謹シミテ新年ヲ賀スル2013年01月01日 22時51分53秒

元旦の朝、無頼庵から富士を望む
★すべては日のあるうちに

 朝は冷え込んだが、晴れて穏やかな暖かい元旦であった。マス坊の妹の長男、今アニメ会社で働いている甥っ子がおせちを食べに来たのでその応対に追われて今日も年賀状、来た分の返事も書けなかった。

 三日には早くも子犬を見に、友人親娘が遊びに来るのでのんびり正月気分でいられるのは明日だけだ。明日中に年賀状作って書いて出さないと年賀状着く頃には正月が終わってしまうではないか。まったく新年早々慌しくしかも年末からの疲れが続いている。こうしてまた一年が始まっていくのである。それもまた毎年のことではあるが・・・

 一日、という文字の「日」とは太陽のことであり、昔の人にとっては一日とは太陽の昇っている間、明るい陽のある間だったと何かで読んだ記憶がある。
 確かに原始や縄文の頃まで、人類も動物たちと同じであったから、火は使用できても夜暗くなってしまえば、何か作業など夜はまずできやしない。夕食を終えたらもう寝るぐらいしかすべきことはない。そのかわり朝はまだ暗いぐらいのうちから起きて狩猟や農作業をしていた。
 ロウソクや行灯のような照明器具を手に入れたとしても昔の人は夜はもう本など読まなかったのではいか。現代のように、夜間も日中と全く変わらずにデスクワークが行えるようになったのはせいぜいこの100年ぐらいのことではないかと思う。

 今は夜でも深夜でもスイッチ一つで電気さえあれば煌々と明るい生活が送れる。それが当たり前であり、昼夜の差は全く関係なくなった。しかし、このところ自分が思うのは、やはり夜は寝るべきものであり、マンガ家のように締め切りに追われて徹夜しないとならない業種を除けばできるだけ早く夜は寝るにこしたことがない、ということだ。
 それは自分が老いてきて夜なべ仕事、徹夜が出来なくなってきたということもある。が、それ以上にもっと昔の人のように自然のサイクルで生きていくべきではないかと思い至ったからだ。むろん、そこに3.11のこともある。原発稼動せぬためにもできるだけ電力を使わない生活を目指すならば、そうした日のあるうちの生活に戻るしかない。
 じっさいこのところのマス坊は、冬の季節ということもあるが、まだ暗いうちに目覚めて、世が白むのを待って行動を始める。そして夜はもう夕食を終えると眠くてたまらない。午前様は出来なくはないが、そうしたことをすると翌日一日ずっと寝たりない気がして調子が悪い。

 というわけで、昼間は昼間で何かと忙しく、本来は夜にその遅れをとり戻すべきところではあるが、もはや基本的に夜は何もできないしすべきではないと思えてきた。けっきょくそれが動物でもある人間の生理にもかなっているはずだ。まあ、そこに昼寝もしたりするのだから、もはやほとんど寝てばかりということになってしまうが、冬は仕方ないのである。
 というわけで世も更けてきた。ベル子さんも早く寝ようとせがんでいる。赤塚不二夫のマンガのキャラ「べし」の謂いの通り「夜は寝るべし」なのである。

新しい命、まっさらな魂2013年01月02日 22時59分00秒

★新しい家族、子犬を迎えて

 正月そうそうかなり疲れている。年末に栃木まで車で日帰りで出かけたこともあるし、人が来たりして忙しいより慌しかったこともあるが、一番の原因は子犬である。
 我家に新規参入してきた子犬・ベルの世話というか、扱いにかなり気をとられ時間と体力を奪われている。それは予想もし覚悟もして新しい家族の一員として迎えたわけだが、想定以上にたいへんだったというわけだ。

 最初は全く家族の誰にも慣れず不安と淋しさで夜中に泣いたり騒いだりもしたがすぐにこの家が新たな家庭だと覚悟も決めわかってきたようで、わりと早く家人にはなついた。当初の「脱走」したらもう絶対みつからないと目が離せなかった段階は終わった。
 紐をつけての散歩も無理なく行けるようになったし、トイレも外ですることを覚えた。室内でおもらししたのは、来たその晩だけであった。まだ室内飼いしているわけだが、大小便したいときは騒いで知らせるし、庭先に出せはそこで用を済ます。散歩で用便をすることも覚えたので下の心配はなくなった。元の飼主が言っていたとおりかなり賢い子である。
 ただ、図体はでかくてもまだ子犬であるのは変わらないわけで、当初大人しくしさは家人に慣れてくるとすっかり消え、ともかく甘えるし、その姿が見えず一人にされると吠えたり大騒ぎをする。また何でも齧るしどこへでもスタスタ行ってしまうので、うっかり目が話せない。つまり人間の幼児と同じなのである。ほっておくと危険でならない。

