カメラ見つかりました!!!2016年03月12日 21時34分03秒

★今でも夢のようで信じられないけど       アクセスランキング: 108位

 先に記した、失くなってしまったデジカメは本日みつかった。もう、すっかり諦めて、二度と戻らない「失くした」ものとしてすっかり気持ちをそちらに持って行っていたから、今でも再び我が手に戻ったことは現実なのか実感がない。何度もそれがみつかる「夢」をみた。が、夢から醒めて落胆を繰り返した。これが覚めない夢であってほしい。

 また、山梨へ、湯治中の母を増冨の温泉旅館から引き取りに行った帰りに、韮崎の食堂「かいえん」が開いていたので寄って尋ねた。
 その店は、カメラを失くした日、いや、正確に言うと、失くした可能性がある日、東京へ戻るとき立ち寄ってお昼を食べたのである。
 が、そのときは、カメラを持って店に入った記憶はまったくなかったし、同行した友人に確認してもカメラは手にしていなかったと思うとのことで、その店に置き忘れた可能性はかなり低いというか、ほとんどなかった。
 しかし、念のため店主に、「2月の終わり頃に、ここに来てお昼食べたとき、忘れ物、もしかしたらカメラを忘れたかもしれないんだけど・・・」とおすおずと尋ねたところ、「黒い高そうなカメラ?あるよ!」と、どこに置いたっけかなあ、とごそごそ探し出し渡してくれた。薄いビニール袋にくるまっていたカメラはまさに我のFUJIFILMのそれであった。
 店主曰く、「またきっと取りに来ると思ったから」とのことで保管しておいてくれたのだ。厚くお礼を言って、また今度ゆっくり寄らせてもらいますと頭下げ店を出たが、何だか半信半疑、夢を見ているようだった。地に足がつかないとはこのことか。

 今、そのカメラは手元にある。しっかりSDカードもそのまま入っているから、最後に撮った明野の別荘地のパン屋さんの外見が最後の画像として確認できる。当然のことものすごく嬉しい。しかし、この約半月の時間の経過で、我の中では何かが大きく変わってしまい、カメラは元に戻ってもそのキモチのギャップを埋める術がみつからない。

 半ば諦めていた。というよりもう我が身の不徳の顛末として、こうした罰は当然受けるべしと思っていた。カメラ自体よりも失ったデータ、この半年の間の国会前行動他、撮りためた写真が二度と戻らないことのほうが辛かった。だからできるだけ失ったものについては考えないようにしていた。
 そしてカメラがないとこれからのライブの記録には困るわけで、そろそろまた新たなデジカメを買うべくいろいろネットで調べていた。失くしたのだからこのデジカメとまったく同じ機種のを買おうかと、Amazonのサイトで最終的クリックを押すところまで行った。今は2万4千円ほどであった。先払いのカード支払いで買えない金額ではない。
 が、何故かためらいがあり、もう少し待ってみようと思った。というのは、アンビバレンツな心情だが、カメラは無くなってしまった、二度と戻らないという「現実」と相反して、またどこからか、例えば家のどこからかふいっと出てくるような気持ちも未だあった。未練というのとはちょっと違う。
 そのためにも、ここでまた新たに次のカメラを購入することは、そうした戻ってくる可能性を完全に否定することでもあり、まだその前にもう少しできることがあらば全てやってから、それでキモチを整理して新しいカメラを買おうと思った。

 やるべきことの一つは、東京の警察署には遺失物の届けは出したが、山梨県の警察にはまだ行っていない。カメラが失くなくなったのは、2月23日の午後から翌日の夕方までの間のことで、むろん山梨からの帰り道と車上狙いならば東京の自宅で車を停めた庭先まで含まれる。ならば山梨県内でも盗られた可能性もあるし、その帰り道どこかに置き忘れたのかもしれない。
 東京の警察で届けを出したとしても、確か受付の人は、これは都内だけだからと言っていたと記憶するから、そうした情報が連携していれば幸いだが、念のため山梨は山梨で届けを出しておくべきか相談しようと考えていた。

 それと、もう一つが「かいえん」という食堂であった。どういう字なのかわからない。ただ平仮名で「かいえん」と店先に出ていた。
 23日の昼に、そこに寄って、もつ焼き定食とスタミナ定食を食べた。が、その店にカメラの件で電話しようにも電話番号はどこにも載っていないのだ。食べログとか山梨県内、北杜市、韮崎市界隈の飲食店情報マップにも、店は紹介されていても営業日も電話番号不明「謎の店かいえん」として数枚の画像はあるが、詳しいことは一切出てこない。ネットで、山梨県内のハローページ、電話帳もくまなく探したが、店の名前も電話番号も載っていない。

 だいたい、その店はいつやっているのかまさに営業日も時間も不定期で、やっているときは外に赤いノレンがかかっているので営業中とわかるだけで、お昼に開いているときもあれば夜だけのときもある。
 一緒に行った友人は、確かピンク電話だけはくすんだ店内にあったと思うが、と言ってたがきわめて自由気ままな全てにフリーな食堂で、どうやら元は焼肉屋だったと思われる。ただ、ラーメンもあればうどん類他ご飯ものの定食などもあり、そのどれもが量が多くしかも店がまえとは相反して意外にもすごく美味しい。コストパフォーマンスの高さはその界隈随一ではないか。

 その謎の店「かいえん」に昼飯を食べたとき、カメラを持って入った記憶はないし、可能性はまず少ないけれど、友人もともかくそこにも確認しろと言ってたし、我としてもそれを済まさない限りは次のカメラ購入はできないと思っていた。
 そして今回、母の温泉治療で、行きの水曜日に行ったとき、その店かいえんは、お昼はやってたのを横目に見たが、急いでいたので、母を旅館に送り届けた帰り道でもいいや、と思っていたら帰り道、夜は閉まっていた。その店は住居も一緒のようだから奥のほうは明かりが付いてたけど、わざわざ戸を叩いてまで確認しようとは思わなかった。

 そして今回は、行きの金曜日の昼過ぎは閉まっていて、帰り道の土曜の昼にはやっていたので、どうせ無駄だと思うけど・・・と勇気出して尋ねてみたのだった。そしたら何とそこにあったのである。
 もう絶対にみつからないものと諦めて、そこに訊いても無駄だという気持ちも強くあった。でもそうだったらこのカメラは再びこの手に戻らなかったであろう。あらゆる可能性にかけてみないとならなかったのだ。そして不思議なことにカメラはその店に置き忘れてあり今回戻ったのだ。
 何のことはない。お昼食べたとき、無意識にカメラを持って店に入ったのであろう。※我は入った店の料理などを撮影してフェイスブックなどに随時アップする習慣など持たない。それにしてもまったく記憶がない。またしても神のご加護があったと思うしかない。

