本の価値と人の価値・12012年11月06日 13時18分37秒

★晴耕雨読ならぬ雨ブログである。

 外は雨が降って寒く何も作業はできないので、久しぶりに「古本」稼業の話をしよう。

 今年も残すは二ヶ月弱。無頼庵での企画、イベントなどが迫ってきて、気は急いている。あれこれ年内の課題、懸案事項が山積みである。親も自分も体調が悪いとかすべて種々の理由をつけて、先延ばし、来年に積み残してしまうこともできなくはないが、それは根本解決にならないし、不義理を働く分だけ人間関係がいよいよ気まずく先細りとなっていくだけだ。ともかく一つ一つ進めていくしかない。このままでは新年が来てもゆっくり祝えやしない。

 と、そんな最中ゆっくりブログなど書いているヒマ等はない。そのはずなのだが、締め切り前になると突然部屋の掃除とか家具の移動とか始めてしまう小説家やマンガ家がいるように、一種の逃避傾向かとも思うが、そうした忙しくなるときに限ってブログは長尺なものになってしまう。ヒマだから長く沢山書くのではない。これから忙しくなる、その前だからこそ不思議に書きたいことと書く気が起こる。

 このところ、出かけることが多かったので、本の新規出品が怠っていた。何度も書いたことだが、近年、Amazon.マーケットプレイスで古本を出品して糊口を凌いでいる自分としては、収入はそこからの売り上げだけが頼りであり、本を常に新たに出品しない限りどんどん乏しい収入はさらに減っていく。それは売れたら数を補充するという意味もあるが、売れる本は新たに出せば一ヶ月以内でほぼ売れていく。そのとき売れない本は後ほど価格を下げてまた再出品すれば売れないこともないが、売れない本はやはり売れない本であって不良在庫になっていくだけだ。

 つまり儲けたいなら常に日々新たに次々新規出品を続けていけば良い。それはわかっているが、今のような時代、まずそうした新規出品に値する本をみつけてくること、手に入れることがまず難しい。そう、マーケットプレイスでは今ほとんどの本が最低価格1円からの「1円本」地獄に喘いでいるのである。要するにそうした本とはブックオフなどで一冊100円均一の棚に並んでいる本のことでもある。

 今自分の商売のデータを調べてみたら、アマゾンで販売を始めたのはどうやら2004年の秋口からだと判明した。その頃は、1円本などまだ登場していなかったし、本はかなり高値をつけてもほぼすぐに売れていった。だから収入もマージンを引かれても多かったし、こんなウマイ商売があるのかと思えた時期もあった。

 だが、長引く景気の低迷とモノの値段が下がるデフレ現象はこうした通販の世界にも及び、まして本はコンビニなどで売られる低価格の簡易本が主流となって本自体が売れない、読まれない傾向が強まっていく。出品する側も売らんがため他の出品者より一円でも安く値をつけていく。となるとどんどん価格は下がり続け挙句は究極の「1円本」となってしまったのである。そこでは本の代金からは儲けなどでやしない。送料として購入者に課せられる250円の中から工夫してうまく僅かな利益を上げようという苦肉の策である。

 自分は大口出品者ではないから当然そんな馬鹿なことはやらない。となると、本を出品するにあたっては引かれるマージンを除いてもいくらまでなら儲けが出るかということになる。最近では、ウチに支払われる送料を含めても入金額が300円以上でない本は出さないことにした。それでもずいぶん下限を下げて妥協してきた。儲けが一冊数百円しかないならば、梱包や発送に行く手間賃にもなりゃしないではないか。そんな本が百冊売れても3万円にもならないならどこかのスーパーの倉庫係のほうがよほど時給は高いはずだ。最近ではマジにそうした「転職」を考えている。

 情けない話だが、もう今はそのぐらい本の価格が下がりまず出品自体、ある程度の値がつく本を出品すること自体が難しい時世なのである。そのことはとりもなおさずそうした値のつく古本をどうやってどこから手に入れるかということに他ならない。【続く】

古本稼業と本の話、追記。2012年09月23日 11時45分15秒

★この時代の流れをどう考えたらよいのか・・・

 雨は降り出したらやまない。昨夜、10時過ぎ帰宅した頃から降り出した雨は、時に不安な心地にさせるほど激しくそのままやまずに今も音立てて降り続いている。
 夏の間はほとんど雨らしい雨は降らなかったのに、振り出すと止まらない。おまけに薄ら寒く、早くも暖房が恋しくなったと親たちは騒いでいる。こうして一雨ごとに秋は深まり季節は冬へと寒くなっていく。

 降る雨の音しかしない静かな日曜日である。昨晩のことも含めて様々な思いがわいてくる。

 まず昨日まで古本稼業について書いたことの補足。

 街の本屋が潰れていくのは、本を読む人が少なくなって本が売れなくなったからだと書いた。が、それ以上に本屋で「本が売れない」のは、いちばんの理由があった。自分も含め今の人はネットで、アマゾンなどのショッピングサイトから注文してしまうからだ。うっかり肝心なことを失念していた。まったく自分は考えが浅い。お恥ずかしい限りだ。バカなのである。

 それはCDなど音楽ソフト、オーディオ、カメラなども同じことで、たぶん食品、ときに衣類だって通販で購うのであった。じっさい自分もまた今では音楽ソフト、DVDなども主にアマゾンを利用してそこから買っている。
 考えれば、書店やレコード屋に行き、本やCDを直接レジで買ったのはいつのことだろうか。そのくせ、本屋など小売店が潰れていくのを嘆くとは欺瞞甚だしい。恥ずかしく思う。情けないかぎりだ。

