その続き ― 2016年03月25日 23時26分26秒
★嗚呼 認知症! 95位
言うまでもなく認知症には程度の差も種類も多々ある。
いちばん大変というか、手がかかるのは、レビー小体型とかいうタイプのそれで、幻覚や幻視、幻聴を伴い暴れたりもするので、介護する側はともかく大変だそうだ。
我が実妹が九州に嫁ぎ、そこの家の老父、妹にとっては義理の父がそのタイプで、周囲には見えないものに怯えて騒いだり、妄想をまくしたてるばかりから怒りっぽくどうにも手に負えないとこぼしていた。
我が父は、幸いというべきか所謂フツーのパーキンソン的認知症のタイプのようで、物忘れが甚だしいだけでなく、モノゴトの認識力、理解力が衰えて全てにトンチンカンとなり大騒ぎもするが、すぐにその騒動もまた忘れてくだくだしく同じことを家族に問いなおしたり、あれはどうした、これはどうしたと煩くてたまらない。
朝の連続ドラマを観続けても筋を理解すると以前に、最終回になっても主人公も含めて誰が誰だかわからないし、朝は何を食べたか、昼は食べたかさえ問い糾すと、覚えているものか!と逆切れである。
先日は、ふいに思い立ったように、85歳の妻に向かって「おい、お前のおっかさん、今どうしてる?」と真顔で訊いていた。
つまるところ認知症とは、モノゴトを考える力、記憶する力が衰えた脳の機能不全だと思える。ようするにバカになっていくのだ。
しかし、そんな人間なのに、体はよたよたでも寝たきりでないということもあるが、何か思い立つとやたらスピーディというか行動的であり、おそらくこういう人がオレオレ詐欺にかかり、すぐさま銀行で金を引き出して、孫の同僚と称する男に外で手渡すのかと得心する。
先だってもそうした詐欺電話が何度かかかってきて、その度にも必ずこちらから孫の名前を言ってしまい、ショーヘイが、カバンと携帯電話を落としたって、と電話があったと騒いでいたが、それは詐欺だと一度は理解してもまたしばらくすると忘れてしまうことの繰り返しなのである。そう、全てが日々新たなのである。料理も数日前に出したものは、失念してこれなんだ、何だ!? 初めて食べたと繰り返す。
さておき、そんな人間なのだが、先日のこと、彼名義で積んでいた定期預金が少額だが満期になったとハガキが来て、このところ出費がかさんで生活が苦しいこともあり下ろして生活費の足しにしようと考えた。が、探してもその通帳がみつからない。
仕方なく、当人と母を連れて、駅前の銀行で通帳の再発行の手続きをしてきた。それは本人が行かないことには手続きが面倒だからだ。
そんなことをした記憶があったからか、それとは別の、生協ほか様々なインフラ類の引き落とし専用にしている地銀の通帳が、彼の手元には旧い、更新済みのものしかなかったことに気づいたらしく、:現行のそれを探し回った挙句、銀行に通帳を失くしたので更新したいと電話をかけていたのだ。オレオレ詐欺などのこともあり、当然のことその通帳やハンコは、息子と彼の妻、我と我が母が管理している。
ところがそのことを忘れて、自分が管理しているはずだと探し回り、みつからないとわかるとすぐさま銀行に電話かけてしまったのだ。普段は、九州の娘のところにもうまく電話をかけられない男が何故か銀行にはすぐ電話かけられるのは理解に苦しむ。
が、認知症とはそうしたもので、病院から戻って来て、父が真顔で、通帳がみつからない、大変なことになったと騒いでいるので問い直すと、既に銀行に電話かけた後であった。
本人は通帳を再発行してもらうよう電話したと言ってたが、銀行に確認すると、紛失届だけとして処理して使用できないよう停止してあるとのことだった。
ただ面倒なのは、一度こちらに郵便で届いた書類に、通帳は発見されたという口座再開の手続きをまた送らないとならず、二週間かそこらはかかるとのこと。引き落としも振り込みもその期間は不能なわけで、まったく面倒なことをしてくれたと嘆息するしかない。
しかも今回は、彼はその勢いで、市役所にまで通帳紛失したからと電話していたので驚かされた。先に、イチョウなど庭木を業者に頼んで切ったとき、市から10万円の補助金が出る。その手続きをいろいろ書類の不備もあって時間かかったが、ようやく書類を提出して後は、市からその口座に振り込まれるのを待つだけであった。
それをご丁寧にもよくそんなことにまで気がつくいうべきか頭が冴えわたっていたのか、市役所にまで電話してしまい、また手続きをやり直す羽目となってしまった。
それにしてもふだんは何もできない、ほとんど居眠りばかりしている人間がすごい行動力である。しかも問題は、その騒動じたいが一晩寝たら忘れて理解できなくなったらしく、考えてもよくわからない、わからないと昨晩は不安で眠れなかったらしい。
挙句に、何で通帳を再発行するのか、とか、先の本当に紛失して再発行の手続きをした件と混濁してまた騒ぎ出す。傍らの母はその都度、説明するのだが何度でも理解できないと繰り返す。これでは癌もストレスで大きくなるだろうと思わざる得ない。
そんな人間がよくあちこちに電話かけられて、したり顔で、通帳を失くしたようなのでよろしくお願いします、と、もっともなことを相手に話していたのだから人間のオツムとはまさに不可思議だ。
以前報じられたニュースだが、車の運転を禁止された認知症の男が家族の知らないところで、車のキーを紛失したからと自ら手続きをしてそのキーで家の車を勝手に運転して高速道路を逆走して大事故を起こした事件があったと記憶する。呆けていてもそうした面倒な手続きは何故か考え付いてしかもできてしまうのである。
ただ、この程度ならまだ良い認知症、ボケの類と思うべきであろう。知人から聞いた話では、こうしたアクティブ認知症は、勝手にテレビショッピングの通販番組見て、さっそく電話して何十万もする商品を注文したりしてしまうとか、ふと目を離した隙に、どこか外へふらっと行き帰ってこなくなり、市の野外放送で尋ね人として大々的に知れ渡ったりと、周囲としてはその後始末に追われ疲弊し何もできなくなってしまう。
老いとは、人生とはそんなものかとも思うし、だからこそ、老人は周囲に迷惑かけるなら早く死ぬべきだという老害を説くバカもいよう。が、若く良い時ばかりが人生でないように、状況がわるい時も、惨めなどうしようもないときも含めて、人は総体として人生をとことん生きねばならないはずだ。
生まれた来た時も自分の意志でないのならば、死ぬときだって自らの意志や他者の意志で左右されてはならないはずであろう。生も死も人生で起こることには全て意味があり、生きるとは誰にとってもそこに意味を見出さねばならないのである。
言うまでもなく認知症には程度の差も種類も多々ある。
いちばん大変というか、手がかかるのは、レビー小体型とかいうタイプのそれで、幻覚や幻視、幻聴を伴い暴れたりもするので、介護する側はともかく大変だそうだ。
我が実妹が九州に嫁ぎ、そこの家の老父、妹にとっては義理の父がそのタイプで、周囲には見えないものに怯えて騒いだり、妄想をまくしたてるばかりから怒りっぽくどうにも手に負えないとこぼしていた。
我が父は、幸いというべきか所謂フツーのパーキンソン的認知症のタイプのようで、物忘れが甚だしいだけでなく、モノゴトの認識力、理解力が衰えて全てにトンチンカンとなり大騒ぎもするが、すぐにその騒動もまた忘れてくだくだしく同じことを家族に問いなおしたり、あれはどうした、これはどうしたと煩くてたまらない。
朝の連続ドラマを観続けても筋を理解すると以前に、最終回になっても主人公も含めて誰が誰だかわからないし、朝は何を食べたか、昼は食べたかさえ問い糾すと、覚えているものか!と逆切れである。
