今さらながら宮沢賢治を・22015年10月17日 21時45分05秒

★賢治の遺した手紙から

 賢治は昭和8年、つまり1933年の9月21日に死去している。その死の10日前、花巻農学校自体の教え子に手紙を送っている。※『日本詩人全集20宮沢賢治から巻頭解説「宮沢賢治・人と作品 草野心平」』によるところを記す。                

 彼は、まずその自らの病状、肺のラッセル音が収まらず、咳が出ると二時間も続き仕事も何も手につかないこと等、もはや健康は戻らないことを告げ、『私のこういう惨めな失敗は、ただもう今の時代一般の巨きな病「慢」というものの一支流に過って身を加えたことに原因します』と自嘲気味に述べ続けて自らについて、

 「僅かばかりの才能とか器量とか身分とか財産とかいうものが、何か自分のからだについたものであるかと思い、自分の仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからか自分をいわゆる社会の高みへ引き上げに来るものがあるように思い、空想のみ生活して却って完全な現在の生活を味わうこともせず幾年かが虚しく過ぎて漸く自分の築いていた蜃気楼の消えるのを見ては、ただもう人を怒り世間を憤り従って師友を失い憂悶病を得るといったような順序です」と顧みたうえで教え子にこうアドバイスしている。

 「あなたは賢いからこういう過りはなさらないでしょうが、しかし何といっても時代が時代ですから充分にご戒心下さい。風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話が出来るとか、じぶんの兄弟のために何円かを手伝えるとかいうようなことはもう人間の当然の権利だなどというような考えでは本気に観察した世界の実際と余り遠いものです。
 どうか今の御生活を大切にお護り下さい。上の空でなしに、しっかり落ちついて一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ苦しまなければならないものは苦しんでいきましょう」。
 そして最後に、賢治は教え子にも関わらず丁寧に「いろいろ生意気なことを書きました。病苦に免じて赦して下さい。それでも今年は心配したようでなしに作柄もよくて実にお互い心強いではありませんか。また書きます」、と結んでいる。
 
 この遺書とも思える「手紙」を記して賢治は10日後、呼吸困難、喀血の後、様態急変し38歳の生涯を終える。その前日の朝まで訪れて来た農民の肥料相談など真摯に応じていたという。
 
 今、2015年の秋10月、ふと深夜偶然手に取った彼の作品集の解説文に載っていたこの「手紙」を読み深い感銘を受けたことを告白する。涙がこぼれた。
 80年も前に労苦の中に早世した賢治が哀れだったからではない。そこにあるメッセージは今も少しも変わらず、いや、今だからこそ大きな意味を持って胸に迫って来たからだ。

 天才詩人は、誰よりも時代に鋭敏な感性を持っていたはずだ。昭和8年である。長い病苦の末の死に臨んで、自らの人生を「惨めな失敗」だとして振り返り、そのうえで、愛する教え子には偉ぶることなく、「時代が時代ですから充分にご戒心を」とアドバイスし、さらに続けて「風の中を自由に歩けるとか、はっきりした声で何時間も話が出来るとか《略》はもう人間の当然の権利だなどというような考え」とは戒めたうえで、「どうか今の御生活を大切にお護り下さい。上の空でなしに、しっかり落ちついて一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんでいきましょう」と渾身のメッセージを与えている。

 昭和8年は既に日中戦争も始まり、共産主義者の転向が相次ぎ、日本は急速に右傾化、軍国主義が進んできた年だ。ドイツではヒトラー率いるナチスが政権を獲得し一気に世界大戦へと時代は再び歩を進めていくのである。ここに記されたメッセージは、自らの「失敗」についてだけではなく、自他共に健康な時代は失われたことへの認識からのものだと思える。
 今、2015年。秘密保護法と国民総背番号制と戦争法が出来てしまった「現実」と、この賢治の死の年が重なる気がしている。ふとした偶然から目にした賢治の手紙だったが、そこにそうした時代に対する彼の確かな目と、そして後進の者に対する愛に溢れたメッセージを受け取った。それはいつの時代も本質的に変わらない。しかし、今こそ、今だからこそより強い意味を持つように思える。
 
 そう、時代が時代だから我々は充分に戒心せねばならない。当たり前のことはもはや当たり前ではなくなっていく。そのうえで、今の生活を大切に護り、上の空でなしに、しっかり落ちついて一時の感激や興奮を避け、楽しめるものは楽しみ、苦しまなければならないものは苦しんでいかねばならぬ。まったく同感に思う。