 では何でお店で買わずネットを利用してしまうのか。いちばんは出かけず済み楽だということだろう。居ながらして注文すればすぐに家まで届けてくれる。しかしそれよりも自分は店で買うより安いからアマゾンなどを利用してしまうのだ。特に音楽CD の輸入盤などは。今ではベスト盤的なものは大概どれも二枚組700円、3枚組900円程度で手に入る。むろん送料もかからない。だからこのところブルースやカントリー、ジャズなど洋楽の旧いものをかなり注文してしまった。どこの店で買ったとしてもそんな安くはどこにも売っていない。

 では何でそんな破格の廉価で売れるかというと、今は円高ということもあるが、そんなことよりアマゾンは実店舗を持っていないからだ。繁華街に展開している大手のレコードチェーンは皆店舗代と店員に人件費を支払って店を維持している。つまりその分の経費が商品に加算されている。だが、アマゾンではまず店舗にかける費用が不要だし人件費もほとんどかからない。全てはコンピュータのシステムが対応して、せいぜい市川だかどこかにある巨大倉庫から人間?が注文商品を探しては発送するだけだ。いや、それだってとことん機械化されて手仕事など実はどこにもないのかもしれない。そういう時代なのだ。

 今はテレビショッピングも含めて、カタログ誌などの通販が大流行である。それでは誰も町のお店などには向かわない。ヨーカードーなどでは、新聞広告のチラシにある商品をそのまま家まで配達してくれるサービスを始めた。生協などの宅配もあるし、これでは誰も街に出て買い物などすることはしなくなる。そうしないで済むのである。

 町の小売店は豆腐屋もパン屋も肉屋も酒屋も本屋も電気屋もほとんど全て姿を消した。駅前にあるのは、パチンコ屋とチェーンの居酒屋、そしてラーメン屋、牛丼などのファーストチェーン、それにコンビニだけである。
 今ではちょっとした日用品ならほぼ何でもコンビニで手に入る。それはネットより気軽で早く便利である。酒でも雑誌も弁当も。一人暮らしの者にとってはローソンのような100円で食品も買えるコンビには実に有り難い。これを良い時代と考えるか。それとも間違った不幸なことと考えるか。正直なところアマゾンに深く依存している自分には答えが出せない。

 Amazon.co.jp から送られてくるメールには末尾に常にこう記されている。
 地球上で最大級の品ぞろえ  と。確かに何でもそこにはある。何でも扱っている。ないものはないと謳っている。だが、そこには人類が求めてやまない肝心要のものがない。それは何かは記す必要はないだろう。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・52012年09月21日 21時17分05秒

★ブックオフ等のこれからを憂う。

 東京でもこのところ曇りがち雨もよいの日が続き、ようやくだがだいぶ涼しくなってきた。今日も晴れ間もあったが朝晩、ザーと通り雨のような雨が降った。9月も終わりに近づき、季節はようやく秋へと移っていく。でも陽はいつしかすごく短くなっていて、今では6時で真っ暗である。夕方に昼寝をする習慣のある自分は、先日起きたら外が真っ暗だったので夜中かと思い慌ててしまった。明日は秋分、これからは駆け足で秋から冬へと季節は慌しく進む。もう今年も四分の三過ぎてしまったのである。

 さて、古本屋の稼業よりも本について、本をとりまく昨今の状況についてだらだら書いてしまい徒に回を重ねてしまった。書き出すときはいつも一応書くべきこと、書くことにいたるテーマ本筋はあるのだが、書いている途中にあちこち脱線し、気がつくといったい何を書くつもりだったのか?自分でもよくわからなくなってくる。まったく情けないし申し訳なく思う。お付き合いしてくれた人にすまないではないか。
 それに古本屋といってもしがないネット古書店でしかなく、きちんと組合に入って店舗を持って活動しているわけではないのだから僭越なことこの上なく本職の方からはお叱りを受けよう。まあ、それでも一応、商売人の端くれとして本について古本について思ったことを書かせてもらった。
 と、古本屋という職掌はこれから先どうなるのだろうか。新刊でも本が売れないことは古本でも本が売れないことと同義であり、これはネットでの古本の価格動向でしかないが、いわゆる話題作、ベストセラーになった本は、すぐに「1円本」となってしまい、もうそこには古本としての価値もなくなってしまう。だから自分は、もう今出ている本、現行本と呼ぶとして、そうした本はもう店でもネットでも扱わないことにした。

 つまりブックオフなどの新手の大型古書店へ行けば、100円均一の棚に並んでいる本は、ネットでは売れるはずがない。何故ならそこに送料が別途かかるわけで、新刊をアマゾンから買えば送料はかからないのに、中古だと本代価格そのものは1円だとしても別に送料として250円とられてしまう。つまり、ブックオフへ出向けば100円で手に入る本が251円するのである。※なのに1円で出品する者たちが後を絶たないのは、それでもそこに、送料分を加味してごく僅かな儲けがでるからだ。そうした出品者は皆ブックオフ同様の大型古書店だと自分は踏んでいる。

 だから今ウチで出しているのはほとんどが現行本(新品)は出ていない古書の類であり、人はそれなら多少は高くても他に出ていないが故買ってくれるのである。それも中心は数学や物理、医学などの専門書である。おそらく今後古本屋が生き残る道はそうした学術古書、専門書、稀覯本をどれだけ集められるかだろう。それらは電子書籍の時代だからこそ、データとしてもまず「復刊」されることはないだろうし、あくまでも本物の本としてのみ価値を持つ。