 まだ名前はわかっていないようだし、空地で紐から離したりもできない。名前を呼んでも戻ってこない。しかし、ずいぶん家人にはじゃれたり甘えるようになってきたし子犬がいる生活というのは笑いがたえず、口数の少ないボケ老人もみょうに多弁となった。それもまた子犬効果であろう。
 一人にすると鳴いて騒ぐので今は仕方なく夜もマス坊のベッドに入れて一緒に寝ている。おかげで湯たんぽもいらず暖かいのは助かるが、やはり隣に寝ている子犬に気を使うので熟睡は難しい。早朝から大慌てで抱きかかえて散歩に連れて行く。

 しかし、子犬と散歩するのは実に興味深い。というのは彼女は全てのものに関心を示す好奇心の固まりであり、草むら、藪の中、あらゆるところの臭いを嗅ぎ、見たり聞いたり寄り道ばかりしている。よくまあこんなに何にでも興味を持つのか感心する。考えてみれば生まれてからずっとビルの中の室内で育ち、外の世界、自然界は何も知らなかったのだ。だから見るもの聞くもの嗅ぐものすべてが彼女にとっては未知であり、驚きであり関心があるのであろう。それはたぶんペットショップのゲージの中の犬猫もまた同じであろう。

 考えてみれば、犬に限らず人もまた同じで、子犬ならぬ子供は皆そうしてこの世に来たときからじょじょに外の世界を知り関心を示し驚きでそれを受け入れていく。ただ、その好奇心、関心はやがて時と共に褪せていき、全ては自明のこととして何の興味も持たなくなっていく。そしてやがては生活に倦み人生にうんざりしていく。
 ウチの親父に至っては、この世のすべてのこと、そのほとんどが、下らない、バカバカしい、どうでもいいの三つの言葉で片づけてしまうが、そのように「世界」に対して無関心になっていくことが大人になることであり老いていくことだと考えられなくもない。

 犬だって、今いる老犬たちは同様で、バドおじさんに至ってはほぼ日がな一日うつらうつらしているだけで、食べること以外に関心はまず示さない。小屋に入ってほとんど出てこないし、散歩さえも用便だけが目的でおざなりなのである。それが老いることであり人も犬も猫も皆同じ道筋を通るということだ。「老人」は全てにうんざりして面倒になってどうでもよくなっていく。
 
 若い生まれたばかりの命、子犬が来て気がついた。子犬でも子供でも若い人が外の世界に強い関心を示す姿はとても素晴らしい。人は誰でも自分も含めて昔はこうしてまっさらな魂で、曇りない目で世界をみつめ関心を強く持っていたはずなのだ。それがいつしか全てがわかったような気になり、真剣に何も見なくなってしまった。身近な風景さえも実はろくに見ていないことに気がつく。世界は日々新たに移り変わり存在しているはずなのにこちら側の魂が朽ちてそれを新鮮に受け取れなくなってしまっているのだ。

 子犬のような心と目で、もう一度世界を、人生を新たな気持ちでとらえ直していきたい。自分をとりまくすべてのことに関心を持ちたい。それこそが「生きる」ということだ。魂はまっさらにはなれないが気持ちはまっさらにするのに新年は適しているではないか。ベルが来て良かった。

慌しい三が日を終えて2013年01月03日 23時49分29秒

★子犬を見に来たオランダ人たち

 もう疲れ果てて、昨日のブログは支離滅裂であった。さすがに意味不明だと、誤字、脱字のご指摘を受けてだいぶ書き直したり手を加えたので少しは文意が届くようになったかもしれない。ともかく書きなぐって読み返さずに即アップさせるとそんな最低の出来となる。ならば書かないほうが良心的であろう。

 今日1月3日は近くの拝島大師の縁日、だるま市があった。それと子犬のベル子が見たくて、午後から大学時代からの女友だちとその娘で、今イタリアの大学に留学している彼女の娘、そしてそのボーイフレンドであるイタリアの大学に通っているオランダ人男子の3人が訪れた。
 オランダ人は、日本に来たのが初めてとのことで、日本のお祭り=初詣の縁日の市を観て満足したかと思う。その後、うちに寄って、犬猫たちと存分にふれあったという次第。
 ウチにはこのところフランス人がよく来たが、オランダ、イタリア系は初めてであり、なかなか興味深かった。好感の持てるナイスガイで縁日でも人目をひいていた。※ベルコを抱いている写真をあげておく。


 というわけで来客の多かった三が日も終わり、ようやく自分のことに腰をすえて向かえる。実はまだ年賀状だって書いていないどころか作ってもいない。なのだが幸いにして元日から何枚か届いている。せめてその人たちには年賀状を急いで返さねばならない。
 以前は人が来たり出かけたりで忙しくても夜に、ほぼ徹夜してでも年賀状は元日の夜には完成させていた。が、もう夜は零時前には寝ることに決めたのでそうした無理はしないしもはやできなくなった。なので来客があったり昼間出かけたりするとその日はそれでオシマイとして他のことはなにもできない。

 まあ、明日は4日、仕事始めであるし、遅まきながらようやく私ごとにとりかかることにしよう。明日中に作って出せばたぶん松の内には届くかと思う。そんなで既にマス坊のところに年賀状を送られた方はもう少しお待ち頂きたい。まったく申し訳ない。

