歳をとるということは2012年11月20日 20時30分55秒

★老人という生き物と暮らすことは難しい。

 風邪ひいて寝込むかと思ったが、きょうは気温も暖かかたこともあり今はまだ悪化していない。しかしともかく忙しい。はたして無事に年末まで乗り切れるかだ。

 まったく関係のない話。人は生まれて歳をとりやがて老いて死ぬという道筋をたどる。むろん若くして不慮の事故や病気でなくなる人もいる。が、たいていは皆歳をとって当たり前のこととして死ぬ。
 
 では、死ぬまでの間際、老人として生きるということはどういうことなのであろうか。今、筆者マス坊は、老いた老父母と暮らしていて、老人とは、歳をとるということはこうしたことなのかと深く思い至っている。これは親と同居して共に暮らしてみないとわからないことであろうし、同時にここまで歳とった老人と付き合った者でないとその実体はたぶんわからないことかもしれない。

 当たり前のことだが、まず年寄りというものは、記憶が続かない。認知症であろうとなかろうと皆記憶障害の仲間であるから、つい機能のことでも覚えていないし、言った事もしたこともまさに「記憶にない」。ゆえに話している最中に自分がなにについて話しているかすら忘れてしまうし、立って台所に来ても何のためにそこに来たか目的すら忘れてしまう。
 これは母の話で、マス坊の母は、八十までは記憶力抜群で呆けるタイプの人間ではないと当人も信じていた。しかしこの1年前から物忘れが甚だしくこちらが言ったことも当人が言ったりしたこともすぐに忘れてしまうことが増えてさすがに老化がはっきり伝わってきた。それは癌とか病気したせいではなく、やはり脳神経じたいが衰えてきたのだと思える。何しろ今年の12月で83歳、来年は年女なのである。

 思うに、老人といっても本当の年寄り本格的な老人とはやはり八十代からなのだと気付く。何だかんだいっても母も70代はほぼ中高年と同じく全てに普通の日常が過ごせていた。どこでも行けたし何でも普通にできた。それがちょうど八十歳になってから癌がみつかり、手術や入退院も繰り返すようになって一気に衰え、今は体はともかくオツムのほうがずいぶん老化が進んできた。
 もしてその母より年上の親父に関しては、肉体もだいぶガタがきているが、それいじょうに認知症、ボケが甚だしく、ほんとうの痴呆には至らぬまでも記憶力、判断力の低下は激しく歳をとるとはこうしたものかと新たな驚きすらある。今まではかつての人格ある人間として付き合ってきたけれど、もうこれは一種の病人、キチガイなのだと思うしかないのかと思うこの頃だ。

 性格自体はかつての延長線上にある。しかし、朝とかやたら機嫌悪いときが多いし、テレビを見ても何をするにしても基本的に全てに対して嫌悪感や侮蔑的な不規則発言を繰り返す。自分のことはさておき他人をこき下ろす。やたらたらたらと文句や愚痴をこぼすし、こちらが命じたことはしない代わりに余計なこと禁止したことは何度でも繰り返す。ある意味八十八歳の「子供」であり、自分のしたいこと興味のあることには囚われるが、大事なこと、しないとならない義務的なことは一切やらない。それは意図してしないのではなく、要するに頭も気持ちも回らないのである。年寄りとは昔から言われるように「二度童=にどわらし」、もはや子供に帰ってしまっているのである。

 昔話だと老人とは温厚な好々爺だと思われる。が、性格もあるのだろうが、ウチの親父は過激であり自分勝手であり、品性下劣といっても良い。ともかく口うるさくほっとくと何するかわからずやたら手がかかる。でもそれは自分=マス坊にもある素因であり、つまり歳とってそれが一切自制することなく全開になった状態なのだと思える。つまり人が歳をとるということはこうしたことなのだと気づく。

 たぶん世の中には年とった親と共に暮らす事無く親を亡くす人も多いだろうし、親が早く亡くなってしまう方もおられると思う。それはまた辛く哀しく悔いを残すことだと推察するが、逆にウチのように夫婦揃って八十過ぎて健在というのも有り難いことの反面まさに未知の領域に家族中で入っていく。それは良いことかめでたいことなのかいちがいには言えないと思う。老老介護という言葉もあるが、独身一人息子もやがて老親の仲間入りなのである。

 ともかく本物の年寄りとは当人にとっても家族にとっても辛く大変なものだ。まだ生きている。しかしかつての社会性ある自制心のある、自らを管理できる人格ではなくなってしまっている。まさに知能や性格年齢は小学生かそれ以下に近い。しかもこれから学年が上がるなら助かるがさらに下がり、いよいよもっと赤ん坊に近づいていくのである。長生きするとはこうしたことに他ならない。

 自分がそれが嫌だとか面倒だとか辛くてこれを書いてはいない。ただ、歳をとるということはたぶん誰しもこんなふうになるということだけは記しておきたい。じっさいこの身さえ日に日に不自由に、頭もどこもかしこもガタが出始めている。自分自身信頼に足り得ない。それが歳をとっていくこと、老化ということなんだと認めて受け入れていくしかない。
 だから老親に苛立ち怒ったって仕方ないのである。叱りつけたって改まりはしないし治りもしない。が、人間ができていない自分はついつい声を荒げてしまう。そのことで後から後悔することの繰り返しである。情けなく恥ずかしいことだ。

 歳をとる。どんどんダメになっていく。ならばダメの側にいる自分が何故それを肯定できないのか。ダメで仕方ないのだから許すしかない。受け入れるしかない。わかっているのにどうしてそれができない。老いるとは録りも直さずそうしたことであり自分もやがてそうなるのである。もっとダメになっていく。ならばだからこそ赦し受け入れ現実を認めていくことなのだ。
 つまるところそれが生きること、人の道なのであろう。