2月21日は、この集会に行こう ― 2016年02月12日 23時21分39秒
2.21フライヤー裏面 ― 2016年02月12日 23時35分58秒
明日14日は、国分寺フォークジャンボリー ― 2016年02月13日 18時01分18秒
★国分寺フォークジャンボリー@国分寺giee
「国分寺フォークジャンボリー 生活編」
・日時:2月14日(日)開始:6:30pm
・出演:小林直樹/ぼけまる/五十嵐正史/館野公一
・参加費:投げ銭+ドリンクオーダー
・会場:国分寺giee 中央線国分寺駅北口徒歩3分 TEL.042-326-0770 http://giee.jp/about
「国分寺フォークジャンボリー 生活編」
・日時:2月14日(日)開始:6:30pm
・出演:小林直樹/ぼけまる/五十嵐正史/館野公一
・参加費:投げ銭+ドリンクオーダー
・会場:国分寺giee 中央線国分寺駅北口徒歩3分 TEL.042-326-0770 http://giee.jp/about
追放の歌 は、今もずっと心に ― 2016年02月14日 23時59分13秒
★休みの国 はどこにあるのか アクセスランキング: 109位
このところ、今月末開催の国立市谷保のかけこみ亭での中川五郎を迎えて「反戦歌コンサート」の準備で、久々にレコードに針を降し、それをCDに焼いたりしている。
そのレコードは、URCが出した二枚組全三種『関西フォークの歴史』で、ある意味、この合計6枚のLPレコードによって、我は日本のフォークソングというものを体系的に知り、今に至ったとつくづく思う。
この各二枚組、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲというシリーズのレコードに出会わなければ、たとえフォーク好きだとしても、たくろう、陽水、かぐや姫、泉谷程度のメジャーな人気者程度しか知らず、高石友也や岡林はともかくも、豊田勇造や古川豪、そして中川五郎の凄さ素晴らしさはきっと知らないままであっただろう。もちろん高田渡も。いや、シバや友部たちとは、吉祥寺のぐゎらん堂があったからそこで知ったかもしれないが。
さておき、フォークソングも下火になった1970年代半ばに、最後の総決算としてよくぞ社長の秦さんはこんな企画ものを出したものだと感心する。そこには当然裏方として古川豪さんの尽力も大きかったと思うし、URCとして夢よもう一度という目論みもあったのかもしれない。が、このアンソロジーがあったからこそ、遅れて来た世代としては、初めて体系的に「関西フォークムーブメント」というものの総体と流れを知ることができた。本当に実に貴重な企画ものだとあらためて思う。
そしてそこから若き日の中川五郎御大の録音を聴き、大阪寝屋川高校の同級生であった彼と西尾志真子さんがらみの音源をまとめてたのだが、音質や録音状態はともかくも実に素晴らしい。うたはまだ拙くともまさに彼は天才だし、その周囲には当初からこうした素晴らしい女性シンガーが常にいたのだから、彼は実に恵まれた幸運な人だと羨ましくも思う。
いや、彼らだけではなく、まさにあの時代のURC、関西のフォークシーンはまさに今振り返れば夢のようで、よくぞURCと音楽舎、=高石事務所に、圧巻絢爛というしかない超豪華なシンガー、ミュージシャンが勢ぞろいしたものだと今さらながら感嘆してしまう。
まあ、当時、大手レコード会社擁する歌謡曲というメジャーなシーンとは別に、今でいうインディーズは、まさにアングラ、URCしかなかったから、アマチュアがデビューするにはまずはURCからしかなかったのも理解できるが、それにしてもそうそうたる圧倒されるような人脈が一堂に揃っている。
細野晴臣、大瀧詠一らのはっぴいえんどとジャックスの名は、おそらくフォークソングに疎い方でも音楽好きならご存知のはずだ。東京勢ながらも彼らもまたURCと深く結び付いて、数々の音源、ワークをそこに残している。特にジャックスの中心人物早川義夫は、中川五郎と共に、当時URC=アート音楽出版が出していた雑誌の編集までやっていた。
さて、長々と書いてきたが、その早川義夫氏は、我が母校、出た大学の大先輩で、その同期に高橋照幸、カイゾクさんもいた。彼のバンド、いや、正しくは彼ひとりのユニットなのかとも思うが、休みの国といい、そのURCから出したアルバムこそ、名曲追放のうたを含む大傑作であった。
自らの出身大学を自慢する気持ちも同窓会的繋がりも我は持たないが、やはり早川氏と高橋照幸=休みの国については、思えば内心誇りに、いや、そうした人を先輩に持つことで心の支えにしていたのだと今気づく。そもそも彼らは新設されたその大学の一期生であったから、その大学のユニークさは彼らが築いたのだと畏敬の念は後輩としてずっと持ち続けるのは当然のことであった。伝統も歴史もない新設三流大学では「先輩」しか誇れるものなどない。
そのカイゾクが死んだとの報は、12日、大学時代の後輩からメールがあった。メジャーシーンで活躍したりヒット曲のある方ではないから詳しいことはよくわからない。調べてもネットではすぐ出てこない。ただ、大学関係ではすぐさまその訃報は駆け回ったようで、正直なところ人脈というものに驚かされた。
直接の面識はないが、当時その大学では、自主制作で彼と同世代の先輩方が『特攻任侠自衛隊』とかおバカな映画をいくつも作っていて、その音楽担当の関係で休みの国は非常に耳に親しんできた。我も学生の頃、さんざん彼ら先輩たちの薫陶を受けた。よって、高橋氏のことは大学を通して身内だったのだと今つくづく思う。
直の知人ではないから哀しみなどはわかない。が、中川五郎氏が高校時代からの音楽活動歴が今年で半世紀、50年となるのを思うとき、我もまた約40年も前のことを今思い出す。
その頃、僕は当時好きだった後輩の女の子と二人で、毎晩夜遅くまで大学の芸術棟のアトリエで、石膏デッサンや油絵を描いていた。お腹がすくと二人で大学内の自動販売機で、いつもカップスターラーメンのカレーを食べたことを思い出す。それまでカレー味のカップ麺なんて食べたことがなかった。もしそれが青春だと呼べるのならきっとそれが我が青春だったんだと今思う。
その女の子はもうこの世にいない。10年以上も前に癌であっけなく死んでしまった。今でもカレー味のカップ麺を食べるたび、その子のことを思い出す。そしてきっとその頃は休みの国の「追放のうた」がいつもずっと頭の中を流れていたような気がする。
そう、もう大昔の話だ。人は必ず死ぬ。だが、うたは残る。では、俺は何で涙を流している? 清志郎が死に、カイゾクも死んだ。彼らをいち早く高く評価したTBSラジオ深夜放送の林美雄もとっくに先に。そう、だが、休みの国はまだ遠い。まだ来ない。
このところ、今月末開催の国立市谷保のかけこみ亭での中川五郎を迎えて「反戦歌コンサート」の準備で、久々にレコードに針を降し、それをCDに焼いたりしている。
そのレコードは、URCが出した二枚組全三種『関西フォークの歴史』で、ある意味、この合計6枚のLPレコードによって、我は日本のフォークソングというものを体系的に知り、今に至ったとつくづく思う。