 というわけで、カメラは戻りました。自分でもまだ信じられない気持ちでいる。いろいろご心配おかけしました。が、今回の件で多く学んだこともありそれもこれもすべて良かったことだったとつくづく今は思う次第。
 お騒がせして本当に申し訳ない。ごめんなさい。ただ、どんなことでもどんなときでも絶対に諦めてはならないのだと今さらながら学びました。有難うございました。

バカも極まりではあるけれど2016年03月14日 04時40分45秒

★カメラ紛失騒動について今一度振り返って考えた

 よく真っ当な人からお叱りを受ける。何事においてもだが、どうしてもっと前もって準備してことにのぞみ、終わったらすぐ使ったものは必ず元に戻す、不要なものは即捨てるなり、きちんと適切に処理していけば良いだけの話ではないのか、と。どうしてお前はそんな簡単なことができないのかと嘆息つかれてしまう。
 自分でもそう思う。そうして前もって余裕もって取り組み、そして万全を期した上、コトにのぞみ後片付けも確認のうえやって何事も終わらせていけば良い話なのだ。それが人生処方。そう、まったくその通り。自分もそう思う。異論はない。
 ところがそれが我にはできない。これでもずいぶん少しはできるようにはなってきた。ただそれは周りにそんな我の気質を知り受け入れてくれる友人仲間、良きスタッフがいてこその話で、それがいない場合、先の阿佐ヶ谷での詩とフォークのイベントのように惨憺たる結末となりすべての関係者にご迷惑をおかけしてしまう。終わっても紛糾の嵐となる。

 今、風邪をこじらせてベッドの中で、咳と鼻水それに鈍く痛く思い頭を抱えながら今回のカメラの一件について改めて考えている。
 もう失くしたか盗まれたかと諦めていたのだから当然のことながらすごく嬉しい。しかし、冷静になってみると、こうした個人的な顛末をブログでだらだらくだくだしく書くべきであったかと。こんな大騒ぎ、そもそもブログで書いて公開する価値があるのか。
 まっとうな人からすれば、何でそんなことになるの?と何でそんな大騒ぎを臆面なく書けるの?と訝しく思うであろう。
 だいたいそのデジカメをどこで失くしたのか、いつからそれがないのかも定かでなく、そのことに気がついたのも東京に帰って一日過ぎた翌日の夜だなんてありえないと。
 当事者である自分もそう思うし、まったくもってそんなだらしない、情けない限りだからこんな失態をしでかすのだとつくづく思う。

 今回は幸いにして、カメラは入った店に置き忘れていたことに気がつき「発見」され無事戻ったわけだが、この非常識なだらしなさを思うとき、戻ってこなくても当然だろうと指弾受けても仕方ないだろう。
 こんなだらしなさ故の自縄自縛、自業自得の罰当たったような出来事の顛末、書いたって心ある人は心配され胸痛めるだけであろうし(幸いにして今回はカメラは戻ったのでその方たちは共に喜んでくれたと思う)、読み手の多くは呆れ果てまたマスダは相変わらずのバカを繰り返しているとうんざりし呆れかえるだけかもしれない。バカも極まったなと。

 しかしこうも思う。嗤われようとも我は我が身に起きたことはできる限り正直にあるがままに具体的にこのブログで書き記していくと決めてやってきたし、これからもその方針は変えてはならないと。
 むろんあまりに悲惨過ぎて書けない、書いてはならないことだっていっぱいある。親父が、デイサービスの車から降りて家に入った途端、堪えていた小便を我慢できず撒き散らし廊下はびしょびしょ、ベタベタになってしまった話など書いたってオモシロくも何ともない。親たちの醜態を記す以前にまず我が醜態、失敗が先にあり、我に起きたこと、そしてそのとき我が考えたことなどを常に書き記していきたい。

 開き直るわけではないが、自分のダメさと異常さ、オカシサはこれでもよくわかっているつもりでいる。そしてそれを絶対肯定も了ともしてはいない。何とかそれを直してまっとうになりたいと常々願っている。これ以上他人様世間様に迷惑をかけてはならない。
 が、それが病的なものか、それとも親の教育が悪かったからなのか、根本的に人格に異常や問題があるのかわからないが、なかなか治らないのだ。

 そしてはっきり書くが、そうした性格に難のある人間は我だけではないと信ずる。誰もがみんなコトにおいて常にきちんとできて失敗や失態をしでかさないなんて思えない。今の季節、道のあちこちに、片手だけの手袋とかいくらでも落ちている。それは捨てたのではなくきっとうっかり落としてそのままに、落としたことにも気が付かない人がたくさんいるからであろう。
 たかが手袋とデジカメという差はあるけれど、ニンゲンはそうした迂闊なものであり、我はともかくその程度が大きく何事においても配慮や考えが至らないだけなのである。いや、そうではなく人間の不良品として根本のところがそもそも狂っているのかもしれない。

 だからこそ、こうしたことをわが胸の内だけに閉まって隠してはならないと思う。我のブログは小説ではないけれど、小説の役割が世界の多様性を示すものだとするならば、こんな拙ブログでもあればこそ世の中にはこんなバカ、愚か者が臆面なく生きているということが一部の人たちにとっては何か役立つかもしれない。
 それは半面教師としてであろうし、同類の者として相憐れむものかもしれない。真っ当な人たちからはまったく関係ない唾棄すべきものとして読まれないとしても、この世にはこんなバカがいること、そしてそんなバカでも何とか死なずにあたふたしながらもまだ生きていることを証明する場でありたいと願う。人からどんなに蔑まれ呆れ果てられようともこれでも還暦近くまで生きて来たのである。こんなバカでも生きてこれたのだから人生の先行きに不安を抱える若い人たちよ、自信もってください。

 そう、世界はいろんな人間がいる。まっとうな、何事もきとんとできる人間ばかりではない。昔のアニメでの妖怪人間たちは自らを劣等であると自覚して「早く人間になりたーい」と常に叫んでいたが、俺だって「早くまっとうになりたーい」と心から願う。しかし、妖怪人間の役割=存在は人間になれなかった妖怪人間であったことにあるとするならば、我もまたこれで生きていたって良いのである。
 むろんのこと今回の件で大いに学習したからもうカメラは失くしたり落として壊したりはしないと今は思っている。しかしバカだからまたうっかりしでかすかもしれない。しかしそれはそれ、それでも良いのだ、な、バカボン!

