メールであれこれ思い悩む愚かさよ ― 2014年11月05日 23時27分04秒
★直接会うに勝るものはないと思い至った日 アクセスランキング: 72位
今も昔は本当に重要な要件や心から伝えたいことがあるときは人はむろんのこと相手方当人にまずは会い直截話すのだと思う。
が、それ以前の要件は、今の時代ならまずはネット上のメールサービスシステムで相手に送りその反応、つまり返信を待つのだと思う。自分もそうしてきた。一昔前ならば、まず電話で直接話すとかし、次いで郵便で文書にして相手に送っていたはずだ。今はそれがパソコンや携帯のメールが代替している。
で、現在ではまずはメール、もしく添付ファイル的なインターネットを介した手段でこちらの連絡事項と気持ち、要件、情報などは向こう、相手方に即「送信」できる。これは簡便かつスピーディでよいことのはずだと思える。
が、いちばんの問題は、それが果たして相手に届いたか、向こうは読んでくれたかはわからないし即その返事は返ってくる保証は何もないことだ。むろん送ったメールが届いているか相手に読まれたかの開封確認もとれる。が、それはいくら何でもいちいち普通は用いないし自分もそれはしたことがない。たぶん誰もが「メール」とは送れば向こうに届き読まれるであろうとただ信じて利用しているのだと思える。
そして自分ならば、届いたメールに対してほぼ常に即時とは言えないが遅くとも当日中に、必ず「返信」は返している。それは礼儀以前にネット上の常識だと考えるし、商売もしている関係上即返答は欠かしたことがない。
ところが世の中、ごく親しい関係にならばこそなのか、メールを送っても返信は返らないこと、そういう人が多々ある。つまりそこには急いで返事をメールしなくてもかまわないという思惑が働くのであろうか。
ただ、おそらくこれは誰もが同じ思いになると信ずるが、こちらがある程度真剣に思いを込めて書いた手紙=メールに対して、何も返事=返信が返ってこないのはかなり心情的にツライものがある。
こちらがメールを送り、その相手に届いているはずなのだが、何日たっても一切返信がないのは自分の場合本当にツライ。時間と共に精神的に参ってくる。果たして届いたのか読んでくれたのか不安にもなるし、何で返信してくれないのか、怒らせたか気を悪くしたか疑心暗鬼にもなり苛立ちもしてしまう。
しかし、相手にとっては、別に届いたメールに即返信しなければならない義務は何もない。急を要しないならそのうちゆっくり落ち着いてからと思うのかもしれないし、そもそも読めば済み返信すら念頭にないのかもしれない。
が、送った者は勝手にも、その気持ちの分だけ返信を期待し、たとえ内容がなくても届いたという確証のようなものを求める。まあ、勝手にこちらがメールしているのだから返信はなくたってそれもまた仕方ないはずなのだ。が、少なくともストーカー的無意味なものでないならば通常の人間関係ならば用事あってのメールしたのだから届いて読んだら即とは言わないが数日内に届き読んだことの返信はできるはずだしすべきと考える。それがネット上の人間関係の常識だと自分は認識している。
しかしそうではない人も多々いて、特に女性にそれが多く、メールとは返信しなくともよいものと思っているのかと訝しくさえ思ってしまう。辛いのはその返信をひたすら待ちそれでくたびれてしまうことだ。相手が男ならば、連絡ないならば何度もまたメールして返事を請うこともできる。が、女性だとあまり強く執拗に返信求めて届いてるか、読んだかとメールするのも憚れてしまう。下手すると今はストーカーまがいとなる。つまるところ向こうからの返信をただ待つしかない。日に何度も受信トレイを確認するはめとなる。そして失望を繰り返していく。
まあ、それは下心抜きでも恋心のようなものなのかもしれないが、一昔ならばどうだったのかと考える。男なら女性=大事に思う相手に、電話も憚れるならまずは要件も含めてこちらの気持ちを手紙にして送ったはずだ。そして向こうに届いた頃から、何らかの反応、返事が届くのをひたすら心待ちにする。日に何度も郵便受けを確認する日が続くだろう。そうしたことはたぶん昔の人は一度ならずした思い出があるはずだ。