この各二枚組、Ⅰ、Ⅱ、Ⅲというシリーズのレコードに出会わなければ、たとえフォーク好きだとしても、たくろう、陽水、かぐや姫、泉谷程度のメジャーな人気者程度しか知らず、高石友也や岡林はともかくも、豊田勇造や古川豪、そして中川五郎の凄さ素晴らしさはきっと知らないままであっただろう。もちろん高田渡も。いや、シバや友部たちとは、吉祥寺のぐゎらん堂があったからそこで知ったかもしれないが。
さておき、フォークソングも下火になった1970年代半ばに、最後の総決算としてよくぞ社長の秦さんはこんな企画ものを出したものだと感心する。そこには当然裏方として古川豪さんの尽力も大きかったと思うし、URCとして夢よもう一度という目論みもあったのかもしれない。が、このアンソロジーがあったからこそ、遅れて来た世代としては、初めて体系的に「関西フォークムーブメント」というものの総体と流れを知ることができた。本当に実に貴重な企画ものだとあらためて思う。
そしてそこから若き日の中川五郎御大の録音を聴き、大阪寝屋川高校の同級生であった彼と西尾志真子さんがらみの音源をまとめてたのだが、音質や録音状態はともかくも実に素晴らしい。うたはまだ拙くともまさに彼は天才だし、その周囲には当初からこうした素晴らしい女性シンガーが常にいたのだから、彼は実に恵まれた幸運な人だと羨ましくも思う。
いや、彼らだけではなく、まさにあの時代のURC、関西のフォークシーンはまさに今振り返れば夢のようで、よくぞURCと音楽舎、=高石事務所に、圧巻絢爛というしかない超豪華なシンガー、ミュージシャンが勢ぞろいしたものだと今さらながら感嘆してしまう。
まあ、当時、大手レコード会社擁する歌謡曲というメジャーなシーンとは別に、今でいうインディーズは、まさにアングラ、URCしかなかったから、アマチュアがデビューするにはまずはURCからしかなかったのも理解できるが、それにしてもそうそうたる圧倒されるような人脈が一堂に揃っている。
細野晴臣、大瀧詠一らのはっぴいえんどとジャックスの名は、おそらくフォークソングに疎い方でも音楽好きならご存知のはずだ。東京勢ながらも彼らもまたURCと深く結び付いて、数々の音源、ワークをそこに残している。特にジャックスの中心人物早川義夫は、中川五郎と共に、当時URC=アート音楽出版が出していた雑誌の編集までやっていた。
さて、長々と書いてきたが、その早川義夫氏は、我が母校、出た大学の大先輩で、その同期に高橋照幸、カイゾクさんもいた。彼のバンド、いや、正しくは彼ひとりのユニットなのかとも思うが、休みの国といい、そのURCから出したアルバムこそ、名曲追放のうたを含む大傑作であった。
自らの出身大学を自慢する気持ちも同窓会的繋がりも我は持たないが、やはり早川氏と高橋照幸=休みの国については、思えば内心誇りに、いや、そうした人を先輩に持つことで心の支えにしていたのだと今気づく。そもそも彼らは新設されたその大学の一期生であったから、その大学のユニークさは彼らが築いたのだと畏敬の念は後輩としてずっと持ち続けるのは当然のことであった。伝統も歴史もない新設三流大学では「先輩」しか誇れるものなどない。
そのカイゾクが死んだとの報は、12日、大学時代の後輩からメールがあった。メジャーシーンで活躍したりヒット曲のある方ではないから詳しいことはよくわからない。調べてもネットではすぐ出てこない。ただ、大学関係ではすぐさまその訃報は駆け回ったようで、正直なところ人脈というものに驚かされた。
直接の面識はないが、当時その大学では、自主制作で彼と同世代の先輩方が『特攻任侠自衛隊』とかおバカな映画をいくつも作っていて、その音楽担当の関係で休みの国は非常に耳に親しんできた。我も学生の頃、さんざん彼ら先輩たちの薫陶を受けた。よって、高橋氏のことは大学を通して身内だったのだと今つくづく思う。
直の知人ではないから哀しみなどはわかない。が、中川五郎氏が高校時代からの音楽活動歴が今年で半世紀、50年となるのを思うとき、我もまた約40年も前のことを今思い出す。
その頃、僕は当時好きだった後輩の女の子と二人で、毎晩夜遅くまで大学の芸術棟のアトリエで、石膏デッサンや油絵を描いていた。お腹がすくと二人で大学内の自動販売機で、いつもカップスターラーメンのカレーを食べたことを思い出す。それまでカレー味のカップ麺なんて食べたことがなかった。もしそれが青春だと呼べるのならきっとそれが我が青春だったんだと今思う。
その女の子はもうこの世にいない。10年以上も前に癌であっけなく死んでしまった。今でもカレー味のカップ麺を食べるたび、その子のことを思い出す。そしてきっとその頃は休みの国の「追放のうた」がいつもずっと頭の中を流れていたような気がする。
そう、もう大昔の話だ。人は必ず死ぬ。だが、うたは残る。では、俺は何で涙を流している? 清志郎が死に、カイゾクも死んだ。彼らをいち早く高く評価したTBSラジオ深夜放送の林美雄もとっくに先に。そう、だが、休みの国はまだ遠い。まだ来ない。
旧い上着よ、さようなら ― 2016年02月15日 07時04分52秒
★窓を開けて新しい風を入れよう アクセスランキング: 127位
春の嵐が過ぎ去り、突然春がきた。
昨日(14日)の朝、表に出たら夜半の強い風雨で台風の後にように植木の鉢は倒され庭先は惨憺たる有様だった。木々は先に剪定したばかりだったから被害はなかったが。
そしてその嵐のあとは晴れたら一気に汗ばむほどに気温が上がった。5月頃の陽気だとテレビは報じていた。寒いのも辛いが、急に暑くなると気持ち悪く、体調がついていかないからか昨日は一日頭が痛かった。
まあ、たくさん着込むより身軽に、Tシャツ一枚に素足で過ごせるならどれだけ楽か春の訪れで確認できた。そして思う。何で、あんなに着込んでいたのか、その必要があったのかと訝しくさえ感じる。
フランス人は、じっさい何枚洋服を持っているか知らないが、件のベストセラー本ではないが、確かに彼らは持ち物は少ない。人は裸で、無一文で生まれ、何一つあの世に持って行けず、また裸で死ぬのだから本当は何もいらないのである。ある意味、日々の食事と当座の着るもの、そして安心して眠れる寝床さえあれば事足りる。
かといって、生活道具、生きていくのに必要なものは、百円ショップでの使い捨て的なもので十分かというわけではない。もちろん今はそれで食べ物から下着類、老眼鏡まで買えるのだから品質にこだわらなければ百円ショップだけでほぼ人生をおくれる。
だが、百円ショップで事足りる人生の価値は、百円の価値しかないのではないか。そこに行けばつい安いからとあれこれ使わないガラクタやすぐ壊れてしまう、アイディア商品のようなものをいくつも買い込んでしまう。そして結局ろくに使いもしない。そしてそうしたものに囲まれて、限りある金と人生を消費していく。
ならば仏人のように、できるだけモノは持たず、持つとき、買う時はよくよく吟味して、本当に必要なものを、長く使えるように価格は高くても良いものを選んで身の回りに置いていく。それは絶対的に正しい。
