すべては、必要か不要かで動いていくが2015年06月09日 22時45分33秒

★利便性を追求すればきりがない。      アクセスランキング: 148位

 前回書いたことの続きである。
 文明社会が生まれて以来、様々な職業、商売が登場しては消えていったはずだろう。本屋とか古本屋という職種もそろそろ消えてなくなる運命にあるのだろうか。このところずっと考えている。

 そしてふと気づいた。商売とはつまるところ必要のあるところに生まれ、不要、つまり需要がなくなれば、消えざるえない。そのことは、商売に限らず道具だってモノの仲間だって全て同じであろう。

 昔は、川を渡るのに、橋がないところも多く、あちこちに「~の渡し」と名のつく渡し船の発着場があった。うたにもなった「矢切の渡し」のように。ウチの近くの多摩川にもその渡しのあった後が残っている。八王子の側に住む人は、電車、青梅線に乗るには、橋がない頃は渡し船でこちら側に渡ってこなくてはならなかったから。

 そこには小舟とそれを繰る船頭がいて、いくらかの賃料で向こう岸までその船に乗せて運んでくれた。今でも瀬戸内の島々の間には、小さな連絡船はあるだろうが、日本の川において、渡し船などはもうほとんどないはずだ。一部には観光名物として残っているのかもしれないけれど。
 ということは商売や職種として、渡し船と船頭はもう一人もいない。理由は、日本全国どこでも車も通れるコンクリートの立派な橋があちこちできたからで、橋ができれば、そこを通れば早く便利だし、多くの人がそちらを利用すれば渡し船という商売は利用者減で成り立たなくなる。

 このリクツを本屋や古本屋に当てはめて考えてみる。昔は情報やデータ、それに知識を世に広めるには紙に記して本や新聞、雑誌のようにして媒介するしか方法がなかった。手書きから、写本、そして印刷に移っても要は紙媒体であった。
 が、パソコンや携帯メディア、電子書籍が世に普及すれば、いちいち紙に印刷しなくてもモニター上で読むことができるしやりとりが広まる。となれば日々のニュースでも知りたい知識や情報でも、娯楽読みものにしろ紙媒体は必要なくなる。
 何かわからないことがあり、知りたい調べたいと思った時、昔は本にそれを求め、本屋や図書館に足を運ぶしかなかった。古本屋だって知の宝庫であった。

 が、今は人はまずネットで検索して、たいていのことは即時に調べることができ、ほぼ「わかる」ようになる。ネットで調べてどこまで真に理解できたかその情報が正しいかはさておき、それが普通となれば、本にそれを求めない。また、それに適した本自体が、電子書籍として販売されれば、本より安く入手でき場所もとらない。

 つまりインターネットが普及するにつれて、紙の本の必要性、需要は低くなっていく。繰り返しとなるが、紙媒体でしか手に入らない雑誌などはコンビニでほぼ買える。また、本屋へ足を運ばなくともAmazonなどからネットで注文もカンタンにできる。となると紙の本の需要もなくなり雑誌も売れないが故、本屋は商売としてやっていけなくなっていく。

 つまるところ商売とは何かを売るなり需要に応えて儲けることであり、その需要も減り、儲けがなくなっていけば成り立たなくなる。その意味で町の個人経営の新刊書店がいちばんやっていけなくなる。理由はアイテムを広く多種揃えて並べることもできないからだ。広い売り場に多種多彩な本や雑誌を網羅した大規模な書店ならば、本好きの人たちは群れ集い、本が出版される限りそれなりに経営は成り立つと思える。そこには必要性と利便性がある。
 結局、金の動くところには必要性と利便性がまずなくてはならないということが見えてくる。

 むろん小規模な個人経営的新刊及び古書店でも京都にあるような独自の品揃えに特化したユニークな何店かのように、やっていき方はある。通常のマスで出され広く流通することを旨とする本ではなく、逆にミニマムな、流通しにくいが良い本、付加価値高い本を揃える努力ができるかどうかでもある。

 この世は利便性である、と書いた。が、だからこそ利便性でないところのものに利便をはかればそこに商売としての価値も生じてくるのではないか。そしてそれは個人のセンスに負うところが大きく個人だからこそ趣味的にできるのだと言える。

 渡れなかった川に橋ができてしまえば渡し船の商売はできない。が、利便性から離れたところで、川原でも、いやどこであろうとも何を扱おうと個人のセンスを武器にして何かしら商売ができるような気がしている。