「天才」考2014年04月19日 01時02分50秒

★人は皆それぞれが「天才」なのだ。     アクセスランキング: 123位

 今これを記すは19日の午前1時過ぎ。日付は変わってしまったが、立川から五日市線の最終電車で帰ってきた。うっかりして今日18日の分のブログ書き損ねてしまったことになる。

 さこ大介大兄のソロライブが西荻のみ亭であり、今後の打ち合わせや受け渡しもあってそれに出向いてきた。そしてかなり呑んだ。と言っても焼酎のお湯割り四杯で、自分としてはかなり許容限界で、このまま寝たらたぶん吐くかと思う。昔なら酔う量ではないが、今の自分にはもうマキシマムなのだ。
 
 以前も書いたが、自分は基本もう酒はやめた。家では一人で呑むことはないしもう自ら呑む気はないし酒なんかなくても全く困らない。ただ、この世は付き合いというものもあり、相手や周りが呑んでいるのに一人だけ依怙地に呑まないわけにはいかない。体質的な方は別としてそれこそ失礼であろう。そんなわけでこのところは付き合いとしてはほどほどに呑むようにしている。※客が帰った後、さこさんと店のマスターやつちゃんと三人でしみじみ酔いながら良い話ができた。

 そして今日は無理しても呑んだ。というのも敬愛するさこさんのライブであり残念なことにお客が少なく、しかもそこ「のみ亭」は良心的でチャージは全部出演者にまるごと渡してくれるので、不入りだと店自体の儲け分が今日は少ない。で、だからこそ、店の気持ちになってつい無理して呑んだ。バカだと嗤われると思う。でも、商売をやっている者として、つい店の経営を思い、客が入っていないときは無理しても金使おうといつも思う。そう心がけている。義侠心のようなものかはわからない。ただ、どのような形でも自分が少しでも関わってお客が少なければやはりこちらが、つまり自分は店に金を少しでも多く落とすしかないではないか。

 さておき、そんな馬鹿話はともかく、今日のライブも素晴らしいものであった。さこ大介という「天才」と知り合って彼と関係が持てた幸運と栄光を改めてかみしめた。本当にこの人は天才だと改めて思い直した。

 最近また再評価されているTBSの名物アナウンサー故林美雄は、無名時代の荒井由実をスタジオに招き唄ってもらったところ、感極まって思わず「この人は天才ですっ!」と放送中に叫んだと伝えられているが、人は生涯にそうした天才とどれだけ出会えるのだろうか。さこさんはユーミンに匹敵する、いや彼自らの「うた」も含めれば今や彼女を超えた才能の持ち主だと自分は考えている。

 ただ、天才にも種類と段階のようなものがあって、さこさんを見ているとモーツアルトに出会ったサリエリのような気持ちに自分はいつも少なからずなる。自分が百人かかっても彼には及ばないと情けなくもなる。が、当人はむろんモーツアルト型天才だと思ってもいないだろう。彼の場合、天賦の才があり、それを地道なサラリーマン生活の傍ら、日曜音楽家として磨き続け、そうして生み出された楽曲が憂歌団や原田芳雄や多くの異能ミュージシャンたちに注目され高く評価され世に名が知られるようになった。ある意味荒井由実とはまったく逆の長く回り道をした音楽人生であった。だから「還暦デビュー」と話題になったが、じっさいのところ天才アマチュアシンガーソングライターとして音楽業界では昔から名の知れた逸材であったのだ。

 その彼が退職後、今や完全に解き放たれて自らギターを抱えてシンガーとして精力的に音楽活動に専念している。知り合ってもう10年近く経つのではないか。いや、実はそんなにならないはずだが近年は他の歌い手の誰よりも個人的にも親しく付き合いほぼ毎月会い傾聴する関係となっている。きっかけはこれももう一人の大介、岡さん経由だったのかと思う。人づくり、人たらしの天才、岡大介からは多くの素晴らしいミュージシャンを紹介された。その中でももっとも音楽的、人間的にも気が合い評価するのがさこ大介という天才シンガーソングライターだったのである。彼を知りえたことは僥倖以外のなにものでもない。

