生きるとはこの「存在」そのものを世に問うこと2015年01月12日 01時07分38秒

★「世間」は有難いとようやく思えたこと。         アクセスランキング: 192位

 もっと早く帰ろうと、帰れるつもりでいたのだが、今日は全てが思っていたようにはいかず、そしてそれもまたそうなるようになっていたと受け止めて青梅線終電の2本前で帰ってこれた。むろん日付は変わってしまいブログは11日の分書き逃した。今、日付が変わりAM1時過ぎである。

 腰痛もあってともかく何事もスムーズに進まず、半病人的に何とか体調を整え、今夕、11日の毎年恒例の中川五郎ののみ亭新年会に駆けつけた。
 といっても17時からと企画者からは言われていたが、家を出たのがその頃で、体調悪かったこともあってもたもたしたのでエビ芋など持っていく本日のライブの肴作りに手間取って樽から漬けた野沢菜とかも出して持って大慌てで家を出た。
 そしたら立川に着いたら中野の駅下り線で人身事故が起きたとのことで、中央線は国分寺までは何とか動いたものの、今、事故の人を救出しているとか、次いで現場検証しているとか、運行の確認しているとか放送はあるもののひたすらもう少しお待ちくださいと待たされ続け、けっきょくきちんと運転再開したのが午後7時近く。西荻に総武線でやっと着いて、のみ亭にたどり着いたのはもう7時半近くであった。人身事故のため国分寺の駅で一時間待たされてしまった。まあそれもまた仕方ない。たぶん1本早い電車に乗っていれば、この遅延に巻き込まれなかったはずだが、これもまた運命なのである。我れが迂闊に人身事故の当事者にならなかっただけでも良しとしなければならない。

 ライブは去年と同じく、五郎氏をバイオリンとアコーディオンの若い才能ある女性アーチスト二人が取り囲むという構成で、途中からであったが昨年の回より彼女たちの実力と精進の度合いが大きく示され満席の店内客層も含めて良い集いの場となったと思えた。

 で、持って行った料理、ウチで漬けた野沢菜も切ったやつを皿に盛りだしたのだが、五郎御大からは辛い辛いと大変不評で、どうものみ亭では総じて極めて低評価であった。自信作という程ではないが、晩秋に北杜市の農協市場で買い求め自ら樽で塩漬けしたもので、クリスマスフリーライブの時からウチに来られた方々にはお土産的に出して一部の方からは好評であった。長野のスキー場でバイトしたことある女性からは素朴で懐かしい味がしたとか、手作りぽくてとても美味しかったという声もあったので、期待したがどうも今の人たちにはほとんど受けなかったようだ。
 しかしこれは漬物であり保存食なのである。むろんご飯なしで食べれば当然の反応であるし、この塩分でなければ保存がきかない。そうしたものを酒の席に出したことも失態であったと思い至ったが、どんな反応、反響を受けようとそれもまた仕方ないし気にはしない。塩辛いと目をむかれようと自分はこれで美味しいと思っているし、きっと今は亡き青森の一潮さんなら喜んでくれると思っている。誰にでもまず口に合う、皆に受けるものは料理にしろあり得ないと思うし、そんなものがあったとしたらそれはきっと気の抜けた凡庸なものではないのか。

 やや苦労して作って持って行った料理がうけなかったことで幸い傷つきもしなかったが、逆にいろいろ考えさせられた。
 話は飛躍するが、作った料理にしろ自分作ったうたにしろ、どのような反応があるかそれはとても気になる。そしてその評価が当然気にかかる。願わくば、とても良いとか、美味しいとか高い評価を頂きたいとたぶん誰もが思うはずだ。こんな自分だってそう願う。
 しかし、今回の漬物にせよ、自分が作ったうたにしろ、良いとか不味いとか多少でも何らかの評価してくれる方もいるけれど、逆にまったく評価してくれない場合のほうがはるかに多い。五郎氏のように塩辛いとか不味いとかきちんと評価付けしてくれれば良い方で、自分のうたなどは誰もがまさに鼻にもかけてくれない。基本プロの方々からはまず無視である。が、幸いにしてごく数人、それも自分がその方を買い、評価している数人の方からは、マスダのうたは良い曲だとかもっとうたってほしいとお世辞でも言われて有頂天になっている。そう、お世辞でも当然嬉しい。