 増坊のネットでの「自店舗」ではそうしたアマゾンのリストにもない本を中心に並べていたのだが、既に売り切れた本であるのに、その本を探している方から問い合わせが今も何度もある。また自分が古本屋だと知ると呑み会の席でも「実は○○という本をずっと探しているのだが・・・」と本探索の相談を持ちかけられたりする。つまるところ古本屋の生きていく道、居場所、仕事とはそうしたところにしかないのだと気づく。じっさいのところ、今でも、いつの時代でも本好きはどこにでも必ず存在している。そうした人たちを相手に細かいサービスで応えていくことだ。電子書籍の時代だからこそ、電子化されない本に価値が出る。
 自分もそうした古書が手元にある限り細々と古本屋稼業を続けていこうとは思う。ただ、もう本をとりまく世界に発展は望めない。ならば傍ら別に新たな収入源を求めていかねばならない。今さらコンビニのバイトなどできないだろうしこの歳でこれからどうやって生きていけば良いものか。

 実は今日、秋川のブックオフにウチで売れなくなった1円本と化した本、雑誌を段ボール箱にして大小8個ほど持ち込んで買い取ってもらった。持ち込んだものの三分の二は値段が付かなかったが、引き取って処分しもらうことにして、評価額は182冊で約3千円であった。どうせアマゾンでは売れず紙のゴミとして捨てるしかない本に値がついたのだから満足だし嬉しい。おかげ様でだいぶ本の山が片付いた。いや、氷山の一角でも。

 ただ、こうした現行本中心に「古書」は扱わないブックオフのような新大型古書店は今後どうなんだろう。それこそ持ち込まれた本にも値がつかず、すべて100円で売るしかないとしたら、たとえタダ同然、一冊10円で買い取ったとしてもそう儲けは出ない。
 ブックオフ商法は従来の古本屋観を覆した画期的なものであったが、モノが売れない低価格競争の時代においては自らの首を絞めることになる。本以外のものも買取り扱ってはいるが、昔ながらの古本屋は残っても近い将来こうした大型古書店こそ潰れるのではないか。それは小回りのきかない恐竜が滅んだように。

 と、これではあまりにも尻切れトンボである。あともう一回だけ本の価値と読書の意義について書いてまとめとしたい。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・42012年09月20日 10時41分24秒

★本屋と古本屋の今後

 というわけで今の人は本を読まないから本は読まれない。

 潜在的な読書人口というものは決して今も少なくはないと信ずる。それは今だって芥川賞、直木賞の受賞者についてはマスコミも大きく取上げる人事であるし、いつの時代もそれなりの話題作、ベストセラーは次々と登場する。 人々はまだ「本」に関心がある。それなりに書き手、作家志望者の数は、ネット上を見ても星の数ほどいる。※インターネットと本は反目、競合するものではなく、今では本自体がネットに大きく依存している。ネット上からベストセラーも多々登場するし、ネットで話題にならない限り本は売れることはない。

 しかしそうした読書好きは中高年、自分も含めた主に50代以上の活字世代中心の話であり、今の20代、30代の携帯、ネット世代はまず本などはゲーム攻略本とコミックス以外読んだことはないのではないか。そして本好きは皆高齢化が急速に進んでいる。
 ならば本や雑誌は当然売れなくなり、必然的に市場は縮小し、やがてはほぼ新刊の類は電子書籍と化していく。それは時代の流れで致し方ない。音楽CDがファイル、データ化されてダウンロードされて売買されていくのと同じ流れである。つまり実体としてのモノはもはや不要で、読めれば聴ければそれで用を足すということだ。これはある意味地球にやさしい、環境に良いとも言える。
 文明というものは元に戻せない。また戦争や地球的天変地異で、電気も水道もない江戸の昔のような暮らしを強いられるときが来るかもしれないが、人類は一度覚えた技術と知識を繰ってすぐにまた復興、復旧することだろう。とにもかくにも本は消えていく。

 これからであるが、一度しか読むことのない、繰り返し読むに耐えない話題の文庫シリーズのようなベストセラーは、そもそも本などにする価値は少なく、電子書籍として流通していけば良いと考えるし本にすべき価値のある専門書や真に役立つ良書のみ本として出せば良いと思う。が、現実はその逆で、そうしたベストセラーとなる本こそ需要が見込まれ大量生産しても捌けて行くから本として存在し得る。
 逆に出すべき価値のある役立つ専門書のほうが、専門家、研究者などしかニーズがないから本としては出せなくなってくる。出すとしても採算を考えると一冊が5000円~ぐらいのラインとなってしまうだろう。今だってそうして二極化が進んでいる。私感だが、おそらくこれからも本としての価値のない本こそなくならずに新刊として出ることは間違いないが、出すべき価値のある良書は出したくても少数の読み手が求めてももう出なくなるかと思う。つまり採算が合わないのである。
 そうして本はなくなりはしないが、出版数も版元も少なくなり本屋はさらにどんどん消えていくだろう。

 以前、街の本屋の主人が語っていたことだが、本屋にとって雑誌はご飯、主食であり、今はその主食がコンビニで売られるようになってしまったから売り上げが激減してしまったと。さもありなんと思った。
 本というのは小規模の本屋ではさほど売れるものではない。話題作ならば多少動くだろうが、そもそも品数がそんなに置けない。探している本がある人は注文したりするし、実は主力は日々次々発行される雑誌、マンガ誌だったのである。儲けは当然少ないが薄利多売で本屋の主食であった。それが今では駅前のコンビニで人は弁当やペットボトル、スナック菓子と共に雑誌を買い求める。

