平成終わりの夏に、「平成最後の~」を思う2018年08月24日 21時15分47秒

★「終わり」はたいがい見えない、わからないものだから

 このところあちこちで、やたら「平成最後の○○」という表記をみかける。平成最後の戦没者追悼式もあったし、一般庶民には、平成最後の夏休み、といったところであろうか。
 要するに、平成は、もう終わりが確定して、来年のいつからだったか失念したが、新元号が始まることになっているからだ。よって、「平成最後の」というのは、うたい文句として、クリスマス~大晦日まで今年2018年は、いや新元号開始まではずっと特別のこととして騒がれるのであろう。しかしこんなことは珍しいことだと思える。

 考えてみれば、当たり前のことだが、すべてのことには終わりがある。どれほどの栄華を誇った王国、権勢も最期は瓦解し、また新たな国家や体制が登場しそれもまたやがては消え失せていく。
 今は一強を誇り、何をやっても国民は許してくれて未来永劫自民党政権は永遠にこの国に続くと驕っている安倍最凶内閣もやがて間違いなく崩壊し新たな政権にとって変わられる。それがもっと最悪か、多少はましなるかはともかくも、この世に永遠に続くものはなにもない。
 あと半世紀もすれば、今生きて政治や経済を牛耳っている者たちも全て死に絶え、また新たな顔ぶれの者たちが、それは今の十代、二十代の若者たちが無事生き永らえていればの話だが、彼らがすべてを掌握して時代を動かしていることだろう。そう、我も含めてあと半世紀もすれば、今生きている人、我らの世代はもう誰一人生きていない。

 そう、人は必ずいつか絶対に死ぬ。今人生百年時代なんて言われるが、百歳生きられたとしても現役で何かできるなんてことはまずないわけで、大概は家で寝たきりか、呆けて動けなく何もわからなくなって介護施設で養われるというのが普通で、そうなれば我が父を見ても思うが、余生どころか、まさに「生産性ゼロ」となる。
 死を待つだけとなっても、その人の寿命がいつまであるのか、いつ死ぬかそれは誰にもわからない。生まれてくるのは今はある程度「予定日」は出せるが、死ぬ日のことは誰も決められないし予定も出ない。
 元号というのは、これまで、即位してから死ぬまで続いていたから、昭和の終わりのときを知る者として、その時が来るまで何とも落ち着かない、いわば居心地の悪い思いをしてきたと思う。
 天皇の体調しだいで、元号がいつ変わるか定まらないというのは、何とも困惑することであったから今回の陛下の決断はまさに画期的なことだと我は支持したい。そう、別に亡くなられなくても退位は自由にできたのであった。それが明治以後、一代一元号というのが当たり前のようになってしまい、長くも短くも天皇の寿命に元号は左右されるようになってしまったのだ。しかも天皇は男性だけに。
 むろんそんな「天皇制」も含めて、元号なんてそもそも今日の日本には必要ないというご意見、お考えの方も多々いると思うし、そう思えなくもないけれど。我は西暦とは別な日本独自の区切り方は良しとする考えであり、現在の天皇には敬愛の念を持つ者として、今回のご英断というべき、彼の要望を尊重し支持したいと思う。

 と、天皇については実は本筋ではなく、「最後の~」についてであった。モノゴトには全て終わりが来るし終わりの時がある。
 しかし人の死がそうであるように、それがいつなのかはたいていわからない。だからこそ、はっきりと閉店セールにせよ、タレントなどの引退・卒業コンサートにせよ、そうきちんと銘打って大きく告知して、これが最後の、これでオシマイと周知しておくと、人は惜別の情やらこれで見納め、もうその先はない、今しかないと貴重に思えて多くの人が足を運ぶし集まるのである。
 ゆえに閉店セールとか、時間を区切って「スペシャル価格は今だけ、何分何日迄」とかいうセール商法が成り立つ。
 実際は平成最後であろうとなかろうと夏休みは毎年来るし、様々な記念日やイベントはやってくる。商売も同様。何も特別ではない。世界は何も変わらない。
 しかし、たぶん後々振り返って見ると、昭和の最期の頃がそうであったように、あの、平成最期の夏は皆でこんなことをしたなあとか、感慨深く特別に振り返れるかもしれない。

 人は不思議に、最初の頃よりも、最後の、終わりの時に対してシンパシーと言うべきか、思い入れが強い。つまりもうそこでその先はない、まさにデッドエンドだというところに魅せられるのではないか。
 考えてみれば、人の命は終わりがあるのに、この世は、終わりなき世の目出度さよ、なのである。何であれ、人の営みは、我亡き後も永遠に続いていく。そしてそれを思うとき、人はウンザリもするし無常感にも苛まれる。
 ならばこそ、人はどこかで、何かの終わりが見たいし、そのときに立ち会いたいと無意識的に望んでいるのだ。

 敷衍して言ってしまえば、昔から棺蔽いて定まると言ったごとく、終わりがあってこそ、人も時代区分もはっきりと語れるのである。
 終わりがなければ、いったいどこで区切れば良いかわからない。昭和などあまりに長かったため、戦前、戦中、戦後とか最初は分けていたけれど、戦後もまた耐え難いほど長く続いたため、分別識別があいまいになってしまった。
 結果、50年代、60年代、70年代という西暦での10年おきの年代分けとか、戦後も昭和30年代、40年代という区分けができた。しかし、それも50年代、さらに昭和も60年以上の長きになると難しい。
 我としては、そのどちらもそれなりに語れるし、それぞれ思い入れがあるが、平成が30年程度で終わるのならば、後世語るときいろいろ便利な気がする。平成前期、中期、後期とか、前半、後半と言ったおおまかな括りですむからだ。

 何であれ、終わりがあることは良いことか悪いことかはともかく、終わりがいつかわかることは良いことには違いない。備えることもできようし、そこからまたつぎを見据えることもできる。
 願わくば、安倍政権の終わりがいつ来るか、誰もが知りたいはずだが、ともかく期待して待ち望むしかない。これほど悪行成した傲慢な政権は平成後半史だけで、平成という時代とともに終わらせたいところである。