先日は、ふいに思い立ったように、85歳の妻に向かって「おい、お前のおっかさん、今どうしてる?」と真顔で訊いていた。
つまるところ認知症とは、モノゴトを考える力、記憶する力が衰えた脳の機能不全だと思える。ようするにバカになっていくのだ。
しかし、そんな人間なのに、体はよたよたでも寝たきりでないということもあるが、何か思い立つとやたらスピーディというか行動的であり、おそらくこういう人がオレオレ詐欺にかかり、すぐさま銀行で金を引き出して、孫の同僚と称する男に外で手渡すのかと得心する。
先だってもそうした詐欺電話が何度かかかってきて、その度にも必ずこちらから孫の名前を言ってしまい、ショーヘイが、カバンと携帯電話を落としたって、と電話があったと騒いでいたが、それは詐欺だと一度は理解してもまたしばらくすると忘れてしまうことの繰り返しなのである。そう、全てが日々新たなのである。料理も数日前に出したものは、失念してこれなんだ、何だ!? 初めて食べたと繰り返す。
さておき、そんな人間なのだが、先日のこと、彼名義で積んでいた定期預金が少額だが満期になったとハガキが来て、このところ出費がかさんで生活が苦しいこともあり下ろして生活費の足しにしようと考えた。が、探してもその通帳がみつからない。
仕方なく、当人と母を連れて、駅前の銀行で通帳の再発行の手続きをしてきた。それは本人が行かないことには手続きが面倒だからだ。
そんなことをした記憶があったからか、それとは別の、生協ほか様々なインフラ類の引き落とし専用にしている地銀の通帳が、彼の手元には旧い、更新済みのものしかなかったことに気づいたらしく、:現行のそれを探し回った挙句、銀行に通帳を失くしたので更新したいと電話をかけていたのだ。オレオレ詐欺などのこともあり、当然のことその通帳やハンコは、息子と彼の妻、我と我が母が管理している。
ところがそのことを忘れて、自分が管理しているはずだと探し回り、みつからないとわかるとすぐさま銀行に電話かけてしまったのだ。普段は、九州の娘のところにもうまく電話をかけられない男が何故か銀行にはすぐ電話かけられるのは理解に苦しむ。
が、認知症とはそうしたもので、病院から戻って来て、父が真顔で、通帳がみつからない、大変なことになったと騒いでいるので問い直すと、既に銀行に電話かけた後であった。
本人は通帳を再発行してもらうよう電話したと言ってたが、銀行に確認すると、紛失届だけとして処理して使用できないよう停止してあるとのことだった。
ただ面倒なのは、一度こちらに郵便で届いた書類に、通帳は発見されたという口座再開の手続きをまた送らないとならず、二週間かそこらはかかるとのこと。引き落としも振り込みもその期間は不能なわけで、まったく面倒なことをしてくれたと嘆息するしかない。
しかも今回は、彼はその勢いで、市役所にまで通帳紛失したからと電話していたので驚かされた。先に、イチョウなど庭木を業者に頼んで切ったとき、市から10万円の補助金が出る。その手続きをいろいろ書類の不備もあって時間かかったが、ようやく書類を提出して後は、市からその口座に振り込まれるのを待つだけであった。
それをご丁寧にもよくそんなことにまで気がつくいうべきか頭が冴えわたっていたのか、市役所にまで電話してしまい、また手続きをやり直す羽目となってしまった。
それにしてもふだんは何もできない、ほとんど居眠りばかりしている人間がすごい行動力である。しかも問題は、その騒動じたいが一晩寝たら忘れて理解できなくなったらしく、考えてもよくわからない、わからないと昨晩は不安で眠れなかったらしい。
挙句に、何で通帳を再発行するのか、とか、先の本当に紛失して再発行の手続きをした件と混濁してまた騒ぎ出す。傍らの母はその都度、説明するのだが何度でも理解できないと繰り返す。これでは癌もストレスで大きくなるだろうと思わざる得ない。
そんな人間がよくあちこちに電話かけられて、したり顔で、通帳を失くしたようなのでよろしくお願いします、と、もっともなことを相手に話していたのだから人間のオツムとはまさに不可思議だ。
以前報じられたニュースだが、車の運転を禁止された認知症の男が家族の知らないところで、車のキーを紛失したからと自ら手続きをしてそのキーで家の車を勝手に運転して高速道路を逆走して大事故を起こした事件があったと記憶する。呆けていてもそうした面倒な手続きは何故か考え付いてしかもできてしまうのである。
ただ、この程度ならまだ良い認知症、ボケの類と思うべきであろう。知人から聞いた話では、こうしたアクティブ認知症は、勝手にテレビショッピングの通販番組見て、さっそく電話して何十万もする商品を注文したりしてしまうとか、ふと目を離した隙に、どこか外へふらっと行き帰ってこなくなり、市の野外放送で尋ね人として大々的に知れ渡ったりと、周囲としてはその後始末に追われ疲弊し何もできなくなってしまう。
老いとは、人生とはそんなものかとも思うし、だからこそ、老人は周囲に迷惑かけるなら早く死ぬべきだという老害を説くバカもいよう。が、若く良い時ばかりが人生でないように、状況がわるい時も、惨めなどうしようもないときも含めて、人は総体として人生をとことん生きねばならないはずだ。
生まれた来た時も自分の意志でないのならば、死ぬときだって自らの意志や他者の意志で左右されてはならないはずであろう。生も死も人生で起こることには全て意味があり、生きるとは誰にとってもそこに意味を見出さねばならないのである。
明日は、亡き高坂一潮を偲んで集う会が ― 2016年03月26日 18時52分01秒

★朝まで泣いてた。恋する乙女になりたかったのさ。
高坂一潮さんの命日、3月29日が近づく。それにしてもこの世は不思議な縁で繋がっているものだとあらためて思う。
繰り返し書いたが、我は一潮さんとは一度しか会ったことがない。高田渡が死んだ年の翌年だったか、やはり今の季節に、ここかけこみ亭でほぼ同様のメンバーが集い、渡氏を追悼するライブを催した。
そのときに、フィナーレでメインボーカルをとり、仕切りをやっていたのが、一潮さんで、初めて彼の名と顔を知り、うたを聴いた。思ったのは、こんな達者な人がどこにいたんだろうという驚きであり、アマチュアとは思わなかったが有名ミュージシャンに伍して出てきたことを訝しくも思った。むろんのこと、彼の名と音楽はそのとき一番深く心に残った。
その後の打ち上げで言葉を交わしたかもしれないが、正直何を話したのかよく覚えてはいない。
それから、中川五郎氏を通してだと思うが、その一潮さんが上京した折に倒れてずっと意識が戻らないこと、そして彼の回復を祈って「だびよんの鳥」を五郎氏が唄い続けていることで、その人のことを再び思い出しずっと気になっていた。
その曲、だびよんの鳥は、五郎バージョンでも真に名曲であり、キャチなメロディーに関わらず、その内容は深くしかも細密なペン画のような味わいと哀愁があり、こんなことをうたにした人が今までいただろうかと今もずっと感心している。
いろんなことは歌にされ、どんなことでも歌にして託すことは可能だろう。だが、フォークシンガーそのものをうたの題材にして、それを聴き手、ファンの側から描いた作品は日本のフォークシーンにはまずないのではないか。野沢亨司のことを唄った斉藤哲夫のそれがあるぐらいで、他はちょっと今思い浮かばない。
