改めて3.24中川五郎&村上律at古本音楽ハウス「無頼庵」コンサートのお誘い2012年02月01日 23時40分05秒

★春はすぐそこ、「無頼庵」フォークライブで春を迎えたい。

 2月に入った。例年、いつもの年なら庭の白梅もそろそろ咲き始めているはずなのだが、今年はあまりの寒さに春は一気に来ない。ロウバイさえ今春は遅れてようやく咲きだしたようで、まだ強い寒気は当分日本列島の上に居座るようだ。
 それでも陽射しはずいぶん伸びて少しづつでも確実に季節は春へと向かっている。

 訃報続きに様々な思いがわいてくるが、今はともかく自分のできることすべきことに専念するしかない。一日一日、一つ一つ丁寧にきちんとさせていくだけだ。そう、まずは3月24日の盤上律五郎の拙宅でのライブを成功させることである。

 客の入りも気にかかるが、それはまだ時間もあるので、何とかなるとして思うはこれからのことである。一応オープニング記念のライブということで告知して人様をお招きするわけだが、「開店」後のことは実はまだ何も考えていない。
 当初はブックカフェとしての営業も考えたが、場所が場所であるし、いつ来るか当てのない客を日がな一人で待つことは考えただけで辛い。むろん茨城県友部の奥深い田園地帯のまたさらに奥にある山里「どんぐり」という焼き鳥喫茶店だって何とか続けて固定客もついてきたようだしやり続ければやる価値も意義もあろう。

 ただ、商売とするからにはきちんとオンとオフ、日常と商売モードを切り替えないとならないわけで、その緊張感や心構えも含めて自分にそれができるのかいちばん自らが心配なのだ。商売としてやるからにはそれ相応の気構え心構えが必要なのである。でないとお客は失望し二度と来ないしトラブルも起きる。だらしない店にはしたくないが、この自分ゆえにきっとだらしなくなってしまいそうなのだ。

 ならばいっそ商売ということ、つまり金とってサービスを提供するということはしない方が良いのではないか。このところ漠然とそんなことを考えている。場として、いつ人が来てもよいように開放はしていきたい。が、そこのあり方、運営の仕方が今はまだ見えてこない。
 それはまず3.24を終わらせてまたそこで考え直すことにしたい。とにもかくにも人、それも共にここで何かをやっていく人、来てくれる仲間が必要なのである。
 だから不定期でもライブをぽつりぽつりと続けて仲間内ではない新たな人たちにこの場所を知らしめたいと考えている。その宣伝手段も含めて5月の連休頃には無頼庵の方向性を定めたいと思う。
 そのためにも多くの観客、ご参加の方を集めたい。すべてのことはここから、この場所からだと考えている。

 自分だけではなく皆の思いがうまくまとまり繋がっていくにはどうしたらよいか。モノゴトができるだけスムーズにうまく伝わり何か新たな企画が進むにはどうしたらよいか。自分一人で自問自答していても答えはでない。
 今強く願うは同じような思いを持つ新たな人たちと出会いたい。自分がやっていることはすべきことかどうかはともかく、自らのできることを一つ一つやっていくだけだ。そのためのまず一歩なのである。まずはここから、この場所からなのだ。
 ぜひどなたでもお気軽にご参加願いたい。心からお願いする。

映画「ウインターズ・ボーン」に見る生活の中の音楽とうた2012年02月02日 22時01分22秒

★生活の中のうた・道具としての楽器を求めて

 ギンレイホールで、米映画「ウィンターズ・ボーン」を観てきた。これは低予算のインディーズながらサンダンス映画祭他世界のあちこちで高く評価された話題の映画で、自分にとってどうしても気になっていた見るべきと定めた映画であった。

 音楽のジャンルにヒルビリーというものがある。カントリー音楽の一種と言うより、移民が持ち込んだ原初の要素を色濃く残すルーツミュージックであり、今のロックミュージックは、ヒルビリーと黒人ブルースなどが合わさって、ロカビリーへ、さらにロックへ移行したものと考えられている。
 音楽にこのところ深く囚われている自分としては、先のジェフ・ブリッジスが売れないカントリーシンガーの悲哀を巧みに演じた「クレイジーハート」と同様に音楽映画としてとても興味深く観れた。

 映画の出来とか、ストーリーの紹介はともかく、現代アメリカの話でありながら、ミズーリ州の山間部で暮らす貧乏白人の生活がドキュメンタリータッチでリアルに描かれていてそれだけで感心させられた。寡聞にして知らなかっったのだが、ヒルビリーとはそうした山岳地帯に住む元の移民たちのことを指していたのだ。

 話は、集落でも村八分的存在の訳有り一家の父親が失踪してしまい、その妻は精神を病んでいるので、長女である16歳の少女が逞しくも一家を背負い父を探し歩くというもので、ミステリーとしての要素もある。ただ、そんなストーリー以上に、少女の周囲の人たちの暮らしぶりが前世紀的であり、そこで人々が何かの折に集まって楽器を持ち寄っては唄われる音楽がヒルビリーなのである。
 それは、ギター、バンジョー、フィドル、それにフラットマンドリンといった編成で、このところ自分がいちばん心ひかれる音楽のルーツがそっくりそのまま映画の中にはあった。

