題だと考える。

 ぜひ1月24日のコンサートにどなたでもお気軽にご参加ください。うたを通して企画者たちの思いを感じとって頂けたら幸甚である。まずはアクションを起こすことなのだ。

今年は自らのうたの活動に力を入れていく2015年01月06日 23時47分52秒

★亡き人たちの思いを唄で継いでいく             アクセスランキング: 197位

 外は風が音たてて吹き荒れている。今日は日中はみょうに生暖かくもう春先のような陽気だったが、ザ~と雨も降り、夕方からはまた寒さが戻った。今外吹く風は、真冬の木枯らしである。

 何だか自分でもよくわからなかったほど慌ただしかった2014年が終わり、新しい年が来て正月も過ぎ、また新たな一年が本格的にスタートした。
  今年こそはと期する気持ちは既に書いた。ともかくすべてを無駄なく無理なく無意味でないようゆっくりでも丁寧にしっかりきちんとやっていきたいとただまずそれだけを願う。そして自分がやったこと、やっていることに責任を持たなくてはならない。

 そう考えると何をまたするにしても昨年のように深く考えずにただやること、「行動」だけというわけにはいかなくなる。たとえ拙宅で何かを催すとしても、やるからにはただ人が集まれば良いというだけではなく、そこに何か必然的意味がなくてはならない。いや、ないとしてもそこを問わねばならない。集まって楽しく騒ぐというだけならそれは忘年会ライブパーティだけで十分で、何かをすること、したことがまた次へとほんのわずかでも続き繋がっていかなければやる意味が見えない。人が集うことは与太話が飛び交うただの飲み会であってはならない。

 若いときは時間もたっぷりあったし、全ては経験だからどんなことでも肯定できた。夜通し女の話を肴に呑み明かしたりどこまでも歩き通してもちっとも苦でも無駄とも思えなかった。
 が、自らの人生も先が尽きてきてそのうえ経済的余裕も安定もしていない者は、本当にその残り少ない自らの生を大事に有効に用いなくてはならない。ほぼ同世代の知人のブログなど見ると、定年後、季節ごとに妻と旅行に行った話とか可愛い孫の話など彼の人生の「実り」が喜びと共に記されているが、我、そうしたまっとうな普通人の人生に背を向けてしまった結果としてのアウトロー、世間からの落ちこぼれは、いよいよもって大変なときを迎えることとなる。その覚悟はある。身勝手に生きてきた自業自得の果てなのだから。

 愚痴をこぼし嘆いたとして誰も助けてくれない。溺れていく人がするように必死にじたばたもがくしかない。まだ死ぬわけにはいかないしやり残したことも山ほどある。妻や子や孫という家庭ある普通人の幸福とは別な自分なりの幸福を信じ実現を求めてやっていくしかない。

 また新しい年が来たとしても状況などは特に大きく何も変わりはしない。やりたいこともやるべきことにも大きな変化はない。が、さすがに、90歳と85歳になった老親と暮らす者としていよいよさらに大変な事態になったという感慨は強い。長生きは有難い。良いことだし何より彼らは年金ももらえる。
 しかし、彼らだけではもはや肉体的にも知能的にも生活できなくなってしまったので、この家と家庭を維持していくための手間ヒマ全般、家事雑事がこの我の肩にかなり重く圧し掛かってきている。介護保険でヘルパーを呼ぶようにやがては成らざる得ないと思うが、どんなに家が汚く散乱したとしてもやはり他人に家事を委ねたくはない。人任せにしたくない。勝手な謂いだが、どこまで一人で二人を背負えるかわからないが、他人に介入されたくないのである。

 そんな風に、親たちを抱えて家事全般を拙くともやりながら傍ら自らの仕事や趣味道楽のように思われることもやっていくこととなる。月に多くても二日程度、無頼庵でのイベントならばさほど大変でも負担にはならない。しかし、客の多寡ではなく、人様を迎え入れるための準備や後片づけなども考えると単純に当日だけで労苦は終わるわけでもなく、それなりに下準備や後始末も含めあれこれ時間も金もとられてしまう。
 映画塾にしろ何にしろ、ある意味、場の提供でもあり、その企画をやること自体に意味はあったからそれはそれで良いのだけれど、果たして今の我が家庭の事情でうまくそれがまだ余裕持ってできるか検討中でもある。