向うの楽曲に、ミスター・ボージャングルという、伝説のタップダンサーについての良く知られるうたがあるが、ある意味「だびよん」はそれにいちばん味わいが似ているかもしれない。その人への敬愛と人生そのもの苦さと深さが巧みに織り込まれ、そしてそのことを肯定するしかない淋しさとして結晶させてできた宝石のような佳曲である。まさに天才の仕事だと思う。彼の遺したうたはそのどれも実にクオリティが高いし他の誰にも似ていない。誰もが歌にしていなかったが、当たり前の本当のことをすぱっと鋭利な刃物で切り取ったような胸打つものばかりだ。
ただ残念なことは、一潮さんは長く生活者として青森の地で仕事を持ちながらの音楽活動であったことと、結果としていよいよ油が乗り切りうたの活動に本腰を入れ始めた矢先に倒れてしまいまさに志半ばで早すぎる死を迎えてしまったことだ。不世出のシンガーという言葉がまずすぐに思い浮かぶ。
ただ天才は天才を知るとの言葉どおり、西岡恭蔵、どんと、高田渡らが辺境にいた彼に早くから注目し、認めたことは当然すぎることではあるけれど幸福なことであった。そして奇しくもその彼らを追うように、一潮さんもまた駆け足で天国へと旅立ってしまったのである。
すべてはそう決まっていた宿命とか、運命なのかとも思う。それにしてもCDアルバムを四枚残しただけで、もう彼の歌声が聴けないことは今でも返す返すも残念でならない。まったくもって日本のフォークシーン、音楽界にとって損失だと悔やまれる。
その一潮さんが東京に来たときライブをやっていた場の一つ、国立市谷保のかけこみ亭では、先の渡氏のそれに倣い、毎年3月末には、一潮さん追悼の企画を続けて来た。縁あるミュージシャンが来た時もあるし、ファンが集い、しみじみと店主と思い出を語り合うだけの時もあったが、今年はかなり豪華な面々が集ってのコンサートとなった。
我も当ブログで一潮さんのことを記したことから、いつしか縁の人たちと懇意になったこともあり、当初はお手伝いとして今回の企画に関わり始めたが、気がつけば現場責任者的な立場になってしまい、正直戸惑うところも大きかった。
何しろそんなに生前の彼とはほとんど面識もなく彼のことは知らないのである。しかし、亡き人のためにその素晴らしさを世にもっと知らしめる復権の機会となるならばその与えられた役割は光栄に思わねばならないだろう。
今回のライブは、一潮さんの友人知人たちが集まってバスを借り切って墓参りに行くようなものだったはずだ。その話が出た時に、我も席が空いているなら末席に加えてほしいと願い出た。ところが気がつけば、バスの運転手もしくはツアーコンダクターのような立場になっていて自分でもびっくりぽんである。
とにもかくにも、彼の人生は決して不幸ではなかったと信ずるが、不遇かつ不世出の青森が生んだ天才フォークシンガーのために、今さらだが何かできることがあるならば、我は我で与えられた役割を全力でがんばるしかない。
それはまずコンサートとして盛況とさせ無事に終わらせることであろう。死んだ人はもう戻らない。だが、彼を知る者たちから亡き人の姿を浮かび上がらせ偲ぶことは可能かと思える。
高坂一潮という素晴らしい男のことを知る機会は残念ながらこれから先もっと少なくなる。どうか彼を知る人もまだの人もこの機会にご来場のうえ、かつてそんな素晴らしいシンガーがいたことをよく知ってもらいたい。
高坂一潮さんの命日、3月29日が近づく。それにしてもこの世は不思議な縁で繋がっているものだとあらためて思う。
繰り返し書いたが、我は一潮さんとは一度しか会ったことがない。高田渡が死んだ年の翌年だったか、やはり今の季節に、ここかけこみ亭でほぼ同様のメンバーが集い、渡氏を追悼するライブを催した。
そのときに、フィナーレでメインボーカルをとり、仕切りをやっていたのが、一潮さんで、初めて彼の名と顔を知り、うたを聴いた。思ったのは、こんな達者な人がどこにいたんだろうという驚きであり、アマチュアとは思わなかったが有名ミュージシャンに伍して出てきたことを訝しくも思った。むろんのこと、彼の名と音楽はそのとき一番深く心に残った。
その後の打ち上げで言葉を交わしたかもしれないが、正直何を話したのかよく覚えてはいない。
それから、中川五郎氏を通してだと思うが、その一潮さんが上京した折に倒れてずっと意識が戻らないこと、そして彼の回復を祈って「だびよんの鳥」を五郎氏が唄い続けていることで、その人のことを再び思い出しずっと気になっていた。
その曲、だびよんの鳥は、五郎バージョンでも真に名曲であり、キャチなメロディーに関わらず、その内容は深くしかも細密なペン画のような味わいと哀愁があり、こんなことをうたにした人が今までいただろうかと今もずっと感心している。
いろんなことは歌にされ、どんなことでも歌にして託すことは可能だろう。だが、フォークシンガーそのものをうたの題材にして、それを聴き手、ファンの側から描いた作品は日本のフォークシーンにはまずないのではないか。野沢亨司のことを唄った斉藤哲夫のそれがあるぐらいで、他はちょっと今思い浮かばない。
向うの楽曲に、ミスター・ボージャングルという、伝説のタップダンサーについての良く知られるうたがあるが、ある意味「だびよん」はそれにいちばん味わいが似ているかもしれない。その人への敬愛と人生そのもの苦さと深さが巧みに織り込まれ、そしてそのことを肯定するしかない淋しさとして結晶させてできた宝石のような佳曲である。まさに天才の仕事だと思う。彼の遺したうたはそのどれも実にクオリティが高いし他の誰にも似ていない。誰もが歌にしていなかったが、当たり前の本当のことをすぱっと鋭利な刃物で切り取ったような胸打つものばかりだ。
ただ残念なことは、一潮さんは長く生活者として青森の地で仕事を持ちながらの音楽活動であったことと、結果としていよいよ油が乗り切りうたの活動に本腰を入れ始めた矢先に倒れてしまいまさに志半ばで早すぎる死を迎えてしまったことだ。不世出のシンガーという言葉がまずすぐに思い浮かぶ。
ただ天才は天才を知るとの言葉どおり、西岡恭蔵、どんと、高田渡らが辺境にいた彼に早くから注目し、認めたことは当然すぎることではあるけれど幸福なことであった。そして奇しくもその彼らを追うように、一潮さんもまた駆け足で天国へと旅立ってしまったのである。
すべてはそう決まっていた宿命とか、運命なのかとも思う。それにしてもCDアルバムを四枚残しただけで、もう彼の歌声が聴けないことは今でも返す返すも残念でならない。まったくもって日本のフォークシーン、音楽界にとって損失だと悔やまれる。
その一潮さんが東京に来たときライブをやっていた場の一つ、国立市谷保のかけこみ亭では、先の渡氏のそれに倣い、毎年3月末には、一潮さん追悼の企画を続けて来た。縁あるミュージシャンが来た時もあるし、ファンが集い、しみじみと店主と思い出を語り合うだけの時もあったが、今年はかなり豪華な面々が集ってのコンサートとなった。
我も当ブログで一潮さんのことを記したことから、いつしか縁の人たちと懇意になったこともあり、当初はお手伝いとして今回の企画に関わり始めたが、気がつけば現場責任者的な立場になってしまい、正直戸惑うところも大きかった。
何しろそんなに生前の彼とはほとんど面識もなく彼のことは知らないのである。しかし、亡き人のためにその素晴らしさを世にもっと知らしめる復権の機会となるならばその与えられた役割は光栄に思わねばならないだろう。
今回のライブは、一潮さんの友人知人たちが集まってバスを借り切って墓参りに行くようなものだったはずだ。その話が出た時に、我も席が空いているなら末席に加えてほしいと願い出た。ところが気がつけば、バスの運転手もしくはツアーコンダクターのような立場になっていて自分でもびっくりぽんである。