今はそれがネット上のメールというシステムに代わっただけの話かもしれない。しかし、昔は一文字ずつ懸命にペンで便箋に記していた頃と違うぶんだけ、今はよりその手紙=メールも相手にとってさほどどうでもいい、すぐに返信しなくてもいい軽いものになっているのではないか。
つまり昔は「手紙」という現物があった分だけ何らかの返事は当然求められ常識として返事の手紙も時間をおかずに送る義務もあった。それがネットの時代ともなると、ごく簡単にメールが書け即送信できる分だけ、返事、つまり返信もまた簡単にできるがゆえ即時性と必然性を欠き重要ではなくなってしまっているのかと考えてしまう。
今の時代、男女を問わず、こちらが送ったもの、メールに限らず届いているはずなのにいつまでたってもその返信すらかえってこないことが多い。それはこのオレ、マス坊だから、つまり返信など不要な者と考えての措置なのだろうかとも考えた。が、まだしも、たぶんおそらくそういう人はよほどの大事な件や特別な人以外、そうしたメールなどどうでもいいものと考えて返信を怠っているのかとさえ考えてしまう。
いや、人は返事しなくてはと思いつつ忙しさにかまけて結果としてレスポンスを放擲したり無視することになってしまうのではないか。つまりよほどの重要な要件と大事な人以外、メールなど即必ず返さずともよいと思うのであろう。
かくいう自分に他者のそれを責める資格はない。基本、我は届いたメールにはほぼ即日のうちに必ず返信はしているが、他のだらしさなさ、ぞんざいさは他にももっといくらでもあるのであるから。
と、こんなことを書いたのは、今日は、11.30のライブの打ち合わせで日暮里まで出向いて、出演者の一人真黒毛ぼっくす氏と会い呑みつつあれこれとことん話したからだ。
実のところ昔からよくライブの打ち上げで彼とは会っていたが、こうして二人だけでサシで向き合い忌憚なくあれこれ話したのは初めてであった。好きなフォークソングのことからお互い心酔してきたあがた森魚、鈴木翁二にまで話がはずみ、最後は抱き合ってから別れた。
当たり前のことだが直接会って話すのに如くことはないと深く思い至った。おそらく100回彼とメールのやりとりしても今晩のミーティングより深い内容ある話まで行かなかっただろう。なぜならメールとは常に疑心暗鬼で、一方的にお互いの腹の探り合い、一歩下がった気持ち伺い合いでしかないから。
メールはすぐれたツールだと思う。しかし、問題はそこに共時性、同一時間性がないことだ。チャットならまだしも、いくらこちらが真剣に考え気持ちこめて書いたメールを即相手に発信したとしても向こうは即それを読んでまたすぐに返事を返してくれるかわからない。また読まれるという保障も返信すらこちらは求められない。常にあくまでも届き読んでもらえるという前提のもとに、勝手にこちらが向こうに送っているだけのことだ。そもそもそれは伝達手段としてまっとうなものなのか。オレはとっくに死んでいた友人に何十通もメール送ったが゛、それは届いたのかどこへ消えたかも全くわからない。
ならばそれで「返信」や反応待つことすら実にバカらしい無駄なことではないのか。向こうには向こうの都合や気持ちがあり、返信すら返す気もないのかもしれないのだから。メールなんてそもそもそうした大事なこと、こちらの気持ちを伝えるツールではなく、単なる携帯のメール的やりとり程度の連絡事項のみに用いるべきものでしかないと思い至った。
つまり、〇月〇日、どこそこの駅北口改札で〇時集合、もし遅れる場合はこの携帯に連絡を、と、その程度の要件のみの連絡ツールでしかなかったのだ。
大切に思う人からひたすら返信メールを待ちわびるなんて愚かなことだ。
何はともあれやはり直接会いとことん話すことから何事も始まる。せっせっとメールを繰り返し送って相手にこちらの気持ちが伝わりわかってもらえたなんて思うな、である。
しょせんネットの世界なんてこんなものでしかなかったのだ。ようやくわかった。ならば何も期待するな、頼るな、そしてそこで失望なんてす.るな!! 大事なことや大切な気持ちはもっと確実に相手にしっかり届くような手段を考えろ。結果はともかく、向こうにそもそも届いたか、返事すらも強く求められないようなツールに任せるなだ。
