これからのこと②2024年02月17日 09時40分08秒

★残りの人生、どう生きて行くか

 今の気分は、ポケットには小銭が少し---どこにも行けないのなら、この場所でどうしたらいいのだろうか--だ。

 実はまた私ごと、些末なことだが、先週末から拙宅の猫が一匹、体調を崩し、月曜に動物病院に連れて行ったら、即入院となった。幸い治療は効しこの週末には退院できそうとのことで、今やっと心落ち着いてパソコンに向き合えるようになった。
 父が、死の前に、コロナ感染して入院していた時もだが、たとえ動物であろうとも、家族の一員が入院してしまうと、やはり気持ちは落ちつかず不安に囚われウツウツとしてしまう。
 これが我の弱さというか、病的なところで、病院に預けたのだから、こちらはできることは何もないわけで、医者に任せ安心して気持ち切り替え自らのこと、家のことに向き合えばいいのに、それができない。
 父が救急車で家から搬送されて病室で逝くまでの約二か月、我は情けないことに家のこと、自分の事は何一つできなかった。いや、手につかなかった。
 まあ、今回の猫は、間もなく無事に帰ってくると信じたいが、それでも心の底には澱のように不安がまだ潜んでいる。
 
 さておき、本題である。
 映画や本のタイトルにもあるように『君たちはどう生きるか』ということは、年齢を問わず誰にとってもきちんと向き合うべき課題であろう。
 十代には十代の、老齢世代にはその世代の「どう生きるか、どう生きていくべきか」という問いは常に問われているはずだ。
 ただ、未来というべきか、先行きの時間がまだたくさんある若者にとっては、まさにこの先の人生、どう生きていくか、何を為すべきか、であるが、我の歳にもなると、どう死んでいくか、に替わってくる。
 つまり、死までの残りの人生を、まさに、どう生きて行くか、であり、我の場合はそこに経済的問題も大きく絡んでくる。つまり、まずどうやって生きて行くか、なのだ。

 人として、60代も後半ともなれば、世間一般としては、老後とか余生といった言葉が不随してくる。
 つまり、これまで続けてきた仕事や勤めは終わり、残りの人生を貯めた金や年金受給で暮らしていくことを意味している。
 我と違い、まっとうな勤め人の方や、きちんとお仕事に就いて常時働いてきた方は、たぶん皆さん老後の生活資金については、多少の不安があろうともまあ何とか困窮することはないだろう。
 しかし、我は、これまで真っ当に勤めたことはほとんどなく、フリーターという言葉など無い頃から、金に困れば多くのバイトはしたものの、きちんとした定職にほとんど就くことなく、仮に就職できたとしても長続きせず、また会社自体も我を雇うようなヤクザな会社だから潰れたりと、ほぼ無年金のままこの歳になったのである。

 では、そのことに悔いはないか、と自問してみれば、ある意味、何も考えずにただそうして好き勝手に、したいことをして行きたいところに行き、心のままに自由に生きてきたのだから、結果としてそれもこれも良くも悪くも仕方ない。
 つまり寓話『アリとキリギリス』のように、自由気ままに楽しいことだけ追い求めたものの、ついに冬が来てしまい蓄えがなく困窮しているのである。高田渡のうたで言えば、まさに『生活の柄』なのである。そう、冬が来れば、浮浪者のままではいられない、のだ。
 ただ、もし人生を若い時からやり直せるとしたら、間違いなく我はまた性懲りもなくキリギリスの生き方を選ぶだろう。
 元より、生き方に良い生き方とか正しいということは決められないし決まってるわけではないはずだ。※むろん犯罪に手を染めることは論外として。

 我は、蟻的な生き方、つまりコツコツと真面目に常に働き続けて冬が来た時、つまり老後にきちんと蓄えを備えておく、という生き方を否定するわけではないし、逆にキリギリス的な自由・享楽的な生き方が正しいとか、そこにも価値があるなんて思いもしない。
 つまるところ、我にはこんな風にしか生きられなかったわけで、昔、月刊漫画雑誌ガロで読んだ、増村ひろしの描く猫マンガの中で、いみじくもその中の一人の猫が呟いていたように「ビートルズを聴いたとき、自分は、9時から5時までの人生は送らない誓った」ということに尽きる。

 前回、冬が来てしまい、キリギリスである我は、さて困った。これからどうしよう。どうしていこうか、と書いた。
 が、今思うのは、果たしてキリギリスは今さら(この歳で)蟻のように生きられるのか、だ。
 そもそもそれはまさに変節ではないか。生き方として。いや、そもそも無理無理無理なのである。