とにもかくにも、彼の人生は決して不幸ではなかったと信ずるが、不遇かつ不世出の青森が生んだ天才フォークシンガーのために、今さらだが何かできることがあるならば、我は我で与えられた役割を全力でがんばるしかない。
それはまずコンサートとして盛況とさせ無事に終わらせることであろう。死んだ人はもう戻らない。だが、彼を知る者たちから亡き人の姿を浮かび上がらせ偲ぶことは可能かと思える。
高坂一潮という素晴らしい男のことを知る機会は残念ながらこれから先もっと少なくなる。どうか彼を知る人もまだの人もこの機会にご来場のうえ、かつてそんな素晴らしいシンガーがいたことをよく知ってもらいたい。
一潮追悼コンサートは何とか無事に盛況のうちに終わった。 ― 2016年03月27日 23時05分35秒
★超豪華メンバーの実力と魅力こそ、一潮さんの遺産だった。
いろんなコンサートを観て、企画宣伝からも関わってきたが、今回のライブこそ今まででいちばん難しかった。というのは、自らの企画ではそもそもなかったことと、高坂一潮という既にこの世にいないフォークシンガーの括りで出演者をまとめ、そこに「一潮」という故人を観客に示さねばならなかったことにまず頭を痛めた。
そもそもこの何年も続いてきた企画に我は雇われマダムのような立場であったし、しかも一潮さん自身とはほとんど面識もない。そんなものが企画の責任者にいつしかなっていたのである。まさに出すぎた役割であり身に余る、手に負えぬこと、そもそもそんな資格もないことを、何故臆面なくやっているのかと自問し続けた。
そして場としての店側と今回の出演者の狭間に立ってその調整役はかなりの軋轢、プレッシャーだったと今だから記しておく。そもそも俺はあれこれ細かい人間ではまったくないのである。とことん緩く迂闊でだらしないことは繰り返し書いて来た。その男が細かいことに気を回さねばならぬ気苦労はマスダを知る者ならご理解頂けると思う。
そこにきてこのところ我が親も体調が悪く、そちらにも気をとられ頭痛め、果たしてこんな1円にもならない難工事の現場監督のようなことを何故俺はやっているのだろうかと正直憂鬱気分でもいた。
しかし、今その全てを終えて、はっきりわかった。実にバラエティに富んだ素晴らしい良いコンサートであった。参加した方は誰もが暖かい気持ちになったと信ずる。そしてそれに関われたことこそが一潮さんが我に与えてくれたプレゼントだったのだと今はっきりとわかる。
考えてみれば、今回の出演者たちは全員が我が敬愛し高く評価している、昔からよく知る大好きな人たちだったし、そうした方々と懇意に話せてお付き合いを深められるとは、一フォークファンとしては夢のようなことであろう。一潮さんのうたの一節を借りれば、「君はうたのプロフェッショナル、テレビに映る誰よりも僕の心を打った」であり、その全員が亡き人を良く知り今も彼を深く愛している仲間たちなわけで、考えてみればそれだけでコンサートは既に成り立っていたのであった。
後は、いかに一潮さんのことをうたで、語りで、そして親しく付き合いのあった友として示してくれるかであり、皆さんそれも十二分に示してくれた。
類は友を呼ぶの俚諺以前に、良い人には当然のことながら良い友がいる。悪い奴らには悪い仲間がいるのが当然のように、一潮さんを知る仲間たちは皆誰もが心優しく暖かく実に素晴らしかった。
よしだよしこさんは奇特にもお忙しい中にも関わらず、今回のコンサートのために特別に一潮さんの楽曲を何曲も練習して自らのうたにしてご披露して頂いたのは真に有難いことであったしおそらくこの場でしか聴けないそうしたうたを聴けた方々は幸運だと言うしかない。
また今回、それまでお名前だけは昔から存じていたケニー井上&キャシーのご夫妻と知り合うことができて本当に良かった。以前地球屋で何かのライブの折に、観た記憶はあったが、きちんと言葉を交わしたのは今回が初めてであった。人生とは出会いだとするならば、一潮さんがあの世から彼らと出会うべくはからい紹介してくれたのだと有難く思う。
そして体調を案じていた斉藤哲夫氏も無事渾身のステージをやり遂られ、しかもアンコールでは、我の昔から大好きな、マイフェバリットソング「グッド・タイム・ミュージック」を唄ってくれた。まさかこの場で、この企画でその懐かしい名曲が聴けるとは夢のようだった。この一曲だけでもこれまでの苦労が報われた。
若い時に出会いとことん聴きこんだ楽曲は、すっかり忘れていても聴いたとたんすべての歌詞が自然に口から出てきたのには自分でも驚いた。ああ、素晴らしき斉藤哲夫は我が中にずっと昔も今もいてくれたのだ。その人と共に同じ場、ときを過ごせたのだから至福でなくてなんだろうか。
そして特筆すべきは、今日のために札幌から来られた高坂絵理子さんの堂々たるステージで、これが初デビューとは思えないしっかりした達者なうたを聴かせてくれた。並いる超ベテラン勢を差し置いて、今日の主役は彼女であったといっても過言ではないだろう。
正直書くと、今日の企画の一番の心配種は、一潮さんの奥さんであったとしても素人が果たして初めてのステージを無事にこなすことができるかであった。しかしそれは全くの杞憂で、ケニー氏やシバの抜群のサポートを差し引いても確かな本物の実力を示してくれた。さすがはあの一潮さんの奥さんだったと感心させられた。
今日のコンサート、とにもかくにも企画側の我もが驚き感嘆するほど豪華な、確かな実力をもった様々なミュージシャンが過不足なく次々と登場し観客を堪能させたと信ずる。ある意味、今日のコンサートは一つの伝説になったとも思う。その場に立ち会えた人は幸運かつ光栄だと心すべしであろう。来ない人、来れなかった人は一潮という功徳とはまだ縁がないのであろうから遺憾に思うしかない。
記録として今日の出演者を出演順に記しておく。
・館野公一
・シバ
・よしだよしこ
※休憩
・高坂絵理子&ケニー井上withシバ
・井上おはなバンド(ケニー&キャシー)
・斉藤哲夫
※全員でフィナーレ
一潮さんもあの世から見下ろしてきっと満足しているに違いない。亡き人に報いることなんて残念ながらできやしない。しかし、シバも言っていたが、その人のことを覚えているうち、こうして亡き人のことを語っている間、彼を覚えている我らが生きている間は、その人はまだ死んでいないのである。ならばこれも一潮さんためにできることを皆で全力でやり終えたと言って良いであろう。そしてそのことに関われた光栄を今噛みしめている。一潮さん、遅ればせながらようやく貴方のために我も少しは何かが出来たかと。
終わってケニー氏と話したが、全てはまさに神のはからい、ご加護であったとつくづく思う。そう、どんなに苦しいときでも神様は見ていて手を差し伸べてくれるのだ。
そのコンサートの間中ずっと場にながれていた暖かい雰囲気、人生そのものを肯定していく柔らかく包み込むオーラのようなものこそが高坂一潮が今もまだここにいることの証であったと今思う。
そう、見える人にはみえる。わかる人にはわかる。残念だがまだ見えない人にはわからない。そうした人と人を繋ぎ結びつけるのは神の見えざる手なのである。そこに愛があるかなのだ。
いろんなコンサートを観て、企画宣伝からも関わってきたが、今回のライブこそ今まででいちばん難しかった。というのは、自らの企画ではそもそもなかったことと、高坂一潮という既にこの世にいないフォークシンガーの括りで出演者をまとめ、そこに「一潮」という故人を観客に示さねばならなかったことにまず頭を痛めた。
