人生と芸術の関係2014年11月29日 01時06分27秒

★人生の慌ただしさに芸術がついていかない。         アクセスランキング: 55位

 芸術とは何かはさておき、仮にその人、個人の芸術的活動や表現行為だとする。そこに巧い下手は関係ない。昔からいう、日曜画家のようなものだっていい。プロとしての活動、プロとして認められなくてもその芸術には上下はない。とにもかくにもその行為、作業と作品のような「結果」があればそれは間違いなく芸術だと考える。他者からの認定なくとも芸術はいつの時代も存在しているだろう。

 しかし、最近つくづく思うのは、おそらく今は誰にとってもその人の人生に「芸術」がついていかない、追いつかないということだ。わかりやすく言えば、その芸術のための時間がなかなかとれないのである。

 昔から芸術至上主義という言葉がある。説明するまでもないが、その芸術活動を最優位に置き、他のことは全て二の次三の次にして自らの芸術活動だけに生きるということだ。人生においてすべての価値の上に芸術を置く。今も昔もそういう生き方、人生はあると思う。
 しかし、残念ながら?そんな生き方ができる人は特に今の時代少ないであろう。
 昔も今も芸術を志す人に楽な時代はないと考える。しかしそれでも昔は税金も国家の管理も全てが緩かったはずだし、画家であれ小説家であれ詩人であれ、社会や国家からの脱落者、破綻者としてある意味、枠の外にいられた。また、素人のそれであっても、全てがのんびりしていたから休日に自らの趣味や芸術にたっぷり向き合う時間も持てた。

 が、今の時代は、もう日々過労死寸前まで働かされ、たまの休日にはとことん夕方まで泥のように眠りそれから溜まった洗濯やら掃除だけ済ませてまた翌日からの仕事の支度をするという「仕事至上主義」の人が多いのではないか。そこには芸術などが入る隙間がそもそもない。

 真理がそうであるように、芸術も常に人間にとって求められ、必要不可欠な絶対的なものであると信ずる。しかし、今の時代は生きていくのにやっとで、趣味のそれであれ「芸術」に向き合う時間、またそのための経済的余裕すらない。

 しかしこの世の中には、どんな環境や危機的状況に置いても自らの芸術を信じコツコツと続けている人もいる。そして実人生とその芸術の活動をうまく無理なく両立させ成功した人も確かにいる。
 その筆頭としてまず思い浮かぶのは今回京都からお招きする有馬敲氏だ。お堅い銀行員としての傍ら、常に詩作活動を若いころから続けてそのどちらをもしっかりと大成させた。日々平日は忙しい会社勤めをしながらたまの休日をフルに有効に用い多彩な執筆活動を続けていくのは並大抵の精神力ではない。軍医総監としての森林太郎と文豪鴎外の関係に近しいことにも思い至る。
 この世の中には常人では計り知れないことだが、己の人生と自らの芸術を共に成し得た人たちがいるのだ。

 この我など芸術以前に、その実人生ですら何一つきちんと成し得ていないし、見渡せば芸術家などと言えば、画家にしろミュージシャンにせよ、その芸術の素晴らしさに比例して人生が破綻、ときに破滅している人が実に多いことにも気づく。

 しかしそうした鴎外や有馬氏のような偉大な先人がいることは、ある意味、生活に追われ苦闘する最中、自らの芸術を思い、それと向き合い続けていくことを願う者にとって確かな希望の光かもしれない。

 じっさい人生は面倒かつ大変でともかくやたら慌ただしい。しかしそれだけに囚われ生きていくだけで終わってしまうのでは人は人ではなく動物の一種に過ぎない。
 願わくば非才な我にも芸術の神が降り、いくらかでも芸術作品が遺せるよう、向き合うための時間と力、強い意志を与えてほしいと希む。それは誰にとっても同じ願いであろう。

 有馬さんの爪の垢でも煎じて飲むしかない。冗談はともかく、そうした先達の言葉にふれ直にお会いできる機会だと今更だが「宣伝」しておく。