小さく弱く苦難の道にある者こそ。前2019年11月07日 23時19分48秒

★不運、災難、苦難に遭う者こそ、我々の身代わり、代理人、代表なのだと知った。

 大ケガした子猫は無事帰還で来た。が、それから自宅で介護することは甚だ大変な事態で、父の帰宅も重なり、この数日、自分の仕事もあって我が人生最大の真に多忙で辛く疲労困憊の日々であった。もう失神して倒れるかもと思いもした。
 今ようやく少し落ち着いてこれを記す。

 連休明けの5日火曜に、いつものように昼前、午前の診察が終わった頃に入院中の子猫の見舞いに行った。
 そしたらば担当医もちょうどいて、このところ一気に回復が進んだから、今日明日でもいったん退院、帰宅できると伝えられた。まさに予想外の良い知らせであった。
 で、夕方の診察時に合わせて再度訪れ、まだ剥き出しのままの傷口の消毒の仕方と薬の塗り方、包帯の巻き方などを教わって、子猫をそのまま抱きかかえて我が家に連れ戻った。
 急な話で迷いもしたが、一泊ごとに確実に日々五千円は出ていくわけで、ともかく一日でも早く退院を、とこちとらは切望していたのだから、それを先延ばしにする理由はない。
 しかし、では帰って来た子猫をどう、どこに置くか、どう扱うかである。何も考えてなかった。

 ウチは、まだ他にもその兄弟を始め猫たちがたくさんいて彼らは猫ドアから勝手に出入り自由なのだ。そのまま傷が癒えぬこの猫を連れて来ても、もしかしたらそこから外に出てしまうかもしれない。また、他の猫たちとの折合いもある。
 やはり完治するまでは基本管理下に置かねばならないわけで、いろいろ考えたが、父が今寝ている個室に閉じ込めて、そこで世話することにした。幸いその日は父は、ショートステイに行って不在であった

 また、眠らせるときは、金属製のケージはないので、Amazonから届いた大きな段ボール箱に入れて、その中で寝かせることにした。後ろ脚は一本なので、前足がかからないかぎり、この子は、そこから飛び出すことはできない。
 そうして障害者猫との生活が始まった。正直いえば、病院に預けていたときのほうが気楽であった。一切合切、向うに任せておけば、お金はかかっても心配しないですむのだから。。※以後、今は、父が在宅時、その部屋で眠るときは、子猫はそこの部屋で、その箱に閉じ込めて自由に出ないようにしている。

 その障害者猫の傷口を消毒して軟膏を塗って、ガーゼを当てて包帯を巻くのも、一人では当初はかなり大変な作業で、子猫は嫌がってさんざん暴れるし、きつく巻くと苦しそうなのでやり直ししたり、予想以上に大変な作業で時間とられ大いに疲弊した。緩く巻いておくとすぐに外れてまた一からやり直す羽目となる。泣き叫ぶ猫相手に何度繰り返したことか。
 昨日水曜は、またそこに、自分の商売の忙しい日で、早朝から本の回収と、午後は溜まった洗濯、さらに連休明けで出荷期限の注文本5冊の発送が重なり、すべて成し遂げられるか焦りと疲れで発狂しそうであった。
 そのうえのことを記せば、体調的にも、猫たちの世話で無理な姿勢をとっていたのがたたって、また腰痛が再発したことと、持病の寒暖差アレルギーからの絶え間ない咳の発作も続いて、ともかく苦しく心身共に限界かと思うほどだった。
 
 新約聖書の中の、ルカによる使徒行伝の章では、宣教者パウロの苦難が詳しく綴られ、また当人自身も数々の書簡で、迫害や苦難災難、それに加えて持病である「肉体の棘」について細かく記されているが、この我も思わずそのことが頭をよぎる程であった。
 しかし今はそこを過ぎて、全ては天の配剤、その深淵なる的確な英知にただ驚き感謝の念を覚えている。そうか、そうだったのかとの思いでいる。
 そしてようやくわかったことを記したい。

 この世には災害や難病、その他様々な当人が予期せず望まぬ不幸に遭う人たちがいる。それはいったい何故なのであろうか。また、そうした目に遭う人は、何かそこに原因、今でいう「自己責任」があるのであろうか。

 先に台風襲来の日、台東区の避難所では、助けを求めてきたホームレスの人を、区の職員が追い返したことがかなりニュースとして報じられていた。
 それを知って、我はまず思ったのは、まずイソップの『アリとキリギリス』の寓話である。何度も拙ブログでは挙げてきたが、この童話は、カタギの人、つまり真っ当な真面目に生きてきた社会人と、それとは異なるアウトサイダー、自由気ままな人との対比として常に深く示唆に富んでいる。
 台東区の、災難に遭ったとき救いを求めてきたホームレスとそれを拒絶した区の職員との応対は、その寓話そのもののように我は思えた。

 区側の言い分もわからなくはない。つまり避難所は、その区の住民のためのもので何よりもそちらを優先すべきだとリクツは成り立つ。つまりそこに住民票があるか、きちんと税金を納めているかである。
 ホームレスの人たちは元よりホーム、つまり住所がないから、ホームレスなのであり、住民票などはない。とうぜん税金も納めていない。だから、そこは利用できない、させないという彼らの理屈である。
 行政としてのリクツは正しい。しかし人としてその応対は人非人である。もし目の前で、彼らが濁流に流され溺れ死んだとしたら、見殺しにした区の職員たちの「正義」は保たれるか。

 何より生死にかかわる緊急時ならば、住民票の有無とかホームレスであるかとかはどうでもよいことで、ともかく助けを求めてきた者は一時的でもまず全て受け容れるのが人としての当然のありかたではないのか。それこそが「行政」であろう。営利目的の企業ではないのだから。何よりまずは「住民」の命こそ第一に最優先であるべきで、それはホームレスとか住民票の有無ではないはずだ。
 人は人として当然のこと、つまり困窮した人、助けを求めてきた人を前にしたら救わねばならない。それは当たり前のことであろう。台東区の職員は、それを建前を理由に怠った。どれほど糾弾、批判されても仕方ない行いだ。言語道断である。

 しかし我は、そこに行政側にイソップの寓話の、アリ側のような、キリギリスに対する差別的気持ちに通ずるものがあったような気がする。
 つまりホームレスになるなんて自己責任ではないのか、それで困ったからと助けを求めに来るとは、いかがなものか。ここは、きちんと税金を納めている人たちの場所なのだからと。
 この理屈、その気持ちは正しいのか。おそらくカタギの人の心根には漠然と在るのではないか。我もまた一昔前ならそう考えたかもしれない。ホームレスなんて勝手に自分でそうなったくせに、と。

 しかしそれは間違っている。誰だって落ち着く住まいのない、明日をも知れぬ不安だらけのホームレスなんてなりたくてなる人はいないだろう。それは「自由」ではなく、ある意味究極の不自由と不安なのだから。
 なりたくてなるのではなく、結果としてなってしまい、そしてそこから抜け出せず、ともかく日々必死に生きているというのが現実ではないのか。それがもし不幸ではないとしても、決して満足だとか望んだ「幸せ」だと声を大にして叫ぶ人はいないだろう。
 そしてそうなったのは、すべて本人の「自己責任」なのか、だ。

 もう一回続きます。どうかお読みください。