11.30日の「詩とフォークソングライブ」予約受付中!2014年11月01日 20時48分27秒

★ぜひお早目に、席のご予約お願いします。 アクセスランキング: 77位

 11月に入りました。今月末日30日に、京都より詩人有馬敲(ありまたかし)氏を招いて東京のフォークシンガーたちとの詩朗読とフォークソングのコラボとなるイベントがいよいよ近づいてきた。
 会場はさほど大きくないライブハウスなので席に限りがある。チケットの発行はないので、参加予定される方はぜひとも事前にご予約お願いしたい。
 勝手ながら予約者で満席となった場合、当日来られても入れない場合もあるかもしれません。
 
 当ブログをお読み頂いた方は、ここの「コメント欄」に、ご氏名とメルアドか電話番号などの連絡先と参加者の数を書き込んで頂ければ、確認後折り返しこちらから予約番号など返信いたします。※非表示となってますのでご安心ください。
 
 また、電話での予約は、私マスダまで 090-8175-8479 もしくは、Fax 042-542-4388 まで
 また、参加ミュージシャンに直接伝えて頂ければ、彼らからこちらへ連絡されます。

 多彩なミュージシャンたちが老詩人、有馬敲という稀代かつ伝説の「フォークソングの父」を囲んで、うたと音楽で慰安(トリビュート)する一夜限りの、そしておそらく最後のコンサートとなろう。ぜひその機会に立ち会って頂きたいと心から願う。
 多数のご参加ご予約お待ちしております。

「聖書」を読んで考えた・12014年11月02日 08時08分15秒

マス坊宅東側にからみついたハヤト瓜にやっと実がついてきた!
★11月2日、雨上がりの明るい朝に         アクセスランキング: 73位

 まだ道は黒く濡れているが、明るい陽射しある爽やかな朝だ。いつも悩み屈託し淀んだ気持ちは珍しく澄み切っている。今日は晴れて暖かくなるとのことだ。

 拙ブログ、このところ今月末の「詩とうたのフォークソングライブ」についてあれこれ状況など書いているが、私事としては目下の一大重要事であっても、それに関心も興味もない方にとってはそんなことは他人のどうでもよい関係ない話であろう。それではつまらなかろう。
 じっさい自分としてはそのことも大事であるが、ならばもう少し他のこと、政治や喫緊の情勢などでもなく、ずっと考え続けていること、本当に書き記したいことを書いていこうと思った。

 あの上智大神学部出の佐藤優氏も折々記しているが、キリスト教の「聖書」という本は、実に面白く興味深く様々な示唆に富み誰にとっても有益かつ最重要な書だと我もまた思う。
 キリスト者でなくても誰もが枕頭に置き、折々に開きページを繰るべき価値があると信ずる。自分もまた常にそうしてきた。

 というのもまだ10年は経たないが、先年、愚かさと迂闊さからある事故、事件を起こして、「殺人」をしでかす苦境に陥ったとき、苦しみのあまり真剣に自殺も考えたが、我を救い生かしてくれたのは音楽のライブとその聖書であった。むろん友人知人、多くの方々、拙ブログの読者の方からの励ましと支援もあったことも大きい。※そのことは今も深く感謝しなければと心する。
 そうした多くの支えと共に、聖書の言葉があったからこそ死なずに今も生き延びているわけで、この弱い愚かかつ身勝手で欲深い者でさえも赦し生かしてくれる力がそこには確かにあるのである。

 そして以後、情けないことに、今も当時とさほど良くも偉くも人間的に成長もしていない我ではあるが、折にふれてそのときどき眠る前など聖書とその研究書、解説書などを開き、読むことで心の平安を得、救われてきた。
 今も常に先行きに不安を抱えあれこれ考えても仕方ないことを考え他者を疑い嫉妬もし道に迷い焦り苛立つこの弱い自分であるが、聖書を開き聖書の中の人たちに出会うとき、かのような人たちでさえ神は見捨てず用い試し使命を与えたのだと深い感銘と共に常に勇気づけられている。

 あえて書くが、後に聖人として教会から認められたペテロにせよ、パウロにせよ、もともとは本当に情けないほど弱く悪人でさえあった。師を三度否認した愚かなペテロもだが、『使徒行伝』中、義人ステパノをユダヤ人が集団で虐殺したときに登場してくるサウロ、後のパウロに至ってはキリスト教迫害者としてさんざん悪行を重ねるのである。
 ところが、聖書の中に出てくる神は、そんな男を回心させ僕として用い大きな使命と役割を与えるのである。そして彼こそが、彼の遺した手紙により今に至るキリスト教の礎を築くことになる。聖書の素晴らしさはそうした使徒たちの弱さ、愚かささえも包み隠さず冷徹なまでに記録してあることだ。