そもそもこの何年も続いてきた企画に我は雇われマダムのような立場であったし、しかも一潮さん自身とはほとんど面識もない。そんなものが企画の責任者にいつしかなっていたのである。まさに出すぎた役割であり身に余る、手に負えぬこと、そもそもそんな資格もないことを、何故臆面なくやっているのかと自問し続けた。
そして場としての店側と今回の出演者の狭間に立ってその調整役はかなりの軋轢、プレッシャーだったと今だから記しておく。そもそも俺はあれこれ細かい人間ではまったくないのである。とことん緩く迂闊でだらしないことは繰り返し書いて来た。その男が細かいことに気を回さねばならぬ気苦労はマスダを知る者ならご理解頂けると思う。
そこにきてこのところ我が親も体調が悪く、そちらにも気をとられ頭痛め、果たしてこんな1円にもならない難工事の現場監督のようなことを何故俺はやっているのだろうかと正直憂鬱気分でもいた。
しかし、今その全てを終えて、はっきりわかった。実にバラエティに富んだ素晴らしい良いコンサートであった。参加した方は誰もが暖かい気持ちになったと信ずる。そしてそれに関われたことこそが一潮さんが我に与えてくれたプレゼントだったのだと今はっきりとわかる。
考えてみれば、今回の出演者たちは全員が我が敬愛し高く評価している、昔からよく知る大好きな人たちだったし、そうした方々と懇意に話せてお付き合いを深められるとは、一フォークファンとしては夢のようなことであろう。一潮さんのうたの一節を借りれば、「君はうたのプロフェッショナル、テレビに映る誰よりも僕の心を打った」であり、その全員が亡き人を良く知り今も彼を深く愛している仲間たちなわけで、考えてみればそれだけでコンサートは既に成り立っていたのであった。
後は、いかに一潮さんのことをうたで、語りで、そして親しく付き合いのあった友として示してくれるかであり、皆さんそれも十二分に示してくれた。
類は友を呼ぶの俚諺以前に、良い人には当然のことながら良い友がいる。悪い奴らには悪い仲間がいるのが当然のように、一潮さんを知る仲間たちは皆誰もが心優しく暖かく実に素晴らしかった。
よしだよしこさんは奇特にもお忙しい中にも関わらず、今回のコンサートのために特別に一潮さんの楽曲を何曲も練習して自らのうたにしてご披露して頂いたのは真に有難いことであったしおそらくこの場でしか聴けないそうしたうたを聴けた方々は幸運だと言うしかない。
また今回、それまでお名前だけは昔から存じていたケニー井上&キャシーのご夫妻と知り合うことができて本当に良かった。以前地球屋で何かのライブの折に、観た記憶はあったが、きちんと言葉を交わしたのは今回が初めてであった。人生とは出会いだとするならば、一潮さんがあの世から彼らと出会うべくはからい紹介してくれたのだと有難く思う。
そして体調を案じていた斉藤哲夫氏も無事渾身のステージをやり遂られ、しかもアンコールでは、我の昔から大好きな、マイフェバリットソング「グッド・タイム・ミュージック」を唄ってくれた。まさかこの場で、この企画でその懐かしい名曲が聴けるとは夢のようだった。この一曲だけでもこれまでの苦労が報われた。
若い時に出会いとことん聴きこんだ楽曲は、すっかり忘れていても聴いたとたんすべての歌詞が自然に口から出てきたのには自分でも驚いた。ああ、素晴らしき斉藤哲夫は我が中にずっと昔も今もいてくれたのだ。その人と共に同じ場、ときを過ごせたのだから至福でなくてなんだろうか。
そして特筆すべきは、今日のために札幌から来られた高坂絵理子さんの堂々たるステージで、これが初デビューとは思えないしっかりした達者なうたを聴かせてくれた。並いる超ベテラン勢を差し置いて、今日の主役は彼女であったといっても過言ではないだろう。
正直書くと、今日の企画の一番の心配種は、一潮さんの奥さんであったとしても素人が果たして初めてのステージを無事にこなすことができるかであった。しかしそれは全くの杞憂で、ケニー氏やシバの抜群のサポートを差し引いても確かな本物の実力を示してくれた。さすがはあの一潮さんの奥さんだったと感心させられた。
今日のコンサート、とにもかくにも企画側の我もが驚き感嘆するほど豪華な、確かな実力をもった様々なミュージシャンが過不足なく次々と登場し観客を堪能させたと信ずる。ある意味、今日のコンサートは一つの伝説になったとも思う。その場に立ち会えた人は幸運かつ光栄だと心すべしであろう。来ない人、来れなかった人は一潮という功徳とはまだ縁がないのであろうから遺憾に思うしかない。
記録として今日の出演者を出演順に記しておく。
・館野公一
・シバ
・よしだよしこ
※休憩
・高坂絵理子&ケニー井上withシバ
・井上おはなバンド(ケニー&キャシー)
・斉藤哲夫
※全員でフィナーレ
一潮さんもあの世から見下ろしてきっと満足しているに違いない。亡き人に報いることなんて残念ながらできやしない。しかし、シバも言っていたが、その人のことを覚えているうち、こうして亡き人のことを語っている間、彼を覚えている我らが生きている間は、その人はまだ死んでいないのである。ならばこれも一潮さんためにできることを皆で全力でやり終えたと言って良いであろう。そしてそのことに関われた光栄を今噛みしめている。一潮さん、遅ればせながらようやく貴方のために我も少しは何かが出来たかと。
終わってケニー氏と話したが、全てはまさに神のはからい、ご加護であったとつくづく思う。そう、どんなに苦しいときでも神様は見ていて手を差し伸べてくれるのだ。
そのコンサートの間中ずっと場にながれていた暖かい雰囲気、人生そのものを肯定していく柔らかく包み込むオーラのようなものこそが高坂一潮が今もまだここにいることの証であったと今思う。
そう、見える人にはみえる。わかる人にはわかる。残念だがまだ見えない人にはわからない。そうした人と人を繋ぎ結びつけるのは神の見えざる手なのである。そこに愛があるかなのだ。
第四回反戦歌コンサートは、6月11日土曜日に決定! ― 2016年03月28日 09時28分25秒
★今回は参院選勝利、安倍政権打倒のためにも総がかりで。
出演者などの詳細はまた後ほどお知らせしますが、かけこみ亭での連続企画「みんなで反戦歌、労働歌、そして生活のうたを唄おう」コンサートの第四回目は、6月11日の土曜日に決まりました。
今回は最終回で、出演者多数の予定ですので、午後開始として4時ごろから第一部、6時から第二部としてプロアマ問わず多くの参加者を集めたいと思います。
参加協力者を広く募ります。どうかよろしくご参加ください。
出演者などの詳細はまた後ほどお知らせしますが、かけこみ亭での連続企画「みんなで反戦歌、労働歌、そして生活のうたを唄おう」コンサートの第四回目は、6月11日の土曜日に決まりました。
今回は最終回で、出演者多数の予定ですので、午後開始として4時ごろから第一部、6時から第二部としてプロアマ問わず多くの参加者を集めたいと思います。
参加協力者を広く募ります。どうかよろしくご参加ください。
まだ死ねない、まだ死なせない。 ― 2016年03月29日 22時20分46秒
★ぶらいあんず集会初デビュー成らず
中央道を韮崎から時速120キロで八王子まで駆け下りて来た。
今晩の国会前での戦争法施行に抗議する大がかりの集会に行こうと思ってだ。が、家に着いたのかが5時半。それからすぐに出られれば7時半からの部には間に合ったかもしれないが、留守の間の家の雑事に時間とられているうちに体力気力が消耗しまさに茫然自失。失神するように倒れ込み、もう一歩も歩くどころか起きることすらできなかった。
