いよいよプレイベントまであと一日と迫って2011年10月27日 23時06分48秒

★実はまだ見えないまま当日の「準備」まで辿りつけずにいる。

 明後日いよいよプレ・オープニングイベントである。今日になって新たな出演者も増えたので、なかなか豪華な顔ぶれが出揃った。小型版隅田川フォークフェスといった趣すらある。プレ・オープンといってもそもそもコンサートがメインではないし、確実に来られて唄ってくれる保証はない。きちんと観覧料とってギャラも出せる集いではないので、出る人たちの名は全員明かせないが、後ほど別ブログでは当日の様子を画像入りで報告できると思う。まあ、館野さんの他、みほこんも来ることだけ付け加えておく。

 今日も一日会場となる部屋の本の移動と片付けに追われた。予定ではその作業は今日中に済ませるつもりであったが、ほぼその本の山は消えたものの、未だ未整理の本や雑誌が床に散乱し、それを括って降ろして車に乗せて運ばなくてはならない。明日午前中に終えられかだ。

 それにしてもボーダイな量の本である。考えてみればつい半年前にはここには何もなく、がらんどうの空間だったのにいったい誰がこんなに本をいつ運びこんだのか。そう憤りつつ、埃で鼻水垂らしながら十分うんざりしながら積み上がっていた本の山を崩しては一冊づつ確認し検索かけたら売れるかもしれない本とそれ以外の本とに仕分けし売る予定の本は他の部屋に移動もさせた。
 だが、この部屋に本を運び入れたのは他でもない、この自分である。本が自らこの家にうんしょしうんしょと歩いて来るわけないのだから本を持ってきたのは自分でありいつしかいつのまにか自然現象のように溜まったのである。いや、借りていた倉庫の一室を一つ空にしたときかなり戻ってもきた分もあったのだ。それにしてもそれだけでこんなに増えやしない。笠地蔵の童話のように、古本地蔵がいて何かのお礼で勝手に運び込んだのか。ならば余計なお世話である。もう本は十分足りている。

 前にも書いたが、自分は古本を仕入れたり買い取りしたことは一度もない。大昔は古本屋回りでセドリのようなことをした時期もなくはなかったが、近年はごく自然に拾ったり人からもらったりゴミから回収したり委託されたりと自分の意思とは関係ないところで本は増大していくばかりだった。遺品整理という仕事もよくある。
 むろん、増えるよりも減っていくこと、つまりどんどん売ったり売るべく出品していればそんな事態は起こらないわけで、売れなくてもきちんと処分すべきであった。来た本はすぐに分別し売れない本はブックオフとかに持ち込み、さらにどうしようもないものは紙ゴミとして古紙回収の日に出せば良かったのだ。
 ところが雑事に追われてそうした「本業」が疎かになって、家の改築工事とかもあったので本の整理どころか単に溜まれば移動させるだけとなって今に至り、そしてついに本の山に占拠されていた部屋でイベントをやることとなって、本さんたちに急きょ立ち退きを願っているという次第なのだ。だが本さんたちも一冊一冊は軽くても纏まって団結するとなかなかの重さでいやはやもう腕もはり足腰も痛くてたまらないほどの疲労である。一体誰のせいでこうなんだ!とつい怒り、自業自得だと気がつく。

 明日はそんなで会場設営のためのスペースを作りつつ、当日に出す料理を仕込み始める。今考えているのは、秋なので牛筋の煮込み芋煮風とおでんのようなあっさり煮物、その他生野菜のサラダ類、そして簡単な揚げ物、フライなどを揚げる。もしかしたらカレーを作ってくれる人もいるかも。タルトも持ち込んでくれるという方も。
 アルコール類は先日小型冷蔵庫を二つもらったので、そこに缶ビール類は詰め込んでおいて、他の酒は各自ご自分で割ったり氷入れたりしてもらうことにした。

 まだあと一日ある。今はまだすっごい有様であるが、29日の午前も考えれば何とかなるであろう。しかし今のままだと主催の自分は料理作ったら倒れて司会進行は「秘書」に任せて別室で皆のやっている音楽を聴きながら寝ているかもしれない。まあ、皆が楽しんでくれればそれも良しである。
 自分の役割はスポットを浴びることではなく、スポットを照らす側、そして観客席をも照らしたいと思うのである。

