さあ、これから、年内残りの二か月、どこまで進められるか、だ。 ― 2022年11月03日 13時25分42秒
★のどかで爽やかな秋晴れの午後に
11月になった。ようやくカラッと晴れて穏やかな秋晴れの日が続くようだ。
昨日、市内に住む友人の計らいで、ウチの子猫、二匹新たな飼い主の元へ貰われていった。
兄妹の猫なのと、その二匹は非常に人馴れしていたので、たぶん寂しくて鳴いて騒いだり、飼い主さんを困らせることはさほどないかと思う。二匹だけでも数は減ったので、本当に嬉しく有難いことである。友人とその飼い主の方へただただ感謝している。
だが、まだ「猫問題」は解決したわけではなく、今もまだ里親募集中というか、新たな飼い主、貰い手を必死で探している。
じっさい、日ごとに大きくなっていく「子猫」がまだ10匹はいて、このまま何の手を打たなければまた近く妊娠出産を繰り返してしまう。
そうならぬためには、貰い手みつけて数を減らすこともだが、まずは喫緊に避妊・去勢の手術をしないとならぬ、と最近関わりを持つことになった動物愛護団体の関係者の方から要請されている。そう、ネコは約半年で成人して繁殖能力を持つのである。
格安で、そうした手術を引き受けてくれる有難い病院も紹介してくれるとのことだが、それでも頭数が多いので金額もかなりかかると思う。
しかし、我としては、父の死という一大事を終えて、次の我の悩みの種である、この「猫問題」を解決しないことには、新たな人生が始められない。
また新たに何かを始め、専念するとしても、猫のことをこれまでのようにほったらかしにしてしまえば、すぐまた家の中で、猫たちは繁殖して増え続けほんとうに「多頭飼育崩壊」し、我は、経済的に破産だけでなく生活自体が「崩壊」してしまう。
今、まさにその瀬戸際、切羽詰まった状況であり、昨日、その関係者の方から電話があり、とりあえずだが、ウチの猫たち全員を手術に連れて行く日程も出た。※むろん、既に手術終えている大人猫もいるが、まだの、メス猫や、成長途中の子猫たちはとうぜん何も手術も病院にもろくに連れて行っていない。いったい総勢何匹になるのであろうか。
知らなかったが、今は成人していない猫でも手術は可能とのことで、そうして「手術済み」の子のほうが貰い手も増えると諭され、個人的には何かかわいそうな気もするが、心を鬼にして同意した。
そう、もはや本当に待ったなしなのだ。なかなか貰い手もないし、先日は、国立でのイベントや駅前で、子猫をケージに連れて行き、お披露目したのだが、そのときは子猫に関心持たれた方が、後で電話します、と言ってくれた人もいたのに、その後連絡はなく、けっきょく貰い手は現れなかった。
もう我としては、今のキモチとして、何十匹ものボーダイな頭数の猫を飼うのはかなり大変かつ面倒なことだが、(手術を終えて)ともかくもうこれからは一切増えないのなら、それも甘んじて受け容れようと思っている。
そう、全ては我の責であり、猫たちは何一つ罪も責任もないのだから。
自分の残りの人生が、あとどのぐらいあるのか、続くのかわからないが、ともかく我が抱えているもの、在るもの全てときちんと向き合い、その全てに感謝して、すべてを活かして無駄なく用いていこうと決意した。
つまるところ、我に在る、関わるモノたちすべてを愛していくということだ。そのためにもこれ以上何事も増やしてはならない。
鎮魂と償い、それだけが我にできるすべきことだと父の死後、天啓を受けた。
そう、亡き人たちへの思いと、我のしてきた愚かさと過ち、その罪の償いに生きていく。
誰もが人それぞれに「うた」がある。唄う人も唄わぬ人も、その内面に個々の「うた」を抱えて生きている。
我にとって、うたとは、鎮魂と償い、そしてこんな我を生かしてくれている方への感謝であるべきだし、そうした「うた」をこれからも作り唄っていきたい。
何であれ、それはできる、きっとかなうと信じてやっていこう。どんなに大変なことでも。
年内、残すは二か月足らず。朝晩はメッキり冷え込んで寒いぐらいで冬はすぐそこまで来ている。さあ、どこまでやるべきことを進められるか、だ。焦り気負い立つ気もしている。
がんばりたい。これがまだ生きているということなのだから。
11月になった。ようやくカラッと晴れて穏やかな秋晴れの日が続くようだ。
昨日、市内に住む友人の計らいで、ウチの子猫、二匹新たな飼い主の元へ貰われていった。
兄妹の猫なのと、その二匹は非常に人馴れしていたので、たぶん寂しくて鳴いて騒いだり、飼い主さんを困らせることはさほどないかと思う。二匹だけでも数は減ったので、本当に嬉しく有難いことである。友人とその飼い主の方へただただ感謝している。
だが、まだ「猫問題」は解決したわけではなく、今もまだ里親募集中というか、新たな飼い主、貰い手を必死で探している。
じっさい、日ごとに大きくなっていく「子猫」がまだ10匹はいて、このまま何の手を打たなければまた近く妊娠出産を繰り返してしまう。
そうならぬためには、貰い手みつけて数を減らすこともだが、まずは喫緊に避妊・去勢の手術をしないとならぬ、と最近関わりを持つことになった動物愛護団体の関係者の方から要請されている。そう、ネコは約半年で成人して繁殖能力を持つのである。
格安で、そうした手術を引き受けてくれる有難い病院も紹介してくれるとのことだが、それでも頭数が多いので金額もかなりかかると思う。
しかし、我としては、父の死という一大事を終えて、次の我の悩みの種である、この「猫問題」を解決しないことには、新たな人生が始められない。
また新たに何かを始め、専念するとしても、猫のことをこれまでのようにほったらかしにしてしまえば、すぐまた家の中で、猫たちは繁殖して増え続けほんとうに「多頭飼育崩壊」し、我は、経済的に破産だけでなく生活自体が「崩壊」してしまう。
今、まさにその瀬戸際、切羽詰まった状況であり、昨日、その関係者の方から電話があり、とりあえずだが、ウチの猫たち全員を手術に連れて行く日程も出た。※むろん、既に手術終えている大人猫もいるが、まだの、メス猫や、成長途中の子猫たちはとうぜん何も手術も病院にもろくに連れて行っていない。いったい総勢何匹になるのであろうか。
知らなかったが、今は成人していない猫でも手術は可能とのことで、そうして「手術済み」の子のほうが貰い手も増えると諭され、個人的には何かかわいそうな気もするが、心を鬼にして同意した。
そう、もはや本当に待ったなしなのだ。なかなか貰い手もないし、先日は、国立でのイベントや駅前で、子猫をケージに連れて行き、お披露目したのだが、そのときは子猫に関心持たれた方が、後で電話します、と言ってくれた人もいたのに、その後連絡はなく、けっきょく貰い手は現れなかった。
もう我としては、今のキモチとして、何十匹ものボーダイな頭数の猫を飼うのはかなり大変かつ面倒なことだが、(手術を終えて)ともかくもうこれからは一切増えないのなら、それも甘んじて受け容れようと思っている。
そう、全ては我の責であり、猫たちは何一つ罪も責任もないのだから。
自分の残りの人生が、あとどのぐらいあるのか、続くのかわからないが、ともかく我が抱えているもの、在るもの全てときちんと向き合い、その全てに感謝して、すべてを活かして無駄なく用いていこうと決意した。
つまるところ、我に在る、関わるモノたちすべてを愛していくということだ。そのためにもこれ以上何事も増やしてはならない。
鎮魂と償い、それだけが我にできるすべきことだと父の死後、天啓を受けた。
そう、亡き人たちへの思いと、我のしてきた愚かさと過ち、その罪の償いに生きていく。
誰もが人それぞれに「うた」がある。唄う人も唄わぬ人も、その内面に個々の「うた」を抱えて生きている。
我にとって、うたとは、鎮魂と償い、そしてこんな我を生かしてくれている方への感謝であるべきだし、そうした「うた」をこれからも作り唄っていきたい。
何であれ、それはできる、きっとかなうと信じてやっていこう。どんなに大変なことでも。
年内、残すは二か月足らず。朝晩はメッキり冷え込んで寒いぐらいで冬はすぐそこまで来ている。さあ、どこまでやるべきことを進められるか、だ。焦り気負い立つ気もしている。
がんばりたい。これがまだ生きているということなのだから。
ようやく一段落、一区切り ― 2022年10月31日 09時30分15秒
★昨日、父の納骨の儀、無事終わりました。
秋好日、町田の菩提寺で、我が家の墓所に父の骨壺を収め終えた。