のろ、40周年コンサートのお知らせ2016年03月14日 16時23分47秒

何故かこの向きでしか表示されないので横にしてご覧ください
★ソーブラ五十嵐さんからお誘い受けたので・・・

 吉祥寺も近年駅も新しくなってすっかり様変わりしてしまい、めったに行くこともなくなった。
 が、かつては吉祥寺の南口側には、かなりディープな伝説的なスポットがいくつもあった。古くは、我が高校時代に通い、シバや高田渡、友部正人を知った、今はライターとして活躍している村瀬春樹氏のやっていた武蔵野火薬庫・ぐゎらん堂もあったし、あの小汚い頃の焼き鳥いせやが二店、近年はスナックブロンまで、その駅に降り立てば必ず足を運んだユニークで落ち着ける店がいくつもあった。

 が、今はもうそうした良い店は一つもなく、それは我がただまだ知らないだけかもしれないが、吉祥寺で人と会い、どこかに飲みに行くにせよ、迷わずにいける店がなくてどうしたものかといつも困ってしまう。※いせやは新装となって今も同じ場所に確かにある。が、あのかつての雰囲気がないなら何もそこで呑む理由はもう一つもない。

 そうした吉祥寺南口にかつてはライブもできるかなり大きい居酒屋というか飲食スポットがあった。そこは、よくフォーク系ミュージシャンが集ってライブもやったが、高田渡生誕会等どこそこで大きいイベントがあった帰りなど、皆で寄って誰それの、例えばなぎら氏の悪口などをサカナに酒を飲むのには最適のスポットでその名を「NORO」といった。
 しかしその店もこの不景気で、もう何年も前に店を閉めてしまい、少ししてから店主の加藤氏は、北口の今はヨドバシカメラとなっている元デパートの裏に密集する飲み屋街の一角で小さなスナックとして同じ名前で店を再開した。
 我もその元祖「のろ」とはもう何十年来の付き合いがあり、移転再開後のその「リトルのろ」にも何度か顔出してはそこでときたま催されるアコ系ライブなどを楽しんで来た。

 そののろが、何と今年で40周年なのだという。ちょっと信じられない気もするが、若者に向けての多くのユニークな店が70年代から始まったのは事実だからいつしかもうそんなに歳月がたったのであろう。ただただ感慨深く思ってしまう。そう、もうあの頃の店はどこにもないのである。
 さておき、今回会場はかなりキャパが大きい。好漢加藤氏を励ますためにも盛況になることを心から望んでいる。今我がそれに行けるかまだ調整中だが、今の情勢が続く限りこの先、50年目はまず絶対にないと思えるから記録と記憶するためにも顔出さねばならないかと考えている。

無頼庵音楽隊=ぶらいあんずの団員求めます。2016年03月15日 23時18分07秒

★ようやく「正気」に戻ったと自覚してこれからのことを  

 今日は久々に七日ぶりに晴れた。先週の水曜9日からずっと雨もよいで、陽射しのない鬱陶しく寒い日が続いていた。
 その間、母たちを連れて二度東京~山梨を往復するハードワークとこの寒の戻りもあって先に一度ひいた風邪がぶり返して今もまだ咳が残り本調子とはほど遠い。が、もう峠は越えたので、中央道上り線でいえば、最大の難所笹子峠を越え下りて、今は初狩あたりまで来たというところか。まだ談合坂までも行っていない。※変な喩えで誰もわからんちんやろか。
 久々に本格的な風邪らしい風邪をひいた。熱や鼻水は収まったものの、気管支が弱い我はこれからも咳が残り完全に復調するのは月末であろうかと思う。ちょっと話をしていてもすぐ咳が出て止まらなくなるのでしばらくは歌うこともハーモニカも吹けやしない。

 さておき、今このところの大騒ぎしていた事態がとりあえず収束して、ようやくコーフン状態というか高ぶっていた気持ちも沈まった。振り返れば、カメラを失くす前から、そう1月の終わり頃から何かずっと地に足がついていないような浮ついた感じであった。
 むろん一番は母の抗癌剤投与とその後の再入院騒動があったりしたからだが、そこに責任ある立場で関わるライブイベントなども絡みあって、常に急き立てられているような、熱に浮かされているような緊張と興奮が続いていていったい今年は二千何年なのかすら2015?2016なのかもよくわからない、つまり何も考えられないようなぼうっとした頭の状態が続いていた。今から思うとよく交通事故とか起こさなかったと思う。
 まさに心ここに在らずであった。では、いったい心はどこに置き忘れていたのか?どこかに落としてしまったのか。

 幸いその失くした心も今は戻って来た。ようやくだが、その心に手綱をつけて自らコントロールできるようになってきた。以前は心はここにあっても自らが制御できず、どうしようもない人恋しさや怒りや焦り、嫉妬のような感情に囚われ振り回されてどうにも抑えることができないでいた。実は好きな人への思いやかなわぬことへの様々な「執着」と「不安」に苛まれ本当に苦しかった。
 デジカメを失くしたことで、いったん頭が覚めて、いや、冷めて、頭がおかしかった自分の姿がはっきり見えて来た。いまさらだが、真に我が今ここでできることとなすべきことを自らに問い、その答えもようやっと見えて来た。

 むろん、欲深い我は、今も多くを望みあれもこれもしたい、やりたい、欲しいと欲している。が、現実のはなし、もはや金もだが、何をするにも時間が全然ない。自分がやりたいことよりもやらねばならないこと、人として責任上果たさねばならないことが頭上高く山積してしまい、残りの人生かけたってそれを片付けることは不可能に思えて来た。
 何しろ生きている限りまたさらにそうした「やるべきこと」は常に追加補充されていくものだから。一回リセットして、昔の邦画のアウトローのように、誰も知らない見知らぬ土地に行き、名前も過去も消して一風来坊として人生をその地で新たにやり直すことができれば幸いだが、手のかかる老親や犬猫たちを抱えている限り、つまり絶対にそれはまさに夢物語でしかない。
 ならばその我が残りの人生の中で、いかにいろいろ多くの難題を抱えつつ我ができることでなすべきことを効率よく少しでも多く進めていくかだけの話だと気づく。

 このブログという媒体で、自らのこととやってていることを書きだしてもう10年は経つかと思うが、当初は、ほんとに趣味的なこと、つまり本や好きな音楽や観た映画のことなどだけ好き勝手に書いていたはずがいつしか、今では我が関係している音楽企画や催しのことに傾いてしまった。そして当初は聴き手の側だったのが、いつの間にか企画側に、さらには今は唄う側にしだいしだいに移行してしまったのは自分でも不思議でならない。
 もちろん今だって、裏方として様々なコンサートを企画したりイベントを仕掛けたりCDやDVDをどんな形態にせよ企画制作などしたいことはいくらでもある。が、人生が残り少なく、しかも今使える時間に限りあるならば嫌でも今いちばんやるべき、やりやすいことにポイントをしぼるしかない。