それは一点豪華主義とは違う。安い賃貸アパートに暮らしながらも派手な外車に乗っている男を知っているが、そうした贅沢は金さえ入ればとめどもなく広がっていく。
それは欲望であり、物欲であり、生活の質とモノの値段は比例はするが、高級品は良いものと同義ではないし、持っている金の多寡と人生の質や価値と関係しない。
それよりも生活の質、人生の価値をどう高めるかが問われている。
何でこんなことを書いているかといえば、仏人とは真逆の、物好きである者として、今さら彼らのようなシンプルライフに憧れて断捨離などしないが故、物との関係をこのところずっと考え続けているからだ。生きていくのにいったい何が、どれだけのものが必要なのかと。
この歳まで生きて、あれこれ大概のものは手に入れてもうほぼ過不足なく、いや、過剰にはあるが、ないものはもはやほぼない状況となった。それは質の低い、百均レベルだとしてもだ。
ならば今これからは、そうしたものを整理分別して、本当に必要な、じっさいに使うものだけを我が人生に置こうと思う。本当に確かな良いものを残すべく。
古い上着よ、さようなら、とは名曲「青い山脈」の一節であるが、まさに戦後のあの一時期、大衆の心にはそうした気概が満ちていたかと思いやる。軍人や官憲が威張りちらし、個人の自由や人権は一切国家の名の下に抑圧されていた軍国主義、全体主義の世は敗戦によって終わり、民主主義と平和憲法という新しい思想がこの国にもたらされたのだ。
それがいつしか逆戻りして、日米軍事同盟と再軍備の末の解釈改憲、さらには九条を変えるべく明文改憲せねば、違憲状態だと安倍晋三は詭弁の極論を吐く世相となった。軍備には軍備で立ち向かうことの無理とその結末は、アメリカのような銃社会がもたらす繰り返される悲惨な事件を見なくとも誰でもわかることではないか。
一方金権政治は、甘利氏の疑惑を見るまでもなく自民党の体質としてまさに旧態依然であり、どれほど政治改革が叫ばれ選挙制度改革はやったとしても何一つ口利き政治は変わりはしない。大企業からの献金を是とする政治家たちは相変わらず汚職の金まみれなのである。
そんな奴らの旧い政治の総仕上げが、憲法改正であり、今また今の日本人全員に古い上着を無理やり着せようとしているのだ。しかもその上着には個別に識別番号、マイナンバーが付いているから脱ぎたくても一度着たら絶対に脱げないような仕組みなのだ。
今の日本の政治、そうした旧態依然の戦前のものに戻すか、改めて今、窓を開けて民主主義、憲法を守る立憲主義という新しい風を迎え入れるか、今我々は真に問われている。
春が来た。古い上着はもう二度と着たくない。窓を開け放して風を取り込みTシャツ一枚で生きて行こう。
春の嵐が過ぎ去り、突然春がきた。
昨日(14日)の朝、表に出たら夜半の強い風雨で台風の後にように植木の鉢は倒され庭先は惨憺たる有様だった。木々は先に剪定したばかりだったから被害はなかったが。
そしてその嵐のあとは晴れたら一気に汗ばむほどに気温が上がった。5月頃の陽気だとテレビは報じていた。寒いのも辛いが、急に暑くなると気持ち悪く、体調がついていかないからか昨日は一日頭が痛かった。
まあ、たくさん着込むより身軽に、Tシャツ一枚に素足で過ごせるならどれだけ楽か春の訪れで確認できた。そして思う。何で、あんなに着込んでいたのか、その必要があったのかと訝しくさえ感じる。
フランス人は、じっさい何枚洋服を持っているか知らないが、件のベストセラー本ではないが、確かに彼らは持ち物は少ない。人は裸で、無一文で生まれ、何一つあの世に持って行けず、また裸で死ぬのだから本当は何もいらないのである。ある意味、日々の食事と当座の着るもの、そして安心して眠れる寝床さえあれば事足りる。
かといって、生活道具、生きていくのに必要なものは、百円ショップでの使い捨て的なもので十分かというわけではない。もちろん今はそれで食べ物から下着類、老眼鏡まで買えるのだから品質にこだわらなければ百円ショップだけでほぼ人生をおくれる。
だが、百円ショップで事足りる人生の価値は、百円の価値しかないのではないか。そこに行けばつい安いからとあれこれ使わないガラクタやすぐ壊れてしまう、アイディア商品のようなものをいくつも買い込んでしまう。そして結局ろくに使いもしない。そしてそうしたものに囲まれて、限りある金と人生を消費していく。
ならば仏人のように、できるだけモノは持たず、持つとき、買う時はよくよく吟味して、本当に必要なものを、長く使えるように価格は高くても良いものを選んで身の回りに置いていく。それは絶対的に正しい。
それは一点豪華主義とは違う。安い賃貸アパートに暮らしながらも派手な外車に乗っている男を知っているが、そうした贅沢は金さえ入ればとめどもなく広がっていく。
それは欲望であり、物欲であり、生活の質とモノの値段は比例はするが、高級品は良いものと同義ではないし、持っている金の多寡と人生の質や価値と関係しない。
それよりも生活の質、人生の価値をどう高めるかが問われている。
何でこんなことを書いているかといえば、仏人とは真逆の、物好きである者として、今さら彼らのようなシンプルライフに憧れて断捨離などしないが故、物との関係をこのところずっと考え続けているからだ。生きていくのにいったい何が、どれだけのものが必要なのかと。
この歳まで生きて、あれこれ大概のものは手に入れてもうほぼ過不足なく、いや、過剰にはあるが、ないものはもはやほぼない状況となった。それは質の低い、百均レベルだとしてもだ。
ならば今これからは、そうしたものを整理分別して、本当に必要な、じっさいに使うものだけを我が人生に置こうと思う。本当に確かな良いものを残すべく。
古い上着よ、さようなら、とは名曲「青い山脈」の一節であるが、まさに戦後のあの一時期、大衆の心にはそうした気概が満ちていたかと思いやる。軍人や官憲が威張りちらし、個人の自由や人権は一切国家の名の下に抑圧されていた軍国主義、全体主義の世は敗戦によって終わり、民主主義と平和憲法という新しい思想がこの国にもたらされたのだ。
それがいつしか逆戻りして、日米軍事同盟と再軍備の末の解釈改憲、さらには九条を変えるべく明文改憲せねば、違憲状態だと安倍晋三は詭弁の極論を吐く世相となった。軍備には軍備で立ち向かうことの無理とその結末は、アメリカのような銃社会がもたらす繰り返される悲惨な事件を見なくとも誰でもわかることではないか。
一方金権政治は、甘利氏の疑惑を見るまでもなく自民党の体質としてまさに旧態依然であり、どれほど政治改革が叫ばれ選挙制度改革はやったとしても何一つ口利き政治は変わりはしない。大企業からの献金を是とする政治家たちは相変わらず汚職の金まみれなのである。
そんな奴らの旧い政治の総仕上げが、憲法改正であり、今また今の日本人全員に古い上着を無理やり着せようとしているのだ。しかもその上着には個別に識別番号、マイナンバーが付いているから脱ぎたくても一度着たら絶対に脱げないような仕組みなのだ。
今の日本の政治、そうした旧態依然の戦前のものに戻すか、改めて今、窓を開けて民主主義、憲法を守る立憲主義という新しい風を迎え入れるか、今我々は真に問われている。