親戚も我を含めて九人集まり、亡き人たちの思い出話に盛り上がった。
正直なところ、ものすごく疲れはてた。疲労と睡眠不足から鈍い頭痛抱え式を終えて帰路についたら立ち眩みしたほどだったが、先に入った母や祖父母が眠る墓石の下へと、父もまた収め終えてようやく一区切りがついた気がした。
むろんまだまだ「後片付け」や名義変更などの事務処理は多々残っているし、親戚一同からかなりのご供養料も届いたので、そのお返しなどもせねばならない。やることはいっぱいだ。
しかし、四十九日のうちに、無事お骨も墓に収めることが出来、ともかくこれで一区切り、一段落したと今ほっとしている。
いつもは真夜中に何度か目覚めトイレに行く我も、昨夜は朝まで一度も起きることなく夢すら見なかった気がする。
さあ、これから、迫りくる冬の支度と、新たな人生再構築に向けて、深く深呼吸し気を引き締めてやっていこう、と奮起するところである。
お墓の蓋を石屋に開けてもらい、地下の収容庫に持って行った父の骨壺を収める折、中も見せてもらったが、父のも入れてまうと、狭いその空間はかなりいっぱいとなって、せいぜいあと一つぐらいしか入らない。
もしそこに入れるとしたら、次のそれは我であり、まあ、死後のことは正直まったくどうでもいいと思うものの、骨になれば我もここに入れらてしまうのだろうが、そう考えたらちょっと嫌~な気がした。
傍に祖父母や父、母はいるのは寂しくなく有難いことだとは思うが、個人的な気持ちとしては、家族合同の場所ではなく欧米のように、我一人だけの名を刻んだ小さな石碑の下に眠りたいなあと願う。
まっ、魂はそこにはなく、死後の復活はともかくも「あの世」というもの存在を信ずる者としては、墓もお寺さんも実際のところどうでもいい、いや、それは言葉が過ぎて「関心外」ではあるけれど。
ただ、お寺さんもお墓も、亡き人たちとの縁=関係をこの世で繋ぐ唯一の存在であり、それさえない人生、恃むのは我、自ら一人、という人生を思うと、それはかなり心細いわけで、やはり有難いものだと今回改めて深く思いいった。
それに、縁が薄かった父方の親戚たち、我の従弟たちとも半世紀ぶりに再会できて再び結びついたことも良かった。
過去は過去でしかないし、再び戻せはしないが、父や母の過去の全ての行いと繋いだ縁の結果として我はここにいるのだ、と今回、父の死を通して今さらながら思い至った。
我は一人になったが、真の天涯孤独ではない。多くの先祖や死者たちの記憶や思いを背に負いて生きていかねばならないのだと。
彼らは墓所だけでなく、我の裡に、しっかりここにいるのである。
秋好日、町田の菩提寺で、我が家の墓所に父の骨壺を収め終えた。
親戚も我を含めて九人集まり、亡き人たちの思い出話に盛り上がった。
正直なところ、ものすごく疲れはてた。疲労と睡眠不足から鈍い頭痛抱え式を終えて帰路についたら立ち眩みしたほどだったが、先に入った母や祖父母が眠る墓石の下へと、父もまた収め終えてようやく一区切りがついた気がした。
むろんまだまだ「後片付け」や名義変更などの事務処理は多々残っているし、親戚一同からかなりのご供養料も届いたので、そのお返しなどもせねばならない。やることはいっぱいだ。
しかし、四十九日のうちに、無事お骨も墓に収めることが出来、ともかくこれで一区切り、一段落したと今ほっとしている。
いつもは真夜中に何度か目覚めトイレに行く我も、昨夜は朝まで一度も起きることなく夢すら見なかった気がする。
さあ、これから、迫りくる冬の支度と、新たな人生再構築に向けて、深く深呼吸し気を引き締めてやっていこう、と奮起するところである。
お墓の蓋を石屋に開けてもらい、地下の収容庫に持って行った父の骨壺を収める折、中も見せてもらったが、父のも入れてまうと、狭いその空間はかなりいっぱいとなって、せいぜいあと一つぐらいしか入らない。
もしそこに入れるとしたら、次のそれは我であり、まあ、死後のことは正直まったくどうでもいいと思うものの、骨になれば我もここに入れらてしまうのだろうが、そう考えたらちょっと嫌~な気がした。
傍に祖父母や父、母はいるのは寂しくなく有難いことだとは思うが、個人的な気持ちとしては、家族合同の場所ではなく欧米のように、我一人だけの名を刻んだ小さな石碑の下に眠りたいなあと願う。
まっ、魂はそこにはなく、死後の復活はともかくも「あの世」というもの存在を信ずる者としては、墓もお寺さんも実際のところどうでもいい、いや、それは言葉が過ぎて「関心外」ではあるけれど。
ただ、お寺さんもお墓も、亡き人たちとの縁=関係をこの世で繋ぐ唯一の存在であり、それさえない人生、恃むのは我、自ら一人、という人生を思うと、それはかなり心細いわけで、やはり有難いものだと今回改めて深く思いいった。
それに、縁が薄かった父方の親戚たち、我の従弟たちとも半世紀ぶりに再会できて再び結びついたことも良かった。
過去は過去でしかないし、再び戻せはしないが、父や母の過去の全ての行いと繋いだ縁の結果として我はここにいるのだ、と今回、父の死を通して今さらながら思い至った。
我は一人になったが、真の天涯孤独ではない。多くの先祖や死者たちの記憶や思いを背に負いて生きていかねばならないのだと。
彼らは墓所だけでなく、我の裡に、しっかりここにいるのである。
明後日の父の納骨法要を前に慌ただしく ― 2022年10月28日 08時28分45秒
★すみません、ブログはそれを終えてから、また
このところ朝晩めっきり冷え込んできて、北のほう、あちこちから初霜や初氷の知らせが届く。連日、この冬最低気温だとか予報は伝えている。
考えてみれば、もう10月も終わりなのだ。これから一気に秋も深まり、関東でも紅葉、落葉の季節となっていく。
その寒さのせいか、昨夜はまた持病の咳の発作が出て、なかなか収まらず苦しかった。これは季節の変わり目に風邪の症状のように必ず起こる。寒暖差アレルギーという病気らしい。かなり疲弊した。
明後日30日の、町田のお寺での父の納骨法要が迫って来て、今その支度と部屋の片づけに追われている。
というのは、九州から妹が来て二泊するのだが、情けない話、この広い家なのに彼女が寝るスペースがない。
ウチはどこも今は足の踏み場がないような状態で、この数日必死に居間を片づけて、今夜から何とかそこに寝袋とマット敷いて寝てもらう予定でいる。
ただ、そのためには掘りごたつにしてしまった畳半分の穴を埋めねばならず、今夕、妹が来るまでに居間だけはすっきりできるかかなり微妙なところだ。
その他にも、当日持っていくものや、お金の件の他、いろいろ打ち合わせや準備も多々ある。我の喪服はみつかるか。
幸いまだ明日一日時間はあるので、何とか当日不備がないよう、どこまで詰めることができるか、だ。
この法要のことも含めて、猫たちのこともいろいろ書き記したいことはあるけれど、そんなこんなでちょっと30日が無事終わるまで忙しくブログは書けそうにない。その時間が取れないと思う。
スミマセンが終わったらまた再開しますのでご容赦願います。
このところ朝晩めっきり冷え込んできて、北のほう、あちこちから初霜や初氷の知らせが届く。連日、この冬最低気温だとか予報は伝えている。
考えてみれば、もう10月も終わりなのだ。これから一気に秋も深まり、関東でも紅葉、落葉の季節となっていく。
その寒さのせいか、昨夜はまた持病の咳の発作が出て、なかなか収まらず苦しかった。これは季節の変わり目に風邪の症状のように必ず起こる。寒暖差アレルギーという病気らしい。かなり疲弊した。
明後日30日の、町田のお寺での父の納骨法要が迫って来て、今その支度と部屋の片づけに追われている。
というのは、九州から妹が来て二泊するのだが、情けない話、この広い家なのに彼女が寝るスペースがない。
ウチはどこも今は足の踏み場がないような状態で、この数日必死に居間を片づけて、今夜から何とかそこに寝袋とマット敷いて寝てもらう予定でいる。
ただ、そのためには掘りごたつにしてしまった畳半分の穴を埋めねばならず、今夕、妹が来るまでに居間だけはすっきりできるかかなり微妙なところだ。
その他にも、当日持っていくものや、お金の件の他、いろいろ打ち合わせや準備も多々ある。我の喪服はみつかるか。
幸いまだ明日一日時間はあるので、何とか当日不備がないよう、どこまで詰めることができるか、だ。
