歌いたい唄があり、うたえる幸せ2019年11月16日 12時31分26秒

★11月20日、東中野じみへんで太田さんとのライブやります

 幸せのカタチとは何であろうか。このところ思うのは、お金がたくさんあり、お金のことで憂鬱になったり明日の支払いのことで頭痛めずに済むのは幸せには違いないが、それは「幸せ」そのものとは違うと思う。
 お金は目的ではなくあくまでも幸せの「手段」であるはずだし、お金持ちこそいろいろ不安もや悩みもあり「幸福度」は高くないという話も訊いたことがある。何しろ「ある」ということは、失うという可能性も同時に抱えるわけで、資産を多く持つ人は、その維持管理に昼夜気を取られるに違いない。

 幸せの状態とは、人それぞれ違うだろうが、思うに、何かしたいことがあって、それが過不足なく「できる」ということではないだろうか。
 我の商売を考えて本を例えに出せば、まず読みたい本があり、それが手に入り、「読む」ことができるのは「幸福」と呼べるのではないか。
 仮に、そもそも読みたい本がない、書店に行っても読む気を起こさせる本がない場合はもあろうし、そもそも本がないという状態すら考えられる。
 早稲田の古書店主から以前訊いた話だが、 戦後すぐの頃、朝、棚に仕入れた本を並べても夕方には棚がスカスカになるぐらい飛ぶように右から左へ「古本」が売れたとのことだ。
 つまりそれぐらい、焼け跡の戦禍をくぐり抜けた人たちは活字に飢えていて、読めるものならばジャンルを問わず本を求めたのだと想像しえる。他に娯楽は何一つなくそんな時代もあったのだ。

 また、その本が手元にあっても忙しくてとてもゆっくり読むことすらかなわないという状況も多々あるかもしれない。じっさい我も疲れ果て、布団に入って枕元の本を手に取り開いても、1ページも読めずに睡魔に襲われることは常である。
 ならば、まず読みたい本があり、それが入手できてそれを読むことができる状況は「幸福」と呼んで間違いではあるまい。
 それは本に限らず、映画だろうが、音楽だろうがまったく同じことだろう。観たい映画、聴きたい音楽があって、それが観に行けること、落ち着いて聴くことができるのは、じっさい多忙な我々にとってカンタンなことではない。
 この我だって、落ち着いてレコードに針落として聴くことなんてもう何年もできやしない。ともかく何でだかわからないけど日々慌ただしく忙しい。

 そして今自分がつくづく思うのは、何より、我には歌いたいうたがあることと、それを拙くとも自らのギターで歌えること、その「幸福」である。
 それが当たり前に思う方もいるかもしれない。しかし、自らギターで伴奏しながら唄うということは傍目には簡単そうでも実はかなり難しい。
 我は高校生の頃から、ギターは手にしてきたけれど、大人になったら何十年もまったく弾かない時期もあった。
 ただ、岡大介やみほこんたちと出会って、彼らから刺激を受けてまた自分でも音楽をやってみようと思うようになり、練習を再開して、楽曲もコピーしたり自ら伴奏して歌ってみるようになった。

 しかし、彼らがごく自然に、人前で当たり前にやっているシンガーソング、弾き語りということが、やってみると、じっさいはとてつもなくスゴイことなんだと思い知った。
 恥ずかしいとか上がるとか緊張するということもある。しかし、それ以前に、うたに集中すればギターはとちるし、ギターに気をとられると歌詞は忘れ間違えるし、慌てふためきとちることばかりで、惨憺たる出来にしかならない。そもそも声も出やしない。
 とても他人様にお聞かせするものにはなりはしないと絶望したことは常のことだ。しかし、素人として、プロの域に達しない者としては、歌ってはいけないのか。
 そう、これはフォークソングなのである。民衆のうた、大衆の歌として、誰もが唄っても構わないはずなのだ。ただ、もちろんそれでお金なんかとれやしないし、我は生涯、お金がとれるようなことはできやしないというヘンな自信はある。
 そうしたエンタ―ティメント、歌手としてそれで飯が食える道を目指す人も多々おられることだろう。我はそもそもそんなことは昔からまったく考えないしそんな気は毛頭ない。
 その才にあらず、なのである。ならば、あくまでも自分がやっているフォークソングの「研究」の発表の場として臨むのはどうであろうか。そう、それこそが我の唄いたいうたなのだから。