 しかしそんな天才の彼もモーツアルトのように何の苦労もなく音楽が自然に湧き出してくるわけではない。曲を生み出すまでに何年も悩み苦しみときに何日も寝ないで時間をかけてやっと「降りてくる」のだと言う。元々戦前からのジャズミュージシャンであった父親譲りの天賦の才があったとしてもつまり彼自身の克己と努力であの素晴らしい楽曲群が生まれたのであった。つまり誰かが言ったが、天才とは1%の才と99%の努力からできているとはまさに当たっているかもしれない。
 自分の周りには誰が上とか比べる意味はないが、「天才」がたくさんいる。先の岡大介、熊坂路得子、中川五郎、シバ・・・音楽のジャンルは異なるがどの方もまさに「天才的カリスマ」性を持っている。まさにワン&オンリーで比類ない。彼らと知り合いこんな我をも認知して頂いたことを有難く嬉しく思う。
 芸術をもっと広く目を転ずれば、鈴木翁二、有馬敲らそうそうたる天才たちがすぐに思い浮かぶ。そうした天才たちと知り合えたなんて自分は本当に幸運な幸せ者であろうか。しかし考えてみれば彼らもまたそれぞれが努力克己の人であり、そう見えない方も人知れず日々彼らの芸術実現のために不断の努力と鍛練を続けているのだ。

 思うに、人にはそれぞれ誰にも最低一つは何か他者とは異なる、他者にない素晴らしい天才的才能があるのではないか。それが音楽とかダンスなら意外に簡単に外に知られて英才教育が与えられたりしてその道に進む人も多い。しかしそうした何かを持っていても周囲も当人すらも気づかずほったらかしにされてその「才」は開花することなく知られずに一生を終える人もまたその何倍も多いような気がする。
 事例として適切ではないが、山下清的天才は多々いる。つまり日常生活的才能にはかなり劣り偏りがあったとしてもある分野に関してはとてつもない才能が突出しているというタイプだ。知的障害や肉体的ハンディがあっても神は彼らに特別に異才異能を与えたいうような。
 また、周囲から早くから注目され期待もされていたのに当人が怠け者であったり他の欲望や外的条件に囚われてしまい結果としてその才をいかせず大成しなかったという「怠け者の天才」も多々いよう。
 こう書く自分もまた若い時はかなり様様なジャンルで多少は注目されたしそれなりに才はあったかと自分でも思うが、生来の怠け者と意志薄弱ゆえけっきょくその道に進めなかった。逆に自分が軽蔑して才能なんか皆無だとバカにしていた人が今もその道ではプロとして地道な活動を続けている。その人に才などなかったと今も思うが、やはり続けていけたということのみでもそれこそが才能であり、結果として天は彼の肩を押したのである。

 長く生きてきたので、そうした天才たちと怠け者の天才、つまり天才になり損ねた方々をたくさん見てきた。いまさら自分が天才になろうとかなりたい、なれるとは考えないが、願わくばまだ天才になり切れていない、本当は天才なのに大成していない天才の肩を押したいと思う。こんなに素晴らしい才能があるのにモッタイナイと思う人がたくさんいる。また埋もれて世に知られていない方も。まして当人も気がついていない原石のような天才すらも。

 オバサンでも誰もがアイドルになれると考えてはならないが、誰もがある一点のみにおいては天才になれると断言する。問題はその才が何であるか。それを見極め努力していくか、努力できるかだけだ。こういう自分にもそうした天才が潜んでいる。が、バカだからブログに時間とられてその才を磨けない。いや、あんたのブログは才能だよと言われたこともあるが、オレはこんなの才能だなんて思ってもいない。もとい、何の努力しなくても書けるのだから天才かもしれないが、こんな天才はイヤだと言っておく。
 オレが信じ頼む才はこんなものではない。漱石は子規を偲び、拙の足らなさを哀しみ嘆いたが、我は拙の多さに悩むところだ。