 新年の予定というか、まず今月1月の無頼庵の予定も明日出します。ちょっと思うところあって今月はイベントなどの活動は休止としたい。

今月はメンテナンスでお休みを2013年01月04日 14時43分52秒

★思うところがありまして

 新年一月四日、仕事始め。ようやく年賀状、昼過ぎに印刷して夕方までに昨日までに来たぶん十数枚は出し終えた。あとは明日届くであろう分も含めて明日中に出せば月曜には相手方に届きこれで今年の年賀状騒動は終わるだろう。
 毎年毎年、今年こそは年内に、つまり旧年中に書き上げて投函し正月はのんびり過ごしたいと願うのだけれど果たせたためしがない。来年度こそはと誓うがどうなることか。まあ、それでも今は届いた方にだけは投函し終えたので気持ちは軽やかだ。

 さて、新しい年が始まり早々だが、今月は拙宅、無頼庵でのイベント企画はお休みとさせていただきたい。ライブの予定はなかったが、フォークソングワークショップと三留まゆみ映画塾は計画していた。特に新年から始めるつもりでその「映画」鑑賞会のほうは準備を進めて来客に宣伝もしていたのだが、開始は2月からとさせてもらいたい。また、フォークのほうも、ギター教室は開催するものの「講座」は2月に順延とさせてほしい。誠に勝手な話で申し訳ない。その理由であるが・・・

 生活に追われて忙しいとか時間がない、疲れているということは何かをしない言い訳にならないし、言い訳にすべきでないのは当然のことだ。なぜならば、忙しいのは誰でも同じだし、大変なのもお前だけではないのである。どんなに忙しく時間がなくても出来る人はその中できちんとやるべきこと、やりたいことを成し得ていく。逆にそうした「言い訳」でしない人は、時間ができたとしてもまた別な言い訳を自らにしてやらないのである。それはわかっている。
 ただ、何においてもであるが、メンテナンス、つまり保守点検、環境整備というようなことはやらないとならない。それをしないでなおざりにしたままでいると中央道のトンネル事故のように大惨事に繋がる。

 私ごとであるが、この数年、実はずっといつか近いうち早くやらなくてはと思いつつ成し得ていない生活上、仕事上のけんあんのことがいくつもある。それを解決しないでいたので今は全てが不具合、不調になって問題化している。思いつくままに挙げていくと、

 まず今使っているパソコンのハードディスクの使用量が限界に達して、起動から一つソフトを立ち上げるのにもやたら時間がかかるようになってしまった。意識して不要なファイルやソフトなど消して使っているのだが、もう5年以上使い続けていると、人間でいうところの動脈硬化のような状態なのかともかく全てが遅く、すぐにエラーやフリーズして応答しなくなってしまう。メーカーに相談したところ一度中身をバックアップとってからリカバリーすることを奨められた。もはやそれしかないようなのだ。
 メールソフト起動させるだけでも5分も10分も待つのは実に馬鹿らしいのでそうするしかないと考えてはいるのだけれど、今まで常に忙しくてまず今までのデータをバックアップ作業すらとりかかれていないのだ。

 また、古本稼業の方も、棚卸しを全然しなかったので、在庫ばかり増えてちっとも本が動かなくなっている。もう売れないままの本は即処分して棚を空かして新たに別な本を出品させなければならない。だがその作業も時間がなくいつまでたってもできやしない。アマゾンではなく自店舗売りのほうもきちんと本を揃えて再開したいのにそれもできずに何年も過ぎている。

 その他、これまでライブなどで録りためた音源を整理してデジタル化していくために波形処理ソフトを買ったのにそれをマスターしていないし、カセットテープなどのアナログ音源をデジタル化する作業も全く手付かずのままだ。
 庭のイチョウやケヤキの枝下ろしも冬の間にやらねばならない。家の修繕箇所、ペンキ塗りも放置したままのところが沢山なのである。そうした懸案のこと、いわば生活と人生のメンテナンスと呼ぶべきことが溜まりに溜まってしまっている。このままだと人生自体がトンネルの天井のように「崩落」してしまうのは間違いない。どこかで時間をかけて腰をすえてそれに取り掛からねばならない。咳もまだ続いているし歯医者にも行きたい。

 むろんそれら全部を始めたら1年かけても終わるか定かではない。ただ、本当に腰を据えてせめて一ヶ月でも真剣にそのことに取り組まない限りたぶん永久にそれはできやしないと思えてきた。いつかそのうち、暇になったら、これが終わったらと考えていてもやれたためしがない。ならば本気でまず最優先順位で一つづつ向き合ってとりかかるしかない。そうこのところ考える。

 特にパソコンの不調、不具合は緊急課題で、もう一台一昨年買ったノートタイプのがあるとはいえ、クラッシュしたらこれまで書いたり記録したものが全部消えてしまう。いわばマス坊の近年の活動、人生数年分が消滅してしまうのである。それにこのウインドウズXPの入っている富士通のパソコン、メーカー修理期間が今年の5月で終了なのだ。長く使い続けるためにも早くバックアップとってリカバリしなくてはと焦っている。

