再び人生が動き出していく ― 2017年01月15日 22時00分00秒
★今年こそ成果を出してやっていこう
新年一月も半ば過ぎた。昨日は、谷保かけこみ亭での「笠木透追悼コンサート」に顔出すことができた。
かけこみ亭でのコンサートは、実に昨年初夏の我が企画した「反戦歌~」以来だったから、半年ぶり以上となる。我も、打ち上げで1曲だけ笠木さんの遺したうたをうたったが、情けない出来であったが仕方ない。
実際、ギターもこの半年まったく手にしていなかった。すべてが、元の木阿弥、ビギナーのレベルに戻っただけでなく、ギターもハーモニカも基本的なことが何もかにもわからなくなってしまった。
まあ、それでも善き仲間たちに支えられ楽しい時を過ごすことができた。そこに行けば、我は赦される場所がある。有難いことだとつくづく思う。そして、ようやくこれで新しい年がスタートしたという気持ちになった。また、ここから、この場所から我の音楽の活動を再開したいし、きっとそれはかなうと思えた。
例年この年末年始は、大晦日はかけこみ亭か、西荻ののみ亭で、仲間たちと年越しの宴会を過ごし、年が改まってから、ときに朝陽が出てから家に帰る。
そして、新年は、のみ亭での中川五郎+女子アーチストによる恒例「のみ亭新年会」ライブから、音楽に関する我の活動は始まっていく。
しかし今年は、昨年の母の死という大過の余波が収まらず、さらにそこに認知症が進んできた父との軋轢、諍いもあって、大晦日も家を空けられず家にいたし、のみ亭とももう一年近く疎遠となって、今年の新年会はお誘いは受けたが顔出せなかった。
そしてようやく、父をショートステイにこの土日は預けて、昨晩はゆっくりかけこみ亭のライブに遅くまで参加できた。
これでようやくまた我の「音楽の活動」が始まったという感慨がある。
母が消え、老いて面倒な父との二人暮らしという新たなライフスタイルもしだいに慣れもしてきた。ある程度ルーティンともなればその中で計画も立てられなくもない。
家にいれば目が離せず、世話が焼ける人だが、母の最期のときのように、24時間ほぼ付ききりの介護が必要なほど弱ってはいないしデイサービス、ショートステイにも短期的には預けられる。ならば父が家にいない時間も多々つくれるし、その時間を有効に使えば、かなりのこと、それも自分のことができよう。
去年は、年明けから悪化してきた母の癌に振り回されて、ほとんど何もできなかった。まずは進行し肥大してきた癌をどう治療するかということだけで頭がいっぱいで、他の事、家のことにまして我のことは仕事も趣味も何もかも後回しにするしかなかった。
母は急速に弱り、大腸のバイパス手術後、下痢、軟便に悩み苦しみ、痩せ衰えて初夏から寝たきりとなって、自宅での我が介護しての闘病生活は二か月で終わりの時が来た。
その後も死後の煩雑な多々後始末に追われて、さらにそこに父の呆けも急に進んできて、狷介な男同士親子二人で対峙しあう一触即発の阿鼻叫喚の日々が訪れた。
最愛の母を喪ったこともあって、一時期は強い虚無感や無常感に苦しみ、どん底の哀しみから這い上がれないかと思っていたが、母の死から三か月が過ぎるころから、また元の生活が見え始めて来た。
ひと頃は、見るものすべてが色や生気を失い、何もかも無意味に思えていたが、この頃はやっと季節の移ろいや自然の美にも関心が向かうようになってきた。
また、ここから人生が始まっていく動いていく、とようやくひしひしと感じている。
我が人生があとどのくらい残されていて、いったい何ができるのであろう。誰と出会い、何がやれるのか。何をするのだろうか。
先のことをあれこれ考えたり不安に思い煩う以前に、できるときに、まだ少しでも時間あるとき、動けるときに、無駄なく精力的に時間を使って、「成果」を出していかねばと今強く思う。
思いあらば、かたちに、行動にして示せ、とはよく言われるところだが、まさにその通りだ。そろそろ、我も終着駅が見えて来たのだから、降りるための荷物を整理せねばならない。
いや、しかしその前に、まずは、今までやって来たことの成果、つまり、なった実を刈り取らねばならない。形の悪い貧弱な実であろうとも、それは我だけの、我でしか作れないものであるはずだし、それを世に示したい。
今までずいぶんあちこちに種は蒔いて来たのだ。そろそろ刈り取りの時が来たのだ。「俺はまだ本気出していないだけ」と嘯いているうちに、多くの怠け者はそのまま何も成さずに死んでしまう。
もう先はさほど長くはない。が、今ならできるし、きっとできるはず。今年こそ刈り取りの年として、その成果を少しでも多く世に示したいと願う。
実りある良い年にしていこう。がんばろう。神が味方してくれる。そう、我にだけでなく、貴方にも、誰にでも。ささやかな人生を大切にしてどんなに大変でも生きて行こう。