今も昔は本当に重要な要件や心から伝えたいことがあるときは人はむろんのこと相手方当人にまずは会い直截話すのだと思う。
が、それ以前の要件は、今の時代ならまずはネット上のメールサービスシステムで相手に送りその反応、つまり返信を待つのだと思う。自分もそうしてきた。一昔前ならば、まず電話で直接話すとかし、次いで郵便で文書にして相手に送っていたはずだ。今はそれがパソコンや携帯のメールが代替している。
で、現在ではまずはメール、もしく添付ファイル的なインターネットを介した手段でこちらの連絡事項と気持ち、要件、情報などは向こう、相手方に即「送信」できる。これは簡便かつスピーディでよいことのはずだと思える。
が、いちばんの問題は、それが果たして相手に届いたか、向こうは読んでくれたかはわからないし即その返事は返ってくる保証は何もないことだ。むろん送ったメールが届いているか相手に読まれたかの開封確認もとれる。が、それはいくら何でもいちいち普通は用いないし自分もそれはしたことがない。たぶん誰もが「メール」とは送れば向こうに届き読まれるであろうとただ信じて利用しているのだと思える。
そして自分ならば、届いたメールに対してほぼ常に即時とは言えないが遅くとも当日中に、必ず「返信」は返している。それは礼儀以前にネット上の常識だと考えるし、商売もしている関係上即返答は欠かしたことがない。
ところが世の中、ごく親しい関係にならばこそなのか、メールを送っても返信は返らないこと、そういう人が多々ある。つまりそこには急いで返事をメールしなくてもかまわないという思惑が働くのであろうか。
ただ、おそらくこれは誰もが同じ思いになると信ずるが、こちらがある程度真剣に思いを込めて書いた手紙=メールに対して、何も返事=返信が返ってこないのはかなり心情的にツライものがある。
こちらがメールを送り、その相手に届いているはずなのだが、何日たっても一切返信がないのは自分の場合本当にツライ。時間と共に精神的に参ってくる。果たして届いたのか読んでくれたのか不安にもなるし、何で返信してくれないのか、怒らせたか気を悪くしたか疑心暗鬼にもなり苛立ちもしてしまう。
しかし、相手にとっては、別に届いたメールに即返信しなければならない義務は何もない。急を要しないならそのうちゆっくり落ち着いてからと思うのかもしれないし、そもそも読めば済み返信すら念頭にないのかもしれない。
が、送った者は勝手にも、その気持ちの分だけ返信を期待し、たとえ内容がなくても届いたという確証のようなものを求める。まあ、勝手にこちらがメールしているのだから返信はなくたってそれもまた仕方ないはずなのだ。が、少なくともストーカー的無意味なものでないならば通常の人間関係ならば用事あってのメールしたのだから届いて読んだら即とは言わないが数日内に届き読んだことの返信はできるはずだしすべきと考える。それがネット上の人間関係の常識だと自分は認識している。
しかしそうではない人も多々いて、特に女性にそれが多く、メールとは返信しなくともよいものと思っているのかと訝しくさえ思ってしまう。辛いのはその返信をひたすら待ちそれでくたびれてしまうことだ。相手が男ならば、連絡ないならば何度もまたメールして返事を請うこともできる。が、女性だとあまり強く執拗に返信求めて届いてるか、読んだかとメールするのも憚れてしまう。下手すると今はストーカーまがいとなる。つまるところ向こうからの返信をただ待つしかない。日に何度も受信トレイを確認するはめとなる。そして失望を繰り返していく。
まあ、それは下心抜きでも恋心のようなものなのかもしれないが、一昔ならばどうだったのかと考える。男なら女性=大事に思う相手に、電話も憚れるならまずは要件も含めてこちらの気持ちを手紙にして送ったはずだ。そして向こうに届いた頃から、何らかの反応、返事が届くのをひたすら心待ちにする。日に何度も郵便受けを確認する日が続くだろう。そうしたことはたぶん昔の人は一度ならずした思い出があるはずだ。
今はそれがネット上のメールというシステムに代わっただけの話かもしれない。しかし、昔は一文字ずつ懸命にペンで便箋に記していた頃と違うぶんだけ、今はよりその手紙=メールも相手にとってさほどどうでもいい、すぐに返信しなくてもいい軽いものになっているのではないか。
