人も犬も猫も老いて最後の時は必ず痩せていく2017年02月20日 21時03分03秒

★ゆえに太っている人は幸いなのである。羨ましい。

 昨日、今月の無頼庵イベント、手作り味噌造りの集いを終えたので今日は気分爽快、昼寝せずとも心身共に快調である。
 これはうすうすと気づいてることだが、こうしたイベントを拙宅でやることを企画し、その当日、本番が近づくにつれていつもきまって体調が悪くなるようだ。
 それは人を迎えるための準備をしないとならない、その作業が大変だということもあるけれど、やはり未だそうして人を迎え入れて一度に多人数の人たちと会うということ自体に内心どこかで拒絶反応のような恐怖心、プレッシャーが存在していて、無意識的に身体に出てくるのだろう。
 去年の12月のときは、前日になって吐いたり倒れてしまい中止してしまったし、前回一月のときもかなり直前まで体調悪かった。今回もずっと頭痛がしていてかなりしんどくてどうしたものかと困惑していた。
 しかしそのイベントが始まって、人が来てしまえば調子の良し悪しは関係なくなり、終えて皆が帰ってしまえば深い安堵感と満足感、終わった充足感に満たされる。そしてそれまでの不調感は嘘のように消えてしまっている。
 今回も終えて今、気分はスッキリして体調も良く、昨日までの頭痛やだるさ、風邪気味だったと思ったのはどこかに行ってしまった。
 よって、毎回そのイベントが近づくにつれて体調が悪くなるのも、緊張や不安によるものだとわかってきた次第であるけれど、それは回を重ねるごとに軽くなってきているので、たぶん次回はもっと気楽になれるかと思える。

 さておき、拙ブログ、まだ中途で書き始めて最後の〆まで行っていない「お題」がいくつもある。トランプ氏のことや父のこともまだ書き足すつもりでいるのだが、今日は、老いて痩せることについてまず書きたい。

 今さっき下の部屋で、老犬ブラ彦に晩の餌をやっていた。ブラは、去年の秋で18歳。人間でいえばたぶん百歳近くであろうか。
 我が家の犬たちは皆長寿で、16歳程度はざらなのだが、彼もまた最高年齢記録を更新中。しかし、さすがにこの冬になって年明けてからまず食が細くなり、おまけに水ばかりガブガブ飲んで、痩せ始めてきてきた。骨と皮というほどではないが、元気なときに比べれば一回りも二回りも小さくなり、触れば背骨がごつごつして来た。
 彼の父や母もこの家で死んだが、長生きしても最後は病死のような感じで、まず足腰が弱り歩けなくなり、最後は多機能不全的に、じょじょに弱り浮腫みも出て痩せて衰弱してその最後を終えた。

 ブラもたぶん腎臓が悪くなってきて水ばかり飲んで痩せてきたのだと思うが、幸いまだ自ら歩けるし、衰弱して寝たきりとはなっていない。しかし、これまでの他の犬を看取った経験と歳を考えれば、この冬を越すのがやっとだと思うし、まあそれも仕方ないと覚悟している。
 毎年、この夏は無事越せるか、冬はどうかと案じてきたが、幸い頑健で、歳を重ねて気づけば18年も生きたのだから、そろそろ最後の時がきたってちっともおかしくない。我が知る限り中型犬でそんな歳まで生きた犬は他にいないし、もう十分ぞんぶんに生きたと思う。
 それでも一日でもまだ共に暮らしたいし、最後の日が来るまでしっかりこの家で我が面倒を見てやりたいと願っている。

 だからこそ、しっかり食べさせて、食べているうちは大丈夫だと信ずるゆえに、今はともかく少しでも多く食べさせることに頭痛めている。
 今日は朝の分は、あまり食べなかったが、夜は、鶏のひき肉を焼いて小粒のキャットフードに混ぜて与えたら久しぶりに食いっぷりが戻り元気な頃と変わらないほど食べてくれた。
 今、ほっとして落ち着いてこれを記すわけだ。で、老いて痩せて死ぬことについて書こうと思った。