新年一月も半ば過ぎた。昨日は、谷保かけこみ亭での「笠木透追悼コンサート」に顔出すことができた。
かけこみ亭でのコンサートは、実に昨年初夏の我が企画した「反戦歌~」以来だったから、半年ぶり以上となる。我も、打ち上げで1曲だけ笠木さんの遺したうたをうたったが、情けない出来であったが仕方ない。
実際、ギターもこの半年まったく手にしていなかった。すべてが、元の木阿弥、ビギナーのレベルに戻っただけでなく、ギターもハーモニカも基本的なことが何もかにもわからなくなってしまった。
まあ、それでも善き仲間たちに支えられ楽しい時を過ごすことができた。そこに行けば、我は赦される場所がある。有難いことだとつくづく思う。そして、ようやくこれで新しい年がスタートしたという気持ちになった。また、ここから、この場所から我の音楽の活動を再開したいし、きっとそれはかなうと思えた。
例年この年末年始は、大晦日はかけこみ亭か、西荻ののみ亭で、仲間たちと年越しの宴会を過ごし、年が改まってから、ときに朝陽が出てから家に帰る。
そして、新年は、のみ亭での中川五郎+女子アーチストによる恒例「のみ亭新年会」ライブから、音楽に関する我の活動は始まっていく。
しかし今年は、昨年の母の死という大過の余波が収まらず、さらにそこに認知症が進んできた父との軋轢、諍いもあって、大晦日も家を空けられず家にいたし、のみ亭とももう一年近く疎遠となって、今年の新年会はお誘いは受けたが顔出せなかった。
そしてようやく、父をショートステイにこの土日は預けて、昨晩はゆっくりかけこみ亭のライブに遅くまで参加できた。
これでようやくまた我の「音楽の活動」が始まったという感慨がある。
母が消え、老いて面倒な父との二人暮らしという新たなライフスタイルもしだいに慣れもしてきた。ある程度ルーティンともなればその中で計画も立てられなくもない。
家にいれば目が離せず、世話が焼ける人だが、母の最期のときのように、24時間ほぼ付ききりの介護が必要なほど弱ってはいないしデイサービス、ショートステイにも短期的には預けられる。ならば父が家にいない時間も多々つくれるし、その時間を有効に使えば、かなりのこと、それも自分のことができよう。
去年は、年明けから悪化してきた母の癌に振り回されて、ほとんど何もできなかった。まずは進行し肥大してきた癌をどう治療するかということだけで頭がいっぱいで、他の事、家のことにまして我のことは仕事も趣味も何もかも後回しにするしかなかった。
母は急速に弱り、大腸のバイパス手術後、下痢、軟便に悩み苦しみ、痩せ衰えて初夏から寝たきりとなって、自宅での我が介護しての闘病生活は二か月で終わりの時が来た。
その後も死後の煩雑な多々後始末に追われて、さらにそこに父の呆けも急に進んできて、狷介な男同士親子二人で対峙しあう一触即発の阿鼻叫喚の日々が訪れた。
最愛の母を喪ったこともあって、一時期は強い虚無感や無常感に苦しみ、どん底の哀しみから這い上がれないかと思っていたが、母の死から三か月が過ぎるころから、また元の生活が見え始めて来た。
ひと頃は、見るものすべてが色や生気を失い、何もかも無意味に思えていたが、この頃はやっと季節の移ろいや自然の美にも関心が向かうようになってきた。
また、ここから人生が始まっていく動いていく、とようやくひしひしと感じている。
我が人生があとどのくらい残されていて、いったい何ができるのであろう。誰と出会い、何がやれるのか。何をするのだろうか。
先のことをあれこれ考えたり不安に思い煩う以前に、できるときに、まだ少しでも時間あるとき、動けるときに、無駄なく精力的に時間を使って、「成果」を出していかねばと今強く思う。
思いあらば、かたちに、行動にして示せ、とはよく言われるところだが、まさにその通りだ。そろそろ、我も終着駅が見えて来たのだから、降りるための荷物を整理せねばならない。
いや、しかしその前に、まずは、今までやって来たことの成果、つまり、なった実を刈り取らねばならない。形の悪い貧弱な実であろうとも、それは我だけの、我でしか作れないものであるはずだし、それを世に示したい。
今までずいぶんあちこちに種は蒔いて来たのだ。そろそろ刈り取りの時が来たのだ。「俺はまだ本気出していないだけ」と嘯いているうちに、多くの怠け者はそのまま何も成さずに死んでしまう。
もう先はさほど長くはない。が、今ならできるし、きっとできるはず。今年こそ刈り取りの年として、その成果を少しでも多く世に示したいと願う。
実りある良い年にしていこう。がんばろう。神が味方してくれる。そう、我にだけでなく、貴方にも、誰にでも。ささやかな人生を大切にしてどんなに大変でも生きて行こう。
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