 自問してみると、やはりそれは「音楽活動」で、願望としては以前一時やってたような、バイオリン女史みほこんを中心としたユニットだったのだけれど、それが難しい現在は、まずは我一人ソロで、さらにそれに共にうたやギターで一緒に音楽をやってくれる仲間を求めて不定形のユニットとしてやっていけたらと考えている。
 実際の話、このところ卓越したマンドリン奏者であり語り歌の館野公一氏とたびたびセッション的に勝手にハーモニカなどでご一緒させて頂き、ライブ音楽の深さと楽しさを学ばせてもらい、ともかくどなたとでも、もし拒まられないのならばご一緒に音楽を共に、即興的にどこででもやっていけたらと夢想するようになった。
 むろんまだ我がテクニックや才能などは下下下の(ゲゲゲの)下手郎(ヘタレ)なわけでもっともっと不断の努力が必要なのは自覚しているが、とにもかくにもあちこちのライブに臨み、誰とでもセッションを重ねて腕と度胸を磨いていくしかない。その覚悟はできている。実のところそれこそが今一番したいことでもあるのだ。

 そしてまずはそのためにも仲間をつくって、練習できる時は練習してゆる~いユニットとして、バンド活動を開始していけたらと望む。「バンドメンバー募集」というと、常に練習日にはメンバー全員顔揃えてどこそこのスタジオに集まって地道に汗かき練習を積み重ねていくというイメージがある。※おそらく定年後の年金生活で金と暇溢れる老後の趣味としてのオヤジバンドならそれも可能だが、我は無年金、生涯あくせくと小金を稼いでいかねばならないのである。
 だから今の状況ではとてもそんな時間的余裕はこれからも我自身つくれるか自信がない。せいぜい曲目は決めておいて、コードとキーだけ自宅で確認して各々で練習してみて本番当日ちょっとでも合わせられれば良い方で、ぶっつけ本番でもかまわないとまで思えて来た。
 それでも例えば、どこそこでこれこれのイベントがあるから出ないかと誘われたとき、来れる我が仲間たちで、ユニットで音楽がやれたらどんなに楽しいであろうか。そこにコーラスだけの参加でもかまわないし、ギターの他に、マンドリンやフィドロ、バンジョー、さらにはアコーディオンなどもあればもっと素敵だ。

 畏友大槻氏の真黒毛ぼっくすのステージを観るたびしだいに、ああ、いいなぁこうしたユルイスーパー楽団は、と心から羨ましくなった。それで我もあんなにハイテンションの素晴らしい楽団でなくてかまわないから我が音楽活動において、楽団、音楽隊をつくりたくなったのだ。
 まあ、イメージとしては、オリジナルの「武蔵野たんぽぽ団」が一番近いだろうか。シバの話だと正式なメンバーは実はきちんと決まっていたとのことだが、周囲からするとそれ以外にも常に雑多なメンバーがあの頃は入れ替わり立ち替わり出入りしていたような自由気ままなイメージがある。
 ならばこそそんなふうに、より不定形なフリーな形態で、ある程度事前の打ち合わせだけはしたり、むろん練習できるときは練習や音合わせはして、仮の名前として「ぶらいあんず」として皆で共に音楽活動をやっていければと夢想している。人数に制限はもうけない。
 理想はもちろん、ニッティ・グリッティであるし、ニュー・ロスト・シティでもいい。いろんな楽器が入り人数も多ければ音楽はもっと楽しくなっていく。出入り自由だから、スケジュールが空いているとき、予定があう時だけの参加でちっともかまわない。

 幸いにして、一人だけまずは男性メンバーが決まっている。その方とは国会前の行動で知り合った。以後懇意にして頂いている。これからは彼と、かつての我が過去のユニット時代より付き合いのある女性ボーカルの三人がメンバーとなるかと思うが、館野さんが近くにいたら嫌がったとしても彼も加えて、じよじょに増殖していきたいと目論んでいる。
 もしこれを読んでちょこっとでも関心持たれた方ならばご参加ください。うたが下手でも楽器ができなくてもかまいません。我マスダと一緒に音楽活動をやってみたいというだけで歓迎します。まあ、楽団にほしい楽器担当として本音言えば、一番はバイオリン、そしてバンジョー、さらにはアコーディオンやキーボードだろうか。むろんのこと打楽器類、ウッドベース、そしてサックスやブラス類も。

 はっきり言えば、音楽や歌では世界は、政治は変わりません。しかし、人の心の奥底の何か大事なものを必ず変えていきます。そしてそのことで、人は少しづつ変わってゆき、やがてはJ・レノンや清志郎が夢想したような世界がやってくると信じます。

 あれこれ慌ただしく苦難に満ちた大変な時代に生きている我々ですが、だからこそうたが、音楽が求められ、人と人を繋ぎ、結びつける力になるのだと私は確信しています。どうかどなたでもいっしょに唄いましょう!
♪広く高く大きく 人間のやさしさをうたえうたえ うたえうたえうたえ

川原先生のイベントが今年もまた両国門天ホールで21日に2016年03月19日 12時41分34秒

★慌ただしく変わり目の月、三月が過ぎていく。

 今日も雨もよい。19日の土曜日である。国会前及びその周辺へ、たった一人でも出向きたいと願うのだが、何故か毎月19日は必ず外せぬ用事が入ってしまい、今月もそれは無理である。
 いろいろ迷ったが、今日は、吉祥寺の「のろ」の40周年記念のコンサートにともかく顔出すことにした。会場は吉祥寺駅前の丸井の横にある武蔵野公会堂である。出演する五十嵐君たちとも今後のこと、第四回目の「反戦歌コンサート」についても相談しないとならないからだ。

 風邪もぶり返してこのところ体調も悪く、一昨日などは咳の発作が収まらず結局げーげー吐いてしまった。犬猫たちも早暁から騒ぐので、ゆっくり春眠を貪ることもできず、今年は年明けからずっと睡眠不足気味である。
 が、とにもかくにも老親犬猫ともどもまだ生きて今年も春が迎えられたわけで、疲れたとか調子が悪い、辛いとか言ってはいられない。

 実は先だって、抗癌剤中止後の母の癌治療として、放射線投与について近くの専門病院に出向いていろいろ医師から説明を受けて来た。そして、それをまた立川の担当医に伝えて、今後はどう治療方針を立てるか今検討中というところだ。
 そのことについてもきちんとここで報告したいと考えているのだが、今日からの三連休連日出かける予定があり、幸い明日は家にいられるかもしれないが、もうともかく時間がなくフラフラながらも何とかしのいでいる。
 その明後日、21日の振り替え休日は、昨年に引き続き、同所で、深川中学のユニークな美術教師として知られた川原先生の企画「PEACE Will Come~中川五郎を迎えて」が午後1時半頃から夕刻まである。
 参加費は千円。他にも川原先生自らも含めて、彼と親交あるフォークシンガー、教育関係者たちが多く出る。
 まあ、以前もお知らせした「教育の貧困コンサート」の川原版といった趣なのだが、もっと緩く柔らかく気軽な催しであり、先生の人柄がうかがえるユニークでかなり自由なコンサートだ。