 我もこの歳になると、たくさんの人たちの死に出会い、多くの葬儀に出、その死に顔を拝見する機会も多い。
 そしてわかったことは、若くして不慮の死ではなく、ある程度の高齢迄生きて死んだ人は皆同様にガリガリに痩せて、まさに全身万骨枯れるといった風情でお棺に入られている。
 それは50代半ばで亡くなった高田渡も同様で、中川五郎氏曰く、棺の中で「ギリシアの哲学者」のような面持ちでご遺体はあられたと聞く。我もそうした痩せ衰えて哲学的にも見える老人の遺体に何度対面したことであろうか。
 我が母もまた同様であった。何度も書いたが、癌が身体をむしばみ、じょじょに食事が摂れなくなってしまい、こちらは少しでも一口でも多く食べさせようと、何なら食べてくれるか日々頭を悩ましたが、けっきょくもう最後はほんの数口だけスープやおかゆの類を口にすると、「もうたくさん、食べた食べた、お腹いっぱい」と言って食事は終わってしまった。
 死の間際は、まさに骨と皮で、栄養失調で手足には浮腫みも出、精根尽き果てて、つまり完全に命の蓄え、生命エネルギーは空になって死んでしまったのだ。
 多くの高齢で死ぬ人たちを見て来て皆そのように同様だと我は思う。ということはまだ少しでも太っている人、脂肪がある人は死なないということでもある。むろん、心臓マヒや脳梗塞的、不慮の突発的死もまた存在するわけだが。

 翻って人の一生を見てみると、我が経験と照らし合わせてもほぼ一定のパターン、流れがそこにはある。
 子どもの頃から若者時代までは、たいていの人は皆痩せてすっきりした体形であろう。中にはたまに肥満児という子もいるけれど、ほぼ大多数の子どもは皮下脂肪などはほとんどまだない。
 それが、大人になり社会に出るようになるにつれて、じょじょに太りだし体重が増して来る。それは仕事に追われて暴飲暴食的不規則な生活スタイルによるところもあるし、生活が安定し食事に贅沢もできるようになったこともある。我も若い時は三度の食事にこと欠くほど金がなく周囲を見ても学生時代の友は皆ガリガリに痩せていた。
 しかし、加齢とともに次第に太る理由の一番の原因は、新陳代謝機能が衰えてきて運動不足もたたり、入って来るカロリーが身体に脂肪として蓄積されていくからだと考える。
 ゆえに中高年から、初老までたいがい皆程度の差はあれ若い時分に比べれば肥満気味であるかと思う。たいてい10%増量とっいったところか。

 我もまた、学生時代は50キロ代半ばだったのに、いつしか気づいたら60キロ代になり、一番多い時は68キロぐらいにまでなっていた。※それは親たちに食べさせるため、我も合わせて一緒に食べていたからだ。
 だが、さすがに身長170㎝そこそこで、そんなに体重が増えるとすぐに息が切れるし体は重く足腰が痛くなってくる。
 しかし、親たちの介護などに追われ、母の死後、心身喪失気味になって、父の世話にも追われて食べる気力も失せて一日一食程度しか食べずにいたら60キロを切るほどになった。
 学生時代の頃を思えば理想的だと思うけれど、ズボンは緩くなるし、体力はなくなって気力も失せて疲れやすくすぐフラフラになる。何の運動もしていないから筋力もなくなる。さすがに10キロ近く体重が半年で落ちてしまうと皆会う人からも心配されるし自らも不安になってきてしまう。
 今は無理しても食べるようにして何とか戻すようにして実際少しづつまた体重は戻り始めた。そしてこう思う。願わくばまたデブになりたい。どうせ最後は必ず痩せ衰えてそしてそれで死ぬのだと。