 しかし、自分の料理にしろうたにしろ実は誰からも評価されなくともそれはそれで良いのである。むろん何らかの高評はあれば嬉しい。そのご意見は大いに参考にしなくてはならないし勉強になろう。しかし、うたにしろ料理にしろそもそも自分のために作っているものなのだから他者の評価はまず関係ないのである。特に料理などは自分がこれが美味しいと思い味付けし作るものなのだから、料理店として出しているならともかくも、いや、店でさえそれで客が来ないならばそれもまた答えなのだからそれで良いのだ、なのである。
 つまり自分の「うた」でさえも無視されようと、あるいは良くないとかひどい出来と言われようとそれはそもそも関係ないしどうでも良いことなのである。※むろん技術技能的なご批判やご意見は傾聴しなくてはならない。
 そう自分のやろうとしている「音楽」については他者はそもそもまったく関係ない。どんなに不味いとか否定されたって関係ない。だってそもそもが他者のためにとか、他者に受けようと思いやっていることではないのだから。もともと「商売」ではないのである。今はまず自分の表現手段の追及でしかない。

 しかし、そう確信はしているものの、何であれ人様からの反応、つまり「世間」に何かを提示してその様々な反応こそ有難いことだと今日つくづく思った。つまりどのような低い評価や叱咤のようなご意見であろうとも、自分の考えやセンス、それは当然ながら良いと思うことに対しての、批判や批評、ときに否定があるということ、それを知ること、認識することは良いことなのである。
 むろんそれを受けて改めなくてはならないとか、他の意見を取り入れ世間に合わせなくてはならないということはない。先にも書いたが自分の考えやセンス、判断なのだからそれはそれで良いはずだし自信と確信をしっかり持たねばならない。
 が、他者の視点、他者の感覚を知ることがまず大事であって、自分はこれが正しいと思い、変える気はないとしてもそれとは違う感覚や考えが世にはあるのだと知ることはとてもタメになる。その意味で「世間様」という存在は有難いものだとつくづく思った。

 世間ではこの野沢菜の漬物は大いに辛い、辛すぎると拒まれるのである。いや、拒み嫌う人もいるのである。自分はそう思っていなかったし、周りにはそれを同様に評価してくれる人たちも少なからずいた。だが、世間は広いから関西人にとってはそうではなかった。つまり絶対だと思ってたことは相対でしかなかったのである。それを学べた。

 我が感覚、味覚を彼に合わせようとは思わない。しかし自分以外の感覚やセンスがあり、自分が正しいと信じていたことは絶対ではなかったと知ることは良いことであろう。むろん彼に食べてもらおうと思うならもっと薄塩に漬けなくてはならない。ときにそうした配慮も必要かもしれない。じっさい、市場でのマーケティングとはそうしたものの積み重ねなのである。できるだけ最大公約数的に多くの人に受け入れられるものを提示しなくては商売にならないのだから。

 考えて見れば、それは自家製漬物や、自らうただけではない。このブログでさえも全く同様であり、自分の考えなどを書き綴っては臆面なく世に問うているのである。このブログ、一応解析も付いていて、読者数のランキングもどういうタイミングでの集計か定かではないが表示される。一時は100番以内が常であったが、最近はもう読者離れも進んだのか200位近くまで下がってきている。それはそれで正直気にしないしより多くの人にまた受けるように、読まれるように書こうなんて考えはしない。

 それよりも願うのは、先に書いたように宗教のこととか微妙な題材についてお一人でも何らかの反響がコメントととして実際に帰ってくることだ。反対するご意見でもちっともかまわない。しかし、こちらの真意のようなものが少しでも伝わっての近しいご意見ならばまして嬉しい。つまり世に問うたことが、ちゃんと返ってきたのだから。

 何であれ、人は皆自分の感覚、センスや生き方さえも信じ重きを置いている。そしてそれは本来他者に合わせるべきものでもない。しかし、だからこそそれに対して肯定的評価を受けたいと願うものではないのか。世界はそうした様々な個、様々な思想や個別の感覚で成り立っている。ある意味、みんな違ってみんないい、のである。しかし、みんなが違うからこそ、その違いを知って認め、願わくば無視したり否定するのではなく良い評価を表明していくべきではないのか。

 むろん良くないものや認められないものには評価は不要だろう。その必要は全くない。また100人の村で100人皆に受け入れられるものなどもありえない。まずは自分があって自分のためにそれを作りやっていく。他の99人の意見や評価は本来そこに全然関係ない。しかし、もし98人が無視したり否定したとしても、たった一人だけでも貴方の感覚やセンス、生き方や存在、その貴方の世界全てを何かしら認めて評価してくれる人がいたらそれはとても有難いことでとてつもなく嬉しいはずだ。

 人が生きること、生きていくこととは、実はそうしてその「存在」を世に示して問うことではないか。そしてその存在を認めてくれる誰かと出会うことではなかったか。この歳でそんなことがぼんやり見えてきた。

 何であれ、否定や無視はたやすい。自らと違う他者の存在を知り認めていかねばならない。そのうえでまた自らのことも深く信じていけるのである。そんなことを帰り道考えた。