 チラシを送ってくるかと思って待ってても何も連絡ないので、こちらから連絡しようとしても住所がよくがわからない。一度我が企画のチラシを送ったら間違った住所に送ったらしく戻ってきたりして連絡とれずに困っていた。
 共通の友人に頼んで彼の電話番号を尋ねたら、すぐ向うからかかってきた。訊けば、こちらの住所を失くしてわからなくて困っていたという。こちらも同様であり、お互いが住所を失くして連絡とれないでいたのだ。ほとんど童謡「ヤギさん郵便」の世界で、思わず呆れ果てた。たぶんB型同士かと思われる。笑うしかない。

 で、また今年もそちらにも手伝いに行くことに。幸い昼間のライブなので、夜は早めに帰れるかと思うが、果たしてどうなることか。むろん夜は夜で誘われているライブが四谷であるが、もうそれは時間的にも難しいかと。体は一つだし、その川原コンサート、終演時間がはっきりしないのだ。

 ともかく、この連休が無事終われば、後は月末27日の「一潮さん追悼の会」コンサートを終えてやっと一段落だ。

3.21の門天ホールでのPEACEコンサートのチラシ裏面2016年03月20日 23時59分49秒

★良いチラシなので裏面も上げておく

いくつかの義理を果たし終えて2016年03月21日 21時41分27秒

★何とか連休を乗り切れた。

 今、その両国のイベントから帰って来た。午後1時半から6時近くまで、かなり長丁場で、正直へろへろである。が、良いコンサートだった。良い歌と良い人たちとまた出会えた。そしてその場に少しでも関われたこと、我に役割があったなら光栄に思う。

 告白すると、この19日からの三連休、実に憂鬱だった。嫌だとか辛いとかではなく、果たして乗り切れるか我が体調と家のこと、家人の容体もあり気が重かった。
 まず19日は安保法強硬成立半年目の、国会前行動はさておき、吉祥寺でライブハウス「のろ」の40周年記念のコンサートがあり、お世話になった者として、いや、正しくは、我が目をかけてかつて応援した唄い手がお世話になったので、そいつに代わって行かねばと思い、何とか加藤さんに義理は果たせたと思う。
 それが夕方5時からで、終わったのは8時半過ぎで、もう打ち上げにも参加せず慌てて戻って、翌20日は、ぶらいあんずのメンバーから「ABE is OVER」のコンサートに参加を請われていたが、21日にまたこのコンサートの手伝いが入ってたので、三日連続で家を空けることは家庭の事情と体力がどうにも許さず大謝りで辞去して、今日に備えた。

 そして今日は、両国の門天ホール、その川原先生のイベントに、友人たち5人引き連れて行った。むろん顔パスである。その人たちは、ぶらいあんずのメンバーになっているはずなのだが、実はまだ当人も気づかず、多くは今日知った、あるいは未だ自らがそうされたとは気づかないままであろう。まあ、それでもこれで、メンバーは一気に七人となったわけで、早く練習日を設けて活動を開始して行かねばならない。目指すは打倒!真黒毛ぼっくすである。

 さておき、今日のこのイベント、昨年と引き続き同様のタイトルで「PEACE will Come~中川五郎をむかえて」と題して、まあ、平和と自由について、うたを通して今こそ問いなおすというような、まあ、我がこのところ手がけている「反戦歌、労働歌、そして生活のうたを皆でうたおうコンサート」と、趣旨としてほぼ異母兄弟というか、乳兄弟というか、義理の親子関係みたいなもんで、企画コンセプトはとても近しい。ならば仲間ならば応援すべきであろう。
 じっさい出ているメンバーも御大中川五郎関連の人たちなのだから、そうした人脈は多少の顔ぶれは違えども、皆旧知の、毎度おなじみなわけで(観客も含めて)、フォークロアセンターの恒例「七夕コンサート」もだが、お手伝いしないわけにはいかないのである。それが人間関係であり、浮世の義理なのだ。そこに何か役割があるならば。

 今回と同様同趣旨のコンサートに、やはり学校の先生たちが手がける「教育の貧困」コンサートもある。そちらもほとんどコンセプトは同じなのだが、川原先生のそれのほうがはるかに、ユルくテキトーで、やはりそこに学校の先生は先生でも美術の教師という、教科の違いは大きいような気がする。美術というものはそもそも「答え」がないし、答えを求めない、出さないですむ、珍しい教育、勉強なのだから。

 告白すると、我は学校教育についてはかつて不登校で、ほとんど学校へ行かなかったこともあり、センセイと学校というものに対しては憎しみではないがそれに近い強い拒否反応を今も抱いている。
 が、もし我にとって、恩師と呼べる人がいるとすれば、それは北海道の北星余市高校の安達先生ご夫妻だけで、他は、金輪際先生などという人種とは付き合いたくはない。
 ところが人生は皮肉なもので、我の周りには、やたら学校の先生が多く、あちこちで出会う。そしてそうしたセンセイから何か頼まれたり言いつけられたりすると、劣等生だった本性は、すぐさま反射的に、ハイ!わかりました、と応じてしまい、もう嫌でも唯唯諾諾従うしかない。むろん、それに対して不登校的に、トンズラする手もなくはない。が、もうそれは、一度でも安達先生に出会ってしまえば、(今や自民党の政治家になった恩知らずの元ヤンキー先生はともかくも)、更正してからはそんなことはできやしない。

 で、内山先生に、川原先生に、マスダ、お前やれ、あれやれと、命じられれば、劣等生はハイ、わかりましたと先生の言いつけに従うしかない。自分でも不思議だが、人生とはそうしたもので、あれほど避けていた先生、教師というものは、学校とは縁が切れても生涯人生に関わってくるのである。つまり、逃げても借金は踏み倒せず、常に督促されるように、センセイというものは、我にとって嫌でもこれからも出会い、そして我に道を示しては問い糾してくれる存在なのである。ならばやはり従うしかない。有難い存在ではないか。まして嫌だった「学校」を離れてのことなのだから。

 それにしても川原徹三先生のようなセンセイに出会い担任となった子は実に幸せだとつくづく思う。今日も、かつての教え子が何人もミュージシャン、出演者として登場し、その川原先生は彼らと共演していた。フツーそんな先生はこの世にいない。
 何しろ、川原先生は、かつて自らの授業で、中川五郎や、西岡恭蔵や高田渡、さらには真黒毛大槻氏を招いて、彼らの生歌を生徒たちに授業で聞かせていたのである。それを訊いて、何と無謀なと絶句した。象さんならまだわかる。が、あの高田渡たちである。俺だったら、我が身の保身を思い、親たちから後で何言われるか怖くてとてもそんな暴挙は絶対にできやしない。おそらくフォークソング好きだということだって教室では秘密にするはずだ。