在庫整理の前に在庫管理だ。2011年09月07日 11時56分56秒

★商売のことあれこれ・前

 今日こそはカラッと晴れた。スッキリ爽やか、気分も爽快である。
 このところどうしたことかやたら忙しくなって、懸案事項が目白押しである。だのに涼しくなって夏の疲れが出たのか、今日は午前も午後も昼寝を貪った。疲れも溜まっていることもある。が、この快楽からなかなか抜け出せない。昼寝こそ、居職の楽しみであろう。ボーナスとかないけれど、昼間でも眠れるのは自営業ならではである。

 家庭の都合上、起きる時間は決まっていて、早いときは6時台には起きる。食事の時間もいちおう決めて親達に食べさせるから、朝食後、昼食までの間に1時間、昼食後少し作業して夕方の犬たちの散歩までの間に1時間と、空き時間をみつけては合間合間に昼寝している。

 夜は夜で早く寝たいのだが、親たちが寝たのを確認してからパソコンに向かったりギター爪弾いたりしているとすぐに午前零時を回り、1時過ぎとなってしまう。このところ全てが分散し片手間で少しづつやっていくしかない。

 疲れが溜まっているのは、このところ新館のほうではなく、裏側の旧館の今や本の倉庫と化した自室の本の山を整理していたからだ。本棚もいくつも壁一面にあるのだが、入りきれずその前に積み上げられた本の山を崩しては一冊一冊確認して仕分けしまた別の場所に積み上げていた。処分する本もかなり出たし、探していた本も一冊だがみつけられた。

 そうそう、何でそんな作業を始めたかというと、先にちょっと書いたが、自店舗の方に注文が入り、美術関連図書を二冊お求めの方があった。ところがそれがみつからない。少し探したが原稿書きなどで忙しかったこともあって、正直に、ウチにあるはずだけれど見つけることができなかったと連絡した。しかし、その方は、奇特にも一週間ほどお待ちくださるとのことで、それから必死になって探してみた。

 不思議ことにそれら自店販売用の美術書を入れた箱があるはずなのにみつからない。その箱のデータも出てこない。まさか青梅の倉庫に持っていっていないはずだと自問自答しつつ、あるとしたらこの部屋の中しかないと、本の山を崩してはまた積み上げ、確認作業に励んだ。

 注文の本は一冊だけとりあえず発送した。果たしてもう一冊のほうは出てくるかやや絶望的な気もしている。本棚の中も本の山もありそうなところは一通りほぼ確認は終わったのだ。

 先にも書いたが気持ちとしてはすべてのことをきちんとしていきたい。が、本だけでもこ家にはボーダイにあり、それが全て売れる本、売り物ではないし、売れない本だからといってすぐに処分できるものでもない。リアルなお店があれば、店頭で、一冊100円、いや、三冊200円、それ以下の値だっていい。欲しい人があれば持っていってもらっても良い。でもバーチャルな店だからそれもできない。

 今内にある本を大別すると、Amazonマーケットプレイスに出品中の本が千数百冊、ごく少しとなったが自店舗販売中の本、自分の蔵書及び未読の本、まだ未検索、未分類の本、そしてそれらの何倍?かの、検索してみて商品として値がつかないがゴミとして即処分できない本が山積みとなっている。

 それらの中には、専門書も多数あるし、状態もよくまだまだ本として役立つ本も沢山ある。単に古本市場でニーズもなく安い値で売り物にならないというだけで紙ゴミとすべきか迷うものばかりだ。
 プロの古本屋、つまり組合に入っている業者ならば、そうした本でも市に出して動かすことができるかと思う。以前はフリマなどでシート広げて並べて売ったこともあるが、今、本はそうした場では安くしてもほとんど売れることはない。今の人は話題のベストセラー以外に本は読まないし、だいいち重いので敬遠される。せっかく運んで持っていってもまた持ち帰るのもいやになる。

 自らの古本に限らず、本の行き先について、いったいどうなるかどうすべきかこのところずっと考え続けている。

世界を変えたいと望むなら2011年08月03日 22時33分07秒

★自らが変わらない限り世界は変わらない。

 このところ古本商売のほう、少しづつだが、注文が戻ってきた。理由は簡単で、家にこもって精力的に出品しているからだ。
 今、Amazonマーケットプレイスでしか古本は売っていない自分であるが、それでも常に売れた分以上に新たに本を補充していかないことには売り上げは落ちてくる。当たり前のことではあるが、たくさん新たに出品すればたくさん注文が来るし、何もしなければ出品中の本であってももはやそれは売れ残りの不良在庫でしかなく、値段を下げるかして再度出品しなおなさない限り絶対に売れることはない。
 