春が来た。古い上着はもう二度と着たくない。窓を開け放して風を取り込みTシャツ一枚で生きて行こう。
春は未だ来たらずか ― 2016年02月16日 22時48分02秒
★びっくりぽんの気温の乱高下 アクセスランキング: 92位
昨日の朝のブログでは、一昨日の5月の汗ばむ陽気を受けて、もうこれで春が来た!と勇んで喜びを記した。が、その後天気はにわかに曇って気温はぐんぐん下がり昼前には雨も降り出し、さらに夕方には何とウチ、多摩地方では小雪が舞うほど寒くなってしまった。積もることはなかったが、降る雪を見てあちゃーと思った。前言撤回、早速古い上着を引きづり出して羽織った。
あろうことか初夏からまた冬へと一日で実に20度近くの気温の下降である。今の流行語を借りれば、まさに、びっくりぽんである。アベノミクス破綻の株価だってここまで一気に下がらない。
つくづく先のことはわからないと嘆息してしまった。迂闊なことは書くべきでないし、どんなことでも一喜一憂してはならないのだと今さらながら自戒するしかない。
昔から、暑さ寒さも彼岸までと言う。つまり春の彼岸を過ぎればもう寒くなることはないし、秋のお彼岸を過ぎれば熱さも和らぎ涼しくなる。じっさい昔はそうであった。
が、近年は、いつまでも異常な猛暑が続いたり、記録的大雪があったり今年のように、記録的暖冬だと思わせておいて、また一気に厳しい寒さが遅れて来たりと、めちゃくちゃで予想が立たない。もう昔のような季節のサイクル、節目はまったくアテにならない。まして一昨日のように、汗かいてTシャツ姿で過ごした日の翌日に、雪が降るようなことはまさしく異常であり、今は暑いにしろ寒いにしろ極端から極端へと季節も何でも移行する時代となってしまった。そしてその間隔はどんどん短くなっている気がしている。これではたまらない。
そういう時代なんだ、と言う人がいる。それが「現代」なのだと我も思う。しかし、そんな異常気象は、人智の及ばざるものだとしても人間が関与したものだと科学的に今では解明されつつあるし、じっさいのところ世界の平均気温の上昇と、人類の人口増加は比例しているわけで、あまりに人間が増え二酸化炭素排出量も同時に増えて地球規模でその影響が出てきていることは疑いないかと思う。
東京の田舎に住んでいて気づくのは、都心に出ての帰路、中央線を下るにつれて一駅ごとに気温が下がり、まず三鷹で1度、国分寺で2度、立川で3度というように、山に向かうにつれて寒くなっていく。
もちろん青梅線に乗り換え立川から拝島まで来ればまたさらに気温は低くなるし、それが青梅、さらには奥多摩となれば冗談抜きに約10度近く都心部より寒いのは間違いない。
要するに、人の数、人家・住宅の多さと気温の高さは連動していて、人口の少ない所は当然ながら気温は低くなるのだ。まあ、当たり前のことだが。
だからウチでのイベントで、都内に住む女の子たちが来たりすると、必ず寒い寒いと大騒ぎしてしまう。エアコン入れても真冬は大して暖かくはならないから、そこに住む者は慣れてしまったが、やはり都内のマンションやオール電化の戸建ての人にはウチは耐え難い寒さらしい。
しかし、古民家のある山梨の北杜市江草へ行けば、そこはほぼ山間部の、標高も700mの森の中の山里だから、寒さに慣れている我でさえも真冬はちょっと堪える寒さであった。行って最初の冬は夜寝るとき、本当の寒さとは、痛いものだと初めて知った。布団にくるまっても外に出している顔や頭が凍えて痛いのである。
だが、ストーブやエアコンなど冷暖房機がない場合、真に耐えられないのは、寒さより暑さのほうで、寒いのは布団や衣類の重ね着で着ダルマ状態になれば我慢も出来、死ぬことはないが、酷暑、猛暑の熱波の前には素っ裸になったとしても限界があり人は体温より外気温が上がればすぐに死んでしまうのである。
山梨の古民家は、山里にあるわけだからクーラーなど冷房は何もない。でも一昨年までは夏行けば涼しかった。が、去年の夏は湿気の多い夏だったせいか、行ってもちっとも涼しくなく閉口した。東京とほとんど変わらないほど暑かった。
おそらくどんな生物にとっても真に望むのは、暑くもなく寒くもなくほどほど、中庸の気温であろう。日本は四季のある自然豊かな国だから夏は当然暑くはなるし冬も寒い。が、やはりそれには段階を得て、じょじょに移行するために間に春と秋を置いた。
ところがそれが、このところは春と秋が異常に短く、一昨年なんかは秋がほとんどなかったし、春も短くすぐに猛暑となったりもした。
それが一昨日昨日のように、もっと短期間で、極端な寒暖の差を繰り返している。もう体がついていかないし、自然界の生物だって参ってしまうだろう。本当に何とかしてほしいし、ニンゲンの手で何とかなるのなら何か手をうたねばなるまい。機械に頼らないと生きていけないのならば自然界の生物は絶滅してしまうではないか。
この歳になると、あちこちから訃報が頻繁に届き、となると嫌でも自らの死期についても思わざるえない。古の西行法師ではないが、願わくばどんな季節に死にたいか、どんな死に方を望むか考えることがよくある。
まあ、それは希望してかなうことではないから無意味かとも思うが、やはり猛暑の最中とか、厳冬のときに死ぬのは願い下げしたい。まして熱中症とか凍死はもっての他であろう。そんな苦しい死に方はしたくない。
願わくばやはり、外気温が22度ぐらいの暑くもなく寒くもない晴れて爽やかなそよ風の吹く季節に眠るように死につきたいと思うが。我にそんな平穏な死が与えられるはずもない。
昨日の朝のブログでは、一昨日の5月の汗ばむ陽気を受けて、もうこれで春が来た!と勇んで喜びを記した。が、その後天気はにわかに曇って気温はぐんぐん下がり昼前には雨も降り出し、さらに夕方には何とウチ、多摩地方では小雪が舞うほど寒くなってしまった。積もることはなかったが、降る雪を見てあちゃーと思った。前言撤回、早速古い上着を引きづり出して羽織った。
あろうことか初夏からまた冬へと一日で実に20度近くの気温の下降である。今の流行語を借りれば、まさに、びっくりぽんである。アベノミクス破綻の株価だってここまで一気に下がらない。
つくづく先のことはわからないと嘆息してしまった。迂闊なことは書くべきでないし、どんなことでも一喜一憂してはならないのだと今さらながら自戒するしかない。
昔から、暑さ寒さも彼岸までと言う。つまり春の彼岸を過ぎればもう寒くなることはないし、秋のお彼岸を過ぎれば熱さも和らぎ涼しくなる。じっさい昔はそうであった。
が、近年は、いつまでも異常な猛暑が続いたり、記録的大雪があったり今年のように、記録的暖冬だと思わせておいて、また一気に厳しい寒さが遅れて来たりと、めちゃくちゃで予想が立たない。もう昔のような季節のサイクル、節目はまったくアテにならない。まして一昨日のように、汗かいてTシャツ姿で過ごした日の翌日に、雪が降るようなことはまさしく異常であり、今は暑いにしろ寒いにしろ極端から極端へと季節も何でも移行する時代となってしまった。そしてその間隔はどんどん短くなっている気がしている。これではたまらない。