 そして実は自らとしてはいちばんやりたいことは自分の音楽であり、場の提供として人と関わることにも意味はあるわけだが、先に書いたように、残り少ない時間だからこそ自分の「実り」を追求したいと強く思うようになった。人は人のために生きたいと願うし、求められれば我にできることなら何でもしたい。しかし、自らを全て棄てて人に奉仕することはナザレのイエスではないのでやはりまだできやしない。

 我が音楽とか言ってもそれは大したものでは全然ない。ただ自分が唄わないことには誰もうたってはくれないし、また拙くとも歌い継ぎたいうたも多々ある。
 うたというのは、基本カタチなどないものだから、作り手や歌い手が亡くなればやがてはそのうたすらも歌われなくなり忘れ去られ消えてしまう。若いときから日本のフォークソングの現場に行きたくさんのうたを聴いた。そしてそれを記録もしてきた。そして今は拙くも自らもうたを作り唄うようにもなってきた。

 そうした行為をできればまっとうして、きちんと録音し直したりYouTubeなどに上げて世に記録として残したいと強く願う。アメリカのフォークソングはローマックス親子という記録伝承者がいたからこそ今もきちんと保存された。翻って日本のフォークソングはどうか。一部のヒットした歌謡曲的ヒットソングは世に残るだろうけれど、ヒットしなかったうた、レコードアルバムにもならなかったうたはその当時それをライブなどで聴いた者の記憶にしか残っていない。

 誰かがそれを記録しきちんとまとめて残してくれているのなら有難いが残念ながら他にそんなことを続けている人は自分の周りにはいない。ならば今の春一番のスタッフたちにどれほど否定され蔑まされようと自分はそれをやっていくしかないし、やりたいのである。それこそが自分なりのうたに対する「愛」だと信ずる。

 幸い有難いことに周りには多くはないが、こんな我のうたすらも評価してくれる方や励ましてくれる奇特な方もおられる。そして手伝ってくれる音楽仲間たちも多々いる。ゆえに今年は「うたの活動」にもっと真剣に専念して結果を示したいと願う。自分の才など信じやしない。ただ役割を信じたいと思う。

寛容さを欠いた時代に2015年01月07日 21時33分18秒

★言論封殺の世相を憂う      アクセスランキング: 171位

 21世紀前半はどんな時代かと後に問われれば、20世紀後半の民主主義の理念が大きく揺らいだ、揺り戻しの時代だと記されるのではないか。
 民主主義とは一体何か、一言では言い難いが、とにもかくにも言論が保障され、異なる意見、考えであろうとも俎上に乗せて認め合うことではなかったのか。その上でその先に、決をとり、多数を占める意見、もしくは議員ならば多数に選ばれた者によって執行されることになる。が、少数の意見や要求すらもできるだけ汲み取られ反映されるよう措置がとられる。
 そうして可能な限り多くの意見や考えが話し合いや公正な選挙により世に反映されるというシステムであったと信ずる。
 貴方と私は考えが異なる。が、貴方の考えは百%尊重する。その意見や考えを知らしめるための場も保証する、というのが民主主義の根本理念だと信ずる。

 が、今日、どうしたことか、世の中では異なる考えや意見があると、それは気に食わないと力づくでも無理やり封殺させるやり方が大手を振っている。自分と異なる考えや意見があり、認めたくないとか気にくわないというだけで、脅迫したりヘイトスピーチ的行為で封殺したり追い出さそうとしてしまう。
 そしてときにそれはテロとして脅迫や予告のみならずじっさいの暴行や殺害にまで及ぶ。まるで暴力団まがいである。しかし人はそうしたテロを見れば怖くなり臆して迂闊なことは言えないと口をつぐむ。彼らの思うつぼ、もくろみ通りの結果となる。