 この何年かずっと音楽のことを考え続けていた。それは両国フォークロアセンターに通うようになり、そうしたカントリー音楽、アパラチアンとかフォークソングの原点を知りえたからでもあるが、歌とは何か、うたはどこから来てどこへ向うのかずっと自問していた。またうたとは何なのかも。
 うたがどこへ向うかはわからない。ただ、今はどこから来たのかはわかる。そしておぼろげではあるが、うたとは何か、何を唄うのかも見えてきた。

 うたはいつだってどこにでもあるし、誰にでもうたえるものであった。プロの歌手だけの特別なものではなかったし、人が集まれば自然に音楽が生まれうたは始まった。それは日常の中にあるものであり日常から生まれて日常をうたうものだったのである。

 それがいつしか「商品」となって、パッケージされ権益を生むものと変わり果てた。特に情けないのは、日本のフォークソングの場合であり、高石、岡林の時代はともかくも拓郎、陽水の登場により、企業にとって儲かる商売になり得ると認識され以降今に至っている。しかし米国の場合を見るまでもなく、こうした音楽は本来生活の中で、生業を別に持つ人たちが当たり前のこととして親から子へと伝えられ受け継いでいくものであったのだ。うたも楽器も伝承であった。

 うたとは本来そうしたものではなかったかとずっと考えていた。今回この映画を観て自説が正しいと確信が持てた。「ウィンター・ボーン」、音楽、中でもフォークソングに感心ある方はぜひ観るべき映画である。

ライブ情報などなど2012年02月03日 21時35分03秒

さこ大介のオヤジパワーが炸裂する。彼のソウルフルな歌声に酔いしれる春の晩。
★なかなか出かけることもままならないが・・・

 節分である。今晩は恵方巻を食べた。相変わらず寒いが、明日は立春。これでようやく季節は冬から春へと本格的に進んでいく。

 今日も立川の病院で母の抗癌剤後の白血球数値の検査。幸い今回はあまり数値も下がらなかったので、一昨日1本だけ増加注射を打って済んだ。毎度ながらいちばん抵抗力のない時期を何とかやり過ごせたようだ。※先日、風邪はひいたものの幸いインフルエンザではなく大過なくやり過ごせた。
 今月はたぶん20日過ぎの週、抗癌剤投与はいつも通り二泊三日で行われる予定。今3回目が終わったところで、次回で4回目。今ちょうど折り返し地点にいる。まあ、このサイクルにも慣れてきたというべきかだいぶ体もついてきたという感じで、半年の予定だから、4月の回で完了となる。その時点で癌が消えているのが理想なのである。果たしてどうであるか。医師からはだいぶ縮小は見られていると言われているが・・・。

 何はともあれ、ともかくこのいちばん寒い季節をまず乗り切れば、また気持ちも体も良い方向に変わっていくと思える。いろんな意味で今月2月が勝負だと気持ちを引き締めている。

 さて、3.24の無頼庵オープニング記念ライブ、あれから参加申し込みは増えていない。まだ10名にも満たないので、これからもっと宣伝告知にさらに力いれていかねばならない。そのためには外に出て直接顔見知りのライブ仲間たちにもお誘いをかけることが確実のようにも思える。知人間にハガキなど送っても返事も反応はまだ皆無である。今秋は病院通いで忙しくて宣伝に時間とれなかった。これから気合入れてがんばりたい。

 ということで増坊が今月行く予定のライブの宣伝をしておく。

◆2月12日(日) 西荻のみ亭 肥後真一 7:30~ 投げ銭。

◆2月17日(金) 吉祥寺スナック・ブロン さこ大介
★あのオヤジが帰ってくる!

    さこ大介LIVE!
    2月17日(金)20時~
    チャージ/1,500円+ワンドリンク

    予約受付中です。        ブロン

「客商売」について考えた。2012年02月04日 23時55分20秒

★客商売についてふと考えた。

 暖かい立春であった。光のどけき春の日に、という言葉が頭をよぎる。都内では梅も咲き出したそうだ。沈丁花の蕾もだいぶ膨らんできた。この厳冬もそろそろ終わりが見えてきたように思える。むろんまだ氷点下の日もあるだろうしもしかしたらまた雪が降るかもしれない。しかし豪雪に喘ぐ日本海側の人たちには申し訳ないが、住むところを選べるならばやはり太平洋側に限るとつくづく思う。
 北国、あるいは雪国の、その良さや魅力も大いに認めたうえで、雪がほとんど降らない、積もらないという便利さ、快適さは老いた者には何より有り難いことだとつくづく思う。じっさい雪下ろしや雪掻きだけで、毎冬何人もなくなっているのである。その労苦を少しでも肩代わりするボランティアもあるかと思うし自分にその時間的余裕さえあればと考えもするが、けっきょくテレビのニュースで雪国の人たちの苦労を横目に眺めては、大変だなあと呟くだけなのである。