 キリスト教は、宗教として見た場合、教会制度も含めて多くの過ちの歴史を持っている。またその教えは日本人にとって理解しがたい受け入れ難いものも多々あろう。そしてクリスチャンはなぜか嫌いだという方も多々いよう。しかし、聖書だけは二千年の長きに渡り人類に読み継がれ多くの人々の指針と救いであったことは否定できない。
 荒唐無稽な「奇跡」も多々出てくるし理解できない説話も多いが、自分はその全てを受け入れ真実であると信じられる。ただ、あまりにも長い年月を経ているために、ナザレのイエスが本当に語ったこと、なされたことについては聖書の中においても後の書き込みや不要な付け足しもあり検証すべきところもあると考える。無条件に聖書の聖句を唱えるのではなく、なすべきは本当のイエスの「真意」をいかに読み取るかであろう。そしてそれ=愛の教えを実人生にどう活かすかだ。

 教会に属さない正式なクリスチャンではない者が聖書について語るなんてとんでもないというご意見もあろう。が、古本屋稼業としても多岐にわたり様々な聖書関連本を多々読みふけってきた者として聖書の素晴らしさについて書き記しておきたいと考えた。また関連した本なども紹介していきたいとも思う。
 人類最古の本でもある聖書という本を、ぜひ日本人の誰もが深く読み込んで頂きたいと願う。繰り返すがこの本は真に面白い。混迷する時代だからこそ聖書はより多くの人々に読まれなくてはならない。

 これから断続的にこんな我なりに聖書について書き記していきたい。断っておくが現今の教会やキリスト教についてではなく。

それはカッコが悪いけど2014年11月03日 21時32分11秒

中川五郎 @W・サルーン10月
★今いちばん唄いたいうた  アクセスランキング: 67位
           
 先日のこと、青梅線河辺駅前のライブハウス「W・サルーン」で、今年1年間、月一恒例で企画されている「月刊 中川五郎」というライブの中で、その五郎氏が、「今頃になって急に唄いたくなった昔のうた」といってうたったうたがこれであった。以下その歌詞を記す。

座り込みをするのや デモをするのはカッコがわるい
    もっとカッコいいやり方が 他にあるかもしれないよ
それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
   行動しなければ 始まらなーい そうさ 始まらなーい そうさ

    人ごみで叫んだり うたうのはカッコがわるい
もっとカッコいいやり方が 他にあるかもしれないよ
それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
声に出さなきゃ 始まらなーい そうさ 始まらなーい そうさ

    胸にゼッケン貼り付けて 街を歩くのは カッコがわるい
もっとカッコいいやり方が 他にあるかもしれないよ
それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
行動しなければ 始まらなーい そうさ 始まらなーい そうさ

 以下もっと続くし、聴きとったものなので歌詞は正確でないかもしれない。が、ある時代を過ごした人にとってはかなり懐かしいうただと思う。

 今でも岡林の「友よ」とか風船の「遠い世界に」などは日本のフォークのスタンダード中、皆でシングアウトする曲としてよく唄われるであろうし今の人にも知られているはずだ。だが、この曲は、不思議なほど最近は唄われないし聞かれない。

 そして不明を恥じるが、もともとはいったい誰が作り誰が唄っていたのか正確なところは思い出せないし調べてもまだよくわからない。ただ、子供の頃、新宿のフォークゲリラたちの間でもよく唄われていたと記憶するし、じっさい自分も一緒に唄ったことがあるとても懐かしいうただ。単純かつ耳に残るキャッチなメロディとシンプルなコード進行、そして何よりも自由に歌詞を付け加えることもできる。五郎氏はこの日はヘイトスピーチに関して新たに歌詞を加えてこう結んでいた。

 それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
 ぼくらの町で憎しみの スピーチ溢れているのに
 まるで聞かないふりをして ずっと黙り込んでいる
 きみらのほうがカッコわるい そうさ カッコわるい そうさ
 
 こんな曲があったことをずっと忘れていたが、五郎氏が突然唄ってくれたおかげで、ああ!!と久々に思い出した。フォークキャンパーズでもやっていたのではないか。懐かしいだけでなく実に時節にかなった名曲だと思うがどうだろう。こんな時代だからこそ今再びもっと唄われるべきではないか。

 で、気にいって以後、それからは自分もまたウチに来てくれたシンガーたち、もっと後の世代の、その頃まだ生まれてもいなかった、みほこんたちにも唄って聞かせてはこのうたを知ってもらっている。彼女も気に入ってくれたようだ。そして若い世代もこれから歌い継いでくれるかもしれない。