 増坊の町にも昔は駅前を中心に各駅数件は本屋さんが存在していた。今では、市内全体で昔ながら続いている本屋はほんの2、3軒だけでほとんどの本屋はこの10年内で廃業してしまった。余談だがそれは酒屋も同じで、こうしたコンビにでも扱う商品の小売店はそちらに客層を奪われて経営が立ち行かなくなったのである。規制緩和の結果である。

 本屋が生き残るとしたら、郊外型のショッピングモールの中かそこに隣接した大型の書店、それも資金力のある書店チェーンの出店以外経営はまず難しい。そうした人が沢山来る場所にあって広く商品を揃えて何とか経営は成り立つ。昔ながらの街の小商いでは自宅でやっているならともかく店舗代だって払うだけの儲けは出ない。まあ今でもせいぜい動くのはゲームとアダルトとアニメ本、コミックスだけだからそうした店に特化していくしかない。じっさい立川に今もあるが、かつては民主的な左よりの本ばかし置いていた本屋が場外馬券売り場の前ということもあって、今ではアダルト専門書店になってしまった例などいくつもある。

 ならば古本屋はどうしていくか。あともう一回だけ書いてこの話終わりにしたい。書いていても気が滅入る。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・32012年09月19日 14時51分53秒

★インターネットの時代の本と古本

 これはどこで聞いたかはっきり思いだせないが、たぶん神田古書会館での古本屋のセミナーのとき誰か古書店主が語った話だと思う。

 古本屋が一番儲かったのは、いつかという話で、それは戦後すぐの頃、街に復員や疎開の人たちが戻ってきて平和な暮らしが再開された頃だという。その店がどこだったかは忘れたが、朝、棚いっぱいに並べた本が夕方にはスカスカになるほど古本が飛ぶように売れたと言う。まさに右から左へ人々は活字さえ並んでいればどんな本でも先を争って買い求めたのだ。
 戦争がやっと終わりもう米軍の空襲に脅えずにすむ。戦時中は様々な統制もあり物資も不足して読書などゆっくりするヒマもかったのだ。人々は活字に飢えていた。
 これは当然であろう。何しろ当時の娯楽は、ラジオと映画、それに繁華街では芝居や落語など口演、興行はあったけれど、それは浅草など興行街に足を伸ばして金を使わないと観れない。いちばん手っ取り早い娯楽であり知の渇望を癒すのは本だけであり、まだ出版事情も悪く新刊の点数も少ないゆえ、嫌でも古本しか手に入らなかったのだ。
 古本屋にとって、いや貸本も含めて出版に携わる者全てにとって良い時代だった。何しろ本はどんな本でも出せばすぐ売れたのである。※レコードなどの「音楽」の趣味はその頃はまだ一般に普及していない。

 本というのは勉強のためのもの、知識を得るという目的もあるがまずは娯楽、つまり楽しみとしてあるものだ。中でも雑誌はよりその傾向が強い。庶民の娯楽の代表、映画がテレビの登場と普及に反比例するように衰退していったように、読書を楽しむ人口もじょじょに減っていく。それでも戦後何度も出版ブームが起こったことは記録すべきことだ。
 最初は若者たちは本を読まずにマンガばかり読むという読書離れが問題視された。だが、近年に至ってはマンガ自体読まれることが減ってしまった。マンガ雑誌は今整理統合、再編が進んでいる。つまり本だけでなく雑誌全般も売れない、読まれない時代なのである。

 つまるところ趣味、娯楽の多様化ということに尽きよう。昔は楽しみの種類自体がごく少なかった。それが今ではゲームやら音楽やらネット動画やら居ながらにしてできる楽しみは幾つもある。だのに人間の時間は増えていない。当然、本や雑誌を読む時間は削られる。テレビだって人はゆっくり腰据えて観ないのである。

 自分は電車に乗ると必ずその乗客の人たちが車内で何をしているか注意して見ている。今のような携帯モバイルが広く普及する前は、居眠りしている人以外は、新聞、雑誌、それに文庫や新書を広げていた。が、今では、皆いったい何を見ているのか。携帯ゲーム機に興じている人もいるし、小型ノートパソコンで何やら作業している人も時にいるが、大概はスマホだかの携帯端末をチェックするのに大忙しである。車内で紙のものを広げている人を探すほうが難しくなってしまった。これでは本や雑誌の出る幕はない。

 出版社は今電子書籍に活路を求めて、印刷・出版からの依存度を減らそうと躍起である。しかし電車内を見る限り、そうした電子本、タブレットに読みふけっている人はまず見かけないし、ああしたモニターは移動中は読みにくいのではないかと推察する。一頃話題になった「自炊」もその手間を思うと大方バカバカしくなってきたのではないか。良くも悪くもたかが本なのである。わざわざデータ化するほどのものではあるまい。

 出版と言う仕事はなくなりはしない。ただ、本、雑誌がそうしたウェブサイト、電子書籍で読むものとなってしまうと、いくらか金は動くだろうが、今までその出版の周囲で働き収入を得ていた人たち全員をとても養うだけの利益は出ない。まして文化のリサイクル業とでも呼ぶべき古本稼業はおこぼれどころかそこに立ち入ることすらできない。データやファイルは「古本」として流通しえない。

 思うに、大量生産、大量消費というこれまでのシステム自体が見直されてきている。もはやモノとしての実体ある本はモノであることの存在価値を問われていく。それは本、雑誌だけではない。今の時代は生産者と消費者の関係さえ見直されている。読み手と書き手の関係さえもあいまいとなってしまった。流通というシステム自体もモノがあることが前提なのである。