 ふと、「客商売」という言葉について考えた。

 増坊も一応は商人の端くれとして、古本をネットで細々と売っては小商いをしているわけだが、これは客商売かというとそうではないと気がつく。むろんネットでの通販であろうと相手はお客様であり、客相手に商売をやっているからには客商売には違いない。しかし、ネットなどの通信販売では、通常は相手の顔も反応も見えない、伝わってこないものである。それは客商売なのだろうか。

 お客様=向こうはAmazonという会社のサイトを見て途中Amazonの仲介で注文が届き、こちらがその注文の本を購入者に発送すると決済も終わり、やがて仲介手数料を引かれた額がこちらに振り込まれる。いや、自店舗で直接販売していてもメールだけのやりとりに終始して相手方と電話で話すこともほとんどありえない。
 むろん時に何らかの要因からトラブルが起き、客と直接あれこれ交渉やらのやりとりをすることもなくはないが、そんな時は「客商売」だと思うときもあるけれど、それもまたメールで済ませるわけで、お客と直接会うまたは話すなどのふれあう機会はまず皆無といっても良い。

 それに対して、本当の商売、――と書くと語弊あるが、じっさいにリアル店舗の場で、店に来られた客を相手に行う商売こそが「客商売」なのだと断言しても良いと思う。それは別に何かを売らなくてもかまない。飲食業、サービス業などでも同じことで、たとえ掃除代行、介護援助などでもそこに生身の客、利用者がいるなら客相手である限り、客商売だと気がつく。なぜなら客との間で生身のふれあいと直の反応があるからだ。
 バーチャルなネットでの商売をやっている者とってはそうした相手の顔が見える商売、反応がすぐ返ってくる商売に憧れる気持ちもなくはない。が、じっさいのところ、今の自分にとってはかなり怖れもあるしまた大変な気力、労力のいることに思えてならない。顔やすぐに反応が見えない通販のほうが自分には向いているとつくづく思う。

 そしてそんな自分が感心するのが飲み屋やレストランなど個人営業のような店のマスターなのである。「客商売」という言葉を思うとき、例えばまず思い浮かぶのが、たとえば西荻ののみ亭の主人とか、吉祥寺のスナックブロンのマスターたちなのだ。《もう一回続きを》

「客商売」について考えた・続き。2012年02月05日 22時44分20秒

★「商売」の前に「人間」が好きでないと。

 世の中には客相手の商売、特に飲み屋とかを生業とする人がいる。まあ、それは喫茶店でも良いのだが、美味しいコダワリのコーヒーを淹れる喫茶店の場合、それはたぶん間違いなくそこの主人、マスターはコーヒーが何より好きであるはずだろう。では、居酒屋のオヤジが酒好きで大酒呑みかというと知る限りそうした人存外少ない。むしろ当人はアルコールはダメで呑めないという人もけっこういるようだ。素人考えでは、酒好きだから居酒屋を始めたんだろうと、安直に考えてしまうが商売としてやっている人は仕事中は呑める人でも呑まない人がほとんどだ。

 古本好きが昂じて古本屋になったとか、蕎麦好きが極まって自ら打った蕎麦で蕎麦屋を始めたという話はよく聞くものの、酒が好きで酒屋はともかくも飲み屋を始めたという人はまずいないと思える。理由は簡単で、酒がいくらでもある環境で酒飲みに囲まれて呑みながら商売をやっているとどんな人でも酔って勘定はデタラメになってくるし、まず何より体がもたない。アル中になるか肝臓を壊してやっていけなくなる。それも当然で、客は常連さんでも間を空けてやってきて呑む。そうして次々来る客をマスターは相手して連日呑まざるえない。客は個々に来て呑むわけだがこちらは一人で連日呑んでいるので体がおかしくなってしまう。だから賢明なマスターは仕事中は酒は極力呑まない。ゆえにアルコールに全く弱くても酒場を経営している人たちがいるのである。

 しかし、またこうも思う。今自分が酒をやめて素面のときに酔っぱらっている人たちを見ると非常に醒めた気持ちというか、味気ないというべきか嫌悪感に近い気持ちになることが多い。それはお互い酒を呑み共に酔ってしまえば楽しく浮かれてバカ騒ぎだろうが与太話であろうが面白く愉快で何でも許してしまえるが、素面ではとても許容できないことは忘年会シーズンなどにヨッパライの集団に出くわしたとき誰もが感じることであろう。ならば酒を呑まないマスターはそうした酔客を相手にどう思っているのかだ。

 ウチの近所の自分が通っていた焼鳥屋で、ジジイの親父が一人でやっている店があるが、そこでは夜も更けて親父も疲れてくると、酔ってなかなか帰らずクダ巻いている客に、もう早く帰れ!あんたの相手なんかしたくない、と怒鳴りつけ帰らせることがままある。まあ、そんな気持ちも今は実によくわかるし、そこは極端な例としてもたぶん客商売のマスターは皆内心同じような気持ちを抱えているのかもしれない。