 考えてみれば、あの学生運動や反米闘争の時代、こうして何がカッコいいのか、何がカッコ悪いのかとよく若者たちは熱く討論していた。
 そしてそれをそのままうたにしたのが、この曲で、実に青臭く今聞くと気恥ずかしい気もするけれど、今のような時代だからこそまた唄う価値、意味があるような気がしている。※あの頃、早川義夫氏にも「かっこいいことはなんてかっこわるいことなんだろう」という趣旨の曲がありましたね。

 そう、原発反対叫んでデモに行くのはカッコがわるい、もっとカッコいいやり方が他にあるかもしれないよ、きみはカッコがわるいよとぼくらに何度も言うけれど、行動しなければ、声に出さなけりゃ始まらなーい のである。

 五郎氏のライブではこれから常にリクエストして唄ってもらいたい。また、拙いながらもマス坊にも言って頂ければどんなうただか演ってみせます。まあ、今はもっとカッコいいやり方、ユーチュブにでもそのライブ映像をアップすれば即誰もがアクセスできてっとり早いのだろうが。

メールであれこれ思い悩む愚かさよ2014年11月05日 23時27分04秒

★直接会うに勝るものはないと思い至った日        アクセスランキング: 72位

 今も昔は本当に重要な要件や心から伝えたいことがあるときは人はむろんのこと相手方当人にまずは会い直截話すのだと思う。
 が、それ以前の要件は、今の時代ならまずはネット上のメールサービスシステムで相手に送りその反応、つまり返信を待つのだと思う。自分もそうしてきた。一昔前ならば、まず電話で直接話すとかし、次いで郵便で文書にして相手に送っていたはずだ。今はそれがパソコンや携帯のメールが代替している。
 で、現在ではまずはメール、もしく添付ファイル的なインターネットを介した手段でこちらの連絡事項と気持ち、要件、情報などは向こう、相手方に即「送信」できる。これは簡便かつスピーディでよいことのはずだと思える。

 が、いちばんの問題は、それが果たして相手に届いたか、向こうは読んでくれたかはわからないし即その返事は返ってくる保証は何もないことだ。むろん送ったメールが届いているか相手に読まれたかの開封確認もとれる。が、それはいくら何でもいちいち普通は用いないし自分もそれはしたことがない。たぶん誰もが「メール」とは送れば向こうに届き読まれるであろうとただ信じて利用しているのだと思える。

 そして自分ならば、届いたメールに対してほぼ常に即時とは言えないが遅くとも当日中に、必ず「返信」は返している。それは礼儀以前にネット上の常識だと考えるし、商売もしている関係上即返答は欠かしたことがない。
 ところが世の中、ごく親しい関係にならばこそなのか、メールを送っても返信は返らないこと、そういう人が多々ある。つまりそこには急いで返事をメールしなくてもかまわないという思惑が働くのであろうか。
 ただ、おそらくこれは誰もが同じ思いになると信ずるが、こちらがある程度真剣に思いを込めて書いた手紙=メールに対して、何も返事=返信が返ってこないのはかなり心情的にツライものがある。
 こちらがメールを送り、その相手に届いているはずなのだが、何日たっても一切返信がないのは自分の場合本当にツライ。時間と共に精神的に参ってくる。果たして届いたのか読んでくれたのか不安にもなるし、何で返信してくれないのか、怒らせたか気を悪くしたか疑心暗鬼にもなり苛立ちもしてしまう。

 しかし、相手にとっては、別に届いたメールに即返信しなければならない義務は何もない。急を要しないならそのうちゆっくり落ち着いてからと思うのかもしれないし、そもそも読めば済み返信すら念頭にないのかもしれない。
 が、送った者は勝手にも、その気持ちの分だけ返信を期待し、たとえ内容がなくても届いたという確証のようなものを求める。まあ、勝手にこちらがメールしているのだから返信はなくたってそれもまた仕方ないはずなのだ。が、少なくともストーカー的無意味なものでないならば通常の人間関係ならば用事あってのメールしたのだから届いて読んだら即とは言わないが数日内に届き読んだことの返信はできるはずだしすべきと考える。それがネット上の人間関係の常識だと自分は認識している。

 しかしそうではない人も多々いて、特に女性にそれが多く、メールとは返信しなくともよいものと思っているのかと訝しくさえ思ってしまう。辛いのはその返信をひたすら待ちそれでくたびれてしまうことだ。相手が男ならば、連絡ないならば何度もまたメールして返事を請うこともできる。が、女性だとあまり強く執拗に返信求めて届いてるか、読んだかとメールするのも憚れてしまう。下手すると今はストーカーまがいとなる。つまるところ向こうからの返信をただ待つしかない。日に何度も受信トレイを確認するはめとなる。そして失望を繰り返していく。

