中山ラビさんを偲ぶ2021年07月06日 09時26分53秒

スターズパインカフェで、2014年
★ハードなステージの裏側の温かい素顔に魅せられて

 関西フォークの愛好家のみならず、多摩地区国分寺界隈に住む者なら知らぬ人はいない名物スポット「ほんやら洞」の中山ラビさんの訃報が届いた。
 既にSNSやメディアでも報じられているのでご存じの方も多いだろう。この数年癌闘病中とのことで、そのときを我も覚悟し半ば予想もしていたので驚きはないが、昨夜は個人的思い出が次々湧いて来てほとんど寝つけなかった。
 昨日早くに訃報を知らされてからすぐ拙ブログで「追悼」を書こうと思ったが、昔からよく知り懇意にしていた方の死は、あまりに思い出がありすぎて簡単に「追悼文」などまとめられないのだと気づかされた。
 最後にお会いしたのは、昨年の正月明け4日、中川五郎氏の国分寺ギーでのライブの後に彼に誘われて小雪散る中、南口の彼女の店に行き、久々にカウンターで同席しお話したときで、歓待してくれた変わらぬお元気な姿に心ほどかされた。
 今思うとそのとき既に病魔は彼女の身体を蝕んでいたのかと愕然する。
 その後、癌との知らせがあちこちから流れて来て驚かされたが、毎年定例の吉祥寺スターパインカフェのコンサートの通知ハガキには、癌は治っちゃったみたい・・・と記してあったので一安心していた。あの激しいライブができるのならば大したことはなかったのだろうと。
 そのコンサートに行っていればと今は悔やむが、コロナ禍で人数制限もあったと記憶するし、近いうちまた店へ行けばいいやと考えて申し込みはひかえてしまった。
 
 京都のほんやら洞の支店?かどうかはともかく、国分寺のラビさんの経営するほんやら洞がいつできたのか今確認できないが、我も若い頃から国分寺に出向く用のときなどよく利用した。
 レンガ積みのツタの覆いしげるその店は、あの坂道によく似合って趣があり、今も昔も人気スポットだった。
 ただその頃は、ラビさんが店にいたとしても話しかけること等はできず、あれがあのシンガーだった人かという認識程度だった。あくまでも店の客としての関係しかなかった。
 だが、2005年の高田渡の死後、我もフォーク熱が再燃して、渡氏の追悼イベントやその関連のライブで打ち上げなどで彼女と同席することが多く、いつしか親しくお話する機会を得るようになった。

 今で言う「美魔女」的な年齢不詳、やたら派手でテンションの高い突っ張った激しいステージ姿とはかけ離れて、普段のラビさんはとても気さくで親しみやすく人気高くとも驕ることなく誰に対しても常にやさしい素顔に我はすっかり魅了された。
 今、こうして振り返ると失礼だがあちこちのライブイベントのステージでの姿よりもその帰り道、電車の中で話したときのことや打ち上げの場、たとえば亡き藤村直樹氏の京都拾得での「生前葬」的コンサートの打ち上げで、いとうたかおと「同席」したときのこと、渡氏の何回目かの追悼祭で、やはり亡き松永さんと同席したときのこと等がありありと思い出される。

 しかしそんな私的な思い出は希代の女性シンガーには失礼であろう。 実は彼女のライブステージを我がこの目で見たのは、とても遅く、映画『タカダワタル的』が完成し、確かテアトル新宿だったと思うが、公開中に連日映画が終わってから「フォーク大学」と称したと記憶する、縁のシンガーたちが登場するミニライブ企画でのことだ。
 その最終回のときであったと思うが、当日高田渡も当然出られたが、なぜか柄本明、蛭子能収らと共に、肩出しドレスのミニスカート姿でラビさんがギター1本で突然登場した。
 開口一番、「すげー酒臭い楽屋!!」と吐き捨てるように言って笑わせてから唄い始めたのが名曲「人は少しづつ変わる」であった。
 昔からレコードでよく聴いたうたと再会し、変わらぬ歌声と姿にラビさんは何も変わっていないといっぺんに魅了された。何よりまずその時のことだけは記さねばならない。

 彼女との思い出は次々と湧いて来る。昨夜は、以来この約15年、お店でのことも含めて在りし日のことを思い出したが、不思議に何一つ苦いような思い出は何も無い。
 フォークシンガーというのは、ステージはともかく実際にお会いして親しくなるとけっこう難しい性格や癖のある人が多い。トラブルと言うほどではないにしてもささいな出来事でこちらが傷ついたり向うにも不快な目に合わせてしまったりと思い出すと何かしら気になり悔やみ心が疼くことが必ず少しあるものだ。
 ところがラビさんに限っては、思い出はすべて甘美で楽しいものしか浮かばない。本人も苦労されたからだと思うが、我だけでなくどんな人に対しても常にやさしく真摯に向き合ってくれた。ともかく誰に対してもやさしく思いやってくれた。
 それが営業的に取り繕ったものではなくそれこそが彼女の自然体で普段はまったく気取るところはなかった。あの迫力の近寄りがたいステージ姿との二面性がすごいと何度圧倒されたことか。

 有馬敲、片桐ユズル氏ら、オーラル派の詩人、英文学者中山容氏を追いかけて京都に行った十代の少女は中山ラビとして大成し、シンガーとしてお店の経営者として多くの人にとことん愛され逝ってしまった。あんなすごい人はもう二度と出てこない。
 今まで一滴も涙は出てこなかった。が、今これを記して少しだけ泣いた。もうこの世では会えないのか!! 
 これまで本当にありがとう ラビさん!!! お世話になりました。天国のほんやら洞へそのうち寄らせてもらいます。そのときはまたカウンター越しにお付き合い下さい。お元気で。

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