 また、関連して思うのは、客は店を選べるが、店は客を選べないというのが真理ならば、客商売と言うのもかなり辛い仕事であろう。気のあう良いお客ばかり来るならばともかく、中には不しつけな文句ばかり口にする不愉快な客も来ることもあるかもしれない。中には一見さんお断りとか、店主が店のルールを知らない客を怒鳴り散らすラーメン屋のような極端な店もあるのかもしれないが、たいがいは客の言いなりである。お客様から文句が出れば平身低頭となろう。だって、どんな客でも下手に怒らせたりすれば口コミで評判が悪くなってやがては客足が減ってしまうからだ。
 
 ならば、自分がもしそうした客商売をやっていたらどうであるかと考えてみる。実は大昔、学校を出て社会人になり始めた頃、勤めた会社に関係したブティックみたいな店でバイヤーをやっていたことがある。セールスマンはやったことはないが、店員として客応対をしていた。ただ、そのときはあくまでも臨時的な仕事で、単に店番を任されていたに過ぎず、売り上げが悪かろうが、客から文句が起ころうが知ったことでなかった。これが歩合制とか、自ら始めた自分の店であったなら全く気持ちは違っていただろう。考えただけでもそれはかなりしんどい。

 例えば今自分が飲み屋でなくても古本屋でも何屋でもいいが、じっさいに店舗を構えてやってくるお客を待つ側となったと考えてみる。いつ客が来るかわからないものをただ待っているというのも辛いだろうし、それよりもどんな客が来るのか考えただけで怖気づく気持ちもある。
 もともと自分は誰よりも極端な小心者の対人恐怖症、あがり症でもあり、何度も会って親しくなってしまった人には嫌がられるほど慣れなれしくできても初めての人とは目も合わせられない。そんな人間がどんな人が来るのかわからない客商売なんかできるはずもない。何より人間嫌いの気分も時折頭をもたげる。

 と、こう考えて気がつくのは、のみ亭のマスターにせよ誰にせよ、そうした商売を何十年も続けていられる方は客商売が好き、酒が好きとか以前に、そもそも人間が好きなんだと思える。つまり客であろうがなかろうが人が来ること、人と会うことが好きで苦にならないという性分なのではないか。それはとても素晴らしいことだと心から思える。人として尊敬すべきであろう。
 自分のように偏狭、ヘンクツで、どちらかといえば人間嫌いの者は恥じ入るしかない。そう、そんな人間が、これから自宅で人を招く「店」をやろうとしている。これはとんでもない無謀なことである。猫舌の猫が熱々のラーメンを食べたがるが如くの暴挙かもしれない。無理無謀ではないかと俺を知る仲間うちでは言う者も。

 しかしまたこうも考える。もし人は他者との間に自分のように境界線、心の壁を作りがちだとしたら、意識してそれはなくしていくように心がけるべきではないのか。むろん、双方の心の中に土足でどかどか踏み込むべきではない。が、昨今の戸建て住宅のように外から見えず誰も入れないよう高い塀で覆い隠すこともない。心はいつもオープンに、包み隠さず曝け出したいと思うし、また逆にこちらにそれを見せてくれる人と出会いたいとも願う。繰り返しになるが、来る者は拒まず、去る者は仕方ないということだ。

 ともかく今思うことは、人と人は心の垣根をもっと下げるべきだということだ。それはおいそれと簡単にはできない。しかしそれはすべきことだと信ずる。そうした考えの流れの中に、自分にとっての「客商売」はある。そう、願わくば自分もまた人間好きでありたいのであろう。

人はそれぞれの「大変」を抱えて生きる。2012年02月06日 11時15分59秒

★悔い改めよ、この弱き愚かな心。

 今日は朝からどんより曇って陽射しがない。朝方犬との散歩から戻ったら小雨がぱらついた。今はやんでいるが、そのせいか空気はしっとり湿って気持ちよい。天気予報だと今週は雨模様で気温も高くなるという。こうして春は一雨ごとに暖かくなっていく。

 なかなかブログが書けない。3.24の準備もあまり進んでいない。何だかただ慌しいだけで一日が終わっていく。そこには、母親の病院通いとか家事のことなどもあるけれど、それともう一つは母だけではなく老親の片割れ親父のことも実はある。このところ痴呆症が一気に進んできて、うっかり目を話せないのである。

 母は癌で体重も減り体力は奪われヘロヘロ、ヨレヨレではあるが、おかげさまでこのところだいぶ元気になってほぼ普通の日常生活は送れるようになった。頭も前より物忘れはひどくはなってきたが、正常であり会話も問題なく成り立つ。

 父は足腰は弱ったとはいえ、体は幸いにしてこのところ健康である。元々はかつて日本兵として戦争にも行った頑健な六尺男であり、今だって息子増坊より身長も体重もある大男。それがパーキンソンを患いつつも徘徊して息子が頼みもしないことを勝手にあれこれしてしまうのでうっかり目が離せなくなってしまう。

 何か彼が夢中になれることがあれば良いと思い簡単な軽作業をさせてもこのところ痴呆が進んできてそれもできなくなってきて、本人も苛立ち怒りっぽくなってきている。トンチンカンな頼みもしないことを勝手にし始めてるのでついこちらもカーとなって怒鳴りつけたりとこのところ争いが絶えない。