 まあ、それは下心抜きでも恋心のようなものなのかもしれないが、一昔ならばどうだったのかと考える。男なら女性=大事に思う相手に、電話も憚れるならまずは要件も含めてこちらの気持ちを手紙にして送ったはずだ。そして向こうに届いた頃から、何らかの反応、返事が届くのをひたすら心待ちにする。日に何度も郵便受けを確認する日が続くだろう。そうしたことはたぶん昔の人は一度ならずした思い出があるはずだ。
 今はそれがネット上のメールというシステムに代わっただけの話かもしれない。しかし、昔は一文字ずつ懸命にペンで便箋に記していた頃と違うぶんだけ、今はよりその手紙=メールも相手にとってさほどどうでもいい、すぐに返信しなくてもいい軽いものになっているのではないか。
 つまり昔は「手紙」という現物があった分だけ何らかの返事は当然求められ常識として返事の手紙も時間をおかずに送る義務もあった。それがネットの時代ともなると、ごく簡単にメールが書け即送信できる分だけ、返事、つまり返信もまた簡単にできるがゆえ即時性と必然性を欠き重要ではなくなってしまっているのかと考えてしまう。

 今の時代、男女を問わず、こちらが送ったもの、メールに限らず届いているはずなのにいつまでたってもその返信すらかえってこないことが多い。それはこのオレ、マス坊だから、つまり返信など不要な者と考えての措置なのだろうかとも考えた。が、まだしも、たぶんおそらくそういう人はよほどの大事な件や特別な人以外、そうしたメールなどどうでもいいものと考えて返信を怠っているのかとさえ考えてしまう。
 いや、人は返事しなくてはと思いつつ忙しさにかまけて結果としてレスポンスを放擲したり無視することになってしまうのではないか。つまりよほどの重要な要件と大事な人以外、メールなど即必ず返さずともよいと思うのであろう。

 かくいう自分に他者のそれを責める資格はない。基本、我は届いたメールにはほぼ即日のうちに必ず返信はしているが、他のだらしさなさ、ぞんざいさは他にももっといくらでもあるのであるから。

 と、こんなことを書いたのは、今日は、11.30のライブの打ち合わせで日暮里まで出向いて、出演者の一人真黒毛ぼっくす氏と会い呑みつつあれこれとことん話したからだ。
 実のところ昔からよくライブの打ち上げで彼とは会っていたが、こうして二人だけでサシで向き合い忌憚なくあれこれ話したのは初めてであった。好きなフォークソングのことからお互い心酔してきたあがた森魚、鈴木翁二にまで話がはずみ、最後は抱き合ってから別れた。
 当たり前のことだが直接会って話すのに如くことはないと深く思い至った。おそらく100回彼とメールのやりとりしても今晩のミーティングより深い内容ある話まで行かなかっただろう。なぜならメールとは常に疑心暗鬼で、一方的にお互いの腹の探り合い、一歩下がった気持ち伺い合いでしかないから。
 メールはすぐれたツールだと思う。しかし、問題はそこに共時性、同一時間性がないことだ。チャットならまだしも、いくらこちらが真剣に考え気持ちこめて書いたメールを即相手に発信したとしても向こうは即それを読んでまたすぐに返事を返してくれるかわからない。また読まれるという保障も返信すらこちらは求められない。常にあくまでも届き読んでもらえるという前提のもとに、勝手にこちらが向こうに送っているだけのことだ。そもそもそれは伝達手段としてまっとうなものなのか。オレはとっくに死んでいた友人に何十通もメール送ったが゛、それは届いたのかどこへ消えたかも全くわからない。

 ならばそれで「返信」や反応待つことすら実にバカらしい無駄なことではないのか。向こうには向こうの都合や気持ちがあり、返信すら返す気もないのかもしれないのだから。メールなんてそもそもそうした大事なこと、こちらの気持ちを伝えるツールではなく、単なる携帯のメール的やりとり程度の連絡事項のみに用いるべきものでしかないと思い至った。

 つまり、〇月〇日、どこそこの駅北口改札で〇時集合、もし遅れる場合はこの携帯に連絡を、と、その程度の要件のみの連絡ツールでしかなかったのだ。
 大切に思う人からひたすら返信メールを待ちわびるなんて愚かなことだ。

 何はともあれやはり直接会いとことん話すことから何事も始まる。せっせっとメールを繰り返し送って相手にこちらの気持ちが伝わりわかってもらえたなんて思うな、である。

 しょせんネットの世界なんてこんなものでしかなかったのだ。ようやくわかった。ならば何も期待するな、頼るな、そしてそこで失望なんてす.るな!! 大事なことや大切な気持ちはもっと確実に相手にしっかり届くような手段を考えろ。結果はともかく、向こうにそもそも届いたか、返事すらも強く求められないようなツールに任せるなだ。