この法要のことも含めて、猫たちのこともいろいろ書き記したいことはあるけれど、そんなこんなでちょっと30日が無事終わるまで忙しくブログは書けそうにない。その時間が取れないと思う。
スミマセンが終わったらまた再開しますのでご容赦願います。
今日は父の誕生日、生きていたら満98歳に。 ― 2022年10月21日 12時23分44秒
★雲一つない秋晴れの朝に
朝、またいつものように5時台に起きてしまい、それからしばらく寝付けず、外は明るくなってきたし起きて散歩でもしようかとも考えたが、風邪気味ということもあって、がんばって布団の中でじっと寝なおしてたら再び眠りにつけた。
8時過ぎまでたっぷり眠れたので、おかげで体調は戻り、風邪は大過なくとりあえず収まった気がする。
今朝は、冷え込んだものの朝から雲一つない快晴となった。犬と散歩して空見上げたら、今朝は雲一つない。まだ空の色は、哀しいほど濃い、深い青ではないが、久しぶりの秋晴れの好日が続くかと期待している。
今日は、10.21。昔なら国際反戦デー、だと記憶するが、我が父の誕生日である。
生きていれば、今日で満98歳になるはずであった。
今も、コロナにさえかからなければ、心身の衰弱は進まず今日を迎えられて、通ってる介護施設で職員たちに寄せ書きの色紙を貰い、盛大に?バースデーを祝ってもらえたはずだ。
毎年その施設から頂く、父の顔写真を貼った色紙に、職員たちが寄せ書きしたものが父の部屋に何枚も飾ってあるのだが、今年のぶんはついに届かなかった。戸棚に並んだそうした毎年の色紙を眺めやるせない哀しみを覚える。
この 1~2年、確かに全身衰弱は進み、体重も落ちて死期は間近に迫ってきた感はあったが、我としては、まず施設も何とか通い続け今年の誕生日も無事に迎えられて、来年の正月こそ、コロナ禍でずっと来れなかった都内に住む彼の孫、我の甥っ子も3年ぶりに招いて新年を祝えると思っていた。いや、想定していたのだ。
正直、その先については何も考えてはなかったが、まずは98歳の誕生日は、今年も迎えられると確信していたし、年内もやり過ごせたら新年、正月、という、我は、父をそこらまで生かせられる「自信」もあった。
しかし、それは、今思えばゴーマンかつ驕りというもので、人の生き死は、人知を超えた先、まさに神の計らいでしかないのだから、生かすも殺すも全ては神の御手に委ねられていたのだ。
そうして、我が父は、98年に約一月足らずまで生きて、満97歳で死んだ。そう、エリザベス女王も、安倍晋三も、アントニオ猪木も、仲本工事も我が師匠・有馬敲も亡くなった年に。
我は、2022年という年は死ぬまで忘れないだろう。そしてここから、この年から我の最期の旅が、新たな道、新たな人生が始まったということも。
余談だが、納骨法要に向けて、我は、Amazonを通して位牌も発注した。仏具専門店などを通して購入すると、安くても3万円ぐらいからが相場らしいが、母の時もだが、我にとっては、いや、我が家にとっては便宜上必要なものでしかないので、戒名もだが、「高価」なものにしないとならない必要、必然性は何もない。
ただ、それでも戒名には、没年月日というのか、亡くなった年と日付けと、享年、あるいは行年という、年齢が、お寺様から頂く戒名と俗名、つまり本名と共に表・裏に記されている。
それは何歳とすべきなのか。我としては、父は98歳目前まで生きたこともあり、満年齢の97歳と記すのは、やや抵抗があった。細かなどうでもいいことでもあるのだけれど、長生きしたということを記しておきたかった。
お寺さんと戒名頂く相談をしたときに、そのこと、「享年」は何歳とすべきか聞いたら、仏教では、享年は、お母様のお腹にいた期間、10か月も加算して考えると教えられ、ならば98歳で良いのだと得心した。
確かに、人は、その誕生日に、母の胎内からこの世に出てくるわけだが、実際は、母のお腹の中で十二分に生きている。※だから胎教などということが大事だともされる。
まさに時満ちてからこの世に生まれてくるのだから、実際の満年齢よりも確かに長く生きているのである。胎児もまた既に人なのである。
我はキリスト教原理主義者ではないが、堕胎の権利を!!と声高に叫ぶキャンペーンや広告や物言いを目にすると、正直なところ「いや~な」気分を感じる。
むろんそこには様々な事情や理由、堕胎せねばならぬ必然性があるのだろうと、理解も推察も想像もできる。
しかし、我はキリスト者でないとしてもやはり中絶には基本的には反対だという立場は崩せないし撤回もしない。
人の命は、人がどのような理由があろうとも奪ってはならない。いや、人だけではない。全ての生き物は、生きているから「生き物」なのだから、殺してはならないのだ。
それでも我は殺された家畜の肉を食べたりしている。だからその「罪深さ」を、申し訳なさ、有難さを忘れてはならないのだと気づく。
しかし、それこそが人のみならず、我々生きている者たちが、生き続けていくための業なのである。そう、他者の犠牲の上に命を繋いでいかねばならぬという。
ならばこそ、せめて不必要な殺生は為してはならぬというテーゼのうえで。そう、動物たちはきちんとそれを守っている。守らないのは人間だけだ。そこに罪がある。我ももちろんのこと。だから罪深い。
※ちょっとまた慌ただしくて、10,21日には途中までで書けなかったので、後から書き足した。お読み頂けたら幸甚です。
朝、またいつものように5時台に起きてしまい、それからしばらく寝付けず、外は明るくなってきたし起きて散歩でもしようかとも考えたが、風邪気味ということもあって、がんばって布団の中でじっと寝なおしてたら再び眠りにつけた。
8時過ぎまでたっぷり眠れたので、おかげで体調は戻り、風邪は大過なくとりあえず収まった気がする。
今朝は、冷え込んだものの朝から雲一つない快晴となった。犬と散歩して空見上げたら、今朝は雲一つない。まだ空の色は、哀しいほど濃い、深い青ではないが、久しぶりの秋晴れの好日が続くかと期待している。
今日は、10.21。昔なら国際反戦デー、だと記憶するが、我が父の誕生日である。
生きていれば、今日で満98歳になるはずであった。
今も、コロナにさえかからなければ、心身の衰弱は進まず今日を迎えられて、通ってる介護施設で職員たちに寄せ書きの色紙を貰い、盛大に?バースデーを祝ってもらえたはずだ。
毎年その施設から頂く、父の顔写真を貼った色紙に、職員たちが寄せ書きしたものが父の部屋に何枚も飾ってあるのだが、今年のぶんはついに届かなかった。戸棚に並んだそうした毎年の色紙を眺めやるせない哀しみを覚える。
この 1~2年、確かに全身衰弱は進み、体重も落ちて死期は間近に迫ってきた感はあったが、我としては、まず施設も何とか通い続け今年の誕生日も無事に迎えられて、来年の正月こそ、コロナ禍でずっと来れなかった都内に住む彼の孫、我の甥っ子も3年ぶりに招いて新年を祝えると思っていた。いや、想定していたのだ。
正直、その先については何も考えてはなかったが、まずは98歳の誕生日は、今年も迎えられると確信していたし、年内もやり過ごせたら新年、正月、という、我は、父をそこらまで生かせられる「自信」もあった。
しかし、それは、今思えばゴーマンかつ驕りというもので、人の生き死は、人知を超えた先、まさに神の計らいでしかないのだから、生かすも殺すも全ては神の御手に委ねられていたのだ。
そうして、我が父は、98年に約一月足らずまで生きて、満97歳で死んだ。そう、エリザベス女王も、安倍晋三も、アントニオ猪木も、仲本工事も我が師匠・有馬敲も亡くなった年に。
我は、2022年という年は死ぬまで忘れないだろう。そしてここから、この年から我の最期の旅が、新たな道、新たな人生が始まったということも。
余談だが、納骨法要に向けて、我は、Amazonを通して位牌も発注した。仏具専門店などを通して購入すると、安くても3万円ぐらいからが相場らしいが、母の時もだが、我にとっては、いや、我が家にとっては便宜上必要なものでしかないので、戒名もだが、「高価」なものにしないとならない必要、必然性は何もない。
ただ、それでも戒名には、没年月日というのか、亡くなった年と日付けと、享年、あるいは行年という、年齢が、お寺様から頂く戒名と俗名、つまり本名と共に表・裏に記されている。
それは何歳とすべきなのか。我としては、父は98歳目前まで生きたこともあり、満年齢の97歳と記すのは、やや抵抗があった。細かなどうでもいいことでもあるのだけれど、長生きしたということを記しておきたかった。
