フィル・スペクターを悼む2021年01月20日 22時12分22秒

★まさに天才!! 刑務所の中でのコロナ死とは

 また偉大な音楽関係者の訃報が海外から届いた。今日は一日頭の中で、ロネッツが唄う「ビー・マイ・ベイビー」が鳴り響いている。ときに、弘田三枝子バージョンも交えながら。

 フィル・スペクターである。書くべきか迷ったが、あまり誰も「追悼」していないようなので、たぶん「知る人ぞ知る」人だということなんだろう。だが、彼の創ったサウンドは、まさに唯一無比の画期的なものだと認める故、ここに書き記しておく。

 我は、基本、今では洋楽は元より、日本の流行りのポップスもまったく聴かないしほとんど関心はないが、かつて子供の頃は、欧米のポップスのカヴァーソングで産湯を使ったほど浸りきっていた。
 我が父が、進駐軍務めをしていたこともあり、始めて手にしたシングル盤は、マーベレッツの『プリーズ・ミスター・ポストマン』の赤盤だったほど、向うの洋楽、そしてそれを日本語にしたものに夢中だった。
 日本テレビの『ザ・ヒットパレード』などで覚えた漣健児氏の「超訳」の日本語詞のから始まって、やがては原曲まで手を出して、今でも60年代から70年代にかけてのレコードは我の宝物である。
 まあ、山下達郎氏や亡き大瀧詠一氏と世代は少し後になるが、我も同様にそうした音楽に多大な影響を受けた。

 フィル・スペクターという人は、そうしたヒットソングのプロデューサーのはしりの人で、スペクターサウンドとも呼ばれた独特の、彼特有のサウンドで、まさに一世を風靡した人だ。
 プロデューサーという仕事が、音楽の場合、どういう役割をするのか定かではないが、彼自身は裏方としてエンジニア的に関わり、ミュージシャンたちが楽曲を録音するときに、何とも不可思議なサウンドを創り上げたのである。
 それは、「ウォール・オブ・サウンド」と呼ばれ、要するに多重録音を駆使したまさに「音の壁」であった。それは実に画期的で、平板な録音技術しかなかった当時、一聴すればすぐさま彼の仕事だとわかる深みのある大仰なサウンドであった。

 音楽についてあれこれ文字を連ねてもどうやったって伝わることはない。ともかく彼の仕事。その音を聴いてもらうしかないわけだが、我が国でも大きな影響を受けたミュージシャンはたくさんいて、特に後年の大瀧詠一は、まさに彼のサウンドの「継承者」として彼の手がけた多くの楽曲にその影響がはっきり聞き取れる。

 例えば、小林旭のヒット曲『熱き心に』など聴けば一目瞭然ならぬ、一聴了解で、あの大仰かつ重厚なサウンドこそ、スベクターサウンドの日本版なのである。真に名曲と呼ぶしかない。
 彼によって、音楽プロデューサーという仕事を意識し覚えて我は、後にトニー・ヴィスコンティとクリス・トーマスというやはり天才的音楽裏方人を知ることになるが、それは今回カンケイない。

 ただ、天才は奇行の人とも知られて、彼はドラッグに溺れ、2003年、自宅で友人を射殺して今も服役中であった。
 我は、彼が事件を起こした頃までは覚えていたが、今回ネットで訃報を知り、正直、まだ生きていたのかと驚かされた。まったく情報もなく残念ながらもはや過去の人でしかなかった。
 しかもどうやらコロナ感染、合併症での死らしい。まあ、81歳だとか年齢も年齢だから、刑期を終えて出て来ることは難しかったかもと思えるが、よりによってこんな死に方とは何とも哀切、言葉もない。
 いろんな死に方はあろうが、獄中でのコロナ死はただただ哀れである。何とも胸が痛む。あれだけの仕事をされた人の死がこんな形とは・・・

 フィル・スベクター、その名前を口にするとき、多くのガールズ・グループの楽曲と共に懐かしい甘酸っぱい思いが湧いて来る。我にとって音楽の神様の一人であった。誰よりも誰よりも。
 昔からほんとうに大好きなサウンドだった。数々の素晴らしい音楽を有難う。
 
 迷える彼の魂に安らぎを。どうか神のご加護を!!

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