 まあ、思えば何度もいくつもの病気で死線をさまよいつつも米寿近くまで生きてきたのだから、もう十分に生きこうなっても仕方ないとはわかっているが、同性の親子が共に暮らすことはなかなか平穏には進まない。ニュースなどでもよくある事件は、介護していた初老の息子が高齢の実父を介護疲れで思い余って殺してしまうというケースであり、本当に他人事ではないと思える。

 夜になり親たちを寝かしつけてから、一人になると反省し悔やむ。どうしてボケ老人をボケ老人として、もうすぐ死に行く者として赦せないのか自問する。ガマンが足りない。堪えがないのである。この弱き愚かな心をみつめている。呆れ果てても仕方あるまい。

日常生活の冒険ならぬ「旅行」2012年02月07日 21時00分30秒

★暖かい雨上がりの春の宵に

 前夜からの雨は今日も昼過ぎまで降り続いていた。久々のかなりまとまった雨だった。夕方、雨も上がったので、犬たちと散歩に出たのだが、手袋がなくても平気なぐらい暖かく、雨上がりの湿った空気を思うぞんぶん深く吸い込んで息を吐いた。いろんな意味でほっと一息ついた気分である。

 昨日は午後から雨の中、府中のほうの病院に暮から入院している親友の見舞いに出かけたのだが、病院には着いたものの手違いから面会はかなわなかった。受付で看護婦に拒否されて、仕方なく言付けだけ頼んで帰ってきたのた。けっきょく無駄足ふんだことになるのだが、気分的には新たに得るものが大きかった。

 というのは、行きは武蔵小金井駅から府中行きのバスに乗り病店近くのバス亭で降りたのだが、帰りは来た道をとぼとぼと小金井駅まで30分少し歩くことにした。バス代片道190円を浮かす目的もあったが、行きのバスの窓から見たロケーションがなかなか興味深かったからだ。はじめて武蔵小金井駅の南口をゆっくり散策して、まるでどこか遠くの町へ旅しているような気分になれた。気持ちが新たになれた。

 これは自分だけの経験、思い出でしかないのだけれど、東京の、それも中央線から延びる青梅線沿線に住んで半世紀近く経つわけだが、中央線の駅には未だろくに降りたことのない駅もいくつかある。むろん、どの駅も何かの折にはその駅近くにあるライブハウスや店など目的を持って一度ならず下車はしているが、その駅前から始まる町自体を詳しく知っているとはとても言えない。

 自分が駅前からの街並みをほぼきちんと把握している駅は国立、国分寺、吉祥寺、西荻窪、中野ぐらいのもので、他の駅はかなりおぼろげである。中でもウチからは三鷹より手前、近所にあたる何駅かが特に弱い。国立、国分寺以外はほとんどきちんと降りたことがなかった。
 こんな東京ローカルな話題、大阪や地方の人には何のこっちゃと思われるだろう。申し訳ないと思うが。

 結局のところ、昔、若い頃、遊びに出る繁華街というのは、西多摩の田舎に住む若者にとってはまずほぼ地元立川であり、次いでは国分寺、そして何といっても吉祥寺であった。そしてやがて新宿、渋谷、池袋へと足も伸ばしたが、そうした繁華街ではない町には何か特別な目的がない限り通うこともないわけで、中でも単なる住宅街である武蔵何某辺りは降りる理由がない故これまでまったく未知の町であったのだ。今回、その中の一つ武蔵小金井駅南口に降りたのである。

 東京の人はご存知のように、先だって中央線は立川まで全て線路を高架にする工事が終わったところで駅も全部新しく建替えられた。だからどの駅も前もろくに記憶がなかったが全く初めての新しく降りる駅であり、ここの駅前も区画再編工事がほぼ終わったところでかつての面影など全くない。武蔵小金井はかつて丸いユニークな外観の武蔵野公会堂があった駅で、高田渡が急逝したとき追悼コンサートもそこで催されたので南口は降りたことがある。だが様変わりしてかろうじてアーケードの商店街だけ昔歩いた記憶があった。
 ただ、せいぜいその辺りを歩いただけでこの駅前から始まるこの町はまったく初めてであったのだ。

 中央線の三鷹から国立までの何駅かは、段丘の上に建っていて、南口から降りると一気に台地が低くなって坂になっていく。その極端な例が国分寺駅で、知る限りあんなに低地との段差がある駅は東京には他にない。ほとんど山の上に駅があるといっても良いぐらい低地のところからは数十メートルもの高低差があろう。あたかも逆渋谷駅である。
 むろん、山手線でも上野から先、日暮里、鶯谷、田端のあたりも確かかなり段丘の際、崖になっていて線路は低いところを走っている。おそらく向こうは低いところはかつては海でありこちらでは川になっていたのであろう。そして今回降りた武蔵小金井駅からもちょっと目を疑うほどの長い下り坂が続いていた。その坂に驚き深い感慨がわいてきた。