 何だかんだ家のことやら雑事に追われて落ち着いてパソコンに向かう時間がなく、このところ新規出品を怠っていたら先月ぐらいから一冊も注文がない日が何日も続くようになり、売り上げは数千円という情けなくも悲惨な状況に陥りさすがに奮起した。
 ともかく新しく出品さえすれば早いときは出した当日にすぐ注文が入る。まさに右から左に売れていく。だったら真剣に商売に取り組めばそれなりの儲けは間違いないのであるが、いかんせん、本の検索にも時間がかかるしパソコンに向かう時間も限られるので捗っても日に10冊出せるかどうかだ。それでも意を新たにしたし、すべて自らアクションを起こさない限り何も始まらないし動かないのだと思い直した。

 歳とって良いことは昔はわからなかったことが見えてきたことだ。
 このところの確信として天啓のように閃き、わかったことがある。それは、もし何かを変えたい、変わりたいと望むならば、まずは自らが変わることから始めないとならないということだ。つまり自分が変わらない限り世界は何も変わらない。
 これは政治だって社会だって国の在り方だって同じで、人任せにして、変わってほしいなあ、そろそろ変わっても良いころだと思ったとしても絶対に何も変わらない。変わったとしてもそれは自民党から民主党に代わった程度の変化であり、本質も実態も何一つ変わることはない。

 人は実は何だってできるし何だってなれるのだが、漠然と〇〇になればいいなあ、なりたいなあと思っているだけでは変わるはずがない。棚からボタモチという運の良い話はまずないし、あったとしても人生が狂わされてしまう。ますはそれなりの最低限の努力やアクションを起こさないとならない。俗に買わないと宝くじは当たらないの喩えがあるように、もしそれを真剣に望むならそのためには新たなことを始めないとならないのだ。

 だから変えたい、変わりたいと思うならばまず自らが変わらないとならないし、逆に変わりたくないと願うならば今までの習慣を頑なに守ること、保守に徹するしかない。その中間は決してないし今の管首相のようにその場しのぎの日和見主義と化していく。

 そして世界とは、実は自分の外の目に見える世界に過ぎないのだから終わらせることだってできる。つまり自分が死んでしまえばその時点で世界も終わる。しかしそれは個人の意思でしてはならないことだ。何故かって? それは命は自分だけのものではないからだ。

 最近になってわかったことがある。家が人間の体を包み込む入れ物であるように、この肉体も魂を包み込む器、入れ物なんだと気が付いた。その話は長くなるのでそこまでにしておく。

 自分はずっと変わりたい、自らを変えたいと望んできた。しかし、じっさいのところ安楽な場所で安閑として、漠然と変わっていくことを夢想していた。それでは人生は何一つ変わらない。そしてこの世界も変わっていかない。それが何故かようやくわかってきた。
 そう、自分が変わらない限り世界は何一つ変わらないのだ。

また気持ちを仕切りなおして2011年01月16日 12時19分41秒

★これでようやく正月も終わりまた一年が本格的に始まる。

 妹は先ほど帰った。ものすごく冷え込む今にも雪が降りそうな日曜日の昼時である。あまりに寒くて外に居られない。

 妹が家事をやってくれたので楽できたかというと、大工のお茶出しとかは大いに助かったが、正直他人が家にいることで気を使い、今帰ってくれてほっとしている。火曜日に来て、5泊6日。父親はもっと長く居てほしいとこぼしていたが、こちらとしては疲れる。それは向こうも同じなのだろうが。

 九州出身の男と東京の職場で出会い、向こうに嫁いでもう25年近くたつ。血を分けた兄弟でも、それだけ離れ年月が経つともはやほとんど他人であり、同性ならまだしも妹だと、成人してから没交渉であったこともあり、「他人」が来ているという意識が強い。

 母も娘が来たので喜び数日は調子が良かったが、妹の息子、東京で
働いている増坊の甥っ子が来た日からは、彼らを相手にするのに疲れたらしく、昨日はまた調子崩してしまった。どんなことでも一長一短あるし一進一退はしかたない。漢方医からも言われたが一喜一憂しないことだ。

 いずれにせよ、皆が帰ってまた元の老夫婦と初老の息子の静かな三人暮らしが戻り今ほっとしている。

 毎度のことではあるが、年明けてから犬も死んだり母の具合も悪かったりとあれこれ忙しく、妹が来て慌しく帰ったことで、これでようやく落ち着いてこれから新しい年が始まる気がしている。今さらだがきちんと取り組み、頑張ってやっていきたい。