古本稼業再考・消えていくのは本だけではない・12012年09月15日 08時41分30秒

★この商売も潮時か

 ネットで古本を商うようになって約10年が経つ。うんと儲かることはなかったし、そもそもが「家のことのかたわらに」家にいて収入が得られる、まあお小遣い稼ぎとして始めたものだから、一応古物商の鑑札もとったがそもそもこれだけをメインに本気本腰でやろうとは考えていなかった。いや、やがてはそういう方向に進むつもりだったと当初は考えていたはずだし古本屋という商売に憧れと尊敬の気持ちもあったはずだ。

 が、先の別ブログでその経緯は綴ったように、いつしか本のことよりも音楽、それも日本のフォークソングというものに強く魅かれるようになってしまい「商売」はましてなおざりとおざなりになってしまった。だから、自店舗での販売も新規出品は休止したままだし、月々本が売れて入って来る額は数万円程度しかなく、まさに「お小遣い稼ぎ」としか言えない状況となってしまっていた。

 ただ、振り返ると自分のやる気如何ではなく、以前は本自体の売値、単価も高く付けられたし出品数とは別に注文も多かった。だから昔はかなり儲かった。こんな楽な商売はないと思えたときもじっさいあった。
 が、近年、特に5~6年ほど前から、アマゾンマーケットプレイスで言えば出品されている本の最低値が1円という「1円本」が次々登場してきたあたりから本の相場自体が値崩れを起こしてもうほとんどの本が出して売れたとしても儲けが出ないので出品不可能となってしまった。

 そこに拍車をかけたのはAmazonから直接販売は送料無料というサービスで、中古の本を例えばウチから買えば、下がったとはいえ本代とは別に250円の送料が別途加算されるのが、Amazonから新品を買えば本代それだけで手に入る。だからもともと単価の安い、高い値は付けられなかった文庫など低価格の本は一切中古では売れなく(出品できなく)なってしまった。

 Amazon側としても、出品者からの売れたときの高い手数料で儲けてもいるわけで、1円本ばかしになってしまうとさすがに儲からない。そこで数年前から一般の現行に流通している本だけではなく、「古本・古書」もそこで扱うリストに載せ始めた。となると、そもそも新刊はない世界なのだから古本屋の出番となる。自店舗サイトでリストや目録を作り載せたとしてもまず誰も見ないし売れないが、アマゾンならば探している人は必ずそこにヒットする。そんなで、自分としてはホッと一息つくような気持ちで手元の「古本」それも専門書中心に点数は少なくとも高値で出して糊口を凌いでいた。

 だから気持ちとしては、今はまだ点数が少ないから小遣い程度しかの収入にならないが、もっと本腰を入れて、まさに文字通り「本に腰を入れて」沢山出品すればかなり安定した儲けとなると考えていた。
 しかし近年そうした古書自体も出しても反応が少なくよってすぐにも値も下げざるえなく、売れたとしても儲けは少なくなってきている。今さらだが、街の本屋がそうであるように、本自体、本そのものが売れない時代なのだと実感している。本が売れないということはとりもなおさず本が読まれない、読む人が減ったということだ。敷衍すれば、それは本だけに限らない。音楽、CDも売れないし、映画だって同じこと。世界はどうか知らないが、この国は文化全般が衰退に向かっているのだと考える。

 これからいったいどうすべきか。またその原因はどこにあるのか。簡単に答えも対策も出ないけれど、まず自分の稼業についてはそろそろ潮時かと考えている。膨大な在庫を抱えている身としてはそれを処分することもすぐにはかなわない。が、何らかの対策をとらねば身動きとれなくなるだけだ。自分の人生もそう先があるわけでなし。そろそろ不良在庫の処分、まずは棚卸しとしてタダ同然でも自店舗サイトに並べて求める人に持っていってもらおうと考えている。

 おかしな話だが、今時になって自分はようやく本にしかと向き合うときが来たようだ。
                    ※この稿何回か続く予定。

迂闊さと怠け心と慢心と2012年07月10日 21時48分39秒

★忙しいとか体調の悪さは言い訳にできない。

 昨日に引き続き、暑かった。だが今日は陽射しは強いものの風もあり、湿度が低かったせいか日陰にいれば爽やかで気持ちの良い梅雨の晴れ間であった。
 また商売のほうでトラブルが発生して一日その処理に追われていた。毎度のことと呆れられるかもしれないが、手短に記す。

 数日前、Amazonマーケットプレイスでウチが出品していて買い手がつき、発送済みの本に関して、さっそく出品者=当店を評価する「評価付け」でまた低評価がついてしまった。
 その本というのは、「詰将棋手筋教室」という、かなり厚めのハードカバーの将棋の指南書で、古書扱いとしてやや高めの値がつけられてウチ以外にも何冊か出品されていた。一万円近くが相場らしい。

 ウチが出した本は、本文にところどころ「校正」と思しき書き込みが見受けられ、読むには問題ない程度であったし、必要な書き込みでもあったので、その旨断って、他店よりかなり安く、それでも5400円ほどの「格安」の値で販売とした。
 その本がわりと早くすぐに売れたのは良いが、すぐにウチの評価が付けられて、購入された方は、「二箇所線引き有り、シミ有り」として販売の際の説明と異なるとして低い評価をつけられたのである。