 帰りは来た駅を目指してバスで通った道を逆に歩いたわけだが、行きも気がついたかなりの長い坂は、前原坂といい、駅がある段丘の上、台地のところと下の平地とをクルマも走る陸橋で結んでいた。いったいその坂道である橋がいつからあるのかわからないが、歩道もついていてそこを登っていてすごく不思議な気分になった。
 自分は今東京の、ある意味、自宅からもそう遠くない中央線沿線の町にいるのに、この坂からは初めて見る初めて歩く風景である。街を見下ろしそこはまったく別の地方都市、例えば新潟市とか、青森市とかに来ている気分になった。その気持ちは感動でも感激でもなく、じわじわと湧き上がる感慨としか表現できないもので、友人には会えなかったがここへ来て良かったと心から思えた。
 道は坂を登りきるとアーケードの商店街に続き、そこもまた地方都市のようなそれで興味深く、やがては行きに降り立った南口の駅前に出たのだが、その帰り道の数十分はまさに小旅行であった。

 日常生活の冒険があるならば、日常生活の中でも旅行ができる。もう人生はずいぶん長く生きてきて生まれ育った東京のことはある程度知っているつもりでいたが、何のことはないごく近所である、隣の隣の町でさえも自分は降り立ったことも歩いたこともなかったのだ。初めての街へ行き夢を見たような気分でさえいる。

 可哀相な西岡恭蔵さんのうたに「街の君」という名曲がある。この街は君の町ならば、君の街にならって、見知らぬ街ををこうしてぼくの街にしていくことこそが生きていくことであり、そうしたことが大事なんだと帰りの電車の中で考えた。倦んだ日常生活がこの旅、初めての街でリフレッシュできたという話。

人は皆生きているだけで何とかやっと2012年02月09日 21時14分20秒

★どこも皆大変なのである。

 今日は朝から明るく晴れて久々のぽかぽか陽気であった。私的には「社員」である友人を招いて、拙宅の一階廊下の壁塗りやら老親用手すり付け、それに薪ストーブ用薪割りの作業をした。それもまた3.24に向けての下準備でもある。

 21世紀のこのところ、友人知人間の連絡・通信は、年始の年賀状を除けば、ほぼすべてメールになってしまっている。むろん、ごく近しい仲間内は未だ携帯での連絡やりとりはしているが、近況報告的な急を要しないお伺いは、たぶん誰もが皆電子メールで行っていめのではないだろうか。昔なら郵便でやっていたことが、今は携帯やパソコンに取って代わってしまった時代だからであろう。

 そうして、こちらから何らかの近況報告も交えたメールを送り、向こうからも何らか返信が届く。が、中には、こちらからのメールもスパム扱いとされてしまうのか、一切何の音沙汰もない人も多々ある。それもまた21世紀的だなあと思えるが。つまるところ、メールでの「手紙」としての役割は当然ながら、紙のハガキや封書に比べて電子メールではさして価値を持たないのであろう。簡便さというものは、やはりそれしかの価値、つまり重さを持たないということなのであろうか。多勢のスパムの中に大事な手紙も埋もれていくのもまた仕方ないことなのかと思える。自分はとても大切な恋人にラブレターを送るとしたら怖くてメールは使えない。どうしても郵便の封書としたいが、今の若者達はどうなんだろうか。

 さて、そうした感慨はともかく、当方に少ないけれど届く、返ってくる手紙(メール)はこのところ皆あまり元気ではない。決して暗いということではなくても皆それぞれの大変さが切々と記されていて、うーむと思ってしまう。それはそのメール自体の良し悪しではまったくない。
 まあ、今とてもすっごくハッピーで、浮かれている人はメールでそんなことは知らせてこないだろうし、またそれこそそんなメールが来ても不快になるだけかとも思うが、他者の現況を知るにつけ、自分も大変だと思ってはいたが、皆誰もがそれぞれ今大変な状況なのだと気づかされるばかりである。

 仕事の悩みもあろう、人間関係のことも。そこに生活の困難さ、そして家庭家族の問題も抱えてる人もいる、あるいは自ら、または家族の体調不良、病気のこともある。何気なくふれてあるメールの行間から、自分が今大変だと大さわぎしていること以上の辛苦が感じ取られて、ああ、誰もがそれぞれの大変な問題を抱えて何とかがんばって生きているのだと窺い知れる。
 情けないことは、だからといって、人のふり見て、自分は大したことないとなど気を取り直し元気になるはずもなく、そのみんなの大変さを知りまたさらに気持ちも沈んでしまうことである。でも皆で落ち込んで元気をなくしても仕方あるまい。

 長く生きていれば人生は楽になるかというとそんなことはあまりなく、まあ、知人には子育ても終えて年金生活で悠々自適で、海外旅行とか趣味に邁進し日々毎日を楽しく面白おかしく生きているように傍から見える人もいなくはないが、自分の身近な仲間達は皆、どうしてか今かなり大変のようである。若い人は若いなりに仕事やら生活やら先行きのことに追われているし、同世代は皆老親のことやら、自らの体調不安、少なくなってきた仕事のことや、老い先についての不安の対応と準備に追われている。