 もちろん無頼庵でのイベントをしつつそうした作業を傍らやっていくのが筋なのはよくわかっている。が、イベントがあるとやはり宣伝や準備に気持ちはとられてそちらに意識が向いてしまう。ブログ程度は書き続けられるはずだが、やはりメンテ作業と平行して別に企画を立て準備していくことは不可能だと不器用な自分は思える。
 本当は三ヶ月ぐらい時間とって家にこもって作業を進めたいと考えるが、フォークソングワークショップも映画塾も世に告知宣伝して始めた企画でありそこには社会的、対人的責任がある。のでまずは一ヶ月、今月だけお休みさせて頂き、全力で最優先課題だけとりあえず片づけていこうと考えた。どこまでどれほど成果が上がるか確信はないがともかくやるしかない。誠に勝手な言い草であるがどうかご理解願いたい。

 2月からの予定は出次第お知らせします。

今年は憲法を守る闘いと原発再稼動阻止に全力で取り組む2013年01月05日 23時42分02秒

★正月明けての酷寒かな

 新年も5日となり今年初めての週末である。ようやく疲れは癒えてきた。それにしても今朝は冷え込んだ。家の中、台所の水道が凍りついていて蛇口をひねってもなかなか水が出なかった。外の流しならともかく室内で水道が凍ったのは記憶にない。いくら西多摩でも寒すぎるではないか。

 犬の散歩に犬たちを外に連れ出して(説明し忘れたが、この冬は犬たちも夜は全員室内で過ごしている)、犬小屋脇にある飲み水の桶を見たら足で蹴っても全く割れないほど厚く氷が固く張っている。外はどこもかしこも氷点下のカチンカチンであった。

 それにしても去年の夏は猛暑、酷暑で、秋になっても9月半ば過ぎまで連日30度を超していたのだから、わずか四ヶ月弱でこれほどの寒暖の差、30数度もの気温の上下は激しすぎるのではないか。四季があることは素晴らしいことだが、この温度差は生物にとって過酷過ぎる。暑いのも寒いのももはや生存限界の域ではないか。
 人はかろうじて電気によって室内の温度を調整して生きながらえているが、自然界の動物にとってこのところの猛暑と酷寒は耐えうるのか案じてしまう。渡り鳥のように季節によって住むところを選べる生物は幸せであろう。何事ももっとやんわりと緩やかに移り変わってほしいと願うのに、自然界も政治の世界も極端から極端へと移ろいで行くので本当に困る。

 さて、今月はそんなわけで無頼庵の予定は、フォークギター教室だけでほかは何も予定していない。ともかくパソコンをはじめ家のこと、古本稼業、体調も含めてメンテナンスに励みたい。ライブ観覧も子犬が来たこともあって極力外出は控えざるえない。
 ただ、11日、金曜は拙ブログから知り合ったお客様が来られるので開放しておく。もし遊びに来たい方はその日お越し下さい。2月からの予定も来週明けには全部出せるかと思う。いよいよ映画の解説付き上映会も月一で始まる。ユニークな映画を紹介していくのでぜひ多くの方々のご参加を。

 今年は夏に参院選挙がある。安倍改憲原発再稼動政権は、それまではいちおう少しは大人しくして彼らの本質を極力隠して景気浮揚にまず力を注いでいくだろう。その時点で景気と雇用が改善されていれば国民はまた彼らを信任し大勝させる。そして衆参とも自公、維新らで万全の体制を整えたらファシストたちと手を組んでいよいよ旧い日本を取り戻していく。
 さっそく憲法、中でも九条を変えて米国と共に世界のどこでも日本国防軍は戦争が出来るようにしていく。そして米国と財界の意向を受けて、原子力発電所は再稼動し新たな原発さえも建設着工する。
 そのいつか来た道はバラ色であろうか。無謀な侵略戦争の結果があの広島・長崎への原爆投下、全国各地の大空襲であり、原発依存の成長戦略のツケが3.11の大事故なのである。ならばその道はこの国の滅亡へと向かうだけだ。

 極右、軍国主義者や、ファシストたちにこれ以上議席を与えてはならない。それは日本滅亡の道だと断言する。新年も5日過ぎたが、これまでより拙ブログは今年こそ脱原発と憲法擁護の姿勢を強め非力ながらも出来ることは何でもやっていく。もし同感、共感される方が一人でもいたらどうか一緒にアクションを起こしてください。マス坊一人でただこんなことを書き連ねても世界は何も変わりません。
 このままだと日本は、世界は大変なことになると少しでも感じた方はどうか貴方のできること、身近なことからアクションを起こしてください。そうした個々の皆の力が集まれば必ず世界は変わっていく。

疲れを知らない子犬のように2013年01月06日 22時07分55秒

キャラコおばさんとベルコ
★曇りのない目で世界をとらえなおす

 子犬が我家に来てから10日が過ぎた。ようやく新しい土地での新しい家族との生活にも慣れてきた。が、その本性が現れるにつれて周囲は皆彼女に振り回されて大変大忙しである。