そういう時代なんだ、と言う人がいる。それが「現代」なのだと我も思う。しかし、そんな異常気象は、人智の及ばざるものだとしても人間が関与したものだと科学的に今では解明されつつあるし、じっさいのところ世界の平均気温の上昇と、人類の人口増加は比例しているわけで、あまりに人間が増え二酸化炭素排出量も同時に増えて地球規模でその影響が出てきていることは疑いないかと思う。
東京の田舎に住んでいて気づくのは、都心に出ての帰路、中央線を下るにつれて一駅ごとに気温が下がり、まず三鷹で1度、国分寺で2度、立川で3度というように、山に向かうにつれて寒くなっていく。
もちろん青梅線に乗り換え立川から拝島まで来ればまたさらに気温は低くなるし、それが青梅、さらには奥多摩となれば冗談抜きに約10度近く都心部より寒いのは間違いない。
要するに、人の数、人家・住宅の多さと気温の高さは連動していて、人口の少ない所は当然ながら気温は低くなるのだ。まあ、当たり前のことだが。
だからウチでのイベントで、都内に住む女の子たちが来たりすると、必ず寒い寒いと大騒ぎしてしまう。エアコン入れても真冬は大して暖かくはならないから、そこに住む者は慣れてしまったが、やはり都内のマンションやオール電化の戸建ての人にはウチは耐え難い寒さらしい。
しかし、古民家のある山梨の北杜市江草へ行けば、そこはほぼ山間部の、標高も700mの森の中の山里だから、寒さに慣れている我でさえも真冬はちょっと堪える寒さであった。行って最初の冬は夜寝るとき、本当の寒さとは、痛いものだと初めて知った。布団にくるまっても外に出している顔や頭が凍えて痛いのである。
だが、ストーブやエアコンなど冷暖房機がない場合、真に耐えられないのは、寒さより暑さのほうで、寒いのは布団や衣類の重ね着で着ダルマ状態になれば我慢も出来、死ぬことはないが、酷暑、猛暑の熱波の前には素っ裸になったとしても限界があり人は体温より外気温が上がればすぐに死んでしまうのである。
山梨の古民家は、山里にあるわけだからクーラーなど冷房は何もない。でも一昨年までは夏行けば涼しかった。が、去年の夏は湿気の多い夏だったせいか、行ってもちっとも涼しくなく閉口した。東京とほとんど変わらないほど暑かった。
おそらくどんな生物にとっても真に望むのは、暑くもなく寒くもなくほどほど、中庸の気温であろう。日本は四季のある自然豊かな国だから夏は当然暑くはなるし冬も寒い。が、やはりそれには段階を得て、じょじょに移行するために間に春と秋を置いた。
ところがそれが、このところは春と秋が異常に短く、一昨年なんかは秋がほとんどなかったし、春も短くすぐに猛暑となったりもした。
それが一昨日昨日のように、もっと短期間で、極端な寒暖の差を繰り返している。もう体がついていかないし、自然界の生物だって参ってしまうだろう。本当に何とかしてほしいし、ニンゲンの手で何とかなるのなら何か手をうたねばなるまい。機械に頼らないと生きていけないのならば自然界の生物は絶滅してしまうではないか。
この歳になると、あちこちから訃報が頻繁に届き、となると嫌でも自らの死期についても思わざるえない。古の西行法師ではないが、願わくばどんな季節に死にたいか、どんな死に方を望むか考えることがよくある。
まあ、それは希望してかなうことではないから無意味かとも思うが、やはり猛暑の最中とか、厳冬のときに死ぬのは願い下げしたい。まして熱中症とか凍死はもっての他であろう。そんな苦しい死に方はしたくない。
願わくばやはり、外気温が22度ぐらいの暑くもなく寒くもない晴れて爽やかなそよ風の吹く季節に眠るように死につきたいと思うが。我にそんな平穏な死が与えられるはずもない。
2月27日(土)中川五郎を迎えての反戦歌コンサートへどうかご参加を! ― 2016年02月17日 23時25分59秒
★「うたの力」を今こそ信じてと アクセスランキング: 123位
このところ晴れても気温の低い日が続く。むろんもう季節は春で、陽射しも強いが体感的にはまだまだ寒い。一度汗ばむような気温の高い日があり、その後にまた寒さが戻るとさらに辛く感じてしまうのは致し方ない。
今月、来月と同じ27日に、我が深く関わっているコンサートが、国立市谷保のかけこみ亭である。今、その下準備に気持ちだけは追われている。まあ、当日までにできることは主に宣伝告知の徹底なのだが。
2月は、土曜日の27日、「皆で反戦歌、労働歌そして生活の歌をうたおうコンサート」の第三回目として、フォーク界の巨星・プロテストソングをうたい続けて半世紀の中川五郎氏を招いてたっぷり唄ってもらうことになっている。
今彼は、国立市に移って来ているので、地元かけこみ亭でのライブ、心置きなくたっぷり唄って頂けるものと期待している。
そして3月の27日は、日曜で、この日は午後3時頃から、青森が生んだ生活詩人、不遇のシンガーソングライター亡き高坂一潮を偲んで友人シンガーが集い唄う企画である。こちらもものすごく楽しみだが、たくさんの名だたるベテランシンガーが揃うので、それなりに観客は揃うものと多少は気が楽だしまだ一か月先のことで時間もある。
今は、来週となった今月末の中川五郎を迎えての「反戦歌コンサート」の成功がいちばんの課題である。何度も書いてきたが、良いコンサートとは、演奏の出来や企画内容も大事だが、いちばんは観客の入りこそが重要であって、どんなに良いライブであろうと、観客がほとんどいないのなら本末転倒だと言ってもいい。
良い成功したライブとは、興行的成功以前に、そのキャパシティに適した観客が集ってこそ成り立つものであって、そのために場の企画者は精いっぱいの努力をしないとならないし当然求められている。ただ、あまりにも昨今は、お客は少なかったけど良いライブだったね、ということが日常的になってしまっていて、出演者も店側もそれが当たり前だと慣れてしまっているようで遺憾としか言いようがない。
つまるところ、お客を呼ぶ、集めるということは、ミュージシャン、出演者に課せるべきものでも(むろん自らの企画なら別だが)、店側がHPなどで宣伝告知は当然としても店の努力や義務だけでなく、間に立つ者、つまり企画者、プロデューサー的な人が動いて宣伝に励む責務があってこそのものだと思う。
そして今回のコンサートの責任者筆頭はまず我なのだから、もっと真剣に必死に集客、周知のために動かなければならない。が、あれこれ家事や家庭内の事情で専念できず気がつけば一週間先に迫ってきてしまった。
今さらながらがんばらないと、当日ふたを開けてみたらお客は地元民の店の常連さんが来られただけという事態も起こり得る。むろんミュージシャン、出演者側には、簡易チラシなど渡してファンにお知らせお願いした。
が、我こそがまだほとんど何も宣伝活動やっていない。コンサートが真に成功するか不安になってきた。※今年から来年にかけて、彼の音楽活動開始50周年を祝う企画のこれが嚆矢、第一弾なのである。何としても盛況とせねばならない。
どうか拙ブログをお読みの方、都下国立で都心方面からはやや来にくい場所ですが、早めに始めて早めに終演とする予定ですので、お気軽にご参加ください。しかも投げ銭制です。
沢山の方々のご参加ご来場を心からお待ちしております。