 フランスで今日、イスラム国について批判的な記事を載せていた新聞社にテロ行為があり、詳細は定かではないが、何人もの社員が銃撃され殺害されたというニュースが今あった。犯人はまだ捕まっていないし動機もわからないが、そこにあるのは明らかな言論封殺という目的であろう。つまり、ある勢力や思想団体にとって気に食わない意見や考えを掲載するメディアは相応の報いを受けるという見せしめである。それはマスコミも企業も同じ目にあい、まして個人ならどうなるかということを恐怖として知らしめるための行為だ。

 北海道の大学で、朝日新聞の元記者を講師として雇用していることに対して脅迫が続き、学生の安全さえ確保できないと一時、彼の解雇も検討されたが、幸いにして今は脅迫に屈せず事態は収束したようだ。過去にも未解決のテロ事件で記者が殺された朝日新聞に関しては先だってもほぼ全マスコミ挙げての会社潰し的バッシングがあったが、報道メディアが他社メディアを叩き殺すことこそ報道メディアの自殺行為ではないのか。そこに得はまったくない。読売やサンケイのように政府の広報誌と化した新聞こそ存在意義などないのではないか。
 思うに、この21世紀の時代にどうしてこうした野蛮な暴力や恐怖というテロ行為で言論を封殺し、他者を思い通りに従わせようとする試みが続くのかと暗澹たる気持ちになるが、それもまた揺り戻しなのかとも思える。

 第二次大戦の前、いや戦時中も、その後の冷戦時代ですらも世界中で軍隊などの武力という「力」が力を持っていた。しかし対戦と冷戦後の世界は、世界各地で民主主義という理念が力を持ち、武力や軍事力、いわばテロ的な暴力では世界は動かされないということを各国人民が確認したのだと思う。
 それでも世界各地でベトナム戦争のような紛争は多々起きた。しかし、その一方で反戦運動と民主主義という理念は大きく世界中に広がったのではないか。つまり戦争という暴力の時代があったからこそ力ではなく対話や協調、異なる他者を認めあうという理念が求められじっさいに実を結んだと信ずる。
 テロの元締めともいえる戦争では何一つ事態は解決しないということを人類は学んだはずだ。しかし、21世紀、資本主義は行きつく先まで発展し、貧富の差がこれほど広がると貧しい持たざる人々の間に不満が蓄積され、現行のシステム、資本主義と戦後の民主主義じたいを否定する風潮が全世界的に広がっいく。

 本来のイスラムの教えとはかなり違うとも思える極端な排斥と差別に根ざすイスラム国なる軍事思想集団の台頭もそこにあるし、彼らに共鳴する若者たちが世界各地で続出するのも今の極端な資本主義制度の限界ゆえである。
 そして彼らはテロという力により、異なる意見や思想とその持ち主を弾圧し封殺していこうと躍起になっていく。ヘイトスピーチもその流れにある。異なる他者を思いやるどころか、憎しみの対象として三国人はこの国から出ていけ、シナと戦争できなかったことが悔いだと元都知事ですら公言するのである。
 一方、それらの国でも同様な言論が高まっていけば、行き着く先はじっさいに戦争しかないではないか。それでは先の大戦で死んだ人たちはまさに犬死であろう。戦争とは勝っても負けても国家も人民も地球すらも疲弊させるものでしかない。

 つくづく世界中で寛容さを欠いた時代だと嘆息する。暴力やテロは怖い。だからこそそれに屈せず、警察や政党や政治家に任せるのではなく、草の根民主主義的に我々は自ら声を上げ、それは絶対に許されないと立ち上がらなくてはならない。
 誰でも気軽に何でもモノを言えない時代は人の権利も命すら軽んじられる時代なのだから。テロが恐いからと何でも自粛してしまえば何一つ言えず書けず表現できなくなるではないか。
 それこそが戦時中回帰であり、じっさい戦争も起きる温床なのである。

 我には他人に寛容であれと説くことの資格はない。しかし、人はせめて暴力や脅迫に悩み苦しむ人がいたらその事態に敏感にならなくてはならないのではないか。知っているのに見て見ぬふりはしてはならないはずだし、やがては自らにそれは返ってくるはずだ。