有馬敲の創作わらべ歌のうた2014年11月06日 16時30分31秒

★今さらながらの「ぼくのしるし」              

 また天気が悪い。季節はずれの台風が来ているせいか生暖かい風が吹きやや蒸し暑い。
 というわけで(何が?)、11月30日の詩人有馬敲(ありまたかし)とフォークシンガーたちとの詩朗読とフォークソングの夕べ、そのコンサートの準備が進んでいる。
 LIVEの宣伝と予約受付と各出演ミュージシャンとの打ち合わせ、調整などで慌ただしいが、実はその合間をぬって今、我マス坊もギターとうたの練習をちまちま続けている。そのワケを書く。

 まだどうなるかわからないが、どうやら当日数曲でも出て演るはめになりそうなのだ。正直、気が重いしそれは許されるのかそもそも企画主催者が出るとは僭越ではないかとの思いも強い。
 今回のイベントは、『詩人有馬敲の詩とうたの世界』と銘打って催す以上、彼の詩にメロディ=曲がついたものを広くご披露したいと考えた。むろん岡大介には既に、そうしたアルバムもあるので彼はそこから演ってもらえれば良いわけだが、他のシンガーもそれぞれ各自、有馬詩の曲を唄ってもらうことになっている。そしてできれば「新曲」をとお願いしている。
 そうした流れの中で、彼の過去のうたも今回少しでもご披露できたらと考え準備と練習を進めている。渡氏のそれは誰もが知っているわけであるが、もう半世紀近くも前に、故岩井宏さんが音頭をとって企画した「ぼくのしるし」というアルバムがある。

 これは有馬さんが当時まだ幼かった彼のお子さんたちのために、マザーグースならぬファザーグース的に、創作童謡の詩集を出した。その中の詩にURCの名プロデューサーでもあったバンジョー弾きの岩井氏が仲間のミュージャンたちに呼びかけ彼らが個々に曲をつけて唄いご自宅でテープレコーダーで録音したものだ。1970年に、URCからLPレコードとして発売された。そしてあのエーベックスが一切合切URCの版権を手に入れCD化して再発したとき2003年?に、一度だけCDとして世に再び出たが、現在は入手困難で、中古のそれがAmazonでも高値で出品されている。

 我もまたLPでは持ってなくて、CD化されたときに一度入手しこの家のどこかにあるはずなのだが、探してもまだ見つからず今回は有馬御大から送られてきたすごく古いカセットテープから起こして曲を確認した。
そしてその中から数曲でも今回のライブで、森の音楽隊みほこんに唄って頂こうと考えた。
 有難いことに彼女もOKしてくれたのだが、そもそもギターやバンジョーで演奏、収録されている曲なので、コード拾ったり、ときにはギターの伴奏も付けなくてはならない。音合わせや練習の行きがかり上、みほこん隊長から、マスダも出るべきだと強いお達しがあり、上官命令なので従うことになった次第だ。
 これらのうたを今回のライブで演奏することには有馬御大も喜んでくれているようだし彼の意向とコンサートの趣旨にもかなう。なかなか練習もできていないし拙い出来(マス坊は)となるかもしれないが、もともとがアマチュアシンガーたちが集いそれぞれが勝手に曲をつけて勝手に唄ったものなのでどうかご理解ご容赦頂きたい。

 予定しているのは、とうぜん「ぼくのしるし」※岩井バージョン、それにパラーズがうたった「昔ばなし」、さらには「うたれたしか」他数曲だ。
 果たしてどうなることやらあれこれ考えると夜眠れなくなるときもあるが、その時点でのベストが示せるようがんばるしかない。

 人生とはこうして自らも願わぬ思わぬ方向に進んでいく。それもまた面白いし仕方ない。受け入れて行こう。

 聖書にもこうある。
 『なんぢ若かりし時は、自ら帯して欲する処を歩めり、
 されど老いては手を伸べて他の人に帯せられ、
 汝の欲せぬ処につれゆかれん』※ヨハネ伝第21章

デモに行くのはカッコがわるいけど2014年11月08日 23時34分38秒

★もっとカッコいいやり方が他にあるなら教えてほしい        アクセスランキング: 70位

今日はラビさんのライブへ2014年11月09日 07時50分51秒

★書くこと、唄うこと=音楽でしか自分を律せられないと       アクセスランキング: 71位

 今朝も曇り空。今にも雨が降りそうだ。
 この数日、長引く風邪気味ですっきりしないこともあって心身共にBADな状態で、やらなくてはならないことは山積みなのに気ばかり焦り大して進まず、息すらできないような苦しい状態でいた。いわばパニック障害の一種であろうか。
 ブログも書く時間がとれず、書きたい見出しだけ記しては保存にして公開してない日が続いている。果たしてこんな状態で30日のイベントまで正気が保てるかと小心な者として自分でも危ぶむが、ともかくいっぺんにはできっこないのだから一つ一つ進めていくしかない。