お寺さんと戒名頂く相談をしたときに、そのこと、「享年」は何歳とすべきか聞いたら、仏教では、享年は、お母様のお腹にいた期間、10か月も加算して考えると教えられ、ならば98歳で良いのだと得心した。
確かに、人は、その誕生日に、母の胎内からこの世に出てくるわけだが、実際は、母のお腹の中で十二分に生きている。※だから胎教などということが大事だともされる。
まさに時満ちてからこの世に生まれてくるのだから、実際の満年齢よりも確かに長く生きているのである。胎児もまた既に人なのである。
我はキリスト教原理主義者ではないが、堕胎の権利を!!と声高に叫ぶキャンペーンや広告や物言いを目にすると、正直なところ「いや~な」気分を感じる。
むろんそこには様々な事情や理由、堕胎せねばならぬ必然性があるのだろうと、理解も推察も想像もできる。
しかし、我はキリスト者でないとしてもやはり中絶には基本的には反対だという立場は崩せないし撤回もしない。
人の命は、人がどのような理由があろうとも奪ってはならない。いや、人だけではない。全ての生き物は、生きているから「生き物」なのだから、殺してはならないのだ。
それでも我は殺された家畜の肉を食べたりしている。だからその「罪深さ」を、申し訳なさ、有難さを忘れてはならないのだと気づく。
しかし、それこそが人のみならず、我々生きている者たちが、生き続けていくための業なのである。そう、他者の犠牲の上に命を繋いでいかねばならぬという。
ならばこそ、せめて不必要な殺生は為してはならぬというテーゼのうえで。そう、動物たちはきちんとそれを守っている。守らないのは人間だけだ。そこに罪がある。我ももちろんのこと。だから罪深い。
※ちょっとまた慌ただしくて、10,21日には途中までで書けなかったので、後から書き足した。お読み頂けたら幸甚です。
溜まりに溜まったものを少しでも片づけ、なくしていこう ― 2022年10月20日 21時40分21秒
★少しでも今できることを進めていく、が・・・
またまた更新の間が空いてしまった。申し訳ありません。ともかくあれこれ多々雑事に追われてしまって・・・
秋はたいてい、雲一つない爽やかな秋晴れが今頃は続くはずなのだが、今年はどうしたことか、雨や曇りの日がやたら多く、午前中は晴れても午後からはどんより曇ったり、夜中に雨が降ることが多い。
昨日も、朝から晴れてたが、午後はどんより曇ってしまった。幸い雨は降らなかったが。
しかし、今朝は、朝から晴れて久々の終日長く秋晴れとなり、この快晴は明日も明後日も続くとの予報である。東京の久々の晴れは、9日ぶりとのこと。やれやれ、という気分である。
が、気温がこのところやたら低く、暑がりの我としては寒いほうが動くのは楽なのだけど、今朝方は、明け方いつも通りに起きたが、それは寒くて深く眠れずのことで、トイレに行ってから掛布団を出して、温かくしたらようやくぐっすり眠れた。
ただ、そんなで風邪の引きはじめなのか、コロナでないとしたら今日は一日朝から喉もだが頭や腰が鈍く痛く、何か身体は怠くしんどかった。
月末の父の納骨法要が迫って来て、やることは山積しているのに困った事態である。
父の納骨の儀が、この30日と迫って来て、いま、それに向けていろいろ手配や準備に追われている。
九州から妹も来て、二晩は泊まるので、寝るスペースも作らねばならないだけでなく、主に我の従弟・従姉たちだが、父方の親戚一同がほぼ勢ぞろいするので、応対に不備のないよう、喪主としては万全を尽くさねばならない。
何しろ、父の葬儀自体は、火葬に付しただけで、それに来たのは、母方の甥っ子と我の女友達だけ、我を入れて四人だけであった。父方の親類縁者は一人も来なかった。
今回は、四十九日前に納骨の法要ということであり、菩提寺であるウチのお寺に、従弟・従妹たちが各地から集まる。それでも我の妹も入れて10人程度であろうか。
父の兄弟姉妹で今も生存している人は、もう妹が一人しかいなく、しかも施設に入っているそうで、今回、訃報の連絡ができたのも皆、父方は皆、もうその子たちの世代、つまり我にとって従弟たちであり、たぶん皆で会うのはこれが最後となると思える。
というのも、我らもまたもう六十代、七十代であり、亡き父も含めて親世代が九十代ならば、とうぜんその子供ももう中年どころか初老の世代なのである。この先、葬儀の報が届いても行けるかどうか明日のことは誰もわからないではないか。
残念だが、父方は、何故かその兄弟姉妹たちの関係は浅く、いとこ同士もさほど親しい付き合いはなかったから、この機会がなければ、たぶんこのまま縁も切れて縁戚関係は雲散霧消となっていたと思える。
兄弟一族の長兄である我が父の死が、結果としてずっと疎遠であった我ら従弟たちを再び繋ぐこととなったのは、奇しき計らいというか、有難く善いことだといま思える。山口瞳の小説みたいだ。
父には一人姉がいて、その方はもう何十年も前に早く亡くなっているのだが、そこの長男である方と、今回久しぶりに連絡がついて、もはや70代半ば過ぎだと思うが、法要に来てくれることとなった。
我より10歳以上の歳上だと思うから、うんと幼少時、その家によく遊びに行ってた頃に会った記憶はあるけれど、今回会えれば、実に半世紀以上、の再会である。
ウチにはその頃の古い紙焼き写真が多々まだ残っていて、できれば当日、それをスキャンしたものを皆で観れたらと夢想している。たぶん一族の昔の写真は他の家にはもう残っていないのではないか。
そうした作業もあるし、当日に向けて多々支度や手配もあるのだが、それに加えて今頭痛めてるのは「猫」のことである。
動物愛護団体に関係している方が、ウチの窮状を哀れみ問題視して今早急に子猫たちの貰い手と新たな出産を抑えるべく対策をとるべきだと精力的に働きかけて来ていて、そちらも同時進行的に対応せねばならず、身体は一つのうえ、愚図な我はいま心身追い詰められた気分である。
しかしそれもこれも我のだらしなさと考えのなさ、つまり迂闊さと愚かさが招いたことであり、まさに自業自得なのだから、そうして関わって来てくれただけでも有難いと思わねば罰があたろう。
自分でもこのままで良いとは思っていないが、もう子猫の貰い手は既に出尽くして、子猫は日々どんどん大きくなっていくのだから、一日も早く避妊や去勢の手を打たないと、最終的にウチは、つまり我は多頭飼育崩壊で破綻、破滅していく。経済的にも体力的時間的にも。
何でこんなことになってしまったか、と自問するが、父の介護のこともあり、今春から慌ただしくて、ついつい何もかも放擲してきたことが原因であった。
しかしそれは言い訳にはできない。ともかくこの問題を早く解決して、猫たちは貰い手がないとしてももうこれ以上絶対に増えないようにして、ともかく最後まできちんと世話し面倒見ていくだけのことだ。
そのうえで、父たちのものも含めて、溜まりに溜まってしまったものを、これから少しでも片づけて無くしていくことだ。
これからは我一人だけの人生なのだ。もう父や母はいないのだから、彼らの遺した物は、実際のところ思い出はあっても不要なのである。
金になるものや再利用できるものは何とか有効活用するとして、それ以外のものは、場所も取り我の残りの人生のまさに足枷でしかないのだから、やはり捨てていくしかない。
我が六十代のうちに、そうしたモノに関してはすっきり片づけが終わればと願うが、今のペースでやっていたら前途遼遠に思え溜息が出てくる。
しかし、それは誰にも頼れないし、業者に金出して任せ片づけてもらったとしても、とうぜん何百万もかかるだろう。何も亡くなった部屋ですっきりしたとしても金もすっきり無くなっているわけで、無年金の我はどう生きて行ったらいい?
先のことを考えるとまたウツウツして不安なってしまうから今は考えず、ともかく今月30日の納骨の儀と猫たちのことだけに専念していこう。
今更だが、このブログをお読み頂けている方で、猫の飼い主、里親になってもらえる方はいらっしゃいませんか。
本人でなくても誰かお知り合いに、子猫が欲しいとか飼ってみたいという方がいらしたらお知らせ頂ければ有難い。
子猫も含めて10数匹の猫たちを避妊・去勢するだけでもかなりの出費であるのは仕方ないが、その後も食餌やトイレの掃除だけでものすごく時間がとられてタイヘンなのだから。
一匹でも貰われて減るのならば本当に助かる。また、その方が猫にとって幸福であることは間違いない。
貰い手誰かいませんか?