このところ晴れても気温の低い日が続く。むろんもう季節は春で、陽射しも強いが体感的にはまだまだ寒い。一度汗ばむような気温の高い日があり、その後にまた寒さが戻るとさらに辛く感じてしまうのは致し方ない。
今月、来月と同じ27日に、我が深く関わっているコンサートが、国立市谷保のかけこみ亭である。今、その下準備に気持ちだけは追われている。まあ、当日までにできることは主に宣伝告知の徹底なのだが。
2月は、土曜日の27日、「皆で反戦歌、労働歌そして生活の歌をうたおうコンサート」の第三回目として、フォーク界の巨星・プロテストソングをうたい続けて半世紀の中川五郎氏を招いてたっぷり唄ってもらうことになっている。
今彼は、国立市に移って来ているので、地元かけこみ亭でのライブ、心置きなくたっぷり唄って頂けるものと期待している。
そして3月の27日は、日曜で、この日は午後3時頃から、青森が生んだ生活詩人、不遇のシンガーソングライター亡き高坂一潮を偲んで友人シンガーが集い唄う企画である。こちらもものすごく楽しみだが、たくさんの名だたるベテランシンガーが揃うので、それなりに観客は揃うものと多少は気が楽だしまだ一か月先のことで時間もある。
今は、来週となった今月末の中川五郎を迎えての「反戦歌コンサート」の成功がいちばんの課題である。何度も書いてきたが、良いコンサートとは、演奏の出来や企画内容も大事だが、いちばんは観客の入りこそが重要であって、どんなに良いライブであろうと、観客がほとんどいないのなら本末転倒だと言ってもいい。
良い成功したライブとは、興行的成功以前に、そのキャパシティに適した観客が集ってこそ成り立つものであって、そのために場の企画者は精いっぱいの努力をしないとならないし当然求められている。ただ、あまりにも昨今は、お客は少なかったけど良いライブだったね、ということが日常的になってしまっていて、出演者も店側もそれが当たり前だと慣れてしまっているようで遺憾としか言いようがない。
つまるところ、お客を呼ぶ、集めるということは、ミュージシャン、出演者に課せるべきものでも(むろん自らの企画なら別だが)、店側がHPなどで宣伝告知は当然としても店の努力や義務だけでなく、間に立つ者、つまり企画者、プロデューサー的な人が動いて宣伝に励む責務があってこそのものだと思う。
そして今回のコンサートの責任者筆頭はまず我なのだから、もっと真剣に必死に集客、周知のために動かなければならない。が、あれこれ家事や家庭内の事情で専念できず気がつけば一週間先に迫ってきてしまった。
今さらながらがんばらないと、当日ふたを開けてみたらお客は地元民の店の常連さんが来られただけという事態も起こり得る。むろんミュージシャン、出演者側には、簡易チラシなど渡してファンにお知らせお願いした。
が、我こそがまだほとんど何も宣伝活動やっていない。コンサートが真に成功するか不安になってきた。※今年から来年にかけて、彼の音楽活動開始50周年を祝う企画のこれが嚆矢、第一弾なのである。何としても盛況とせねばならない。
どうか拙ブログをお読みの方、都下国立で都心方面からはやや来にくい場所ですが、早めに始めて早めに終演とする予定ですので、お気軽にご参加ください。しかも投げ銭制です。
沢山の方々のご参加ご来場を心からお待ちしております。
マルビナ・レイノルズを探して ― 2016年02月18日 22時37分41秒
★誰か彼女を知らないか アクセスランキング: 129位
マルビナ・レイノルズである。表記は、REYNOLDS, MALVINA となるのであろうか。昔から名前だけは知っていた。が、寡聞にして、どういう経歴の人なのか、詳しいことは何もわからない。とにもかくにもその歌声が知りたい。
その名前だけは昔から知っている。高田渡の「自衛隊に入ろう」の原曲、つまりメロディを作曲した人だ。昨今よく、その曲は、渡氏の作詞作曲と表記されていることもあるけれど、原曲は彼女のものだと昔の楽譜には記してあった。
たぶん、まずそれでその名を知ったのだと思う。そしてJ・バエズが唄っていた「雨を汚したのは誰?」――おそらく、最も初期の反原発ソングのひとつ――も彼女のペンによるものだし、これは最近知ったことだけど、かつて関西フォークシーンでかなりよく歌われた「カッコよくはないけれど」(大田ぼうのアップルパミス他)も彼女の作詞作曲と表記されていた。
我にとってこの三曲は今も昔もとても大事なフォークソングで、持ち歌として、特にこのところ「カッコよくはないけれど」は街頭や集会でよく唄っていた。そして調べたらそのどれもが彼女の作ったうただったのだ。ちょっと驚かされた。
となると、彼女の唄っているオリジナルのそれが聴きたくなる。ところがそれをAmazonとかでCDで検索しても1曲も出てこない。だいたいそもそもこの人はシンガーなのか、かつてのキャロル・キングのようにソングライターなのかもわからない。
ただ、レコードで検索すると、白髪?と思しきご婦人の顔写真が載っているジャケットのアルバムが何枚かヒットはする。ということはやはり歌手として活動していたと思える。
しかし、彼女の名は、日本ではソングライターとしてよく見かけてもおそらくその当人の歌声を知っている人やレコードをお持ちの方はごくごく少ないのではないだろうか。
それでも1960年代、高田渡ら、関西フォークムーブメントの中で、彼女の楽曲がよく訳されたり日本語詞で唄われたのは、米国においてピート・シーガーやバエズたちが先に持ち歌として唄っていたからだろうし、おそらく日本で曲が知られたのもそのルートからだと推測する。
我は、十代の頃より日本のフォークソングを愛好し、その運動の第一走者である中川五郎氏や多くのフォークシンガーたちから彼らが影響を受けた洋楽のミュージシャンについて話をお聞きして来た。
彼ら日本のシンガーたちから、素晴らしいミュージシャンたちの名、ディランやガースリーは当然ながら、例えばオデッタ、ジェリー・ジェフ・ウォーカーやディブ・ヴァン・ロンク、ニューロストシティ、古いところでは、ミシシッピ・ジョン・ハート、レッドベリー他、多々ご教示受け遅ればせながらも知ることができた。※フォークウェイズレコードに関しては両国フォークロアセンターの国崎さんからも。
我はかなり遅れて来た世代だったからしょせん自らの知識やリアルタイムで聴いていた年代だけでは、ディランズチルドレンたち、例えばスプリングスティーンや、トム・ウェイツ、J・ブラウンら、通だとしてもエリオット・マーフィー程度しか聴くことはなかったと思う。
そうした素晴らしい洋楽のシンガーたち、日本のフォークソングにとってのルーツミュージック、日本語で唄われたものの原曲を探し求めるのは今や我がテーマともなっている。
だが、今まだそのオリジナルを確認できていない歌やシンガーもかなりいて、その筆頭がそのマルビナ・レイノルズなのだ。
そもそもこんなおばさんが、いくつもの鋭いプロテストソングの傑作を生みだしているのはいったいどういう背景があるのだろうか。どういう経歴の持ち主なのか。60年代当時は、日本でも彼女のことはよく知られていたのだろうか。