 歳をとって楽になり安定できるというのはほんの一部の恵まれた人たちだけで、皆若いときとは別な切実な切羽詰ったような気持ちで目先の問題を抱えているのである。若いときももちろん大変だが、若さゆえの楽天感と体力も将来の可能性もありえた。歳をとるとそうしたプラス思考のタネがなくなり先行き暗澹たる「現実」だけがひしひしと立ち塞がってくるのである。

 ゆえに、ある意味誰もが、生きているだけで何とかやっと、というのが一番適切な表現、気持ちだと思える。そう、自分もまた。このところふと「死」を思うが、すぐにまたこう思う。「今はまだ死ぬに死ねない」と。
だが、だからといってそこで落ち込んでいても仕方あるまい。何とか今生きているだけでやっとだからこそ、余裕がないからこそ、そこで留まっていても仕方ない。

 皆それぞれの大変さを抱えて生きている。それは未来永劫続くものでもないかわりに、決してすぐに楽になるものではない。焦ってみても慌てても天を仰いで嘆いても仕方ない。投げ出したく逃げ出したくなってもどこへも逃げ道はない。

 ここでもないどこかなんてどこにもない。そしてそのどうしようもないところ「どん底」からほんとうのこと、確かな真実が見えてくる。それこそが「うた」なのだと自分は信じている。どん底から逃げることを考えるのではなく、どん底をひしひしとみつめることから始めるべきではないのか。俺のどん底を大切にしていきたいと思う。

一人者ネットワーク、もしくは独身者組合2012年02月10日 21時32分23秒

★孤独死を避けるためには

 このところよく考えるのだが、妻子という家族を持たない独身者の最後のときはどうすべきなのか。一人者の末期は下手すれば、死後何日もときには何週間、何か月も発見されないこともままある。
 むろん、死んでいる当人は、もう意識も何もないわけで、どのような状態でいつ死体が発見されようと関係のない話であるが、やはり残された友人知人たちは心配もするし、ショックも受ける。それを迷惑や面倒かけると考えるかどうかは人それぞれかと思うが、私的には葬式なんかどうでも良くてもご心配だけはかけたくない。

 というのは、先だって友人が急病で入院していたのだが、一人暮らし独り者、そしてご父母も既にいないその人とは連絡のとりようがなく、自分も含めた彼を知る友人知人たちはそれぞれ程度の差はあれ心配を余儀なくされた。
 宅電も携帯も繋がらず、メールを送っても返事はない。もしかしたらという最悪の場合も友人間では囁かれたので、代表して自分が彼のアパートまで訪ねていった。不在であったが、鍵もきちんとかかっていたし見た限り郵便物も溜まってはいなかったので、室内で急死していることはないだろうと考えて書置きだけ残して帰った。そしたら先日ようやく当人から電話があり、体調を崩して今も入院中とのことで、間もなく退院できそうだと元気な声を聞いてほっと安堵した。
 それで考えたのが、「一人者ネットワーク」か、もしくは「独身者組合」というような連絡システム、互助組織である。ほんと他人事ではなく、これは自分の問題として、老い先、それも最後のもしものときに何らかの横の繋がりは作っておくべきかと考える。

 類は友を呼ぶという諺が正しいかはともかく、自分の周りにはやたら独身者が多い。それは男も女も、老いも若きも同様で、もちろん結婚されている友人知人もかなりいるが、やはり親しく付き合い、遊び仲間的かんけいにあるのは当然一人者であり、それは仕方ないことでもあろう。人間関係全部をひっくるめず、今、漠然と親しい誰彼を思い浮かべれば、そのほとんどは独りもんなのである。

 20代~30代の若い独身者ならば、これから結婚する機会もあろうし、たぶん間違いなく結婚されるだろうと思えるが、自分とほぼ同世代の人たち、男女を問わず眺むれば、これから結婚される方はまずいないのではないかと思える。それは自分も含めての話であり、となると死ぬときも一人ということになろう。

 好ましい死に方ではないが、癌などの死病を患い病院で、病気入院を知った友人知人たちに囲まれて死ぬというならともかく、下手すれば一人自室で、風邪とかこじらせたり、酔っぱらって吐しゃ物が喉に詰まって死ぬこともあるかもしれない。そうした場合、誰にも助けを呼べないだけではなく、死後かなりの時間たたないと発見もされない。友人知人たちが彼と連絡とれないので騒ぎだしようやく事態が明らかになっていく。

 独り暮らしの一人者の最後はそうしたものでそれもまた覚悟の上であり仕方ないという意見もあろうが、孤独死を少しでも防ぐことや死んだ場合の連絡通知がスムーズに運ぶようなシステムは考えられるのではないか。例えばの話・・・