 子犬とはこんなに騒がしく行動的な生き物であったのかとベルの到来で改めて思い至った。今や老犬の域に入ってきたブラ君の誕生以来、実に13年ぶりの「子犬」であるからすっかりそんなことを忘れていた。
 ともかくやんちゃで何でも関心を示して噛んで走り回ったりと片時もじっと大人しくしていない。静かなのは眠っているときだけで、誰かが側にいないとかなり大きな声で吠えまくるし目を離すと勝手に何をしでかすかわからない。本でも新聞でもビニールでも何でも齧るし室内を破壊尽くす。なので、親たちがデイサービスに出かけ不在だとベル子の世話だけで何もできなくなってしまう。

 それはある程度覚悟の上というか想定もしていたはずだったが、老犬ばかりの老人一家に突然登場した子犬はまさに想定外の騒動を巻き起こしている。しかし、人間の子供が生まれてその子育てを思えばもっと手のかかる生き物を十数年も育て上げなければならないのだから、たかが子犬ほんの数ヶ月の間のことなのである。大変だとしても辛くも何ともない。ましてこのやんちゃで可愛い一瞬ひと時を大事に慈しまねばならない。ホント、子を倦み育てて親になった人たちはエライと尊敬してしまう。

 ベルは昨年の9.11が誕生日とのことだから、今週末でちょうど四ヶ月。図体はデカイが、確かにまだ子供で彼女の一挙一動に今ウチでは笑いが絶えない。犬は1年足らずで大人になってしまう。春には外に出して庭飼いもできよう。こうして共に大騒ぎで暮らしている時間はさほど長くはない。

 ベルはとても賢く、トイレも外ですることをすぐに覚えたし人語も解してはしゃぐわりには手がかからない。中でもいちばん感心することは夜はマス坊と一緒にベッドの中で朝まで大人しく眠ることだ。おかげで彼女が来てから湯たんぽはいらなくなった。
 ものの本によると、昔の猟師たちは、厳冬期に猟にでるときは必ず各自一匹づつ犬を連れて山に入るという。そして雪が降ったときなどはビバークとして雪洞を掘り、それぞれ彼の犬を抱いて暖をとり一夜を過ごす。犬は体温が高いから、昔の冬装備、蓑笠程度でも真冬の雪山でも犬さえいれば凍死することはないのである。それは真実だと思える。

 それを読んでから犬と共に眠ることは憧れであった。まさか野外でそんな雪の中でそれを試みる勇気などないが、せっかく犬がいるのだから抱いて一緒に眠れたらと考えていた。しかし、ウチの従来の犬たちはそんなことに慣れていないのでベッドに連れ来ても大人しく一緒に寝ない。掛け布団の上に身を投げ出して飼主を無視して勝手に眠るので単に重くて邪魔なだけだった。
 が、ベル子はまだ小柄だから抱いて布団の中に入れると潜ったまますぐに寝てしまう。朝が来ても暴れたり騒いだりはしない。人と共に安らかな寝息を立てて眠っている。そして確かに暖かい。まだ「新品」の犬だから犬臭くもないし毛ざわりも柔らかで暖かい縫いぐるみを抱いているかのようだ。これは快楽である。犬好きにとって極楽、天国かもしれない。
 果たしていつまでこんな「子犬」のときが続くかからない。疲れを知らない子犬のスピードで時は過ぎていく。すぐに大人になりまた少しづつ老いていく。が、彼女の到来は大きな癒しであり気づきの機会となった。ベルが今見ているこの世界全てを自分もまた曇りのない目で捉えなおしたいと思う。

 ウチに来てベルを抱いてほしい。きっと彼女のぬくもりで心の中の固くなっていた何かが溶かされるはずだ。

世界はミーハーで動いている・12013年01月07日 22時58分14秒

バドおじさんとベル子、リクエストにこたえて
★世界を動かしているのは「ミーハー」だった。

 1月も7日月曜となり、新年の第一週が始まった。実質的にどこもかしこも今日が仕事始めといってよいであろう。何はともあれ気持ち新たに今年も出来ること、すべきことを一つ一つやっていこうと思う。

 さて、犬の話はひとまず置いて、これは以前よりずっと考えていていつかは書き記しておこうと思ったことなのだが、「ミーハー」という人種、いや正しくはそう区分される層の人たちについて何回か考察してみたい。
 実はこの国も含めて、世界を動かしているのはそのミーハーたちであり、ミーハーの人たちに認知され支持されない限り政治も物品も全てのことやモノは動かないのである。
 ではいったいミーハーとはどういう人たちなのか、どういう傾向と気質を持ち何故にミーハーとして区分されるのであろうか。また、自分がミーハーでないとしたらその差や違いはどこにあるのか。
 これは試論として拙いながらも考え続けて今思うこと気づいたことをまとめてみたい。

 ミーハーの語源についてはご存知であろうから今さら説明はしまい。世間で言われているところの解釈だと、その時々の流行などにすぐに踊らされる婦女子といった解説であり、そこには軽薄な、という侮蔑的ニュアンスも多分に含まれている。決して好意的評価には用いられない。近年では女子供だけではなく、定見のない男性をも指す、と書いてある記事をネットで読んだ。

