寛容さを欠いた時代に詩人やうた唄いができること。2013年09月25日 03時52分55秒

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 また台風が来ている。外は音をたてて雨が降り出しその音で早く目が覚めた。
 この週末前、金曜頃にまた山梨へ行って、倉庫の荷物など少しでも移動のため向こうに運び込もうと考えていたが、右腕が使えないのと天気も回復していないようなので断念した。危険回避というか、ここで無理すると怪我が治らないどころか悪化する。いくらバカでもそのぐらいの知恵はある。
 なので、来週末の無頼庵でのライブと今後に向けてうたや詩について書いていく。

 汝の隣人を愛せよ、とはナザレトのイエスの言葉だが、今その隣人との間でこれまでにないほど双方で嫌悪と憎悪が高まっている。それは隣国=日韓、日中の関係を言っている。
 それをナショナリズム、愛国主義というべきか疑問に思うのだが、ネット上のニュース、特に産経新聞系配信では連日、韓国社会や韓国人がいかに異常でヒドイか報じる記事が必ず載っているし、中国人とその社会もいかにだらしないか腐敗しているか危険かという記事もやたら目がつく。人は無意識的でもトップページにそうした見出しがあればそのように近隣国に反感、嫌悪感を抱いていく。

 新宿歌舞伎町周辺では、韓国人排斥を叫ぶデモ行進、示威行為、ヘイトスピーチも起きている。また、それは向こうの国でも同様らしく、先日は、酔っ払ってつい日帝侵略時代を回顧し日本を肯定した発言を口にした老人男性を若者が憤り殴り殺してしまうという事件が起きたと報じられていた。しかも向こうの世論ではその若者を擁護する意見が多数あるのだという。
 こうした日韓、日中隣国間双方での反感の高まり、嫌悪度は過去最高に高まっているともう一つの隣国、ロシアが報じていたことも記憶に新しい。

 そこに日本海に浮かぶ島々の領土問題が原因にあることは言うまでもない。また過去の侵略戦争責任に目を向けないどころか口を閉ざしてしまった現自民党政権に対する不安と不満もあるのだろう。また、そのどの国の政府も体制側へ国内の不満が向かうのを巧みに隣国へと教育やマスコミという情報操作で誘導してきたことの結果でもあると自分は考える。内なる不満の吐け口として隣人はいる。

 今、その原因と解決策にはふれない。むろんのこと隣国と互いに仲良く付き合っていくことはいちばん肝心かつ当然であることは双方の国民が理解はしていると思う。
 韓国も中国も民族は異なってもほぼ同様の文化を持ち日本は古くから半島や大陸とは長く深い付き合いがあった。現在の国家は違えど民族的には兄弟関係にあると遺伝子的にも証明されているはずだ。まさに互恵的関係にあるといって良い。

 それがどうしてこうも憎み合う関係になってしまったのか。いちばん気になることは、内外問わず今の人たちは「寛容さ」を欠いてしまっていることだ。国家、民族や思想が異なれば、それは「敵」なのであろうか。ガイコクジンは日本から出ていけ!と叫ぶ人たちの心情はどこに根ざしているのか。自分と考えや意見が異なるだけで老人を殴り殺す若者の心情はいかなるものか。何故に、もっと寛容に、赦せないのであろうか。

 非寛容の時代に、寛容であれと説くことは難しい。もっと冷静になれ、汝の隣人を愛せよなどと言っても、下手すればこちらさえも攻撃されてしまう。でもだからこそ、文学や芸術、うたや詩が意味や力を持つのではないか。直截行動ではないスタイルこそ「寛容」を表すと自分は考える。

 そのうたや言葉がすぐに届くかはともかくも、非寛容さに対してさえも、寛容であり続けることこそが大事なことなのだと信ずる。非寛容さに対して非寛容で臨めば、行きつく先は殺し合いだけだろう。

 言葉が足らないようだ。もう少しこのことは書いていきたい。