数時間眠って切れた体内電池が少しだけ回復したようでこれを記す。
昨日月曜の午前からまた山梨の増冨温泉峡、旅館金泉閣に、母と父を連れて行った。今月内は冬季の格安宿泊プランで泊まれるので、前回気に入ったこともあり、予約を入れておいたのだ。
が、先週はずっと母が夜になると38度台半ばの熱を出して、行くことはかなわないかと半ばあきらめていた。風邪にしてはいつまでたっても治らない。
幸いにして、金曜日に近くの診療所でかなり詳しい検査を受けたところ、白血球の数値がやけに高いことが判明して、体内のどこかで炎症を起こしているのではと疑われ、抗生剤を出してもらった。
それを飲みだしてからは幸いにして熱も下がり始め、27日のコンサートの間も母の容体が気になっていたが、幸いなことに午後から夜まで家を空けても無事で熱も平熱だったという。
ならば、山梨へ行けると決めて、我も前日の疲れがとれないまま親たちを乗せて車走らせその温泉旅館に二人を送り届けたのだ。
我もその後に公営の増冨の湯に浸かり、ぬるい風呂の中でひたすらうとうとと眠り続けた。
それが昨日のことで、晩は一人で古民家に泊まって、27日の疲れもあって深く眠った。今日はやや寝坊していくつかの雑用を片付けてたら昼過ぎになり、買い物と昼食をとってから大慌てで東京に戻ることにした。おそらく今まででいちばん短時間で帰ってきたかと思う。平均時速120キロで車をとばした。
うちに着いて車から降りた途端、足元がふらつき何かにつかまらないと歩けなかった。留守番として閉じ込めてきた猫たちに餌やったり、日曜から空けていた間の雑事を片付けていたら、頭は痛いし意識朦朧、ぼうっとしてまさに茫然自失状態となって、ああ、これで都心まで出かけるのは無理だなあと今日の集会は断念した。
その国会前の集会で知り合い、共にこうした場で街宣としてのうたの活動、さみだれ楽団・ぶらいあんずを結成したM氏からも今日は誘われていたのだが、まったくもって申し訳ないことをしてしまった。
本当は、今日こそぶらいあんずとして集会初デビューしたかった。帰りの車の中でも、無伴奏で今晩唄う予定のうたを大声で唄い続けていたのだが。
しかし、明日は朝からこちらで一仕事があり、それで親たち置いて一人で帰ってきたのと、実は旅館の都合で、今回は二泊三日の滞在なので、明日の午後にはまた山梨、北杜市増冨のその温泉旅館に彼らを迎えに行かねばならない。おまけに、31日の日には、中学の美術教師をやっている女友達の学校転勤の引っ越しの手伝いの約束があり、都心、それも足立区西新井のほうまで車出さねばならない。
後のことがなければ、今晩の国会前にも無理しても行けたと思うが、明日、明後日のことがあり、しかも自分一人ではないのだから、事故起こしたら大変だ。気持ちはいきり立つものが多々あるが、27日の疲れもまだ癒えず、これ以上無理して体に負荷をかけるともう運転の最中に失神してしまうかもしれない。
そう考えて、やはり今日は仕方なかったんだと今自分を慰撫している。あれもこれもできやしないという以前に、それ以上やっているのである。どこかで自制しないと、たぶん卒倒か脳卒中で倒れてしまうだろう。一潮さんや渡氏の後は追いたくない。
今はまだここでは死ねない。そして誰も死なせられない。まだまだ先が長いと思いたい。闘いはこれからだ。
中央道を韮崎から時速120キロで八王子まで駆け下りて来た。
今晩の国会前での戦争法施行に抗議する大がかりの集会に行こうと思ってだ。が、家に着いたのかが5時半。それからすぐに出られれば7時半からの部には間に合ったかもしれないが、留守の間の家の雑事に時間とられているうちに体力気力が消耗しまさに茫然自失。失神するように倒れ込み、もう一歩も歩くどころか起きることすらできなかった。
数時間眠って切れた体内電池が少しだけ回復したようでこれを記す。
昨日月曜の午前からまた山梨の増冨温泉峡、旅館金泉閣に、母と父を連れて行った。今月内は冬季の格安宿泊プランで泊まれるので、前回気に入ったこともあり、予約を入れておいたのだ。
が、先週はずっと母が夜になると38度台半ばの熱を出して、行くことはかなわないかと半ばあきらめていた。風邪にしてはいつまでたっても治らない。
幸いにして、金曜日に近くの診療所でかなり詳しい検査を受けたところ、白血球の数値がやけに高いことが判明して、体内のどこかで炎症を起こしているのではと疑われ、抗生剤を出してもらった。
それを飲みだしてからは幸いにして熱も下がり始め、27日のコンサートの間も母の容体が気になっていたが、幸いなことに午後から夜まで家を空けても無事で熱も平熱だったという。
ならば、山梨へ行けると決めて、我も前日の疲れがとれないまま親たちを乗せて車走らせその温泉旅館に二人を送り届けたのだ。
我もその後に公営の増冨の湯に浸かり、ぬるい風呂の中でひたすらうとうとと眠り続けた。
それが昨日のことで、晩は一人で古民家に泊まって、27日の疲れもあって深く眠った。今日はやや寝坊していくつかの雑用を片付けてたら昼過ぎになり、買い物と昼食をとってから大慌てで東京に戻ることにした。おそらく今まででいちばん短時間で帰ってきたかと思う。平均時速120キロで車をとばした。
うちに着いて車から降りた途端、足元がふらつき何かにつかまらないと歩けなかった。留守番として閉じ込めてきた猫たちに餌やったり、日曜から空けていた間の雑事を片付けていたら、頭は痛いし意識朦朧、ぼうっとしてまさに茫然自失状態となって、ああ、これで都心まで出かけるのは無理だなあと今日の集会は断念した。
その国会前の集会で知り合い、共にこうした場で街宣としてのうたの活動、さみだれ楽団・ぶらいあんずを結成したM氏からも今日は誘われていたのだが、まったくもって申し訳ないことをしてしまった。
本当は、今日こそぶらいあんずとして集会初デビューしたかった。帰りの車の中でも、無伴奏で今晩唄う予定のうたを大声で唄い続けていたのだが。
しかし、明日は朝からこちらで一仕事があり、それで親たち置いて一人で帰ってきたのと、実は旅館の都合で、今回は二泊三日の滞在なので、明日の午後にはまた山梨、北杜市増冨のその温泉旅館に彼らを迎えに行かねばならない。おまけに、31日の日には、中学の美術教師をやっている女友達の学校転勤の引っ越しの手伝いの約束があり、都心、それも足立区西新井のほうまで車出さねばならない。
後のことがなければ、今晩の国会前にも無理しても行けたと思うが、明日、明後日のことがあり、しかも自分一人ではないのだから、事故起こしたら大変だ。気持ちはいきり立つものが多々あるが、27日の疲れもまだ癒えず、これ以上無理して体に負荷をかけるともう運転の最中に失神してしまうかもしれない。
そう考えて、やはり今日は仕方なかったんだと今自分を慰撫している。あれもこれもできやしないという以前に、それ以上やっているのである。どこかで自制しないと、たぶん卒倒か脳卒中で倒れてしまうだろう。一潮さんや渡氏の後は追いたくない。
今はまだここでは死ねない。そして誰も死なせられない。まだまだ先が長いと思いたい。闘いはこれからだ。
二年間監禁されていた女子中学生のニュースはもういい。 ― 2016年03月30日 22時30分01秒
★最近のニュース報道は偏向していないか。
どうでもいいニュースが多すぎると思うのは我だけか。そして本当に報じる価値のあることがちっともニュースとして取り上げられていない。