 自分の解釈では、ミーハーとは男女問わず年齢も職業も関係なく基本的に流行やマスコミに扇動されやすい人々であり、政治的には無党派層がそこに重なっている。別の言葉に置き換えれば「小市民的」と言っても大差ない。無知な「一般大衆」と呼ぶこともできるかもしれない。
 しかし彼らこそがその国の商業や政治を実質的に動かしていることは間違いなく侮ったり馬鹿にしては絶対にしてはならない。ミーハーというのは間違いなく昔も今も常にある程度、かなりの数の割合で存在している層であり、気質としては実は誰の心にもある程度は持っている傾向でもある。
 だが、団塊の世代が、一つの層として存在するように、現実の実体的ミーハーもこの国ではかなりの層、人口にして相当な割合を占めている。もし無党派層が5割という統計があるならばミーハーもそのぐらい存在していると言って過言ではない。

 ではその実際のミーハーとはいったいどんな人種なのであろうか。どういう気質、傾向を示すのであろうか。ミーハーをミーハーたらしめるものは何なのか。

世界はミーハーで動いている・22013年01月08日 22時55分01秒

★日本人特有の横並び意識とミーハーそして尾崎豊

俗に日本人は他国、他民族より横並び意識が強いと昔から言われている。
 例えば戦後様々な家電が家庭に入ってきたときも、隣が冷蔵庫を買ったから、近所は皆テレビがあるからウチも早く・・・という隣近所に倣うという意識で家電は一気に普及したことはよく知られている。
 こうした周りの人に倣う意識、人と同じでありたいという心理は当然今もある。曰く、皆が大学に行くので自分も・・・から、周囲の皆がスマホを持っているから自分も持たないと・・・皆がそれをするなら自分もそれをしないと・・・と常に周囲の流行に合わせていく。

 そうした気質は、日本人社会に多い血液型A型の気質と近しいという指摘もあり、突出したり目立つことを嫌い、人と同調することを好む=協調性が高く横並び意識が強い国民性はA型という血液型の人が多いからかどうか結論はともかくその指摘はなかなか面白い。西欧では人と同じということは確固たる自分が無いということであり恥すべきことであるのに、目立つこと、つまり出る釘は打たれるのだからまさに国民性の違いであろう。

 ただ、ではそうした横並び意識とミーハーは即同じかというとちょっと微妙に違うような気がする。極めて近しいしその根底にある心理はほぼ重なるとは思えるが、横並び意識というのは、まさに国民性であり世代を越えた国民的傾向であるのに対し、ミーハーはもう少し個々の人格、性質に大きく寄っている。横並び意識が「志向」であるのに対してミーハーは「嗜好」なのである。

 尾崎豊、というと今では伝説のカリスマであり死後も人気高い大スターであろう。和製ジェームス・ディーンとしておそらくこれからも何度かリバイバルブームが起きるだろうし、世代が変わっても新たなファンに広く支持されるかと思う。
 しかし、彼をデビュー当時から知る者としては、彼が今ほど「ビッグ」になれたのは二十代半ばで死んだからであり、もし今も生きていたらもう忘れさられ人気も凋落した「あの人は今」の一人でしかなかったはずだというのは言いすぎか。
 彼を不当に貶める気はないが、才能あるシンガーだと当初は注目したものの若く勢いだけの人という印象ばかりで当時自分はさほど評価していなかった。「もう尾崎はいいよ」、とマス坊の周囲では話していた。彼も反抗する若者のカリスマとしてのイメージに自ら苦しみ、死の直前はもうほとんど活動はしていなかったように覚える。一頃の人気も凋落し早くも「過去の人」化していた。彼の死は今も不審なところが多いが、要するに音楽的に行き詰まった末の自堕落的自滅死ではなかったのか。

 しかし、その謎の死が報じられてからがすごかった。マスコミは彼を競って取上げ、楽曲を流し続けアルバムは飛ぶように売れた。それは決して彼のファンが反応したからではない。彼が死んでから初めて彼のことを知り関心を抱き聴いて気に入って新たなファンが膨大に生まれたからであった。それから何年間も彼の生前のセールスの何十倍ものCD、写真集、書籍が飛ぶように売れた。むろん良い曲も沢山残しているしようやく正しい評価が与えられたと言えよう。しかしそれは死んでマスコミが大きく取上げてミーハー層が一気に激しく反応したからであって、今も健在であれば絶対に今ほど売れることはなかった。

 尾崎は1965年の生だから、今も生きていれば既に40代半ば過ぎ。おそらくでっぷり太って俳優業に転身しているか、引退してビジネスでも手がけてたまにフォーク懐メロ特番に出ていたかもしれない。しかし、そのとき彼は何を唄っているか、と考えると、まさに和製バンクロッカーとして十代の頃の怒りや悩みを激しく唄った人ゆえにやはりその姿は全く想像できない。つまりあまりに早く燃焼しつくした人ということなのだろう。むろん、ピストルズのジョニー・ロットンのような余生も有り得るが。