今その情報を集め調べている。もう少しはっきりしたことが見えてきたら報告していきたい。まずは彼女の歌う声がともかく聞いてみたい。
マルビナ・レイノルズである。表記は、REYNOLDS, MALVINA となるのであろうか。昔から名前だけは知っていた。が、寡聞にして、どういう経歴の人なのか、詳しいことは何もわからない。とにもかくにもその歌声が知りたい。
その名前だけは昔から知っている。高田渡の「自衛隊に入ろう」の原曲、つまりメロディを作曲した人だ。昨今よく、その曲は、渡氏の作詞作曲と表記されていることもあるけれど、原曲は彼女のものだと昔の楽譜には記してあった。
たぶん、まずそれでその名を知ったのだと思う。そしてJ・バエズが唄っていた「雨を汚したのは誰?」――おそらく、最も初期の反原発ソングのひとつ――も彼女のペンによるものだし、これは最近知ったことだけど、かつて関西フォークシーンでかなりよく歌われた「カッコよくはないけれど」(大田ぼうのアップルパミス他)も彼女の作詞作曲と表記されていた。
我にとってこの三曲は今も昔もとても大事なフォークソングで、持ち歌として、特にこのところ「カッコよくはないけれど」は街頭や集会でよく唄っていた。そして調べたらそのどれもが彼女の作ったうただったのだ。ちょっと驚かされた。
となると、彼女の唄っているオリジナルのそれが聴きたくなる。ところがそれをAmazonとかでCDで検索しても1曲も出てこない。だいたいそもそもこの人はシンガーなのか、かつてのキャロル・キングのようにソングライターなのかもわからない。
ただ、レコードで検索すると、白髪?と思しきご婦人の顔写真が載っているジャケットのアルバムが何枚かヒットはする。ということはやはり歌手として活動していたと思える。
しかし、彼女の名は、日本ではソングライターとしてよく見かけてもおそらくその当人の歌声を知っている人やレコードをお持ちの方はごくごく少ないのではないだろうか。
それでも1960年代、高田渡ら、関西フォークムーブメントの中で、彼女の楽曲がよく訳されたり日本語詞で唄われたのは、米国においてピート・シーガーやバエズたちが先に持ち歌として唄っていたからだろうし、おそらく日本で曲が知られたのもそのルートからだと推測する。
我は、十代の頃より日本のフォークソングを愛好し、その運動の第一走者である中川五郎氏や多くのフォークシンガーたちから彼らが影響を受けた洋楽のミュージシャンについて話をお聞きして来た。
彼ら日本のシンガーたちから、素晴らしいミュージシャンたちの名、ディランやガースリーは当然ながら、例えばオデッタ、ジェリー・ジェフ・ウォーカーやディブ・ヴァン・ロンク、ニューロストシティ、古いところでは、ミシシッピ・ジョン・ハート、レッドベリー他、多々ご教示受け遅ればせながらも知ることができた。※フォークウェイズレコードに関しては両国フォークロアセンターの国崎さんからも。
我はかなり遅れて来た世代だったからしょせん自らの知識やリアルタイムで聴いていた年代だけでは、ディランズチルドレンたち、例えばスプリングスティーンや、トム・ウェイツ、J・ブラウンら、通だとしてもエリオット・マーフィー程度しか聴くことはなかったと思う。
そうした素晴らしい洋楽のシンガーたち、日本のフォークソングにとってのルーツミュージック、日本語で唄われたものの原曲を探し求めるのは今や我がテーマともなっている。
だが、今まだそのオリジナルを確認できていない歌やシンガーもかなりいて、その筆頭がそのマルビナ・レイノルズなのだ。
そもそもこんなおばさんが、いくつもの鋭いプロテストソングの傑作を生みだしているのはいったいどういう背景があるのだろうか。どういう経歴の持ち主なのか。60年代当時は、日本でも彼女のことはよく知られていたのだろうか。
今その情報を集め調べている。もう少しはっきりしたことが見えてきたら報告していきたい。まずは彼女の歌う声がともかく聞いてみたい。
これからのこと、当面のこと ― 2016年02月21日 10時31分14秒
★大変な時代に誰もが大変だが アクセスランキング: 118位
日曜の朝である。昨夜の強い雨もやみ、朝方はまだ曇って道も濡れていたが、今陽射しも出て晴れて来た。気温もそんなに低くないし今日はかっこうのデモ日和、集会にぴったりの日になるに違いない。
この数日、ちょっと思い悩むことがあって、考えても意味のない選択を迫られていた。やりたいことは多々あり、それ以上にやるべきことは山積して焦り苛立つ気持ちにすらなるが、ともかく一日一日今できることを少しでも進めていくしかない。
先だってのマルビナ・レイノルズの件も多くの方々からご教示、情報のあるところを教わった。個々に御礼の返答はまだしていないが有難く思う。近く、その「報告」もいたしたい。
が、まずは今日は、国会周辺での沖縄連帯の集会へ出向く。
何人かかつて一緒にこうした集会に参加してくれた友人知人にも連絡したのだが、5人メールして、5人とも今日はそれぞれご都合悪いとのことで、一人でもならばこそその人たちの分まで行ってこようと奮起している。
皆、仕事が急に入ったり、介護など家庭の事情で、こうした集会、デモ行進などの行動に参加したくても、参加の予定であっても行けないのだ。それはしかたない。
我も安保法が成立したあの9月以降、19日行動は、毎月必ず行きたいと心に誓ったのだが、いかんせん母の癌治療のため病院通いの日と何故かいつも重なったりして行こうにもなかなかかなわない。
じっさい、我々の世代はある意味いちばん時間がない。自らの日々の生活も抱え、維持しつつ老親たちの介護も同時にしないとならない。まあ、ヒマで安閑とした、のんびりゆったりの悠々自適の老後など来る人は稀であろうし、もしそんな日が来たとしてもこのご時世、自らの幸福や楽しみだけ大事にして身勝手に生きていくなんてゆるされないと我は思う。
世界のどこかに、あちこちに貧困や差別、戦争、自然破壊があるのを知りながら、自分とはカンケイないとすましていられるとしたらその人は間違いなく死後裁きにあうと信ずるし聖書曰く、そんな人は神の国に入れない。
誰もが大変だが、もし少しでも時間あらば、他者のため、社会のため、国家のため(自公政権や閣僚たちのためではなく)、地球のために時間や労力を、もし余分な金があれば資力を割くべきであろう。
誰もが大変なのだ。まず今を生きていくだけで精いっぱいなのだ。しかしそれは、金があれば解決できるという問題でもない。Amazonには何万点ものアイテムが常に並んでいる。そこで売っていない、扱っていない商品を探すほうが難しいほどだ。
しかし、一番この世に必要で足りないものはAmazonでは扱っていない。もしリストに載せたとしても常に品切れ中となろう。
拙ブログの読者は当然おわかりのことと思う。それは「愛」である。思いやりと言ってもいい。自己へのそれは動物だって持っている。他者への、それも見返りを求めない無償の愛。それこそが愛であり、本当に大事な大切なものだ。
とあるタレント出身の自民党の政治家が、日本もアメリカの属州になれば、拉致問題も起きなかったし周辺国との紛争など今ある政治問題は全て解決できると大胆な「夢」を語っていた。