 人はそうして中高年の時期はほぼ必ず太る。しかし、さらに高齢になるまで生きていくとまたしだいに心身の機能が衰えてきて食事の量も減って来るししだいに体重は落ちてくる。
 そしてそこに老化と病も加わり、最後はまさに枯木のようになって痩せ衰えてギリシャの哲学者然として頬もこけて永遠の眠りにつく。
 ということは、太っているうちは人はおいそれと簡単にはすぐ死なないはずだ。体内脂肪とはまさにエネルギーの蓄えであり、食事が摂れなくなったとしても太っている人の方が当然痩せている者よりも長く生きられる。
 つまり生命エネルギーの素となるもの、脂肪がなくなってきて骨と皮になってその命の素が尽きたとき人は死ぬのである。

 それは人に限らず、犬も猫も生き物すべて同じであり、事故などで急死でもしない限り、長く生きれば必ず誰もが必ず痩せてきて命のエネルギーが尽きたとき死ぬのだ。
 ならば太っている人は安全安心、大丈夫だし、太れる人は羨ましく思える。デブはちっとも悪いことではない。若くても極端に痩せている人は飢饉など来ればごく簡単に死んでしまってもおかしくない。つまるところ人の価値とは、命という視点でみれば、それを維持する脂肪の多寡でしかないのである。

 我は思う。母は元々痩せ型で、よく友人仲間たちからスマートで羨ましいと言われていたが、癌による手術のつどさらに痩せてしまい、そのときどき何とか元に戻すよう努力していたものの、まさに最後は癌のために食べられなくなって骨と皮の姿となり栄養失調で命の素が枯渇して死んだのだ。どうすればもっと太らすことができただろうか。今でもまだそのことを考え続けている。
 今、老いたブラ彦の姿を見て、母のことを思い、けっきょく誰もがこうして痩せ衰えて死んでいくのだとつくづく嘆息してしまう。しかしそれは長生きしたのだから起こることであり避けがたい流れであり仕方ないのだ。

 我が父も元々六尺男と呼ばれたほどの大男、巨漢で、80キロぐらい常時あったかと記憶する。それが今では60キロもないのである。歳と共に次第に痩せて来てはいたが、昨年春、大腿骨を折り、何ヵ月も入院している間に一気に痩せて、足など棒の如くになってだいぶミイラ化が進んだ。
 ただ、我が無理やりでも食べさせてきたこととデイケアなどに出かけてリハビリもしたことでまた少しは筋肉も戻り、今は体重も少しづつ増えて来た。
 今の父を見る限り、脂肪との関係を考えればそんなにすぐ死ぬことはないと思える。ただ今度また入院すればボケはさらに進み、さらにろくに食べなくなるだろうから、そのまま命のエネルギーが尽き果てそこで死ぬのは間違いないはずだ。
 今の我は、痩せること、痩せていくことの恐怖感が強くある。痩せることは死の入り口、一里塚なのである。それは以前からうすうす感じていたことだが、痩せ始めると危険なのだ。長くないと覚悟すべし。
 皆さん、どうか生きるためにも食べられるときにがんばって食べて太ってください。人は太ってこそ生きていけるのだ。

 中国人のことを悪く言う人が多いが、今はどうか知らないがかつては中国ではデブは美徳とされ羨ましがられ、痩せている人はダメな人であり悪であった。※デブはそれだけ太れるだけ食べられたからで、つまり金がある証なのである。
 だから会えば挨拶でも「飯食ったか?」と必ずまず言うのだと何かの本で読んだ。関西でいう「儲かりまっか?」と同じく。そう、その考えは絶対的に正しい。生きることは食べることであり、食べられなくなった時に人は死んでしまうのだから。
 気力体力の有無とは脂肪の有無に他ならない。我はそう信ずる。ゆえにデブ礼賛するのである。
 皆さん、食べられなくなっても少しでも食べてるうちはまだ大丈夫です。でも食べられなくなったらオシマイ。
 晩年の大橋巨泉氏の変わり果てた姿は見たくなかった。