 前衛と一般大衆との距離は二歩も三歩も遅れているとよく言わている。つまり、ファションでも思想でも何であろうと先端を走る人たちがもう古臭いと投げ捨てたものに、ようやくそれから大衆は飛びつくのである。尾崎豊のケースを思うときそのことを深く得心した。一度ミーハーが大挙して動けばこうしたブームが常に起きるのである。それは政治でも何でも同じことだ。

世界はミーハーで動いている・32013年01月09日 19時36分57秒

★では、「ミーハー」とはいったい何であるか

 手元にある辞書には、みいはあ みいちゃん-はあちゃんの略《俗語》流行に影響されやすく、スターなどの動静に夢中になるような人たち。特に若い女性に多く、女性は「み」と「は」の付く名前が多いことから とある。※しかしこれはホンマかいな。疑わしい気もする。
 だが、自分が考え、定義するミーハー層の人たちとは、男女性別年齢を問わないし決してそんな軽薄な人種だとは思わない。人間的、知能的にも低い人たちではない。収入を見てもいわゆる貧困層ではないし、社会性もあり皆学校を出てきちんと就職して普通に結婚もし子育てもしている。実にまっとうな好感の持てる社会的にも自立した良い人たちである。

 ただそこにミーハーの最大の特徴であるその時どきの流行や話題、トレンドに実に敏感なのである。例えばの話、その年の大河ドラマが決まると原作を読んでみたいと本屋に走るし、巷で話題の映画、ドラマなどの原作本は必ず手にする。女性週刊誌、及び週刊ポスト、現代、文春的雑誌もよく目を通している。だから芸能界のゴシップなどにも詳しい。どちらかというと活字世代でもある。その時どきの話題に置いてけぼりされたくないのである。時流に乗り遅れたくないという意識がとても強いゆえミーハーなのだ。

 ゆえに話題の店や新しい観光スポットが出来るとすぐに足を運ぶ。テレビ、マスコミで取上げられた新商品、食材などにもすぐ手を伸ばす。マスコミ及びネット上での話題にはすぐに反応していく。ただその関心は長続きせず常に一過性なのである。何事にも広く浅く、熱しやすいが冷めやすい、移り気というのも彼らの特質である。
 だから政治的にも決して無関心だというわけではない。社会的関心度は低くはないからまずは政治家には景気を良くしてほしいと望んでいる。そして選挙にも行きその時どき新しい期待できそうな政党や話題の候補者に一票を投じる。前回の総選挙では自民か民主か政権交代なるかが争点だったから民主党に入れた。今回は民主党には全く裏切られ失望したから民主だけは避けて期待がもてそうな維新ややる気まんまんの自民に入れたのである。

 しかしこれらはミーハー層の表面的な傾向、行動に過ぎない。自分が考えるミーハーの定義とはただ一つ、彼らはモノゴトを深く考えないしそもそも深くは考えられないのである。

 例えば、ある政党の党首がマイクを握りこう言ったとする。「今の政治家は仕事をしない。国会中継を見たって居眠りばかりしているではないか。だからそんな政治家は不要だから政治家の数をもっと減らすべきだ。だいたい衆議院と参議院の二つもあっても意味がない。法案を決めるのに時間がかかるばかりで政治がなかなか決まらない。参議院は廃止して一院制にすれば政治に金がかからなくなるではないか」と。

 拙ブログの読者方はミーハーではないからこの論が暴論、妄言の類だと気づかれるであろう。国会で居眠りするろくに働かない政治家は落選させるべきだけであって、議員定数を減らすこととは何も関係ない。まして民主主義の原理原則であり世界各国の政治の標準形態である二院制さえも否定するのは民主主義そのものを否定する独裁者、ファシストの持論でしかない。
 ところが、ミーハー=深く考えない人たちは、この演説に、うんうん、そうだもっともだと頷いてしまうのである。そう言われれば何となくそうだと短絡的に思うのである。決してそれを検討したり疑ったり考え続けることはしない。その裏に何があるのか気づかない。あくまでもその場そのとき耳に心地良い言葉が心にすうっと入って来てそれを無条件無定見に受け入れるのである。
 そうした根本的気質が備わっているからマスコミが流す情報にそのまま即反応していく。今はナウいとは言わないが、今年のトレンドはこれだ、これが流行る、今これが話題だと報ずればそれをそのまま受け入れていく。そうした「条件反射」によりマスコミが自民が復調だと事前の結果予測を出せばならば自民に投票するのである。

 ただ、ミーハーの心理は誰の心にも多かれ少なかれ存在している。それは誰にも否定できないし一概に悪いとはいえない。それはこのマス坊にもいくらかはある。そろそろスマホが欲しいという気持ちもなくもない。ミーハーは悪だと断ずることはできない。問題はその度合いの多寡なのである。今日本人は老い若きも男も女もあまりにミーハー化してしまった。何も考えずマスコミの言うがままに踊らされている。そのことを嘆いている。そしてミーハーの対極は何かと考えると、「おたく」だと気づく。つまり、おたく⇔ミーハーという図式が成り立つ。問題は人はそのどの位置に自分を置くかなのだ。