 そのライブ当日まであと三週間。予約状況はまだあまり進んでなく、特にミュージシャンの側からの働きかけが弱いようで毎度のことであるがこうしたバラエティに富む多数の出演者を擁すイベントの難しさを痛感している。せめて各シンガーがお一人三名でも客を招いてくれればと願うがソロのライブでは可能でもオムニバス的企画だと不思議にファンは来てくれないのである。つまり今の客層は、フォークソングというジャンル、音楽が好きなのではなく、お好きな各ミュージシャン、アーチストにひかれてライブに足を運ぶのであろう。音楽全般、他のシンガーにはそもそも関心が低いのである。それが今の世相なのだろう。大衆ではなく少衆、こまかくジャンルがさらに細分化の時代なのだから。

 いずれにせよ、まだまだもう少し時間はある。ここで諦め愚痴こぼしても意味がない。当日まで全力でこうした企画に関心を持ち少しでも近しい思いを持つ方々にこのイベントの情報が届くよう宣伝告知、努力していくだけだ。
 何事も結果として満足がいくかではなく、納得いくかであろう。その時点で可能な限りのベストを尽くしていくだけだ。
 
 拙ブログに関して、先日も真黒毛氏からも、またさいさん有馬御大からも言われているが、ともかく長すぎる、長すぎて誰も読まないぞとよく言われる。そうかなあと思うしもっとすっきり手短く書くよう心掛けてはいるが、やはり書き出せばどうしても長くなる。
 これはもって生まれた習い性、生活の柄のようなものであり、自分にとって短くすること、まして書かない、書けないほうがツライ。この数日忙しさでブログは放擲していたが、それで作業が進んだかというと逆で苛々するばかりで何も手に付かない。ならばまずブログ書いて心置きなくすっきりさせてからのほうがモノゴトがはかどるはずだ。そう考え直した。

 そもそも別に長すぎて誰も読まなくたって良いのである。これはビジネスでも商売でもやっていない。長すぎて読まない人は読まないだけでたぶん読む方はそれでも読んでくれるだろう。ただそのためには内容ある、長くても読みごたえのあることをしっかり書かねばならない。また、いくらでも書けるからといって冗長に、垂れ流しにしてはならない。

 ここAsahiNetのブログサイトのアクセスランキングがどこまであてになるのかその実数はわからないので果たして読み手が増えているのか定かではないが、なぜかこのところ日々の順位だけは上がって常に100番以内に位置している。ということはいつしか読者が増えてきたのかとも考えるが、それにしてはコメントなどは相変わらずまず届かないし書いたことへの直の反響などはほとんどない。
 まあそれはそれで楽でもあり、好き勝手に書いてもどこかの誰かが読んで頂いてると思えば書きがいもある。こんな拙いブログにも読者がおられるとしたら有難いことではないか。心から感謝いたします。

 これは昔からでもあるが、今の自分にとって、書くことと音楽=唄うこととギター弾くことも含めて、この二つのための時間がとれないとイライラしてきて気も焦り頭がおかしくなってくる。文字とは読むもの、音楽とは聴くものと心する人は多いと思うが、自分にとってはどちらも自ら実践し「する」ものでしかなく、その行為によってのみ心を律することができる。だから告白すると漫画類はともかく本は商売以外ではまず開かないし、音楽だってライブに行ったとき以外はほとんど家では聞かないし流さない。

 そしてライブで聴いた音楽がその帰り道から数日、数週間のあいだ自分の中でフィードバック的に鳴り響き、やがてはそれが様々な思いに変化して考えにもなり音にもなりブログに、自分のうたへと表出してくる。
 
 今晩は、吉祥寺スターパインズカフェで、中山ラビさんの今年の定例ライブがある。ラビさんとはご近所ということもありホント昔からの長い付き合いだ。といっても向こうはカウンターの中、こちらはほんやら洞の客という関係だったから、なかなか音楽の場、ライブで向き合うことは少なかった。彼女も近年は客商売がメインであり、たまに演劇公演などに参加しても自らのお店もあることで、頻繁なライブ活動は控えていたからだ。でも女性シンガーとしてうたも曲もレコードも昔から大好きな方で短いステージのときでも常に圧倒され軟弱な我が心と甘さがひっぱたかれたような気持ちにいつもなる。

 忙しくて毎回ハガキでお誘い頂いてもなかなか行けなかったが、今回は11.30の有馬さんのチラシも店に置いてもらっていることもあり、ともかく顔だすことにした。久々のラビ組でのソロライブ心から楽しみだ。ラビさんにこの弱き心を叩き直してもらおう。