 当方としては、基本的に書き込みがあることは出品時に説明のうえであったし、常々、お届けの本に何か不備、ご不満のことがありましたときは、返金返品も含めてお客様の立場でご満足頂けるよう善処いたします、と納品書に記してあったので、いきなりだなー、何でかなーとやや釈然としない思いであった。
 ウチはこのところあまり真剣に商売に取り組んでいないから、そもそも販売数自体が少なく、それまでは99パーセントの「高い評価」であったのがこれで今月だけを見れば一気に85パーセントの「低い評価」に下がってしまった。そんなことはあくまでも目安であり気にせずともさほど注文には影響しないと思うのだが、一気に下がって気分は良いわけがない。

 こらちとしては、去年の8月にうっかりミスで付けられたやはり低い評価が、ようやく1年かけて間もなく消えて100パーセントの高評価になる直前だったので、また振り出しに戻る、ということは何としても避けたかった。
 それで、その購入者に連絡とって、全面的に謝罪という下手に出て、お詫びの気持ちとして本代金から最大半額の返金処理をいたすので、なにとぞ今回付けられた低評価は撤回してくれないかとお願いした。

 なかなかすぐに応じてはもらえなかったが、本代の半額、約2600円が戻るということで、今夕「評価を取り消した」というメールが届き、こちらもならばと約束どおり代金の半額を返金とする手続きを行い無事に今回のトラブルは終了してまたもとの99パーセントの高い評価に戻すことが出来た。一応これで一件落着である。

 今回の件で、思ったのだが、損得はともかく何でこんな小さなことに頭痛め囚われてやきもきしたり憂鬱になる我が心の弱さ、小ささにも毎度ながらうんざりもしたし、それと同時に悪いのはお客ではなく、やはりこちらなのだと痛感した。
 要するに、まず迂闊であった。高額の本なのだから、発送通知だけでく、受注のときに再度きちんと詳しく状態を説明しそのうえでもしご不満なことがあったら返金返品にも直ちに応ずるので「評価付け」する前に必ずこちらに連絡してくれるよう因果を含めたメールを送っておけば良かったのだ。じじつ、昔は注文ごとにそうしたメールを本の発送前に出していたのだが、いつしかつい面倒になってやめてしまっていたのである。このところずっと忙しかったりまして体調が悪かったこともある。
 そしてこの商売も長いし、最近は特にトラブルも起きていなかったからつい気を緩めていたし、まあ何とかなるだろうという慢心もあった。

 けっきょくのところ、原発事故にせよ総てのトラブル、事故とはこうしたいつしか心を蝕む、迂闊さ、気の緩み、怠慢、そして慢心が引き起こすことに気づく。そして人はそのときは失敗したなあと深く反省するが、またいつしか慣れと慢心から緊張感を失っていく。ならばトラブルとは総て良いことであり、それを機に悔い改める良いチャンスなのである。

 いちばんの問題はそこからなにも学ばない傲慢な人間がいることだ。こんな零細稼業が起こすトラブルなんてどうでもいい。ひとたび事故が起きれば地球規模で被害が広がる原発を首相一個人や閣僚の「責任」で拙速に大慌てで再稼動させてしまう愚を問題としている。
 自らも悔い改めねばと今度こそ心に誓った。

好事魔多し、油断大敵2012年06月21日 23時46分50秒

★慢心が命取りとなるところだった。

 増坊の本業、ネット古本屋は、一応会社組織に倣い代表社長の自分を筆頭に社員も秘書も相談役も社長の愛人もいることになっている。まあ、それは名目上のことでじっさいは会社登記もしていない個人営業なのは説明するまでもない。あくまでもシャレである。

 その「社員」が先日、台風の翌日、ウチでの作業中に高所から転落して頭を強く打つ事故を起こし病院に担ぎ込まれ入院していた。幸い二晩入院しただけで退院できたが大いに心胆寒震えさせられる事態であった。そのことを書き記しておく。

 自分には大学時代から長い付き合いのあるTという友人がいて、仔細は省くが、彼もまたフリーター、昔で言えば高等遊民、いや、下等遊民として正業に就かず長年バイト生活を続けていた。近年はやはり老親介護も抱えて、実家である茨城と学生の頃からずっと住み続けている世田谷の四畳半のアパートを行き来していた。まあ、昨今は不況でもあるし彼もまた初老となって職もなく基本は何もせずぶらぶら暮らしている世間的に見れば奇人変人である。無頼さは西村賢太の小説人物のようなものだがもっと何もしていない。
 で、彼が東京にいるときは招いて、古本の移動運搬や梱包、あるいは遺品整理や引越しの際の要員として頼み、報酬としてその晩の飲食代と交通費程度はこちらが払うことだけで「社員」としてこき使ってきたのである。今思えば文句を言わず呼べばすぐ来てくれてどんな仕事でも厭わず使いやすい都合の良い男であった。本当に申し訳ない。

 昔から現場仕事などもしてきた男なので、力仕事もできる。細かい工作は苦手でもパワーは増坊よりはるかにあるのでこの家の建て替えに際しまず施主自身で旧い家を壊すときなど大いに貢献してくれた。そうしていつしか我家では家族同様、いやあたかも使用人のようにウチの親たちも気軽に彼にあれこれ用事を頼むようになっていた。
 たとえば庭の木々の枝が伸びたときの剪定や伐採、物置の移動や設置などゴミの始末から家事雑事までも実の息子がいるのに、文句も言わず黙々と仕事してくれるTに頼り切っていたのである。事故はそうした流れの中で起きた。