 我が学校教育を振り返る限り、そんなヘンな、ユニークな先生は出会ったことがない。墨田区の教育委員会が特に緩かったのかはわからないが、そんなヘンな美術教師に出会った子供たちは真に幸せだったであろう。何しろ、こんな大人もいるんだ、こんな風に生きて大人になっても良いんだと、「見本」を自ら、そしてフォークシンガーたちを通して、広い世界をうたで示したのだから。
 その教え子たちは本当に羨ましい。そして実に幸せだと思う。知る限り、自らの教え子と一緒にバンド組んで音楽活動をやった先生は、あのパンクロックの頃、イギリスで、アートスクールの教師やっていた、イアン・デューリーぐらいで、日本人でそんなおバカがいるとは考えたこともなかった。

 これは褒め言葉である。じっさい、川原先生の教え子だというミュージシャンは会うと皆どれも実に良い子で、性格も音楽も素晴らしく、川原先生を半面教師にしたのか、それとも実教師としての偉大さかはともかく、誰にも感心させられた。
 今日のコンサート、そうした美術教師川原先生の「音楽教育」の発展形として、平和と自由とは何かを教えることこそが「教育」の根幹なのだと、彼の教育者として生きた人生を観衆に余すところなく示せたのではないか。
 毎度ながらやや時間が長すぎ、冗長に流れたところもあったとの声も訊いたが、個人的には本当に満足できた。PAも照明も、川原先生ご本人のうたも演奏も昨年より格段の出来であった。今年も顔ぶれは変われども良い出演者ばかりであった。

 歌とは人と人を繋ぎ結びつけていくもの。思いを示し共有していくもの。最後までその場にいた人たちには、そのことはきっと伝わったと信ずる。川原先生の魅力というか、教えとは、自らを通して子供たちに「寛容」とはどういうことか示して来たことではないか。
 教育とは言葉や教科書ではない。まず教える者が身をもって示す生き方でもあるはずだ。エラソーなことを教壇でしたり顔で語っても、そいつがどうしようもないツマラナイ人間ならば、子どもはそんな教えに耳を傾けやしない。
 川原先生は、おそらく身をもって「教育」を示してくれていたのだと、今日のコンサートではっきり確信できた。これは簡単そうで誰にもカンタンにできることではない。こんな先生に出会った子供たちは幸せだったと今つくづく思う。去年もだったが、興行的な、金の匂いがまったくしないことも含めてほのぼのとした良いコンサートであった。


 今日は、夜、間もなく閉店となる四ツ谷コタンで、みほこんのコンサートがあった。時間的に大慌てで駆けつければ間にあったかもしれないが、もう体力的、キモチ的にも限界であった。そう、コンサートというのは何故か特定の日にいくつも重なる。行きたくとも体は一つだし、行けたとしてもやはり義理が優先される。一昨日の「のろ」、そして「ピース・ウイル・カム」コンサート、まず我が果たすべき義理を何とか果たせたと思うので、今は心からほっとしている。
 義理がすたればこの世は闇だ、とは誰のうたの文句であったか。これからも我ができる、すべきこと、当たり前のことをきちんとやっていく。

第四回目の「反戦歌コンサート」は、6月11、12日のいずれかに。2016年03月22日 22時41分44秒

★参加協力者募集します!

 さすがにどっと疲れが出て、今日は一日寝込んでしまった。朝もいつもならどんなに遅く寝てもたいてい6時前には起きてしまうのに、いったんその時刻に目が覚めたものの、どうにもベッドから起きられず眠り直してけっきょく9時過ぎまで寝坊してしまった。親たちの食事の支度もできなかった。
 何しろ寝床から出ようと、体を起こしてもふらついて自力では立っていられない。まあ、いちばんひどいメマイのときは、ベッドの中で、ぐるぐる周りが回転して見えたりして目も開けられないのだからそれよりは軽いものだが、こんなふらつきは久しぶりだった。
 今日は午後ケアマネの訪問があり、そのために部屋の片づけや掃除だけはして、もう応対はせずに昼食後もまたひたすら眠って何とか体調は戻った。
 夕方起きたが、もっともっといくらでもまだ眠れるし眠りたい。が、ゆっくり休めるのは、次の日曜のイベントを終えてからで、もうあとひと踏ん張りである。
 
 他の人はどうか知らないが、我の場合は、疲れるとまずはメマイやふらつきよりも頭が痛くなってくる。それもズキンズキンとした頭痛ではなく、頭の周囲がぐるっと一周締め付けられるような痛みで、キツい帽子をかぶっているような感じの痛みだ。へんな例えだが、孫悟空が頭に巻いている輪っかがあるのだが、あれもお釈迦様の力で、締め付けられ痛がっていたと記憶するが、まさにそれを思い出す頭痛で、極度の疲労のときいつも起きる。たぶん医学的には専門的用語があるかもしれない。
 まあ、一晩眠ればたいていすぐ収まるから心配していないが、昨晩は夕方からその頭痛と咳の発作が起きて気持ちは高揚して元気なのだが、体は疲弊して、ブログを書いて、撮って来たデータ類のバックアップだけは終わらすため起きているのが辛かった。
 今日は、次の日曜に予定している「高坂一潮5回目の偲ぶ会」コンサートの最終的打ち合わせの連絡を出演者、関係者にとって、問題なければいよいよあとは当日を迎えるだけとなった。

 亡き一潮さん縁の豪華なミュージシャンが集うこともあり、昨日の両国門天ホールでもチラシを撒いたらかなりの反響があった。現在予約者も10名近くになったと思うので、来られる方、良い席に座って観たい方はぜひお早目の予約をお願いしたい。

 そしてそれを終わらせてからは、いよいよ昨年から続けている連続企画の集大成、第四回目となる、♪皆で反戦歌、労働歌、そして生活のうたを唄おうコンサートを大々的に開催したい。
 その日時だが、今現在のところ6月の11、12日の土日いずれかがほぼ確定で、これまでに出演頂いた方全員に声をかけて、総がかりでの安倍政権打倒、参院選勝利、安保法制廃止に向けて、その機運を高めるべくうんとうたの力を結集して盛り上げていきたい。
 出演者多数となるとかなり長丁場となるかもしれないが、一人でも多くの唄い手の参加と観客動員を期待して今から宣伝と準備に励んでいく。
 1曲でも唄いたいうた、そして訴えたいことがある方は今回はどなたでも出て頂きたい。スタッフも含めて参加協力者今から大募集していく。
 ぜひぜひこちらもご参加ください。参院選勝利に向けて皆の力を結集しましょう!

