様々な溝や深い河を越えて ― 2014年04月17日 12時57分52秒
★人はそれぞれ違う。だからこそ「狭間」を埋める努力をしていかねば アクセスランキング: 149位
先日のこと、所要で(シバの陶芸グループ展)隣町八王子に久々に行ってきた。行き帰りの電車の中で考えたことなどを記す。
ご存知のように八王子は長い歴史ある旧い大きな町で、戦前からの建物や蔵造りの旧家などもありなかなか趣がある。古いもの好きの自分は気になる、好きな町だ。
が、ウチの隣町なのになかなか行くことがない。数年ぶりかと思う。東の立川や国立、逆に西の福生、青梅、それに秋川、五日市方面は月に何度も車で走っている。福生や立川からは歩いても帰る。では隣の町なのに何故に南側の八王子や日野方面になかなか行かないかというと、間に多摩川と低い山、丘陵があり、限られた橋と道を利用するしかなく簡単に行けないからなのだ。また、橋を渡っても駅前の繁華街まではかなり距離があり歩きでは遠すぎる。他の地域ならばテクテク歩いていればすぐ隣町に入ってしまうが川や山のおかげで八王子側へは気軽に行けないのである。
才人桜井順氏作の今も歌われる名曲「黒の舟歌」では♪男の女の間には暗くて深い河がある~とされているが、現実の話でも地域というのは川や山、もしくは線路などで寸断されてすぐそこ、隣に存在しているのになかなか簡単に行けない場所がままあることに気づく。
ウチから八王子に行くためにはそんなわけで、まずいったん青梅線で立川に出て中央線で下るかあるいは拝島から八高線で行くしかない。いずれにせよ地図上では隣接する町なのにかなり所要時間がかかる。面倒というか不便でならない。よってなかなか足が向かない。たぶん川さえなければ隣なのだから子供の頃より自転車で気軽に遊びに行っていたと思う。残念なことだ。
しかしこうした溝や川、あるいは海、そして急峻な山々は地形的にその地域を他と遮断することになり他とは異なる文化や特色を形成している。大陸などでは一山越えれば言葉も人種も宗教すら異なるという地域が隣接しているのである。つまりそのなかなか渡れぬ深い大きな河や越せぬ山があるからこそその地域、ときに国の独自性は形成され保たれている。それがなければ人的交流は簡単で良いことだと考えられなくもないが果たしてどうであろうか。
日本は四海を海で閉ざされた島国でしかも四季があり山海の豊かな資源がとれたから数百年もの間鎖国しても人民は飢えずに安穏と生きていけた。朝鮮半島やバルカン半島の国家のように、大国、強国の「通り道」となってしまうような位置にあるところに住む人々は常に隣町から誰が来るかわからない恐怖があるかと想像する。逆に来た人を拒まず受け入れていくしかない。
話は変わる。最近よく思うのは、男と女の間には深い河があるのは当然として、男と男、女と女、親と子の間にも同様に深い河や溝があるということだ。類は友を呼ぶという諺に示されるように、趣味や世代、環境が近しい人たちは「友」として確かに関係は結びやすい。しかし、どれほど親しくなってもやはり根本のところは他人の関係でしかなく、互いに分かり合えないという「溝」は存在している。それは例え好き合って夫婦になったとしても変わらないのではないか。いちばん肝心なことや大事なことが伝わらない、わかってもらえないと嘆いたり怒ったりしている夫婦がたくさんいるはずだ。
昔から子どもは大人をわかってくれないと怒り、大人は子どもは言うことをきかない、理解できないと嘆く。親子と言えども何でも話せてわかりあえ仲睦まじい関係の家庭がどれほどあるのか。昨今のオレオレ詐欺大流行を思うとき、自分の息子の声さえも親はわからないのかと呆れ果てるが、核家族化が進めば親子の間でも深い河はさらに広がっていくのであろう。
大事なことはそうした人と人との溝、河は河として確かに存在することを認めたうえで、そこに橋をかけていくこと、あるいは舟を出して渡ろうとする努力をしていくことではないのか。異なる人種がこの国にいて暮らしているとして、当然そこには考え方から生活様式まで全てに溝や大きな河はあろう。しかしそこだけを取り上げて、ヘイトスピーチで、日本は日本人だけの国、お前らは日本から出ていけ!と騒ぎ立てるのはまさに島国根性でしかない。だいいち政府自民党でさえ少子高齢化の日本は労働力として外国人を多数入受け入れていくしかないと決めているのだ。
他国の間の海に橋をかけることは簡単ではない。しかし舟を出すことはさほど面倒ではないはずだ。手漕ぎの小さな舟でも互いに舟を出して漕ぎたせばやがてはその国にたどり着く。その国が近くなる。分かり合えていく。
国と国、人と人、地域と地域もまたそうして間にある溝や河を認めたうえで渡っていく努力をしていくしかないではないか。
そう、まず人は日本人同士であろうとも人としてそれぞれ違う。だからこそ「狭間」を埋める努力をしていかねば諍いと抗いしか生まれない。溝や河は埋められなく違っていて当然だとしてもその溝や河を人は渡っていかねばならないのだ。
21世紀を生きる、地球人として共生するということはそういうことではないか。