 その組合、ネットワークに加入した一人者のところには、毎週決まった日に、本部、もしくは代表から電話もしくはメールで安否の確認がある。元気なら返答する。もし体調悪いようならその由だけ伝える。問い合わせに返答も返信もない場合は、登録してある居住地に安否の確認に行く。あるいは、その人の親戚縁者に連絡とれないことを伝えて安否の確認をお願いする。
 死亡が確認されたら、迅速にその人の友人知人、ネットワーク全部にその由を連絡する。孤独死を防ぐということにはならないまでも、いくつかの条件を登録しておけば、行方不明、安否不明というような事態は避けられるかと思う。

 まあ、そんなことはごく親しい友人間で、常に連絡をとりあっていれば済む話かもしれない。が、皆年老いてしまえば、そうした電話を回す人、連絡してくれる人さえいなくなってしまう。
 本当はこれは行政、福祉のほうで、やるべきことであって、個人とか、一企業、もしくはNPOとかがやることではない。高齢化社会、国を挙げて孤独死を防ぐための対策を本来やるべきのである。

 ただ、個人的には「独身者組合」ってなかなかネーミングも含めてナイスな発想だと自賛している。年齢は問わないが、妻帯者、同居している家族持ちは入れない。夫婦いずれかに先立たたれた人はもちろん入れる。まあ、結婚して子も孫もおられる方からは孤独死もまた自業自得と嗤われるだけかもしれないが。

終の棲家を考える2012年02月11日 09時37分56秒

★一人者の共同生活はまず難しい。

 昨日のことに関していくつか思い出したことがある。それにしても陰気な話ばかりで申し訳ない。若い人には関係ない話であるが、人生も後半となって、ゴールも指呼の間に見えてくるとあれこれ考えてしまうものなのである。

 若いときからきちんと人生設計を建てて、貯蓄もし子がいたとしても頼らずにすむよう豪華安全安心の老人ホームに入ることを考えている方もいよう。反面、自分のようにいっさい先行きについてはほとんど考えず、そのときそのとき行き当たりばったりでとりあえずやり過ごして来たバカモノは、平均寿命まで生きられたとしてもあと二十年となって、さすがに己の最後のときについても何も思わないわけにはいかなくなる。そろそろ尻に火がついてもなお涼しい顔でいられるほど覚悟の上の確信犯ではないのである。

 さて、そうした老いた一人者たちが沢山いるなら皆で集まって一緒に暮らしたら良いのではないかという考えも成り立つ。じっさい、自立型グループホームのようなものも既にあるかと思う。
 大昔、学生時代だったか、何かの話のとき、老後は仲間内で湘南辺りにでも大きな家を買って皆で共同生活を送るのもいいんじゃないかという話題で盛り上がった。その頃から、自分の仲間は芸術家かぶれの変人ばかりだったので、なかなか皆フツーの結婚は難しいのではという認識はあったのだ。
 それに当時はあちこちにコミューンのような若者たちが集まって暮らしている集合住宅があって、名前は失念したが三鷹にあったそこへは自分も行ってみて、外人も含めてなにやら皆でわいわいがやがや暮らしているのは楽しそうだなあと憧れたこともあった。福生にも米軍ハウスにそうしたところがいくつもあったなあ。

 しかし、じっさいのところ人はエゴと自我の固まりでもあるから、たとえ気のあった友人同士数人でさえも一緒に暮らすことは難しい。お互い好き合って暮らし始めた男女だって、24時間顔を突き合わせていればたいがいうんざりして同棲解消となる。夫婦が長続きをするのは、そこにカスガイとなる子供という共通資産、面倒みなくてはならない足枷があるからで、元々他人同士が一緒に生活を続けることは相当の忍耐を要する作業だと自分には思えるが。さて、どうだろうか。

 そうした学生時代の「夢」を先日、人にちよっこと話したら、それって数年前ヒットした映画「メゾン・ド・ヒミコ」じゃないのと一笑された。確かになかなかうまいことを言う。

 学生時代、8ミリ映画での自主上映活動もやっていた関係で自分の知人でもあった才人犬童一心監督が撮ったその映画は、ゲイバーの老オーナーが自分のとこの老いたオカマたちを集めて老後はメゾンで共同生活をやっているという話で、オダギリジョーがそこの世話人である。世間から後ろ指指されつつも訳ありの人たちが集まって暮らすハートウォームコメディであった。

 だが、それはあくまでも映画の中での話で、現実ではまずうまくゆくはずがない。オカマであろうとなかろうと、皆それぞれかなり強烈な癖のある性格であったからある意味結婚も(同性とでも)できなかった人たちが年とったからと言って他人と一緒に暮らしていけるはずがない。知っている婆さんで実の娘夫婦とでも一緒に暮らすのは息詰まると、90歳になっても一人暮らしを続けている人もいる。

 映画に限らず、今テレビのドラマの世界では、朝ドラなどはどれも主人公を取り巻くのは血縁の有無を問わず常に大家族である。皆で集まってはケンカしつつ常に大騒ぎしながら飯食っている。また、子沢山一家のドキュメンタリーもなかなか人気があるようだ。人は、自らは他人と暮らしたくはないくせに、何故かそうした大家族というものに密かな憧れと関心を抱く動物なのである。

 人と人の絆は絶やしてはならないが、人は元気なうちは一人で生きていくほうが良い・・・・。