我にその先はあるのか、来るのか2016年03月24日 01時39分36秒

★もう疲労の極致、今月乗り切れるか

 かけこみ亭からまた終電で帰って来た。27日のコンサートに向けて打ち合わせで行ったのが、つい楽しくてまたライブに参加したりもして、結局南武線も最終1本前。立川に着いたら、もう12時45分の青梅線最終電車しかなく、かなり待たされ乗って無事に帰れたものの疲れてもうヘロヘロ、失神寸前である。この連休の疲れが全然癒えていない。
 愚痴をこぼすとか、弱音を吐くという表現がある。まあ、ブログでそんなことを書いても仕方ないが、このところ書くときはどうしてもそうしたものになってしまう。ならばいっそ更新せず、ブロぐなど書かずにやがては自然消滅的に閉鎖に至るしかない。

 友人関係のライブやコンサートに出かけて疲れたというだけではない。それは楽しい、やりがいのあることだから疲れても文句も言えないし、第一ちっとも苦しくも辛くもない。ならばその疲れは心地良いものでもあろう。
 実は母の容体がこのところ良くなく、出かける日や出かけたときに限って、熱出したり吐いたりしてこちらとしてもほとほと手を焼いている。おちおち出かけていられない。どうしたものか。

 症状は風邪のように思えるが、熱が薬飲んでも引かず、いったん良くなったとしても繰り返しまた発熱や嘔吐、腹痛を繰り返すのは、考えたくはないが、癌性によるもの、腹部の癌部位が原因で起こる腹膜炎の類ではないかと我は疑っている。
 実は、もう5年以上も前、まだ癌がはっきり確認も特定もされていない頃、母が体調を崩し始めた頃がまったくそうであった。しだいに食べられなくなり、下痢や腹痛、嘔吐を繰り返し、痩せ衰えて来て、腹に腹水も溜まり、あちこちの医者や漢方医にもかかった。
 が、原因がなかなか特定できず、かなり悪化してようやく立川の総合病院で、大腸に腫瘍があり、それが癒着して腸閉塞のような状態になっていて、それは癌によるものだと診断された。幸い外科手術で、その機能不全となった部位を全部取り除き、大腸を短く繋ぎ直してようやく体調は回復したのだった。まさに九死に一生を得たと思う。

 それが2011年のちょうど大震災の最中の頃で、以後、母は体調も戻り、その前までと変わらぬ日常生活を送れるまで癌を克服していた。が、去年の年明け頃からまた癌の活動再開、つまり肥大が確認され、しばらく様子見でだらだら時間が過ぎたが、秋口からは、やはり何か手を打ったほうが良かろうと医師の判断で、抗癌剤投与を一回だけやってみたら、その副作用で発熱、そして入院という騒動が起きてしまい、以後、もはや抗癌剤は中止、ならば今後どうすべきかという判断の瀬戸際に立って今となっている。

 先だって、放射線治療を行っている大病院に母と一緒に出向き、その専門医から話を聞いて来た。その医師は極めて懇切丁寧に、抗癌剤が使えないからと言って、すぐさま放射線はすべきでないこと、それよりもその癌がこのままにしておくとどう他の臓器に浸潤していくかが問題であり、たとえ大きくなったとしてもそこに居座り他に悪さをしなければそのままにしておいた方が良いとまで言われた。
 確かにその通りであり、癌を無理して退治しようとか治療しようとかんがえる方が、逆に副作用などで体に負担かけてしまい、結果として命を縮めてしまうことも多々あるとも思うし、あの患者よ、癌と闘うなと説く近藤医師の考えに全面的に賛同はしなが、果たして母の歳で、癌治療としていったい何をすべきかこのところずっと頭を悩まして来た。

 正直まだ何も考えがまとまらず、答えも覚悟も方向性が決まらないがゆえ、ブログにもそのことを書くことができないでいた。ただ、先の抗癌剤投与後の体調不調と、今もまだつづく新たな発熱や食後の嘔吐を思うとき、このまま何もせず温泉療養や食事療法だけでは改善しなくとも現状維持すらできるか今の状態が続くのか不安になって来た。

 こんなことを書くのは、母が具合が悪いと我がことが何もできなくなるから困るというだけではない。親の介護は当然のことだからもう一切出かけられず、そちらを優先するのはちっとも辛いとか嫌とかは思わない。
 問題は、そうした体調不良、容体悪化で、家じゅうが陰々滅滅となって、母の介護だけで何一つ他のことも日常生活そのものが立ち行かなくなることだ。
 人は老いて病み苦しみそして死に至る者なのであろう。それは わかっている。しかし、ただそのことをあたりまえの出来事として、冷静に、それはそれ、仕方ないとして自然に受け入れることはやはりどう考えてもできやしない。やはりすべてが病人中心に、その日々体調悪化していく事態に我は心労、苦悩して行くに違いない。

 先だって、両国のイベントで久しぶりに会った友人知人からは、マスダはどうしたのか、すっかり老け込んだとかやつれている、どこか悪いのか、大丈夫かとしきり心配された。確かに白髪もめっきり増えたし、体重もずっと減り続けている。そして体調はずと良くないし今も疲れでふらふらである。しかし、その最大の理由は、出かけて何かのイベントに関わったとかではなく、やはり家庭の事情、認知症の父と老犬の世話、そしてその介護に相俟って、母が体調崩し始めたことが一番大きい。
 告白すると、我が家は、母と我の二人三脚的に、何とか家事を分担しあって生活は回っていた。その母が弱って何もできなくなってしまうと、息子一人では老親や犬猫たち全てを背負いきれなくなってきている。ゆえに、気分転換に出かけて人に会っても、家のことが心配で気が散って何をするにももう一つ集中出来やしない。かといって、ただ家にこもっていても答えも出口もないし、ただ繰り返すだけの日常に倦み疲れ憤懣と屈託だけが溜まる一方となっていく。
 その先にあるもの、待つものは地獄か、それとも天国に至るための試されている試練の道なのか。

 ただ一つだけはっきりしていること、確かなことは、これは我だけのことではないし、別に特別な珍しい話でも何でもないということだ。ごくありふれたどこにでもある話でしかなく、ある意味、この歳まで親たち双方が健在で共に暮らせただけでも実は幸福な稀有な例であったのだ。
 ならばどんな地獄が来ようと、どんなに辛く大変でも我に起こることは受け入れなくてはならないし、その中で、どっぷり浸かりつつも我がこと、我に成すべきと課せられたことを少しでも少しづつでもしなければならない。

 亡き一潮さん追悼のコンサートの準備、いちおう今日でほぼ手配は済んだ。当日、観客を前にじたばたしないよう、皆さんに相談しできる手配はして承諾も得た。後は皆さん積年のブロなのだから、きっと無事にうまく進めて頂けるものと信じてお任せするしかない。

 じっさいの話、枕を高くしてとことんゆっくりたっぷり泥の様に深く眠る日なんておそらく生涯来やしない。どうしようもない、出口のない人生という固まりを手探りでこれからも溺れ沈まぬようあがいてもがいていくしかない。