つまり昔は「手紙」という現物があった分だけ何らかの返事は当然求められ常識として返事の手紙も時間をおかずに送る義務もあった。それがネットの時代ともなると、ごく簡単にメールが書け即送信できる分だけ、返事、つまり返信もまた簡単にできるがゆえ即時性と必然性を欠き重要ではなくなってしまっているのかと考えてしまう。
今の時代、男女を問わず、こちらが送ったもの、メールに限らず届いているはずなのにいつまでたってもその返信すらかえってこないことが多い。それはこのオレ、マス坊だから、つまり返信など不要な者と考えての措置なのだろうかとも考えた。が、まだしも、たぶんおそらくそういう人はよほどの大事な件や特別な人以外、そうしたメールなどどうでもいいものと考えて返信を怠っているのかとさえ考えてしまう。
いや、人は返事しなくてはと思いつつ忙しさにかまけて結果としてレスポンスを放擲したり無視することになってしまうのではないか。つまりよほどの重要な要件と大事な人以外、メールなど即必ず返さずともよいと思うのであろう。
かくいう自分に他者のそれを責める資格はない。基本、我は届いたメールにはほぼ即日のうちに必ず返信はしているが、他のだらしさなさ、ぞんざいさは他にももっといくらでもあるのであるから。
と、こんなことを書いたのは、今日は、11.30のライブの打ち合わせで日暮里まで出向いて、出演者の一人真黒毛ぼっくす氏と会い呑みつつあれこれとことん話したからだ。
実のところ昔からよくライブの打ち上げで彼とは会っていたが、こうして二人だけでサシで向き合い忌憚なくあれこれ話したのは初めてであった。好きなフォークソングのことからお互い心酔してきたあがた森魚、鈴木翁二にまで話がはずみ、最後は抱き合ってから別れた。
当たり前のことだが直接会って話すのに如くことはないと深く思い至った。おそらく100回彼とメールのやりとりしても今晩のミーティングより深い内容ある話まで行かなかっただろう。なぜならメールとは常に疑心暗鬼で、一方的にお互いの腹の探り合い、一歩下がった気持ち伺い合いでしかないから。
メールはすぐれたツールだと思う。しかし、問題はそこに共時性、同一時間性がないことだ。チャットならまだしも、いくらこちらが真剣に考え気持ちこめて書いたメールを即相手に発信したとしても向こうは即それを読んでまたすぐに返事を返してくれるかわからない。また読まれるという保障も返信すらこちらは求められない。常にあくまでも届き読んでもらえるという前提のもとに、勝手にこちらが向こうに送っているだけのことだ。そもそもそれは伝達手段としてまっとうなものなのか。オレはとっくに死んでいた友人に何十通もメール送ったが゛、それは届いたのかどこへ消えたかも全くわからない。
ならばそれで「返信」や反応待つことすら実にバカらしい無駄なことではないのか。向こうには向こうの都合や気持ちがあり、返信すら返す気もないのかもしれないのだから。メールなんてそもそもそうした大事なこと、こちらの気持ちを伝えるツールではなく、単なる携帯のメール的やりとり程度の連絡事項のみに用いるべきものでしかないと思い至った。
つまり、〇月〇日、どこそこの駅北口改札で〇時集合、もし遅れる場合はこの携帯に連絡を、と、その程度の要件のみの連絡ツールでしかなかったのだ。
大切に思う人からひたすら返信メールを待ちわびるなんて愚かなことだ。
何はともあれやはり直接会いとことん話すことから何事も始まる。せっせっとメールを繰り返し送って相手にこちらの気持ちが伝わりわかってもらえたなんて思うな、である。
しょせんネットの世界なんてこんなものでしかなかったのだ。ようやくわかった。ならば何も期待するな、頼るな、そしてそこで失望なんてす.るな!! 大事なことや大切な気持ちはもっと確実に相手にしっかり届くような手段を考えろ。結果はともかく、向こうにそもそも届いたか、返事すらも強く求められないようなツールに任せるなだ。
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