 21日の午後、外で昼食を食べて戻って来てからである。増坊はそのとき室内で整理する本の移動だか仕分けをしていたのか思い出せないのだが、ともかくその場にいなかった。母が外にいて、春になりうっそうと伸びてきた垣根の木々の丈を詰めるのを彼に頼んでいた。アルミ製の脚立をブロック塀に立てかけて高さ160センチほどのその塀に上がってそこから松の伸びてきた新芽を切ることになっていたらしい。
 その場を見ていないので状況はわからないのだが、母が大声で呼ぶので慌てて外に出たら、「Tさんが気から落ちて真っ逆さまに頭から落ちた!」と騒いでいる。Tは真っ青な顔でふらつきながら歩いてきて自分で車のドアを開けて座席に倒れこむように座った。側で見ていた母の話だと、風が吹いてバランスを崩し頭からアスファルトの道路に落ちたのだという。ゴチンとすごい音さえしたと。

 すぐに救急車を呼ぶことを考えたが、一応意識はあり本人も頭を押さえて痛がってはいたが「大丈夫、頭は打っていない」と口にしている。でも母の話だと確かに頭から落ちたし、その証拠に後頭部が外から見てもわかるほど膨れてコブが出来てきた。冷やすために渡した濡れたタオルにも血がにじんでいる。しばらく涼しい室内で横にさせたが、脳震とうを起こしたかぼーとして何が起きたのか当人はわからないようだった。頭の中はどうなっているかとても心配だったので、近所に大きな救急病院もなくはなかったが、そこは母の病気の当初に癌を発見できず対応に不信感もあったので、迷ったが今その母が通っているウチのかかりつけの立川の総合病院まで車で連れて行くことにした。一応急患扱いでこれから行くことは電話した。

 ★長くなるのでこの続きは 続・好事魔多し、油断大敵(6/25日分)で書いていきます。【終】

人生もまた「棚卸し」中2012年02月26日 22時16分46秒

★当店ただ今棚卸し中である。

 今年は一日多いようだが、1年で一番短い月、二月ももう終わる。母の体調見もあってこの冬は極力出かけるのを控えていた。
 友人のライブにもいろいろお誘いはあったが、下手に人混みに出てインフルエンザでも持ち帰ったりすると免疫力低下している母は一たまりもないので寒いのを良いことに病院通いや買い物など必須の用事以外は可能な限り家に引きこもっていた。

 で、何をしているかというと、音楽関係で知り合った人たちに3.24のお誘いハガキを書いて出したり、当日に向けて部屋の片付けなども進めていたが、いちばん励んだのは古本商売の本の棚卸しであった。それは新たにアマゾンマーケットプレイスに出すのではなく、既に出品している本を一冊づつ再検索してみて、他の同じく並んでいる本の値と比べていく。
 実は、そのシステムが自分でもよくからないのだが、ウチがアマゾンに出して販売中の本は、一度出すと以降ずっと出品中のままとなっている。以前は、何ヶ月か経つといちど戻されて出品期間は終わり再出品の手続きをしなくてはならなかったのだが、今は出しっぱなしである。
 
 楽といえば楽なんだが、相場は日々刻々と変わっていく。むろんどんどん本の値が上がっていく時代なら一度付けた値は最安値になるから必ず売れるはずだ。しかし、今中古本の値段はもう紙屑同然といってよいほど値崩れを起こし安くなっていて、時間と共によほどの貴重な古書、専門書でない限りたいがいは1円、もしくはそれに限りなく近いアンビリバボーで非常識な値段になってしまう。
 だから常に他の本の動向をチェックして、他の出品者より1円でも安い価格に変えていかねば本は売れない。その作業ももちろん大事ではあるが、それ以上にすべきことはより多く一冊でも多く新たに本を出品していくことであって、基本的に今は新規に最低価格で売らない限り買い手はつかないし、逆にそうして安く出せばすぐに売れていく。

 自分は基本的に在庫管理、つまりメンテナンス=棚卸しよりも常に新規出品に精を出していた。そのほうが手早いし商売はともかく点数が勝負であったから。しかしこのところようやく出品中の本、つまり在庫の棚はいっぱいなのに全然本が売れない、要するに不良在庫は溜まる一方となってきてこれは困った事態だと気がついたのだ。いや、わかってはいたが忙しさに見て見ぬふりをしていた。
 その理由も実はわかっていた。先に書いたように、最初に出したきり、一度も同じく競合している他店の本の値段を確認していなかったのだから。誰だって同じ本が売っていたら、むろん状態の差も気にはなるが、1円でも安く良い本を買いたいに決まっている。

 それでついに意を決して、年明けからぼちぼち出品時間の長い本の棚から一冊一冊取り出してはISBNでその本の値段リストを確認してみた。案の定、かなり多くの本が、売値の最低値は1円、あるいはそれに近い値にダウンしていて、自分だけがそれに関係なく一人1200円とか最高値を臆面なくも付けている。これでは何年出品を続けていても売れるはずがない。無駄である。そうした本はすぐさま販売中止の手続きをしてリストから外し、ブックオフへ持ち込む処分本の箱に入れていく。

 まだその作業は今出品している本のうち三分の一も終わっていない。が、だいぶ棚はすいて来てスッキリ感がしてきた。むろん、本を新たに出品しているのではなく、逆に取り下げているのだから注文が増えるはずはない。今月など前月に比べて売り上げは減ってはいるのだが、それでも気分は悪くない。実に今まで売れるはずもない他では1円の値がついている本を大事に抱えて棚に並べていたものだと呆れ果てる。それがなくなっただけでも爽快に思える。
 これからは平行してこうした棚卸し作業を進めながらも空いた棚にまた新たに新規出品した本を並べていけば良い。何よりそのスペースがあることが嬉しい。こうした無駄を省いていくことこそが商売の秘訣なのだと誰だってわかっている。

