父の94歳の誕生日に2018年10月22日 07時14分06秒

★早く逝く人、老いてもなお生き続ける人

 日付は変わってしまったが、昨日10月21日は我が父94歳の誕生日であった。おかげさまで、という言葉が思わず口をつくが、いったい誰のおかげ、なのであろうか。
 94歳!である。正直、本人はどう思っているかわからないが、息子の我は驚きと共に深い感慨を抱く。まさかこの人がここまで生きるとは、である。父は大正13年、西暦1924年生である。

 父は元々六尺の大男のわりには胸板も薄くひょろひょろで、昔でいう「文弱の輩」であった。我が知る限りまず働き盛りに結核になり、以後、前立腺癌らしきものから、誤嚥性肺炎、最近では脳内に血が溜まる手術やら大腿骨粉砕骨折と、数々の病気に遭遇してきた。入院回数も多く病気の問屋と言われたことさえあった。※認知症を「病気」と数えなくとも。若い時から病気らしい病気は一度もしなかった母とは対照的であった。
 が、その我の母、つまり彼の妻は、癌を患い2年前86歳になるかならずかの歳で死に、夫である我が父は、今も生きてついに九十代半ばにならんとしているのである。
 人の生き死には、天命、つまり予め定められているのかと考えてしまうが、それにしても何であれほど元気だった母が先に死に、この病弱だった男が今も元気で生き続けて、まさに馬齢を重ねているのは何故なのだろうか。

 母も我も父の方が絶対に先に逝くと考えていたし、そう想定して人生計画を立てていた。が、皮肉なもので、その母は不安と無念の思いで先に逝くことになり、残された父と我の男同士二人だけの生活が二年を過ぎた。まったく想定外であり皮肉なことだなあと今でも嘆息してしまう。
 長生きも芸のうち、という名言があるが、芸もなしにただ肉体は元気で、頭は呆けて長生きするのはどうしたものだろう。むろん父が生きていてくれるのは有難い。父がいなくなってしまえば、我はまさにこの家で天涯孤独のような状況に陥ってしまう。
 血を分けた妹は一人いるが、もともと疎遠気味だから父がいなくなれば連絡もなくなるだろうし何しろ遠く九州にいるのだから我に何か起きても頼ることもできやしない。母亡き後父だけが我と妹を繋ぐ絆であるわけで、父の死後はやがて縁も切れよう。我としても妹に何であれ乞う気は今はもうとうない。

 さておき、父は大陸で日本軍の一兵卒として、目の前で仲間の兵士が撃たれ倒れるような戦禍を潜り抜けて無事帰国し母と出会い我らが生まれた。
 九死に一生を得たかはともかく、戦死を免れたその強運ゆえに、今も余禄として生き永らえているような気がする。ほんとうは戦争の生き証人として、もっと語らい反戦を訴えてほしいし、そうすべきだと考えるが、ほんとうの辛苦、地獄を味わった人は、そのことは思い出したくも語りたくもなくただ単に運不運で片づけたいのだとこのところ古山高麗男の戦記ものを読んで気づかされた。そう、生と死を分ける本当の地獄を見た人は。

 長生きの秘訣などあるとも思えないが、父を見ていてやはり性格的なものも大きいのではないかと思えることがある。
 父はともかく自分勝手で若い時から自分のことしか考えない。友人など一人もいないし必要だと考えない。極端な利己主義者で家族のことすらあまりあれこれ忖度しやしない。
 性格的には不安神経症で、常にささいなことでもあれこれ大変だ!心配だ、問題だ!と騒ぎたてるわりには、すぐに忘れて後まであれこれ悩んだり考えたり内省的になることはない。騒ぎに振り回された家族は辟易し疲れ果てるが本人は外に出したことでスッキリしてしまう。
 母は逆に一見明るく大らかに見えてもその実、小心であれこれ内的にあれこれ悩み抱え込むタイプであった。結果としてそうした不安や心配したことがストレスとなり癌発症に繋がったようにも今は思える。

 何事も深くとことん深刻に考えることのない父は、基本的にストレスはない。ひと頃流行った言葉で「鈍感力」というのがあるが、まさに鈍感な人で、人からどう思われようと、人がどう言おうとまったく気にしないしそもそも気がつかないし思い至らない。母があれこれクヨクヨするタイプならば父は逆のヘラヘラ何事も平左なタイプである。
 戦争というものがその人の性格にどう影を落とすかわからないが、父の場合、人の生き死にも含めてすべてが鈍感に、何も感じないよう、考えないようになってしまったのではないか。

 我は若い頃、そんな父が大嫌いであった。まったく自分とは考え方も性格も相いれない人であったから。だから母とは親しみ、あれこれ語り合うことは多い仲だったが、父は仕事で多忙だったこともあり、じっさいよく話したこともなかった。叱りもしないが怒りもしないし愛しもしない。実の子に対しても無関心であった。
 そして今、認知症が進み、ひどいときは、今は朝か夜なのか、今自分がどこにいるかさえ分からないともあるほど、呆けた父と二人だけで常に暮らすようになって、ようやく父のことがわかってきた。どんな人間であったか。

 母が先に死に、父と我とが残され二人だけで暮らすことが天の示す意思だとすれば、きっと父ともっとじっくり向き合うべきだと、その時間を与えられたのだと今は思える。
 また何よりも人がとことん長生きするとどういう状態になっていくか、間近に知る機会になった。我にとっての老いと死を考え想定するレクチャーでもある。運不運や偶然だとしてもすべてのことにはそこに神の意思があると考えるならば、父との二人暮らし、94歳からの先のこともまた学びの機会だと考えるべきであろう。それがどれほど大変だとしても。
 いずれにせよ、すべてのことには終わりが来る。果たしてまた一年生きて、来年95歳の誕生日が彼に来るのであろうか。