圧巻!圧倒!中山ラビのラビ組ライブ2014.2014年11月09日 23時24分10秒

★うたとはその人の全てを示すもの

 圧巻であった。圧倒された。
 そしてうたとは、声とは何かはっきりわかった。うたとは、そのひとのすべて、生き方も過去も人柄もセンスもそれら全部を観客の前に示しさらけだす行為なんだと改めて思い知った。世の中にはなんて薄べったい、小手先ならぬ口先だけでしか唄っていない女性シンガーが多いことに思い至った。うたを唄うとは、声を出すとはこういうことなんだと中山ラビを見習ってもらいたい。

 そして中山ラビとは、国分寺ほんやら洞という店のカウンターの中にいるママ、経営者ではなく、彼女の根幹、真実の姿はやはり本物の唯一無比の超絶女性シンガーであり、伝説的な「中山ラビ」そのものであることを超満席の観客の前に示したのだ。

 とにもかくにも圧倒的な存在感。7時過ぎから始まってアンコール入れて9時過ぎまでの丸々二時間もほとんど語りなしに盤石のバックバンドラビ組を従え休むことなく立ち続けひたすら唄いまくったそのパワーに驚かされた。
 その音楽そのものはあまりにパワフル、ハードロック化し過ぎていて、正直戸惑いすら覚えるほどのロックサウンドであり、ソロでなくバンド形態での中山ラビとラビ組バンドを知る機会となった。サックスの梅津氏をはじめ抜群の息の合った音であった。

 むろん入念な練習を重ねこの日に臨んだと想像する。しかし信頼する実力派バックバンドを従え、常日頃からあまり音楽活動はされていないはずなのに、衰えを一切見せることなく堂々圧巻のステージを披露したラビさんの実力、気負うことない自然体での「本気」に感心感動させられた。やはり中山ラビは本当の本物であった。このライブに立ち会えて幸運であった。

 まあ、また店に行けば、カウンターの中の彼女はまたいつもの気さくなラビさんであり、それもまた「中山ラビ」の一面なのだと思うわけだが、こんな凄いシンガーの顔を見た後ではどう接してよいものか戸惑う気がしている。

祈り願い感謝していく2014年11月10日 23時13分51秒

★うた、音楽とここまで向き合える幸せに            アクセスランキング: 75位

 ここのところ日々ギターを弾いて下手なうたを唄ったり、曲を作ったりコード付けたりそれを録音したり、人様のライブに出かけたりとひたすら音楽に向かい合っている。こんなことは高校生の時以来40年ぶりだろうか。
 いや、当時だってこんなに真剣にはならなかった。もっと音楽活動に熱中はしたけれどまったくの遊び感覚、趣味ゆえのちゃらんぽらんさでしかなかった。今回は違う。義務感というほどではないが、観客や興行的なことを意識してその中で自分のことではなく誰もが最良となるあり方を模索しつつ最善とすべくこの我もまた音楽と深く向き合っている。

 じっさいのところそれになかなか時間がとれず刻々と当日が近づいてくるので焦る気持ちも強いが、昨晩のラビさんのライブからも含めて音楽の神、うたの神様から大きなパワーを頂いていると思えてきた。
 考えてみれば、今のこの状態、忙しくて大変だ、辛いと考えるのではなくとてつもなく幸運、幸福なことではないのか。

 このところご近所も含めて友人知人たちから親世代、高齢者の訃報が相次いでいる。今、やはり高齢の病気持ちの老親の介護をされている友からはいよいよとなってきたと電話で聞いた。
 世代としてそれだけ死が身近に、我もまた高齢となってきただけのことかもしれないが、幸いにしてウチの親たちは今期はまだ風邪もひかずボケはともかくも体は元気で何とかやれている。寝込んだりして始終付き添わねばならない状態ともなれば今月末のライブどころではない。準備も練習も二の次、後回しとならざるえないわけで、今の元気が実に有難い。※早くコタツ布団を出してコタツをせっとせねば。
 つまり何はともかく音楽に向き合うことができる今は実に幸運、幸福であり自分も含めて同世代同時代の誰もが微妙な綱渡り状態で何とか前へと動いているのであった。それができていることはまさに良いこと、幸運であり音楽の神様の恵み、はからいでなくて何であろうか。

 楽しい夢を見て夢から覚めたとき、夢だと知って哀しく思うときもある。が、楽しい愉快な夢ならば、夢であってもその余韻を味わいその夢が見れたことに感謝すべきであろう。そしてまたその夢の続きをまさに夢想するのだ。

 これからの日々、まずなすべきことの努力をしそして願い祈り感謝していく。

言葉や情報を伝え届けることの難しさよ2014年11月11日 18時16分28秒

★同好の仲間たちにどうやって伝えればよいものか            アクセスランキング: 75位

 思いや気持ちを、不特定多数であろうとも誰か他者に伝えるためには言葉と行動しかない。いくら高尚かつ気高い思いがあろうとも内心に抱えるだけで、外に一切出さないのならばそんな願いや思いは誰にも伝わらない。いや、知られることすらない。

