今年は自らのうたの活動に力を入れていく2015年01月06日 23時47分52秒

★亡き人たちの思いを唄で継いでいく             アクセスランキング: 197位

 外は風が音たてて吹き荒れている。今日は日中はみょうに生暖かくもう春先のような陽気だったが、ザ~と雨も降り、夕方からはまた寒さが戻った。今外吹く風は、真冬の木枯らしである。

 何だか自分でもよくわからなかったほど慌ただしかった2014年が終わり、新しい年が来て正月も過ぎ、また新たな一年が本格的にスタートした。
  今年こそはと期する気持ちは既に書いた。ともかくすべてを無駄なく無理なく無意味でないようゆっくりでも丁寧にしっかりきちんとやっていきたいとただまずそれだけを願う。そして自分がやったこと、やっていることに責任を持たなくてはならない。

 そう考えると何をまたするにしても昨年のように深く考えずにただやること、「行動」だけというわけにはいかなくなる。たとえ拙宅で何かを催すとしても、やるからにはただ人が集まれば良いというだけではなく、そこに何か必然的意味がなくてはならない。いや、ないとしてもそこを問わねばならない。集まって楽しく騒ぐというだけならそれは忘年会ライブパーティだけで十分で、何かをすること、したことがまた次へとほんのわずかでも続き繋がっていかなければやる意味が見えない。人が集うことは与太話が飛び交うただの飲み会であってはならない。

 若いときは時間もたっぷりあったし、全ては経験だからどんなことでも肯定できた。夜通し女の話を肴に呑み明かしたりどこまでも歩き通してもちっとも苦でも無駄とも思えなかった。
 が、自らの人生も先が尽きてきてそのうえ経済的余裕も安定もしていない者は、本当にその残り少ない自らの生を大事に有効に用いなくてはならない。ほぼ同世代の知人のブログなど見ると、定年後、季節ごとに妻と旅行に行った話とか可愛い孫の話など彼の人生の「実り」が喜びと共に記されているが、我、そうしたまっとうな普通人の人生に背を向けてしまった結果としてのアウトロー、世間からの落ちこぼれは、いよいよもって大変なときを迎えることとなる。その覚悟はある。身勝手に生きてきた自業自得の果てなのだから。

 愚痴をこぼし嘆いたとして誰も助けてくれない。溺れていく人がするように必死にじたばたもがくしかない。まだ死ぬわけにはいかないしやり残したことも山ほどある。妻や子や孫という家庭ある普通人の幸福とは別な自分なりの幸福を信じ実現を求めてやっていくしかない。

 また新しい年が来たとしても状況などは特に大きく何も変わりはしない。やりたいこともやるべきことにも大きな変化はない。が、さすがに、90歳と85歳になった老親と暮らす者としていよいよさらに大変な事態になったという感慨は強い。長生きは有難い。良いことだし何より彼らは年金ももらえる。
 しかし、彼らだけではもはや肉体的にも知能的にも生活できなくなってしまったので、この家と家庭を維持していくための手間ヒマ全般、家事雑事がこの我の肩にかなり重く圧し掛かってきている。介護保険でヘルパーを呼ぶようにやがては成らざる得ないと思うが、どんなに家が汚く散乱したとしてもやはり他人に家事を委ねたくはない。人任せにしたくない。勝手な謂いだが、どこまで一人で二人を背負えるかわからないが、他人に介入されたくないのである。

 そんな風に、親たちを抱えて家事全般を拙くともやりながら傍ら自らの仕事や趣味道楽のように思われることもやっていくこととなる。月に多くても二日程度、無頼庵でのイベントならばさほど大変でも負担にはならない。しかし、客の多寡ではなく、人様を迎え入れるための準備や後片づけなども考えると単純に当日だけで労苦は終わるわけでもなく、それなりに下準備や後始末も含めあれこれ時間も金もとられてしまう。
 映画塾にしろ何にしろ、ある意味、場の提供でもあり、その企画をやること自体に意味はあったからそれはそれで良いのだけれど、果たして今の我が家庭の事情でうまくそれがまだ余裕持ってできるか検討中でもある。

 そして実は自らとしてはいちばんやりたいことは自分の音楽であり、場の提供として人と関わることにも意味はあるわけだが、先に書いたように、残り少ない時間だからこそ自分の「実り」を追求したいと強く思うようになった。人は人のために生きたいと願うし、求められれば我にできることなら何でもしたい。しかし、自らを全て棄てて人に奉仕することはナザレのイエスではないのでやはりまだできやしない。

 我が音楽とか言ってもそれは大したものでは全然ない。ただ自分が唄わないことには誰もうたってはくれないし、また拙くとも歌い継ぎたいうたも多々ある。
 うたというのは、基本カタチなどないものだから、作り手や歌い手が亡くなればやがてはそのうたすらも歌われなくなり忘れ去られ消えてしまう。若いときから日本のフォークソングの現場に行きたくさんのうたを聴いた。そしてそれを記録もしてきた。そして今は拙くも自らもうたを作り唄うようにもなってきた。

 そうした行為をできればまっとうして、きちんと録音し直したりYouTubeなどに上げて世に記録として残したいと強く願う。アメリカのフォークソングはローマックス親子という記録伝承者がいたからこそ今もきちんと保存された。翻って日本のフォークソングはどうか。一部のヒットした歌謡曲的ヒットソングは世に残るだろうけれど、ヒットしなかったうた、レコードアルバムにもならなかったうたはその当時それをライブなどで聴いた者の記憶にしか残っていない。

 誰かがそれを記録しきちんとまとめて残してくれているのなら有難いが残念ながら他にそんなことを続けている人は自分の周りにはいない。ならば今の春一番のスタッフたちにどれほど否定され蔑まされようと自分はそれをやっていくしかないし、やりたいのである。それこそが自分なりのうたに対する「愛」だと信ずる。

 幸い有難いことに周りには多くはないが、こんな我のうたすらも評価してくれる方や励ましてくれる奇特な方もおられる。そして手伝ってくれる音楽仲間たちも多々いる。ゆえに今年は「うたの活動」にもっと真剣に専念して結果を示したいと願う。自分の才など信じやしない。ただ役割を信じたいと思う。