 いろいろ書きたいこともお知らせ事項もあるが、明日からぼちぼち一つ一つきちんとしていこうと思う。画像もアップさせていく。今日は寒いし何か疲れた。

Amazonでの「商売」続き2010年11月03日 21時38分06秒

★Amazonマーケットプレイス近況報告・後

 1円本とは、ブックオフなど新大型古書店で、一冊100円均一で売っている類のちょっと前にベストセラーになったような本だが、何にせよ本を売って儲けるのではなく、配送料から利潤を生み出すようなことはおかしな話であり、システムとして可能でもすべきでないと考える。

 このところ新たに出品して気がついたのは一時期よりその1円出品の本は減りつつあるようで、ある意味異常な低価格競争もこれで終止符を打つのではないか。でないと、本自体の価値さえ貶められるばかりであろう。そんなこんなで個人的にも注文も回復してきて、まだ安い本ばかり出しているので売り上げは決して高くはないが、古本自体の需要は十分あると確信している。

 今日、電子本だか何だか携帯型の媒体で書籍を読むという新たなスタイルが話題となり、出版界を大きく揺るがしている。しかし、現行本、これから出される本はともかくも、過去に出版された本が全てそうした電子本として再び出されることは絶対にないし、あくまでも古本は本として今後も生き残って存在し続けることは間違いない。

 古本屋の世界から言えば、これが時代の流れであるならば逆に古本、古雑誌類の価値と需要は高まると期待している。おそらくこれから、紙モノとしての本は出なくなり絶対数が減っていくであろう。人は携帯的端末で小説をはじめ読みたい情報の配信を受けるようになっていく。それはCDが売れず、音楽はダウンロードして取り込むのと同じことだ。やがて長期的には古本屋という商売は成り立たなくなるときも来るかもしれないが、過去の遺産としての「本」は決してなくなりはしないと信ずる。

 自分は常に失望の繰り返しだが、決して絶望はしていない。音楽も本をとりまく状況も楽ではないし、悪化の一途を辿っているようにも思えるが、本や音楽を心より愛する良識ある支持者がいるかぎり、それは世からなくなりはしない。問題はそうした人たちをいかに取り込み、繋いでいけるかだとこのところずっと考えている。

 そのためにも情報を発信し続けないとならない。本と音楽のことを書き記していこう。

Amazonを通して「商売」すること2010年11月02日 11時07分46秒

★Amazonマーケットプレイス近況報告・前

 ご存知の方もおられるかと思うが、Amazonでは、11月1日より、扱う全商品の配送料を無料にした。これまでも、1500円以上のものは無料となっていたのを拡大したということだが、他のところは知らないが思いきった手段だと思える。これでますますネット通販の需要に拍車が掛かることは間違いない。

 ただしこれは新品のみに適用され、自分も古本などを出品しているAmazonマーケットプレイスという中古市場は変わらず一注文ごとに送料がかかる。だが、そこもいつの間にか、Amazon側から支払われる送料は値下げされ、本の場合、前は大小厚さにかかわらずどれでも一冊340円であったのが、250円にされてしまった。まあ、それを支払うのは実際は購入者であるのだから、以前の340円というのは高すぎると思っていたし、分厚い大型本も文庫本も同じということに販売する側としても大いに不満があった。

 しかし、250円は微妙なところで、ヤマト運輸のメール便なら送料で自腹を切ることは少ないが、郵便局を使うと持ち出しとなってしまうことが多い。薄い本ならともかく、メール便上限2センチ以上の厚い本は郵便で送るしかない。となるとたいがい340円以上かかってしまう。まあ、それを想定して元の販売価格に上乗せするしかないわけであるが。

 また、これからそこで古本を売るとして、中古では常に送料をかけてまで買う価値があるかが問われてしまうだろう。これまでは、1500円以下の本は送料がかかるから逆に中古でも売れる余地があった。今後は文庫など価格の安い古本はまず売れないと覚悟するしかない。いずれにせよ、新品と同じ土俵ではもはや古本は勝負できないのである。となるとあくまでも新品では手に入らない「古書」に特化せざるえない。

 それと利点もなくはない。これまで送料が一律340円の頃は、マーケットプレイスにはやたら「1円本」なる中古本が多く出品されていた。つまり販売価格が一冊1円なのである。ありえないとお考えでも事実であり、それを可能としたのが送料340円であった。つまり沢山出品し沢山販売する業者は様々な利便もあり、たとえ1円でも本が売れれば、メール便を利用し浮いた送料代から儲けを捻出することが可能であったからだ。しかし、250円ではそれは難しい。ということは1円本は消えていくことになる。それは買い手はともかく売り手としては歓迎したい。

 ※続きは明日書きます。