老いてきて今思うのは、重い荷を背負い日暮れて道遠し、ということだ。しかし、ともかく歩を止めず歩き続けるしかない。
そう、そしてだからこそ、そこに、そこからうたが生まれるのだと。
体調悪くて午後に少しだけ横になって仮眠とった。そしたら夢の中で有馬敲さんが出てきた。彼は詩の集いか何かのシンポジウムなのか、長テーブルに向かい、両隣にも男性いてその真ん中でマイクに向かっていた。
何かの発言の最中なのかわからないが、こちらは見ているだけで声はかけられなかった。声は聞けなかった。
ただ、あの世でも元気に発言し活動しているのだなあとわかって(夢の中でも)安心した。でも目覚めて少しだけ泣いた。そう彼ももうこの世にはいないのだ。
みんないったいどこに行ってしまうのだろう。今どこにいるのだろう。
またまた更新の間が空いてしまった。申し訳ありません。ともかくあれこれ多々雑事に追われてしまって・・・
秋はたいてい、雲一つない爽やかな秋晴れが今頃は続くはずなのだが、今年はどうしたことか、雨や曇りの日がやたら多く、午前中は晴れても午後からはどんより曇ったり、夜中に雨が降ることが多い。
昨日も、朝から晴れてたが、午後はどんより曇ってしまった。幸い雨は降らなかったが。
しかし、今朝は、朝から晴れて久々の終日長く秋晴れとなり、この快晴は明日も明後日も続くとの予報である。東京の久々の晴れは、9日ぶりとのこと。やれやれ、という気分である。
が、気温がこのところやたら低く、暑がりの我としては寒いほうが動くのは楽なのだけど、今朝方は、明け方いつも通りに起きたが、それは寒くて深く眠れずのことで、トイレに行ってから掛布団を出して、温かくしたらようやくぐっすり眠れた。
ただ、そんなで風邪の引きはじめなのか、コロナでないとしたら今日は一日朝から喉もだが頭や腰が鈍く痛く、何か身体は怠くしんどかった。
月末の父の納骨法要が迫って来て、やることは山積しているのに困った事態である。
父の納骨の儀が、この30日と迫って来て、いま、それに向けていろいろ手配や準備に追われている。
九州から妹も来て、二晩は泊まるので、寝るスペースも作らねばならないだけでなく、主に我の従弟・従姉たちだが、父方の親戚一同がほぼ勢ぞろいするので、応対に不備のないよう、喪主としては万全を尽くさねばならない。
何しろ、父の葬儀自体は、火葬に付しただけで、それに来たのは、母方の甥っ子と我の女友達だけ、我を入れて四人だけであった。父方の親類縁者は一人も来なかった。
今回は、四十九日前に納骨の法要ということであり、菩提寺であるウチのお寺に、従弟・従妹たちが各地から集まる。それでも我の妹も入れて10人程度であろうか。
父の兄弟姉妹で今も生存している人は、もう妹が一人しかいなく、しかも施設に入っているそうで、今回、訃報の連絡ができたのも皆、父方は皆、もうその子たちの世代、つまり我にとって従弟たちであり、たぶん皆で会うのはこれが最後となると思える。
というのも、我らもまたもう六十代、七十代であり、亡き父も含めて親世代が九十代ならば、とうぜんその子供ももう中年どころか初老の世代なのである。この先、葬儀の報が届いても行けるかどうか明日のことは誰もわからないではないか。
残念だが、父方は、何故かその兄弟姉妹たちの関係は浅く、いとこ同士もさほど親しい付き合いはなかったから、この機会がなければ、たぶんこのまま縁も切れて縁戚関係は雲散霧消となっていたと思える。
兄弟一族の長兄である我が父の死が、結果としてずっと疎遠であった我ら従弟たちを再び繋ぐこととなったのは、奇しき計らいというか、有難く善いことだといま思える。山口瞳の小説みたいだ。
父には一人姉がいて、その方はもう何十年も前に早く亡くなっているのだが、そこの長男である方と、今回久しぶりに連絡がついて、もはや70代半ば過ぎだと思うが、法要に来てくれることとなった。
我より10歳以上の歳上だと思うから、うんと幼少時、その家によく遊びに行ってた頃に会った記憶はあるけれど、今回会えれば、実に半世紀以上、の再会である。
ウチにはその頃の古い紙焼き写真が多々まだ残っていて、できれば当日、それをスキャンしたものを皆で観れたらと夢想している。たぶん一族の昔の写真は他の家にはもう残っていないのではないか。
そうした作業もあるし、当日に向けて多々支度や手配もあるのだが、それに加えて今頭痛めてるのは「猫」のことである。
動物愛護団体に関係している方が、ウチの窮状を哀れみ問題視して今早急に子猫たちの貰い手と新たな出産を抑えるべく対策をとるべきだと精力的に働きかけて来ていて、そちらも同時進行的に対応せねばならず、身体は一つのうえ、愚図な我はいま心身追い詰められた気分である。
しかしそれもこれも我のだらしなさと考えのなさ、つまり迂闊さと愚かさが招いたことであり、まさに自業自得なのだから、そうして関わって来てくれただけでも有難いと思わねば罰があたろう。
自分でもこのままで良いとは思っていないが、もう子猫の貰い手は既に出尽くして、子猫は日々どんどん大きくなっていくのだから、一日も早く避妊や去勢の手を打たないと、最終的にウチは、つまり我は多頭飼育崩壊で破綻、破滅していく。経済的にも体力的時間的にも。
何でこんなことになってしまったか、と自問するが、父の介護のこともあり、今春から慌ただしくて、ついつい何もかも放擲してきたことが原因であった。
しかしそれは言い訳にはできない。ともかくこの問題を早く解決して、猫たちは貰い手がないとしてももうこれ以上絶対に増えないようにして、ともかく最後まできちんと世話し面倒見ていくだけのことだ。
そのうえで、父たちのものも含めて、溜まりに溜まってしまったものを、これから少しでも片づけて無くしていくことだ。
これからは我一人だけの人生なのだ。もう父や母はいないのだから、彼らの遺した物は、実際のところ思い出はあっても不要なのである。
金になるものや再利用できるものは何とか有効活用するとして、それ以外のものは、場所も取り我の残りの人生のまさに足枷でしかないのだから、やはり捨てていくしかない。
我が六十代のうちに、そうしたモノに関してはすっきり片づけが終わればと願うが、今のペースでやっていたら前途遼遠に思え溜息が出てくる。
しかし、それは誰にも頼れないし、業者に金出して任せ片づけてもらったとしても、とうぜん何百万もかかるだろう。何も亡くなった部屋ですっきりしたとしても金もすっきり無くなっているわけで、無年金の我はどう生きて行ったらいい?
先のことを考えるとまたウツウツして不安なってしまうから今は考えず、ともかく今月30日の納骨の儀と猫たちのことだけに専念していこう。
今更だが、このブログをお読み頂けている方で、猫の飼い主、里親になってもらえる方はいらっしゃいませんか。
本人でなくても誰かお知り合いに、子猫が欲しいとか飼ってみたいという方がいらしたらお知らせ頂ければ有難い。
子猫も含めて10数匹の猫たちを避妊・去勢するだけでもかなりの出費であるのは仕方ないが、その後も食餌やトイレの掃除だけでものすごく時間がとられてタイヘンなのだから。
一匹でも貰われて減るのならば本当に助かる。また、その方が猫にとって幸福であることは間違いない。
貰い手誰かいませんか?
老いてきて今思うのは、重い荷を背負い日暮れて道遠し、ということだ。しかし、ともかく歩を止めず歩き続けるしかない。
そう、そしてだからこそ、そこに、そこからうたが生まれるのだと。
体調悪くて午後に少しだけ横になって仮眠とった。そしたら夢の中で有馬敲さんが出てきた。彼は詩の集いか何かのシンポジウムなのか、長テーブルに向かい、両隣にも男性いてその真ん中でマイクに向かっていた。
何かの発言の最中なのかわからないが、こちらは見ているだけで声はかけられなかった。声は聞けなかった。
ただ、あの世でも元気に発言し活動しているのだなあとわかって(夢の中でも)安心した。でも目覚めて少しだけ泣いた。そう彼ももうこの世にはいないのだ。
みんないったいどこに行ってしまうのだろう。今どこにいるのだろう。
父の死から一か月 ― 2022年10月16日 07時26分50秒
★そう、父はもうどこにもいないのだ。
先月の14日に父が逝ってからちょうど一月が過ぎたことになる。
昨日、ようやく我の人生が再び少しだが動き出したという感じがしてきた。むろん、まだ父の遺したものは、着てた衣類をはじめ何もかも何一つかたづいていないが。
この一か月、ともかく慌ただしかった。あたふたしているうちに一月があっという間に過ぎた。
まだ今月末の納骨の法要までやるべきこと、その準備や手配はあれこれあるのだが、ともかくやっと次の段階に進みだしたという気持ちがしてきた。
先のブログ、つい悲嘆的なことを書いてしまい、読まれた方に多々ご心配おかけして申し訳ありません。
消そうかとも思ったが、それもまた心の一面、事実であり、それはそれで留めることにした。
あれから、また新たな啓示というべきか、これからどう生きていくか、心構えというか指針が我に下ってきて、勝手な言い分だが、今はもう何とか大丈夫だということをまずカンタンに記しておきたい。