先日のこと、所要で(シバの陶芸グループ展)隣町八王子に久々に行ってきた。行き帰りの電車の中で考えたことなどを記す。
ご存知のように八王子は長い歴史ある旧い大きな町で、戦前からの建物や蔵造りの旧家などもありなかなか趣がある。古いもの好きの自分は気になる、好きな町だ。
が、ウチの隣町なのになかなか行くことがない。数年ぶりかと思う。東の立川や国立、逆に西の福生、青梅、それに秋川、五日市方面は月に何度も車で走っている。福生や立川からは歩いても帰る。では隣の町なのに何故に南側の八王子や日野方面になかなか行かないかというと、間に多摩川と低い山、丘陵があり、限られた橋と道を利用するしかなく簡単に行けないからなのだ。また、橋を渡っても駅前の繁華街まではかなり距離があり歩きでは遠すぎる。他の地域ならばテクテク歩いていればすぐ隣町に入ってしまうが川や山のおかげで八王子側へは気軽に行けないのである。
才人桜井順氏作の今も歌われる名曲「黒の舟歌」では♪男の女の間には暗くて深い河がある~とされているが、現実の話でも地域というのは川や山、もしくは線路などで寸断されてすぐそこ、隣に存在しているのになかなか簡単に行けない場所がままあることに気づく。
ウチから八王子に行くためにはそんなわけで、まずいったん青梅線で立川に出て中央線で下るかあるいは拝島から八高線で行くしかない。いずれにせよ地図上では隣接する町なのにかなり所要時間がかかる。面倒というか不便でならない。よってなかなか足が向かない。たぶん川さえなければ隣なのだから子供の頃より自転車で気軽に遊びに行っていたと思う。残念なことだ。
しかしこうした溝や川、あるいは海、そして急峻な山々は地形的にその地域を他と遮断することになり他とは異なる文化や特色を形成している。大陸などでは一山越えれば言葉も人種も宗教すら異なるという地域が隣接しているのである。つまりそのなかなか渡れぬ深い大きな河や越せぬ山があるからこそその地域、ときに国の独自性は形成され保たれている。それがなければ人的交流は簡単で良いことだと考えられなくもないが果たしてどうであろうか。
日本は四海を海で閉ざされた島国でしかも四季があり山海の豊かな資源がとれたから数百年もの間鎖国しても人民は飢えずに安穏と生きていけた。朝鮮半島やバルカン半島の国家のように、大国、強国の「通り道」となってしまうような位置にあるところに住む人々は常に隣町から誰が来るかわからない恐怖があるかと想像する。逆に来た人を拒まず受け入れていくしかない。
話は変わる。最近よく思うのは、男と女の間には深い河があるのは当然として、男と男、女と女、親と子の間にも同様に深い河や溝があるということだ。類は友を呼ぶという諺に示されるように、趣味や世代、環境が近しい人たちは「友」として確かに関係は結びやすい。しかし、どれほど親しくなってもやはり根本のところは他人の関係でしかなく、互いに分かり合えないという「溝」は存在している。それは例え好き合って夫婦になったとしても変わらないのではないか。いちばん肝心なことや大事なことが伝わらない、わかってもらえないと嘆いたり怒ったりしている夫婦がたくさんいるはずだ。
昔から子どもは大人をわかってくれないと怒り、大人は子どもは言うことをきかない、理解できないと嘆く。親子と言えども何でも話せてわかりあえ仲睦まじい関係の家庭がどれほどあるのか。昨今のオレオレ詐欺大流行を思うとき、自分の息子の声さえも親はわからないのかと呆れ果てるが、核家族化が進めば親子の間でも深い河はさらに広がっていくのであろう。
大事なことはそうした人と人との溝、河は河として確かに存在することを認めたうえで、そこに橋をかけていくこと、あるいは舟を出して渡ろうとする努力をしていくことではないのか。異なる人種がこの国にいて暮らしているとして、当然そこには考え方から生活様式まで全てに溝や大きな河はあろう。しかしそこだけを取り上げて、ヘイトスピーチで、日本は日本人だけの国、お前らは日本から出ていけ!と騒ぎ立てるのはまさに島国根性でしかない。だいいち政府自民党でさえ少子高齢化の日本は労働力として外国人を多数入受け入れていくしかないと決めているのだ。
他国の間の海に橋をかけることは簡単ではない。しかし舟を出すことはさほど面倒ではないはずだ。手漕ぎの小さな舟でも互いに舟を出して漕ぎたせばやがてはその国にたどり着く。その国が近くなる。分かり合えていく。
国と国、人と人、地域と地域もまたそうして間にある溝や河を認めたうえで渡っていく努力をしていくしかないではないか。
そう、まず人は日本人同士であろうとも人としてそれぞれ違う。だからこそ「狭間」を埋める努力をしていかねば諍いと抗いしか生まれない。溝や河は埋められなく違っていて当然だとしてもその溝や河を人は渡っていかねばならないのだ。
21世紀を生きる、地球人として共生するということはそういうことではないか。
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