世界はミーハーで動いている・42013年01月10日 22時03分03秒

★万国のミーハーよ目覚めよ、団結せよ

 前回は、ミーハーは深く考えないと断じた。誤解されては困るのだが、そう書いている自分、マス坊はミーハーよりも賢くて立派だとか人として上だとかエライなどと思いもしないし己惚れてもいない。

 自分はどちらかといえば、オタク層側に位置しているわけで、ミーハー層の方々のほうがはるかに社会性、公徳心も高く人間としても価値ある生きかた、まっとうかつ前向きな人生を送っていると考えている。そう、自分は彼らに比べれば何一つ人としての責任を果たしていないヤクザ者だと自認する。考えないと批判したミーハーの人たちだって人生設計や老後の計画についてはマス坊よりはるかに深く綿密にお考えのはずだ。

 彼らが深く考えないというのは、想像力が足りないということも指している。が、それと同時にまだ「真理」に目覚めていないからなのだとあえて言おう。真理とは何か、この自分は目覚め悟ったと言えるのか。マス坊自身をじっさいに知る方は嗤うことであろう。いったいあの男の何が目覚めているのか、単なる丘の上のバカのくせに、と。
 しかし自分はもうその不変の真理を理解している。それは社会そのものの本質というようなものだ。政治も含めてこの世界の成り立ち、どう成立しているのかである。何故に金持ちと貧乏人がいて貧富の差、身分家柄の差があるのか。そして世界と社会はどこに向かって進んでいくのか。

 世界中の富は一定であることは誰でも理解できよう。資源に関しては石油のように使えば減っていくものもあるが基本的に地球が一つである限り地球上のものは全て一定のまま変わらない。しかし、人口が爆発的に増えて生物全体の個体数は減ったとしても人間だけは増え続けている。
 そして食料も資源も富も地球上にあるものは一定だとすれば、それをどう分配すべきか。喩え話をする。丸い一つのパイがあるとす。それはピザでもかまわない。それを10人で食べるとするなら均等に10等分するのが常識であろう。一人の人が半分近く食べたりしては残りの人の取り分が10分の一から20分の一になってしまう。そんなことは誰でもわかる。
 ところがそれが100人で食べるとする。すると一人ひとりの取り分はすごく小さくなる。それでも均等に分ければ少ないけれども個々には行き渡る。量は少なくても平等であり文句は言えまい。
 しかし、もし誰か力あるものが先に大きく自分勝手に切り分けて食べてしまったとする。残りの人たちの分はごく僅かになり最後にはひとかけらも食べられない人が出てきてしまう。それは仕方ないことであろうか。
 このパイを切り分けているのは神ではない。神の見えざる手がそれをやっているという考え方もあるが、自分はそれに与しない。パイを切り分けているのは米国であり、国際的大企業であり、大金持ちたちなのである。彼らの手にナイフがあるので、とうぜん彼らはパイを腹いっぱい食べられるし、食べきれない分を溜め込むこともできる。
 一方、彼らがそうして公平な切り分け分の何十倍も食べてしまうので当然食べられない人、食べたくても行き渡らない人たちが出てくる。それが中南米、アフリカなど第三世界の国々であり、米国にも存在する貧困層、ホームレスなのである。

 そのパイを切るナイフを自ら手に入れれば自分も好きなだけパイが食べられるではないかと考える人もいよう。しかし、それこそが実現しないアメリカンドリームであり、現実的には、日本でも貧乏人の家に生まれれば末代まで貧乏だという貧困の連鎖となっていく。貧乏な者は永遠に貧乏なまま教育も受けられずに死んでいく。そして金持ちはその咥えた銀のスプーンとナイフを手放さない。それが資本主義のシステムであり、貧乏人の正当な取り分を力ある者、資本家や金持ちがずっと搾取し続けているのである。
 その詐欺的イカサマシステムを学問として解明したのがマルクスやエンゲレスたちで、そこで初めて真理が開かれたというわけだ。つまり地球上にいる人間一人ひとりの命の価値が平等であるならばそのパイの取り分もまた均等でなくてはおかしいではないかと「正論」が世界に広がり多くの貧困層がそのイカサマに気づき目覚めたのである。資本家はきちんと俺たちの取り分を支払えと。

 だが、残念なことにその仕組みに気づかぬ人たちもまだ多い。何故なら実際の権力を握る者たちは今も昔もずっと財界・大企業の意を受けた彼らの御用聞き的政党・自民党中心だったし、テレビ・新聞、マスコミも読売グループに象徴されるように体制擁護の報道に明け暮れている。草の根の反核運動、脱原発集会などは報じない。あげくに出版社系週刊誌さえ維新橋下氏を日本の救世主のように祭り上げるキャンペーンをずっと張っていた。

 そして今もマスコミは使い捨ての情報を発信し続けている。やれ、次のトレンドはこれだ、乗り遅れるなと。どこそこの株を買っとけと。そこには深くモノゴトを考えさせようとか問題提起は一つもない。ただ、刹那的お金をどしどし使わせようとする資本家の企みが隠されているだけだ。次々と新商品と新人が出てくる。そして次々と使い捨てにされていく。そしてミーハーの人たちは踊らされていく。

 あえて言う、世界のミーハーよ目覚めよ、そして団結せよと。