その啓示についてはまたきちんと書きたいと考えているが、一言で言えば、もう覚悟を決めて、我の残りの人生は、亡き人たちへの鎮魂とまだ生きている人たちへの償いに生きていくということだ。終身刑を受けた受刑者か修道僧のように。
今朝もまた6時前に目覚めてしまい、もう少し寝なおそうかと思ったが、あれこれ考えてもう眠れなかった。
ふと父のことに思いが行き、父の死から一か月が過ぎた・・・そうか、もう父はどこにもいないのだ、もう二度と戻らないのだと思いがいったとたん、どっと涙が出てきた。
父を病院で看取り送った時以来、初めて声だして泣いた。やっと「死」を実感した。
そう、もう父はどこにもいないのだ。もう帰ってこない。これから一人で新たな人生を生きていかねばならないのだ。
先月の14日に父が逝ってからちょうど一月が過ぎたことになる。
昨日、ようやく我の人生が再び少しだが動き出したという感じがしてきた。むろん、まだ父の遺したものは、着てた衣類をはじめ何もかも何一つかたづいていないが。
この一か月、ともかく慌ただしかった。あたふたしているうちに一月があっという間に過ぎた。
まだ今月末の納骨の法要までやるべきこと、その準備や手配はあれこれあるのだが、ともかくやっと次の段階に進みだしたという気持ちがしてきた。
先のブログ、つい悲嘆的なことを書いてしまい、読まれた方に多々ご心配おかけして申し訳ありません。
消そうかとも思ったが、それもまた心の一面、事実であり、それはそれで留めることにした。
あれから、また新たな啓示というべきか、これからどう生きていくか、心構えというか指針が我に下ってきて、勝手な言い分だが、今はもう何とか大丈夫だということをまずカンタンに記しておきたい。
その啓示についてはまたきちんと書きたいと考えているが、一言で言えば、もう覚悟を決めて、我の残りの人生は、亡き人たちへの鎮魂とまだ生きている人たちへの償いに生きていくということだ。終身刑を受けた受刑者か修道僧のように。
今朝もまた6時前に目覚めてしまい、もう少し寝なおそうかと思ったが、あれこれ考えてもう眠れなかった。
ふと父のことに思いが行き、父の死から一か月が過ぎた・・・そうか、もう父はどこにもいないのだ、もう二度と戻らないのだと思いがいったとたん、どっと涙が出てきた。
父を病院で看取り送った時以来、初めて声だして泣いた。やっと「死」を実感した。
そう、もう父はどこにもいないのだ。もう帰ってこない。これから一人で新たな人生を生きていかねばならないのだ。
次はともかく猫のこと、貰い手探しと、これ以上増えないために ― 2022年10月09日 19時36分57秒
★国立の二カ所のイベントで、子猫つれて宣伝しました、が・・・
先にも書いたが、父のことなどがあって、猫たちのことまで気が回らず、ついほったらかしにしていたら、増殖してしまった。
これまでも生れてはいたのだが、友人知人のツテを頼って、有難いことに貰い手はあって、何とか収まっていたのだが、さすがにもうどこも飽和状態で、何回も子猫の譲渡会をかけこみ亭で繰り返しても参加者はなく、子猫はどんどん大きくなり、我はついに多頭飼育崩壊寸前となってしまっている。
猫の餌代とか経済的なことも大きな負担となってきているが、それ以前に、日々何度もの餌やりとトイレ掃除に時間と労苦をとられて、自分でもいったい何をやっているのだろう、これが自分の人生の目的、存在理由なのか自問するばかりだった。
むろん全ては自らの性格的だらしなさ、何につけても無責任にほったらかしにしてきたことのツケ、結果が招いたこの事態であり、猫たちにはなにも責任はない。
何であれ、その都度きちんと対応し、適切に手を打っていればこんなことにはならなかったわけで、ずっと自らの人生全てを放擲してきた結果がこの惨憺たる状況なのである。
もう限界だとしても、猫たちを捨てに行ったり、外に締め出して野良ネコ化してはならないわけで、命あるものとして我は彼らの猫人生を最後まできちんと負わねばならない。
今いる大人猫たちがこれ以上絶対増えないよう、去勢、避妊手術していくことはもちろんだが、まずはまだ貰い手の可能性がある、子猫たちを新たな飼い主の元へ旅立たせることも優先なので、今日、彼らの中からセレクトした子をケージに入れて、国立での人の集まる場へ行ってきた。
結果は、すぐその場で貰われることはなかったが、やはり人が多く通り集まる場では、子猫たちは目を引き、かなりの反響はあった。
チラシも作り、ウチの電話番号は伝えてあるので、もしかしたら後日、連絡があり貰い手も見つかるかもしれない。
今日はまだ何一つ解決も結果も出なかったが、少なくても種は蒔けたと思う。やがて、その蒔いた種から反応が返って来て、一匹でも貰われていくかもしれない。そう期待している。
何であれ、家にじっと籠っていても何一つ新たな展開はないのである。
ならば、ともかく動いてみる、そこからまた新たな動きもあるに違いない。そう信じてがんばるしかない。
先にも書いたが、父のことなどがあって、猫たちのことまで気が回らず、ついほったらかしにしていたら、増殖してしまった。
これまでも生れてはいたのだが、友人知人のツテを頼って、有難いことに貰い手はあって、何とか収まっていたのだが、さすがにもうどこも飽和状態で、何回も子猫の譲渡会をかけこみ亭で繰り返しても参加者はなく、子猫はどんどん大きくなり、我はついに多頭飼育崩壊寸前となってしまっている。
猫の餌代とか経済的なことも大きな負担となってきているが、それ以前に、日々何度もの餌やりとトイレ掃除に時間と労苦をとられて、自分でもいったい何をやっているのだろう、これが自分の人生の目的、存在理由なのか自問するばかりだった。
むろん全ては自らの性格的だらしなさ、何につけても無責任にほったらかしにしてきたことのツケ、結果が招いたこの事態であり、猫たちにはなにも責任はない。
何であれ、その都度きちんと対応し、適切に手を打っていればこんなことにはならなかったわけで、ずっと自らの人生全てを放擲してきた結果がこの惨憺たる状況なのである。
もう限界だとしても、猫たちを捨てに行ったり、外に締め出して野良ネコ化してはならないわけで、命あるものとして我は彼らの猫人生を最後まできちんと負わねばならない。
今いる大人猫たちがこれ以上絶対増えないよう、去勢、避妊手術していくことはもちろんだが、まずはまだ貰い手の可能性がある、子猫たちを新たな飼い主の元へ旅立たせることも優先なので、今日、彼らの中からセレクトした子をケージに入れて、国立での人の集まる場へ行ってきた。
結果は、すぐその場で貰われることはなかったが、やはり人が多く通り集まる場では、子猫たちは目を引き、かなりの反響はあった。
チラシも作り、ウチの電話番号は伝えてあるので、もしかしたら後日、連絡があり貰い手も見つかるかもしれない。
今日はまだ何一つ解決も結果も出なかったが、少なくても種は蒔けたと思う。やがて、その蒔いた種から反応が返って来て、一匹でも貰われていくかもしれない。そう期待している。
何であれ、家にじっと籠っていても何一つ新たな展開はないのである。
ならば、ともかく動いてみる、そこからまた新たな動きもあるに違いない。そう信じてがんばるしかない。
冷たい雨が降り続く神無月に ― 2022年10月07日 11時40分27秒
★ずっと憂鬱気分に囚われていたが
冷たい雨が断続的に降り続いている。どうしたことかおまけに寒い。
このところしばらく雨が降らず、だいぶ野外の草木は乾いて水を求めていたから、久しぶりの本降りの雨は良いことなのだが、どうしたことか気温は低く、12月の陽気だとのこと。
父の死に追い打ちをかけるかのように、お世話になった師、有馬さんの訃報が届き、この数日本当に苦しかった。特に明け方、まだ暗いうちの午前4時頃に起きてしまうと、まさに暗澹たる気分に囚われた。
亡き人たちに対する哀しみや何ひとつ彼らにできなかったことへの悔いもあるけれど、それ以上にこれから先行きのこと、こんな自分が一人で生きていかねねばならぬこと、その不安と怖れでパニック障害気味となっていた。
そう、何が辛いかというと、この明け方、窓の外はまだ暗い時間帯に目覚めるのが本当に辛く苦しい。それからなかなかすぐに寝なおせないのだ。
父が生きていた頃からの習慣で、彼のオムツ交換のために必ず朝方一度起きていたのだが、それが今も習い性となって続いていて、何時に床に就いたとしても必ず4時過ぎか5時頃にはトイレ起床もあって一度は目が覚めてしまう。
そしてそれからが眠れないのが辛く苦しい。以前、夏場は夜が明けるのも早いから、それで起床し散歩したり一仕事できたが、今はまだ外は真っ暗闇で、世界の底でたった一人で取り残された気分になる。
そしてあれこれつい先のこと、まだまだやらねばならぬことを考えてしまい大きな不安と怖れに囚われ悶々となる。
それは、山を歩く人が疲れ果てて来たのに、これからまだ登らねばならぬ山塊を仰ぎ見たときに感ずる怖れや不安、絶望感に近い。
しかし、近くに泊まれる小屋もなく、キャンプ装備もろくに持たないならば、もう引き返すことができないのならば、ともかくその山に向かって歩を進めねばならない。