ある意味画期的な、素晴らしいビジョンだと思わなくもない。最終的には国家さえ失くしてしまえば国家間の紛争は当然なくなる。しかし、彼が言っているのはどうやら、ヤクザで言うところの巨大な組の傘下に入ればそこで出世もできるし守ってももらえると言うのとどう違うのだろうか。※日本はもう安保条約により既に傘下に入っている。さらにその先の話として、独立国日本を解散してハワイのように超大国アメリカの一州に自らなろうというビジョンなのである。
彼には愛がない。そんな夢には志もないどころかまず日本と日本人に対する愛が欠けている。そんな売国奴が政治家をやっている。愛国者の皆さんが集う日本会議の面々はこの男をどう思うのだろうか。
もしもそのアメリカでアメリカ人が同様のこと、つまり他国の支配下になるのも選択肢として夢を語ったとしたらどんな目に遭うだろうか。愛国者かつキリスト信者でもあると胸を張る共和党のトランプ氏に一喝してもらいたい。バカ野郎!と。右であれ、左であれ国家に誇りと愛を持てない者はこの国から去れである。自民党は腐りきっているが、こんな男を議員として加えるのは論外中の論外、直ちに除名すべきだと我も思う。
さておき、もう少ししたら家を出る。戻ったら今日のことを報告したい。
日曜の朝である。昨夜の強い雨もやみ、朝方はまだ曇って道も濡れていたが、今陽射しも出て晴れて来た。気温もそんなに低くないし今日はかっこうのデモ日和、集会にぴったりの日になるに違いない。
この数日、ちょっと思い悩むことがあって、考えても意味のない選択を迫られていた。やりたいことは多々あり、それ以上にやるべきことは山積して焦り苛立つ気持ちにすらなるが、ともかく一日一日今できることを少しでも進めていくしかない。
先だってのマルビナ・レイノルズの件も多くの方々からご教示、情報のあるところを教わった。個々に御礼の返答はまだしていないが有難く思う。近く、その「報告」もいたしたい。
が、まずは今日は、国会周辺での沖縄連帯の集会へ出向く。
何人かかつて一緒にこうした集会に参加してくれた友人知人にも連絡したのだが、5人メールして、5人とも今日はそれぞれご都合悪いとのことで、一人でもならばこそその人たちの分まで行ってこようと奮起している。
皆、仕事が急に入ったり、介護など家庭の事情で、こうした集会、デモ行進などの行動に参加したくても、参加の予定であっても行けないのだ。それはしかたない。
我も安保法が成立したあの9月以降、19日行動は、毎月必ず行きたいと心に誓ったのだが、いかんせん母の癌治療のため病院通いの日と何故かいつも重なったりして行こうにもなかなかかなわない。
じっさい、我々の世代はある意味いちばん時間がない。自らの日々の生活も抱え、維持しつつ老親たちの介護も同時にしないとならない。まあ、ヒマで安閑とした、のんびりゆったりの悠々自適の老後など来る人は稀であろうし、もしそんな日が来たとしてもこのご時世、自らの幸福や楽しみだけ大事にして身勝手に生きていくなんてゆるされないと我は思う。
世界のどこかに、あちこちに貧困や差別、戦争、自然破壊があるのを知りながら、自分とはカンケイないとすましていられるとしたらその人は間違いなく死後裁きにあうと信ずるし聖書曰く、そんな人は神の国に入れない。
誰もが大変だが、もし少しでも時間あらば、他者のため、社会のため、国家のため(自公政権や閣僚たちのためではなく)、地球のために時間や労力を、もし余分な金があれば資力を割くべきであろう。
誰もが大変なのだ。まず今を生きていくだけで精いっぱいなのだ。しかしそれは、金があれば解決できるという問題でもない。Amazonには何万点ものアイテムが常に並んでいる。そこで売っていない、扱っていない商品を探すほうが難しいほどだ。
しかし、一番この世に必要で足りないものはAmazonでは扱っていない。もしリストに載せたとしても常に品切れ中となろう。
拙ブログの読者は当然おわかりのことと思う。それは「愛」である。思いやりと言ってもいい。自己へのそれは動物だって持っている。他者への、それも見返りを求めない無償の愛。それこそが愛であり、本当に大事な大切なものだ。
とあるタレント出身の自民党の政治家が、日本もアメリカの属州になれば、拉致問題も起きなかったし周辺国との紛争など今ある政治問題は全て解決できると大胆な「夢」を語っていた。
ある意味画期的な、素晴らしいビジョンだと思わなくもない。最終的には国家さえ失くしてしまえば国家間の紛争は当然なくなる。しかし、彼が言っているのはどうやら、ヤクザで言うところの巨大な組の傘下に入ればそこで出世もできるし守ってももらえると言うのとどう違うのだろうか。※日本はもう安保条約により既に傘下に入っている。さらにその先の話として、独立国日本を解散してハワイのように超大国アメリカの一州に自らなろうというビジョンなのである。
彼には愛がない。そんな夢には志もないどころかまず日本と日本人に対する愛が欠けている。そんな売国奴が政治家をやっている。愛国者の皆さんが集う日本会議の面々はこの男をどう思うのだろうか。
もしもそのアメリカでアメリカ人が同様のこと、つまり他国の支配下になるのも選択肢として夢を語ったとしたらどんな目に遭うだろうか。愛国者かつキリスト信者でもあると胸を張る共和党のトランプ氏に一喝してもらいたい。バカ野郎!と。右であれ、左であれ国家に誇りと愛を持てない者はこの国から去れである。自民党は腐りきっているが、こんな男を議員として加えるのは論外中の論外、直ちに除名すべきだと我も思う。
さておき、もう少ししたら家を出る。戻ったら今日のことを報告したい。
一か月ぶりの山梨 ― 2016年02月23日 22時34分21秒
★南アルプスはそろそろ春霞み アクセスランキング: 118位
実は昨日から一泊二日で山梨へ行ってきた。一か月ぶりである。今回は母は連れないで来たから増冨へは行かなかった。
目的は、要するに様子見で、幸いあの後、空き巣など異常はなかった。ほっとした。そして溜まりに溜まった古本の整理整頓に励んだ。
寒いことは寒かったが、もうそこかしこに梅が咲き誇り、足元に目をやればフキノトウが枯れ朽ちた葉の下から顔出していて春の訪れをはっきり確認できた。
久々に春の陽射しの中、車を走らせ気持ちはリフレッシュできた。さあ、またここから気持ち新たにがんばろう。人生を自ら動かしていこう。
実は昨日から一泊二日で山梨へ行ってきた。一か月ぶりである。今回は母は連れないで来たから増冨へは行かなかった。
目的は、要するに様子見で、幸いあの後、空き巣など異常はなかった。ほっとした。そして溜まりに溜まった古本の整理整頓に励んだ。
寒いことは寒かったが、もうそこかしこに梅が咲き誇り、足元に目をやればフキノトウが枯れ朽ちた葉の下から顔出していて春の訪れをはっきり確認できた。
久々に春の陽射しの中、車を走らせ気持ちはリフレッシュできた。さあ、またここから気持ち新たにがんばろう。人生を自ら動かしていこう。



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