このところNHKの夜のニュース番組をつけるとトップニュースは、先だって無事自ら戻って来た、誘拐されて2年間犯人の男の部屋に監禁されてた女子中学生の事件の続報ばかりである。
むろんそれは異常かつ特異な事件であり、今も世間の関心をひいているのかもしれないが、我に言わせれば、もう事件は解決したのだし、そんなトップに報じるほどの大ニュースなんかではないと断じる。男の部屋でみつけた500円玉があったから公衆電話がかけられたなんて些末なことはほんとどうでもいい。
これが犯人は未検挙で、しかも連続殺人を起こして逃走中なら大々的にまず番組冒頭で警告や注意喚起のために報じる義務があるかと思う。しかしその中学生は無事家に戻ってきたのだし、その後の「続報」はごく短めに三面記事的扱いで済むことでないのか。あたかもスキャンダラスな記事を常に扱う男性週刊誌的な好奇の心でいつまでも事件の詳細を報じていくのはその被害者や家族にとってもプライバシーの侵害にもなるのではないか。
事件は既に解決したのだから今は被害者の中学生のことはそっとしておいてやるのがまっとうな大人社会の対応だと考える。
こんな解決した事件よりももっと大事なほまずいちばんに報じるべきニュースがあるはずだ。
憲法違反の稀代の悪法、戦争法がついに施行したこと、それに全国で大きな抗議集会があったこと、また、それに対して野党が結束して出した廃止法案を自公は審議もないで葬り去ったことなど、まず一番さいしょに「大事件」としてトップニュースにすべきだと我は考える。
一女子中学生の誘拐と監禁事件は、あくまでも一個人の事件であり、国民全体、日本社会に対して大きな影響を与えるものではない。むろん子供をお持ちの方々には注意を喚起し、関心ある事件なのかもしれない。
しかし、今はもっと先に大々的に報道すべきは、国家と国民にとって喫緊の問題、今後に大きく関わっていくことやそれに関連した事件や事態であるべきだろう。まだアメリカの大統領選予備選挙のほうが、日本と日本人にとって大きく関係し影響ある「事件」だと思う。
おそらく多くの常識と見識ある方はうすうすと感じていると思うが、このところのニュース報道は実におかしい。何を報じるべきかがかなり偏向している。
何か大事な、特に政治的事件があるときに限って、どうでもいいが耳目をひくスキャンダラスな事件が発生し、マスコミはそちらを優先してやたらそればかり詳細に報道して、本来報じるべき事件は後回し、もしくはニュースにもならないことが多々あるような気がする。
先だっては、某野球選手の麻薬所持逮捕の「大事件」で、全マスコミはそれ一色に染まってしまった。そのときももっと大々的に報じるべき、国民生活や命に関係していくニュースがあったはずだが、その野球選手逮捕とその続報ばかりになってかすんだりニュースにもならなかった。
思うに、安倍晋三の肝いりで会長となった籾井氏の意向で、現政権にとって打撃になるようなマズい出来事、国民には知られたくないことはあえてニュースとして報道しないようNHKは偏向してしまったと思える。
でなければ、一女子中学生や元野球選手逮捕の事件をあれほどくだくだしく続報するわけがない。
一昔前は、マスコミ批判として、テレビや新聞、特にテレビは、事件が解決するとすぐにその事件報道は終わってしまいその後のこと、つまり「続報」を怠たっているという批判があった。ところが今は、スキャンダラスな事件に関しては綿々とどうでもいい「続報」ばかりで、本来もっと報じるべき価値のあるのある、国民にとって大事なニュースや情報がまったく報道されなくなってしまった。
はっきり書くが、これこそが政府、国家権力による情報操作であり、まず国民は何も知らされないし、何も考えないようにしていくのが、あえて記せば、彼らにとって都合のいい情報だけ与えることこそがメディアの役割だと彼らは考えて行っていることかもしれない。
休日のニュースでは、安倍首相が被災地を訪れたとか、何をしたとか私人としての出来事が「ニュース」としてやたたら流れる。無意識のうちに視聴者は彼に好感持つようなニュースであろう。本来公共放送として国民の受信料で成り立つNHKは不偏不党でなければならないはずだ。籾井会長という現政権の圧力はあるとしても、報道する者は今一度、いったい何をまずニュースとして大きく真っ先に報じるべきか自問し自戒することを強く求める。
それと・・・これはどうでも良いことだが、某野球選手の逮捕も、かねてより男性週刊誌などではあれこれ噂されていた。ただ、何で今になってかは、そこに警察とか国家公安委員会と政府与党の間の思惑で、自公政権にとっては都合が悪い時にぶつけるように調整したと考えるのはゲスの勘繰りか。そう、ゲスで思い出した。某二流女性タレントの不倫だかの事件もさんざん女性週刊誌やネット上でやたら喧伝されたが、それもこれもそんなにニュース性や事件性などまったくないどうでもいい事件であった。
こうしたどうでもいい事件をニュースとして大々的に繰り返して国民の関心をそちらに引き付けている間に、本来知らすべきことは知らされず、多くの国民は何も知らないうちにこの国は着々と戦争に突き進んでいくのである。報じるのは東京新聞と赤旗だけだ。
どうでもいいニュースはもういらない。それよりもマスコミ、メディアはもっと国民の生活、命に関わってくることを真っ先に報道しろ。その義務が特にNHKには真っ先にあるはずだ。
どうでもいいニュースが多すぎると思うのは我だけか。そして本当に報じる価値のあることがちっともニュースとして取り上げられていない。
このところNHKの夜のニュース番組をつけるとトップニュースは、先だって無事自ら戻って来た、誘拐されて2年間犯人の男の部屋に監禁されてた女子中学生の事件の続報ばかりである。
むろんそれは異常かつ特異な事件であり、今も世間の関心をひいているのかもしれないが、我に言わせれば、もう事件は解決したのだし、そんなトップに報じるほどの大ニュースなんかではないと断じる。男の部屋でみつけた500円玉があったから公衆電話がかけられたなんて些末なことはほんとどうでもいい。
これが犯人は未検挙で、しかも連続殺人を起こして逃走中なら大々的にまず番組冒頭で警告や注意喚起のために報じる義務があるかと思う。しかしその中学生は無事家に戻ってきたのだし、その後の「続報」はごく短めに三面記事的扱いで済むことでないのか。あたかもスキャンダラスな記事を常に扱う男性週刊誌的な好奇の心でいつまでも事件の詳細を報じていくのはその被害者や家族にとってもプライバシーの侵害にもなるのではないか。
事件は既に解決したのだから今は被害者の中学生のことはそっとしておいてやるのがまっとうな大人社会の対応だと考える。
こんな解決した事件よりももっと大事なほまずいちばんに報じるべきニュースがあるはずだ。
憲法違反の稀代の悪法、戦争法がついに施行したこと、それに全国で大きな抗議集会があったこと、また、それに対して野党が結束して出した廃止法案を自公は審議もないで葬り去ったことなど、まず一番さいしょに「大事件」としてトップニュースにすべきだと我は考える。
一女子中学生の誘拐と監禁事件は、あくまでも一個人の事件であり、国民全体、日本社会に対して大きな影響を与えるものではない。むろん子供をお持ちの方々には注意を喚起し、関心ある事件なのかもしれない。
しかし、今はもっと先に大々的に報道すべきは、国家と国民にとって喫緊の問題、今後に大きく関わっていくことやそれに関連した事件や事態であるべきだろう。まだアメリカの大統領選予備選挙のほうが、日本と日本人にとって大きく関係し影響ある「事件」だと思う。