困難に思える山でも、麓から見た山と登ってから見える景色は違うはずだ。きっとその先に新たな光景、出会う人もいるかもしれない。
立ち止まっていても日が暮れていくだけならば、ともかくその山に向かって歩き続け越えていくしかない。
そう、父には申し訳ないが、父という荷物は我の肩から下りて我はその分身軽になったはずだ。
母と父のことは、思い出の中に留めて、高く聳え立つ大きな山であろうと足取り軽く一歩一歩ともかく進んでいこう。その先にまたさらに山並みが連なっていようとも。先のことはもう考えない。今はそれしかできることはないではないか。
まだここで我もうっかり死んではならない。そう、全てここから始まる、始めなくてはならないのだ。
冷たい雨が断続的に降り続いている。どうしたことかおまけに寒い。
このところしばらく雨が降らず、だいぶ野外の草木は乾いて水を求めていたから、久しぶりの本降りの雨は良いことなのだが、どうしたことか気温は低く、12月の陽気だとのこと。
父の死に追い打ちをかけるかのように、お世話になった師、有馬さんの訃報が届き、この数日本当に苦しかった。特に明け方、まだ暗いうちの午前4時頃に起きてしまうと、まさに暗澹たる気分に囚われた。
亡き人たちに対する哀しみや何ひとつ彼らにできなかったことへの悔いもあるけれど、それ以上にこれから先行きのこと、こんな自分が一人で生きていかねねばならぬこと、その不安と怖れでパニック障害気味となっていた。
そう、何が辛いかというと、この明け方、窓の外はまだ暗い時間帯に目覚めるのが本当に辛く苦しい。それからなかなかすぐに寝なおせないのだ。
父が生きていた頃からの習慣で、彼のオムツ交換のために必ず朝方一度起きていたのだが、それが今も習い性となって続いていて、何時に床に就いたとしても必ず4時過ぎか5時頃にはトイレ起床もあって一度は目が覚めてしまう。
そしてそれからが眠れないのが辛く苦しい。以前、夏場は夜が明けるのも早いから、それで起床し散歩したり一仕事できたが、今はまだ外は真っ暗闇で、世界の底でたった一人で取り残された気分になる。
そしてあれこれつい先のこと、まだまだやらねばならぬことを考えてしまい大きな不安と怖れに囚われ悶々となる。
それは、山を歩く人が疲れ果てて来たのに、これからまだ登らねばならぬ山塊を仰ぎ見たときに感ずる怖れや不安、絶望感に近い。
しかし、近くに泊まれる小屋もなく、キャンプ装備もろくに持たないならば、もう引き返すことができないのならば、ともかくその山に向かって歩を進めねばならない。
困難に思える山でも、麓から見た山と登ってから見える景色は違うはずだ。きっとその先に新たな光景、出会う人もいるかもしれない。
立ち止まっていても日が暮れていくだけならば、ともかくその山に向かって歩き続け越えていくしかない。
そう、父には申し訳ないが、父という荷物は我の肩から下りて我はその分身軽になったはずだ。
母と父のことは、思い出の中に留めて、高く聳え立つ大きな山であろうと足取り軽く一歩一歩ともかく進んでいこう。その先にまたさらに山並みが連なっていようとも。先のことはもう考えない。今はそれしかできることはないではないか。
まだここで我もうっかり死んではならない。そう、全てここから始まる、始めなくてはならないのだ。
二人の「父」を相継いで喪って ― 2022年10月05日 03時38分43秒
★もうこれ以上、大きな死や哀しい別れが起きないよう祈る
京都の孤高の詩人、有馬敲氏の訃報が届いたことは記したが、実際の死亡日は、先月の25日であったとのことだ。
我が父が死んだ直後に、彼もまた逝っていたのである。あろうことか、個人的なことだが奇しき偶然である。
我は、二人の父、つまり生み育ての親である実父と、我が私淑し師と仰いだ、フォークソングの父を相次いで喪ってしまったのである。
お二人とも高齢であったのだから、それはいつ来てもちっともおかしくないわけで、常に覚悟してその時に備え、悔いのないようできる限りのことはしておけば良かったのだが、けっきょく何一つ我はその恩に報いることはできなかった。
自分は、本当に無能で、何一つきちんとしたこと、当たり前のことはできやしないのだと、このところ今更ながら痛感しその認識を新たにしているのだが、有馬さんの死はそれにまた追い打ちをかけて自責している。
が、悔やみはしても悩んだって、我の愚かさは変わらないし、もう一度時間が戻せても、いや、死も何もかもが先延ばしにできたとしても、我のことだから結果として何も変わらないだろう。
それほど根源的に我は万事ダメで、愚図なのである。それが自分という人間なのだ。ならば仕方ないではないか。
頭が悪く性格がおかしいということが、元々の身体的なものなのば、背の高さとか足の大きさと同様に今さら変えることは不可能なのである。だから何度でもバカなこと、失態失敗を繰り返す。
しかし、我の二人の父は、そんな「息子」を呆れ果てたとしても見捨てず、辛抱強く見守り哀れみと共に常に慈しんでくれたのである。
その恩ある偉大な父たちがいなくなり、我はどうやっていきてけば良いのだろうか。今、その不在の大きさに気づき、愕然としている。
ウチには、我が父がいて、京都には有馬さんがいる、それが我を常に支えていたのだと、いまやっと気がついた。
これからいったい一人になってどうしたら良いのだろうと大きな不安を思うが、まだ我に人生が残っているとしたら、こう考える。
薫陶を受ける、という言葉がある。我は彼らから多くの「薫陶」を授かった。知識も生き方も、経験、才能才覚的なものさえも。
ならば、我のウチにある、彼らから頂いた「善きもの」を、つまりその薫陶や知識を、拙くとも後の者たちに伝え残していくべきではないか、と。
けっきょく、いつの時代でも人が死者たちに真にできることは、彼らの真の遺産、つまり彼らが生きた証、知識や経験、そして思いを継ぐこと、であり、死者の思いも含め遺したモノを後世に伝えていくことだけではなかろうか。
それが亡き人たちの恩に報いる唯一のことだと思える。
それは大変な作業のように思えるが、まずは我も彼らのように、倣ってしっかり生きていけばよいだけのことだ。二人の父は、死んでしまい、この世にはもういない。が、彼らの思いと記憶は我のウチに生きて、褪せることは決してない。それを書き語り伝えていく。
さらにこうも気づく。我にはもう一方、父は今も在る。その天の父は、これからも我を決して見捨てず、どんな時でも、我の死のときも常に傍らにいてくれ哀れみと救いを与えてくれることだろう。
さあ、涙を拭いて、新しい朝を迎えよう。願わくば今年はもうこれ以上、新たな死や哀しい別れが続きませんように、と。
京都の孤高の詩人、有馬敲氏の訃報が届いたことは記したが、実際の死亡日は、先月の25日であったとのことだ。
我が父が死んだ直後に、彼もまた逝っていたのである。あろうことか、個人的なことだが奇しき偶然である。
我は、二人の父、つまり生み育ての親である実父と、我が私淑し師と仰いだ、フォークソングの父を相次いで喪ってしまったのである。
お二人とも高齢であったのだから、それはいつ来てもちっともおかしくないわけで、常に覚悟してその時に備え、悔いのないようできる限りのことはしておけば良かったのだが、けっきょく何一つ我はその恩に報いることはできなかった。
自分は、本当に無能で、何一つきちんとしたこと、当たり前のことはできやしないのだと、このところ今更ながら痛感しその認識を新たにしているのだが、有馬さんの死はそれにまた追い打ちをかけて自責している。
が、悔やみはしても悩んだって、我の愚かさは変わらないし、もう一度時間が戻せても、いや、死も何もかもが先延ばしにできたとしても、我のことだから結果として何も変わらないだろう。
それほど根源的に我は万事ダメで、愚図なのである。それが自分という人間なのだ。ならば仕方ないではないか。
頭が悪く性格がおかしいということが、元々の身体的なものなのば、背の高さとか足の大きさと同様に今さら変えることは不可能なのである。だから何度でもバカなこと、失態失敗を繰り返す。
しかし、我の二人の父は、そんな「息子」を呆れ果てたとしても見捨てず、辛抱強く見守り哀れみと共に常に慈しんでくれたのである。
その恩ある偉大な父たちがいなくなり、我はどうやっていきてけば良いのだろうか。今、その不在の大きさに気づき、愕然としている。
ウチには、我が父がいて、京都には有馬さんがいる、それが我を常に支えていたのだと、いまやっと気がついた。
これからいったい一人になってどうしたら良いのだろうと大きな不安を思うが、まだ我に人生が残っているとしたら、こう考える。
薫陶を受ける、という言葉がある。我は彼らから多くの「薫陶」を授かった。知識も生き方も、経験、才能才覚的なものさえも。
ならば、我のウチにある、彼らから頂いた「善きもの」を、つまりその薫陶や知識を、拙くとも後の者たちに伝え残していくべきではないか、と。
けっきょく、いつの時代でも人が死者たちに真にできることは、彼らの真の遺産、つまり彼らが生きた証、知識や経験、そして思いを継ぐこと、であり、死者の思いも含め遺したモノを後世に伝えていくことだけではなかろうか。