 と、ふと思うのは、自分の人生もまたこうした「棚おろし」を本来すべきではなかったのかという問いである。人間関係などはおいそれと整理できないしすべきことではないが、長年抱えてきたもの、過去のなかなか整理も処分もできないものを大事に大事に溜め込んできていた。そしてそれは今もまったく棚卸し以前の状態で、ある意味その分量にも身動きとれなくなってきている。

 今、一応新しい家は成ったのだが、自分の人生の棚卸しはまだ全然進んでいない。過去のもの、過ぎた日のメモや書類、日記類なども大方処分すべきだと頭ではわかっているのだが、ずっと常に慌しく忙しかったし、今だってとてもそうして「過去」に向き合う時間など全くない。あたり前の話だが過ぎて終わってしまった過去よりも大事なのは今とこれからなのである。ならば一気にゴミとして捨てられるか。自己愛なのかそれができない。
 
 敬愛する内田百鬼園先生は、彼もまた書きかけの原稿類から師漱石の反古原稿用紙に至るまで多くの紙ゴミを長年抱えていたが、太平洋戦争の空襲で全て燃やされてしまい、結果として「非常にすっきりした」と書き記している。人はつまるところ、そうした非常事態にでも起こらない限り自らの力ではきちんと人生の棚卸しなどできないのかもしれない。
 といっても残り少なくなってきた人生、そろそろ棚卸しの時期に入ってきたのではないか。どうする?どうなる?

とかくこの世は・・・2012年01月25日 00時19分27秒

★久々に商売の話を少し。

 今これを記すは、24日の深夜零時過ぎ。正しくは日付は変わっているのでブログの扱いでは25日のものとなる。当ブログ、元旦から休み無しで続けてきたがついうっかりして24日中にアップさせることを失念していた。なので1月24日のところだけ穴があいたということになる。連続記録は早くも途切れた。
 むろん、ブログ書く事自体忘れるはずはない。が、書こうとパソコンに向かったら古本商売の方で、購入者と些細なことからトラブルが起きていることに気がつき、その相手方にメールを書き送っていたら時計見たら零時を過ぎてしまっていたのだ。いやはやなんともという気分である。

 そのトラブルというのは、ウチが売ったパソコンソフトの本に付属してあるはずのCDが付いていなかったというクレームに端を発しているのだが、そもそもその本、出品時にきちんと「CDは付いておりません。ご理解の上で、お安くしました」とコメントの上で販売していた本であり、その購入者ご自身がそれを見落としていて?本が届いたらCDが付いていないことに気づきお怒りなのである。

 増坊も相当迂闊で、うっかり者のトンチンカンであるが、世の中には同様の、あるいはもっとヘンな人が少なからずいるようで、商売をやっているとたまにこうした御仁と遭遇する。こちらに非はあるとはどう考えても思えないのだが、正論で返答してもご理解頂けるかわからない。どうしたものかと悩むのも馬鹿らしい気がしている。

 またもや地雷を踏んだという気もしているが、以前も書いたかもしれないが、数千冊本を扱った経験上、客百人に一人はこうした面倒なトラブルの人と常に出会うように思えて、それは確率の世界の話だから避けようは難しい。こちらの説明不足だったかという気もなくはないが、そもそもこういう方は、その説明自体きちんと読んでないのだろうし、その上でこっちに非があると責めているのだからどうしようもないではないか。とかくこの世は住みにくいという気分である。

 しかし、以前の自分であったら、こんな些細なことにでも頭を痛めて対応に苦慮して気持ちもかき回されてしまうのだが、今は自分でも不思議なぐらい落ち着いている。良寛さんの言葉どおり「災難に遭うときは遭うとよろし」だと思えるし、確率の話であるならそれもまた当然起きることなのだから仕方あるまい。
 また、先日書いたように、すべて起きることには必然の理があり、どんなことでも抗わず受け入れるしかないと思うようになってからは、こんなことはごく小さな取るに足らないことだと簡単に受け入れられる。

 世の中には様々な人がいる。誰もが自分と気が合い、わかってくれてうまくやれるはずもない。かといってほぼ全員が敵だということもない。迂闊な人も短絡的な人も、何事にも寛容かつ鷹揚な人もいる。それはまた出会いと別れの話でもあり、長く生きていればいろいろんな人と当然出会い関わることとなる。人生はそうしてそれぞれの人生が関わりあい、うまく行くときもあれば面倒なことに足をすくわれ行き詰ることもある。ならばその都度一喜一憂したり騒いだり心乱されるのも愚かしい。どんなことにも動じない、いわば悟りの境地になれればいちばん良いが、自分など常に些細なことに心動かされ囚われ頭痛めている。たぶんそれは死ぬまで治らない。

 しかし、長く生きてある程度は様々な経験を積んだからか世界の仕組み、この世の理というようなものが少しはわかってきた。失敗もある、この世は思い通りにならないことばかりだが、それでも決して悪いことばかりでもないし、結果としてすべては良いことばかりなんだと思える。

 そう、全てのこと、すべて起きることは何かのメッセージなのだからそのメッセージをきちんと受け止めることだ。この世には意味のないこと、価値のない人は存在しない。人はその役割を果たすために生まれてくるのだとするならばすべての出来事をきちんと受けとめ受け入れていこう。こんなことは災難の内にも入らないではないか。こういう人と出会い少しだけ関わったということだけの話だ。それもまた良し、面白いではないか。