おそらく多くの常識と見識ある方はうすうすと感じていると思うが、このところのニュース報道は実におかしい。何を報じるべきかがかなり偏向している。
何か大事な、特に政治的事件があるときに限って、どうでもいいが耳目をひくスキャンダラスな事件が発生し、マスコミはそちらを優先してやたらそればかり詳細に報道して、本来報じるべき事件は後回し、もしくはニュースにもならないことが多々あるような気がする。
先だっては、某野球選手の麻薬所持逮捕の「大事件」で、全マスコミはそれ一色に染まってしまった。そのときももっと大々的に報じるべき、国民生活や命に関係していくニュースがあったはずだが、その野球選手逮捕とその続報ばかりになってかすんだりニュースにもならなかった。
思うに、安倍晋三の肝いりで会長となった籾井氏の意向で、現政権にとって打撃になるようなマズい出来事、国民には知られたくないことはあえてニュースとして報道しないようNHKは偏向してしまったと思える。
でなければ、一女子中学生や元野球選手逮捕の事件をあれほどくだくだしく続報するわけがない。
一昔前は、マスコミ批判として、テレビや新聞、特にテレビは、事件が解決するとすぐにその事件報道は終わってしまいその後のこと、つまり「続報」を怠たっているという批判があった。ところが今は、スキャンダラスな事件に関しては綿々とどうでもいい「続報」ばかりで、本来もっと報じるべき価値のあるのある、国民にとって大事なニュースや情報がまったく報道されなくなってしまった。
はっきり書くが、これこそが政府、国家権力による情報操作であり、まず国民は何も知らされないし、何も考えないようにしていくのが、あえて記せば、彼らにとって都合のいい情報だけ与えることこそがメディアの役割だと彼らは考えて行っていることかもしれない。
休日のニュースでは、安倍首相が被災地を訪れたとか、何をしたとか私人としての出来事が「ニュース」としてやたたら流れる。無意識のうちに視聴者は彼に好感持つようなニュースであろう。本来公共放送として国民の受信料で成り立つNHKは不偏不党でなければならないはずだ。籾井会長という現政権の圧力はあるとしても、報道する者は今一度、いったい何をまずニュースとして大きく真っ先に報じるべきか自問し自戒することを強く求める。
それと・・・これはどうでも良いことだが、某野球選手の逮捕も、かねてより男性週刊誌などではあれこれ噂されていた。ただ、何で今になってかは、そこに警察とか国家公安委員会と政府与党の間の思惑で、自公政権にとっては都合が悪い時にぶつけるように調整したと考えるのはゲスの勘繰りか。そう、ゲスで思い出した。某二流女性タレントの不倫だかの事件もさんざん女性週刊誌やネット上でやたら喧伝されたが、それもこれもそんなにニュース性や事件性などまったくないどうでもいい事件であった。
こうしたどうでもいい事件をニュースとして大々的に繰り返して国民の関心をそちらに引き付けている間に、本来知らすべきことは知らされず、多くの国民は何も知らないうちにこの国は着々と戦争に突き進んでいくのである。報じるのは東京新聞と赤旗だけだ。
どうでもいいニュースはもういらない。それよりもマスコミ、メディアはもっと国民の生活、命に関わってくることを真っ先に報道しろ。その義務が特にNHKには真っ先にあるはずだ。
三月の終わりに ― 2016年03月31日 22時31分44秒
★この四日間で700キロ走って
今日は三月末日、年度末の日である。今日も友人の依頼で、勤務先の荷物を運ぶのに駆り出され、都内を中野区で待ち合わせて足立区から江東区まで走り回った。昼前11時から夜の7時過ぎまで約8時間ほとんど休みなしで運転し続けた。
今週は、山梨へ二往復したこともありトータルでの走行距離は実に700キロになるかと思う。これはもうこの近隣の宅急便のドライバーより、長距離トラックやツアーバスの域でないかと思う。こんなにハンドルを連日握ったのは今までに記憶がない。おそらくそうした仕事に就くことがない限り、もう二度とそんな連日100キロ以上も車を走らせることはないだろうし、もうこんなことは正直やりたくない。
まあ、それでも事故らず、パトカーにも停められなかったのだから、今はコトを終えてほっとしているし満足感もある。これで超多忙だった今月も終わるのだ。
今月はかなり大きいコンサートがいくつもあり、そのどれにも撮影や記録、さらには企画進行からも関わったものもあって、最初から最後まで長時間拘束された。
さらにそこに母が体調をまた崩してしまい、幸い今月は入院することはなかったが、そうしたコンサートと並行して介護というか様子見もあって時間の調整に頭痛めた。行くと約束したそうしたコンサートにも果たして行けるのか当日まで危ぶまれた。幸いどれも無事に盛況のうちに終わり我が役割は果たし終えたと思える。
とにもかくにもあれこれ慌ただしかった三月も終わる。4月は今のところそうした用事は入っていない。年度も替わるわけで、これから今さらだが心機一転という気持ちで、自分のこと、やるべき懸案のことを片付けていこうと思う。
あれこれ書きたいこともあるが、もう限界。あまりに運転し続けて今もまだ地に足がついていないようなふわふわした感じと頭痛もしている。詳しいこと、これからの予定などは明日また書いていく。
ああ、今月はほんとうに忙しかった。大変だった。無事成し終えられてほっとしている。やっと枕高くして眠れる。
今日は三月末日、年度末の日である。今日も友人の依頼で、勤務先の荷物を運ぶのに駆り出され、都内を中野区で待ち合わせて足立区から江東区まで走り回った。昼前11時から夜の7時過ぎまで約8時間ほとんど休みなしで運転し続けた。
今週は、山梨へ二往復したこともありトータルでの走行距離は実に700キロになるかと思う。これはもうこの近隣の宅急便のドライバーより、長距離トラックやツアーバスの域でないかと思う。こんなにハンドルを連日握ったのは今までに記憶がない。おそらくそうした仕事に就くことがない限り、もう二度とそんな連日100キロ以上も車を走らせることはないだろうし、もうこんなことは正直やりたくない。
まあ、それでも事故らず、パトカーにも停められなかったのだから、今はコトを終えてほっとしているし満足感もある。これで超多忙だった今月も終わるのだ。
今月はかなり大きいコンサートがいくつもあり、そのどれにも撮影や記録、さらには企画進行からも関わったものもあって、最初から最後まで長時間拘束された。
さらにそこに母が体調をまた崩してしまい、幸い今月は入院することはなかったが、そうしたコンサートと並行して介護というか様子見もあって時間の調整に頭痛めた。行くと約束したそうしたコンサートにも果たして行けるのか当日まで危ぶまれた。幸いどれも無事に盛況のうちに終わり我が役割は果たし終えたと思える。
とにもかくにもあれこれ慌ただしかった三月も終わる。4月は今のところそうした用事は入っていない。年度も替わるわけで、これから今さらだが心機一転という気持ちで、自分のこと、やるべき懸案のことを片付けていこうと思う。
あれこれ書きたいこともあるが、もう限界。あまりに運転し続けて今もまだ地に足がついていないようなふわふわした感じと頭痛もしている。詳しいこと、これからの予定などは明日また書いていく。
ああ、今月はほんとうに忙しかった。大変だった。無事成し終えられてほっとしている。やっと枕高くして眠れる。
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