それが亡き人たちの恩に報いる唯一のことだと思える。
それは大変な作業のように思えるが、まずは我も彼らのように、倣ってしっかり生きていけばよいだけのことだ。二人の父は、死んでしまい、この世にはもういない。が、彼らの思いと記憶は我のウチに生きて、褪せることは決してない。それを書き語り伝えていく。
さらにこうも気づく。我にはもう一方、父は今も在る。その天の父は、これからも我を決して見捨てず、どんな時でも、我の死のときも常に傍らにいてくれ哀れみと救いを与えてくれることだろう。
さあ、涙を拭いて、新しい朝を迎えよう。願わくば今年はもうこれ以上、新たな死や哀しい別れが続きませんように、と。
死者は、生者を煩わすことなかれ、ならば。 ― 2022年09月29日 06時22分56秒
★安倍「国葬」とは、政治利用とすべてを不問、礼賛するためのもの
巷間、誰であれ死去の報が流れる折など、上記の言葉が口の端に上がることが多い。
が、元々の出典とされるものは、やや異なり、「生者は死者の為に煩わさるべからず」とあり、その前だか後に「葬式無用、弔問供物固辞する事」と続く。
これは画家、梅原龍三郎が生前から認めていた遺書にあった言葉だそうで、死んでいく当人として、まだ生きている他者に対して、できるだけその手を煩わせたくないという気遣い、心遣いだと言えよう。
そう、死者は生者をあれこれ煩わせ、面倒かけてはならないのである。
が、先日、父を看取り送った者として思うのは、ほんとうの死者は、さほど生者を煩わすことはない、ということだ。
煩わすのは、まだ生きているが、近く間もなく死にゆく者、死に臨む人たち、つまり老人や病人であり、我は、父がコロナで発熱、入院してから死までの約二か月間、ほんとうに日々昼夜気が気でなく、まさに心身煩わさせられた。
いつ病院から急な電話連絡があるかと、音楽もかけられずギターも弾けず、テレビの音も小さくして、いつ携帯が鳴るかと日夜耳を澄ましていた。
いま、骨壺に収まった、かつて大男だった我が父は、もう何も言わないしどこへも行くことはない。ただ静かに畳の上に鎮座している。
まだまだ諸機関への手続きや親戚方などへの連絡など多々早くやらねばならぬことは山積しているが、ウチのお寺の墓所に納骨の日も決まったので、ともかくそれが終われば、もう何一つ我を煩わすことはない。
楽で有難いと思うが、生きて家にいたときは長年我を煩わせた人が、もはや死んでしまい一切我を煩わすことがなくなってしまったことは、またそれは深い哀しみの元と言えなくもない。
父が普段使っていた、杖や帽子、施設に行くときの、まだ一式着替えやパジャマなど衣類が詰まったバックなど目にすると、これをすぐさまきちんと処分することは今はまだとてもできないと思う。
人は生きて、他者を煩わしてこそ生きていた証であり、死者が我らを煩わすのは、最後の葬送のときぐらいしかない。
つまり、葬式とは、死んでいった人が、生者だった証として他者を煩わす最期の機会であり、生者は、その儀式としての集まりにおいて、自らの生と向き合い確認できるのだから、それもまた無駄、無意味だとは今は思えない。
我も梅原画伯のように、一切無用、と思うときもあるが、葬送の儀式と会葬は、死者当人のため以前に実は残された生者のためのものだから、やはり、煩わせてもよいのではないか。
死にゆく者が、死者は生者を煩わすべからず、と遺訓を残すのは、建前としてカッコいい気がするが、実際のところ、その当人はもうこの世にいないのならば、後のことは、生者たちの好き好きに任せて一切構わないと思える。画伯のように一方的に拒絶するのはいかがなものかという気がしている。
明治だか大正の、あるいは戦前の作家の誰だったか忘れたが、死後、クリスチャンだったことがわかり、訃報を知り集まった彼の仲間たちは、そのキリスト教式の葬儀に馴染めず大いに不満を持ち、その遺体をどこそこに運んで、皆でその亡き友人の棺桶を囲んで痛飲したという故事を読んだ記憶がある。
そう、それでいいのである。死とは、当人の個人的なものだが、家族親族、友人たちにとっては、公的なものに近く、ならば最後の別れとしてとことん煩わさせてもちっとも構わない。
それにしても安倍晋三前首相の「国葬」は酷かった。自らのお友達を優遇し彼の政治に反対する我らを敵として切捨て、長期政権ゆえ驕り高ぶり、恫喝と忖度とで我が世の春を謳歌してきた者が、どうして我ら国民の税金で賄う「国葬」に値するのであろうか。
そうした手続きも一切国会に諮ることなく、岸田現政権はまたも自民党のお家芸である、同じ「丁寧な説明」を何度でも繰り返していく、として仲間内で決定して強行してしまった。
ふつうは、死者は生者をもう煩わすことは少ない。が、さすがに国民を金持ちと貧困層、弱者と強者に分断してきた安倍晋三は、死後もまた我らの国を分断してとことん煩わせてしまったのだ。
そう、安倍晋三にこそ言いたい。死者は生者を煩わすべからず、と。
巷間、誰であれ死去の報が流れる折など、上記の言葉が口の端に上がることが多い。
が、元々の出典とされるものは、やや異なり、「生者は死者の為に煩わさるべからず」とあり、その前だか後に「葬式無用、弔問供物固辞する事」と続く。
これは画家、梅原龍三郎が生前から認めていた遺書にあった言葉だそうで、死んでいく当人として、まだ生きている他者に対して、できるだけその手を煩わせたくないという気遣い、心遣いだと言えよう。
そう、死者は生者をあれこれ煩わせ、面倒かけてはならないのである。
が、先日、父を看取り送った者として思うのは、ほんとうの死者は、さほど生者を煩わすことはない、ということだ。
煩わすのは、まだ生きているが、近く間もなく死にゆく者、死に臨む人たち、つまり老人や病人であり、我は、父がコロナで発熱、入院してから死までの約二か月間、ほんとうに日々昼夜気が気でなく、まさに心身煩わさせられた。
いつ病院から急な電話連絡があるかと、音楽もかけられずギターも弾けず、テレビの音も小さくして、いつ携帯が鳴るかと日夜耳を澄ましていた。
いま、骨壺に収まった、かつて大男だった我が父は、もう何も言わないしどこへも行くことはない。ただ静かに畳の上に鎮座している。
まだまだ諸機関への手続きや親戚方などへの連絡など多々早くやらねばならぬことは山積しているが、ウチのお寺の墓所に納骨の日も決まったので、ともかくそれが終われば、もう何一つ我を煩わすことはない。
楽で有難いと思うが、生きて家にいたときは長年我を煩わせた人が、もはや死んでしまい一切我を煩わすことがなくなってしまったことは、またそれは深い哀しみの元と言えなくもない。
父が普段使っていた、杖や帽子、施設に行くときの、まだ一式着替えやパジャマなど衣類が詰まったバックなど目にすると、これをすぐさまきちんと処分することは今はまだとてもできないと思う。
人は生きて、他者を煩わしてこそ生きていた証であり、死者が我らを煩わすのは、最後の葬送のときぐらいしかない。
つまり、葬式とは、死んでいった人が、生者だった証として他者を煩わす最期の機会であり、生者は、その儀式としての集まりにおいて、自らの生と向き合い確認できるのだから、それもまた無駄、無意味だとは今は思えない。
我も梅原画伯のように、一切無用、と思うときもあるが、葬送の儀式と会葬は、死者当人のため以前に実は残された生者のためのものだから、やはり、煩わせてもよいのではないか。
死にゆく者が、死者は生者を煩わすべからず、と遺訓を残すのは、建前としてカッコいい気がするが、実際のところ、その当人はもうこの世にいないのならば、後のことは、生者たちの好き好きに任せて一切構わないと思える。画伯のように一方的に拒絶するのはいかがなものかという気がしている。
明治だか大正の、あるいは戦前の作家の誰だったか忘れたが、死後、クリスチャンだったことがわかり、訃報を知り集まった彼の仲間たちは、そのキリスト教式の葬儀に馴染めず大いに不満を持ち、その遺体をどこそこに運んで、皆でその亡き友人の棺桶を囲んで痛飲したという故事を読んだ記憶がある。
そう、それでいいのである。死とは、当人の個人的なものだが、家族親族、友人たちにとっては、公的なものに近く、ならば最後の別れとしてとことん煩わさせてもちっとも構わない。
それにしても安倍晋三前首相の「国葬」は酷かった。自らのお友達を優遇し彼の政治に反対する我らを敵として切捨て、長期政権ゆえ驕り高ぶり、恫喝と忖度とで我が世の春を謳歌してきた者が、どうして我ら国民の税金で賄う「国葬」に値するのであろうか。
そうした手続きも一切国会に諮ることなく、岸田現政権はまたも自民党のお家芸である、同じ「丁寧な説明」を何度でも繰り返していく、として仲間内で決定して強行してしまった。
ふつうは、死者は生者をもう煩わすことは少ない。が、さすがに国民を金持ちと貧困層、弱者と強者に分断してきた安倍晋三は、死後もまた我らの国を分断してとことん煩わせてしまったのだ。
そう、安倍晋三にこそ言いたい。死者は生者を煩わすべからず、と。
最近のコメント