 今自分が企画してこれから11月30日に催すライブは、別に立派な芸術的になすべき価値があることだとは思わないが、関西フォークムーブメントも含めて、日本のフォークソング史の流れに基づき、今すべきことでありやりたいこととの強い思いから決行に至った。

 それは2010年の両国フォークロアセンター40周年記念コンサートも同様であり、やはり節目としてその時点で成すべきことだと考えて自分が音頭をとって企画した。結果は興行的には大失敗したが、真に素晴らしい豪華なメンバーが揃って内容ある、まさに伝説的な一夜となったと自負している。どれだけの観客が来て出演者も含めて満足や納得いったかわからないが、やれて良かったしやるべきことだと考え、そしてそれが実現できたことはともかく良かったのだと今は思っている。

 ただ、いちばん残念に思うのは、そのライブをじっさいに参加し体感した人たちがごく少なかったことで、今でもいったい何が悪くてあんなに観客が入らなかったのか不思議でならない。今年の岡大介の独演会は、同所で台風襲来の悪条件の中、ほぼワンマンでありながら満席となったのだから高田渡生誕会並の超豪華メンバーを揃えても人が集まらない理由が今でもよくわからない。チラシも何千枚もあちこちに撒いたはずなのにだ。

 そしてそれから4年が経ち、今また同様の思いで、我マス坊はライブコンサートを企画した。故高田渡や岩井宏さんと親しかった詩人、有馬敲さんを京都より招き、中川五郎やその岡大介ら関わりあるフォークシンガーたちによる、詩朗読とフォークのコラボ的コンサートである。その有馬さんも八十代半ば、かつての同志たちも多くが先立ち、中川五郎氏も60代半ばとなった。幸い高齢となられても有馬さんは今も元気に詩朗読活動を続けられているが、やはり東京に来られてフォークシンガーと共に催すこうしたライブはもうこれで最後となるだろうし、今ならこうしたライブ自体が全てにおいてかろうじてまだ可能と考え企画し皆に持ちかけた次第なのだ。あと10年後となればやりたくても岡大介やみほこんはともかくも、我も含めあとは誰も生き残っていないかもしれない。

 そして有難くもフォークシンガーたちもその企画に賛同共感して有馬氏も乗り気となって今その当日が近づいてきている。しかし残念なことにまだ席は予約だけで埋まっていない。規模として、木馬亭の四分の一もないキャパなのだ。しかし、それでも満席となるか現段階では危ぶまれている。
 しょせん満席になっても儲けなどでないし、やっとトントンかという条件で企画し、赤字となればその分を自分が背負う覚悟で始めたことだが、やはりこうした詩関連という文化的イメージのコンサートは難しいのかなあという気持ちにややなってきている。有馬敲という、詩関係者には絶大な知名度があろうとも、詩と今は下火の日本のフォークソングという組み合わせでは一般の方々の関心はひかないのであろうか。そもそも詩の朗読などという行為に今の日本人は金出してまで足を運ばないのであろうか。

 一昨日の、吉祥寺での中山ラビさんのラビ組でのコンサート、超満席となり彼女の人気と実力を立派に示したが、我も参加し、開演までのあいだ列に並んだり席の身近なところにいた来場者たちに今回の「有馬敲の詩とうた世界コンサート」のチラシを配った。受け取りを拒む人はなかったが、ライブが終わり、観客が席を立たれ床に散らばった店側が入場時に配布した遠藤賢司らのチラシ群と共に自分が渡したそのチラシも床に捨てられ無残に踏みつぶされていた。まあ、選んで捨てられたわけではないのだからそういう人には何の関心もない不要なチラシの一枚でしかなかったということだと考え諦めもしたが無性に情けない気持ちになった。今回、チラシは千枚発注したがもうあと数十枚しか手元に残っていない。

 先に報告したようにコンサートはとても良かったが、何か気持ちは寂しくなってつい帰り道、「のろ」に寄って焼酎のお湯割りを一杯だけ頼み、マスターの加藤さんとあれこれ話して気を取り戻してから家に戻った。

 中山ラビのファンの方々といっても、東京の今の人たちには、ラビさんが京都にいたこと、京都の元祖ほんやら洞のことも、ラビさんと関わりがあり、そこで詩朗読を続けていた有馬さんのこともおそらく何一つ知らないのであろう。もう残り少なくなったチラシをそこで配ったことは無意味であったかと帰りの電車で後悔した。ならばいったいどうしたらこのライブの「情報」を伝えたい人たちに伝えられるのであろうか。

 ※この項もう一回続く。