 今もまた頭は締め付けられるように痛い。そして明日は母を立川にCT撮りに行く予定。だが、明朝まだ熱があればそちらは中止して、診察受けさせて場合によってはまた入院となるかもしれない。難儀なこっちゃ。
 生きていくのも大変だが、死んでいくのもまた大変だとつくづく思う。いや、実はそれは全く同義であって、同じことであるならばこそ、どちらに気持ちの比重を置くかだけの問題であろう。
 そもそも動物は死を意識しない。いつどんなときであっても、死ぬなんて考えず生きていくこと、生きようと必死である。ならばこそ、とにもかくにも一日でも長く生きていく手筈、その努力をしていくだけのはなしだ。

 そう、人は死ぬために生きるのではない。生きて生きて生き抜いた先に、終わりとして死があるだけの話だ。そう。全てには終わりが来る。ただそれだけの話であり、生きている限りそれはカンケイナイのである。
大変でもただ一日一日生き抜いていけば良い。死ぬときは死ぬとき、ただ終わりが来る。それだけのことだ。
 問題は我にそのことを粛々と受け入れることがじっさいの話できるかどうかなのである。

母の連日の病院通いと父の認知症の騒動と2016年03月25日 21時11分05秒

★また私事、情けない家庭の事情を記す

 気持ちは落ち込んでいないが、連日の病院通いと家庭内のトラブルでもう疲労困憊、ふらふらである。ともかく早く眠りたいが、昨日もブログは書けなかったし、今日も空けるわけにもいかず、ぼうっとした頭で鈍い頭痛を抱えながらパソコンに向かっている。

 母の熱が続いていることは先に書いたかと思う。実は、今週は体調が悪く、21日も、両国に出かけるときも、胃が痛いとかぐずぐず言っていて、息子としては気がかりだったが、約束したイベントだったので、断腸の思いで母を残して都心に出た。
 夜戻ったら、晩飯は老夫婦二人で食べたらしく既に自室で寝た後だったので、声かけなかったが、結局母は食べたものは全部履いてようやくすっきりして、夕刻まで眠って、それから軽くおかゆを食べて寝たことが翌日わかった。
 そんなことがその前、先週だったか一回あって、理由はわからないが消化能力が落ちてきているらしく、胃や腹がちくちく痛くなって、がまんしても苦しくて結局吐いて全部出すと気分は収まるのだという。
 
 それ以後、今週はずっと熱が出てしまい、また風邪をひいたか、2月の終わりにひいた風邪がぶりかえしたのか、それとも息子の風邪がうつったのかわからないものの、いちおう風邪らしい症状は出ていた。
 だから医者から出してもらっていた風邪薬、PLという白い粉薬を寝る前に飲まして寝かしていた。すると朝は、平熱に下がり、もう治ったかと安心すると、午後からしだいに7度、そして夕刻には8度と熱は上がり出し、また薬飲んで寝かすと、翌朝は下がる。しかし、また夜は38、5度となってしまう。それを連日繰り返していた。

 昨日は、立川の病院で午後からCT撮影の予約が入っていて、そんな状態でどうなるか案じていたが、お昼の段階で7度少しだったのと朝の時点で病院に電話かけて相談したところ、こちらが治りかけの風邪だと伝えたからか、その程度なら来いと言われたので、微熱状態でも立川へ連れて行ってCTは撮った。
 戻って夕方熱を測ったらやはりまた8度台となったので、いったん寝かせて夜もまたPL飲ませて早く寝かせた。

 だが、さすがにいつまでたっても治らず相変わらず夜は熱が出るのはおかしいと思えてきた。この前、抗癌剤投与後のときもやはりこんな感じで、風邪だと思ってしばらく家で様子見て薬飲ませていたが、ちっとも治らず熱が続いたので、病院に行ったら白血球の数値がすごく下がっていて、即そのまま入院となってしまい、点滴と抗生剤投与でようやく熱は下がり退院できた。一週間入院したのである。

 今回もどうもそれと似た感じがして不安になった。ただ、一か月ぐらい前に一度少し熱が出て、医者にかかったときも血液をとって調べたが特に白血球の減少などはなく、単なる風邪だとして、薬出してもらい数日で熱もひきそのときは治ったのである。今回も風邪なのか、それとも何か他に原因があり、熱が続いているのかどうしたらわかるか頭を痛めた。

 けっきょく、いつも通っているかかりつけの診療所に朝一で診てもらい、医師の診断を仰いだ。肺のレントゲンから血液検査まで、ほぼ簡単に調べられるところは全部診てもらい、体力が落ちていると訴えたので点滴も打ってもらった。
 医師も風邪だと思うが・・・と言いつつも一つだけわかったことは、今回は白血球の数値が下がっているのではなく逆に非常に高く、それは体内のどこかで炎症を起こしている可能性があるからかもとのことだった。我の私感では、癌性腹膜炎を起こしかけているのではないのか。
 とりあえず、抗生物質を出してもらい、点滴打って家に戻ったが、念のために立川の母の癌の担当医にも電話をかけて状況を伝えた。すくさまそっちに行って診てもらうべきかと。

 向うの医師の判断では、まずは抗生物質を飲んで様子見てみて、熱が下がらないようならば、来週明けでもすぐ来いとのことで、まあじっさいのところ向うへ行っても即できることはないようなので、この土日は大人しく安静にさせておくことにした。
 幸い、現段階では、昼食後にその薬を飲ませたら、夕方まで深く眠って汗もかき、熱はほぼ平熱に下がっていた。このままこの薬で収まれば安心なのだが、ともかくやや安堵しているというところだ。

 母の状況はそんなわけだが、もう一つ、父も今日認知症全開のことをしでかしていた。
 母は、点滴打っていたので、我だけ先に自分の車で帰って来た。母はその診療所で運営している送迎サービスの車で帰ってこさせることにしたのだ。
 で、我が昼前に家に戻ったら、父がどこかに電話をかけていてちょうど電話を切るところであった。「ええ、ではそれでよろしくお願いします」とか話している。不審に思ったが、何かの外交の電話かと思い他の用事もあったので、あえて問わずにいた。

 が、何とそれは、勝手に、ウチの銀行通帳を失くしたので、再発行したいという銀行への電話だったのだ。その通帳や証書一式などは認知症の父が持っていると危ないので、息子である我と母が管理している。
 ところが、父はそのことがわからず、今日は我らが出かけている間、いや、我らが不在だった昨日からずっと通帳を探し回り、ないので自ら銀行に電話してしまったのだ。
 後でそのことがわかり慌てて、銀行に、認知症の父が勝手に電話した、通帳は今手元にある、と伝えたが、もう後の祭り、「紛失」扱いで、口座は停止されてしまった後であった。となると、いろんな引き落とし等はできなくなるわけで、さあどうするか。※この話もう一回続く。