続・マス坊の人生相談 ― 2015年06月14日 09時43分11秒
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前回の続き。
我=マス坊は、人から相談されやすい体質なのか、若い時からいろんな人からあれこれ相談されることが多い。
偶然、長距離列車に向かい合わせとなった人から、「相談」話をされたこともあるし、先日も拙ブログ読者から、ご家族の病気のことで問い合わせ兼相談を受けた。一昨日も、かけこみ亭で初めて会い、呑みながら話も弾んだ方から、これからも話を聞いてください、と強く請われた。
むろん、相談を受けたからといって、モノゴトが解決したり、最良な結果に導くことなどできやしない。何しろ自慢ではないが、非力かつ無能な我は、金も力も知識も何一つ人に誇れるものはなく、我が人生さえも視界定まらず、いい歳して混沌糢糊としているのだから。本来相談すべき相手は人生の成功者か聖職者にであろう。
こんなダメ人間に相談しても何一つ解決するはずもなかろう。しかし、実は、人間というものは、悩みを抱えていても、その答え、=解決法は自らで既に出していてそれに自信が持てないでいることが多いのである。
自問自答して、果たしてそれが正しいのかわからない。だから悩みが大きくなり解決しない。迷う。出口がみつからなく苦しむ。
それを、誰でもいい。他者に言葉に出して、告白、相談する。話しているうちに、自らの考えが定まるという経験は誰にでもあるだろう。「相談」というのは、実際は、既に得ている答えを確認する作業なのだ。
むろんアドバイス程度のことはできる。しかし、その人の人生なのだから、他者は、その配偶者や家族・親族であっても基本的に何もしてあげられないのである。できることはせいぜい話をきくことだけ。
日本ではまず一般的習慣ではないが、欧米、特にアメリカでは、カウンセリングというのが広く誰にでも普及している。むろんある程度の収入あるWASPの倣いなのかもしれないが。
それは要するに、専門家のところに定期的に出向き、ただ話を聞いてもらうというだけだ。昔は医師が、かなり内面にも立ち入って、患者の感情や思考を繰るということがあったが、今日ではカウンセラー側は極力何もせず、ただ患者の話を聞くことに専念し、あまり意見を挟まない。
それでも、専門家にあからさまに悩みを話し、気持ちを吐き出したというだけで、患者の気分は軽くなり癒されていく。抱える悩みや問題があり、その解決法というのは、他者からの指示やアドバイスで得るよりも自らが気づきつかむべきだという考えである。存外それは正しいように思える。
ならば、こんな我でもそうして人の話をきくだけでも何かの役には立つのではないか。実際、人は他人の人生に何も関わることなどできない。関わりたくても基本何もできやしない。配偶者的関係までなれば、生活を共にすることで多少の荷は分かちあえるが。
しかし、家族となったとしてもやはり肉体は個別のものでしかないし、痛みや体調不良で苦しむパートナーを見ても代わることなどできやしない。まして、友人知人ならば、他者のために何一つしてあげられることなど元からない。
だが、思う。それはそれで仕方ないし、だからこそせめて会ったときは励まし、そばにいられる間は寄り添い話を聞いてあげれば良いのだと。
他人の愚痴など聞きたくないと誰もが思う。愚痴など人にこぼすべきでないという考え方も根強い。確かにそれはその通りだ。男も女もじっと黙って苦難に耐えろと。しかし、精神衛生上、そうしたストレスを溜め込んで良いことは何もない。心の奥底に抑え込めば泥水が作る錆のようにいつしか心を病んでいく。
すべてをあからさまに曝け出す必要はないが、せめて今抱えてる悩みや苦しいことを他者に「相談」はしても良いのではないか。そしてそれに耳を傾ける者がいても然るべきではないか。
妻や子がいれば、そうした悩みを相談できるかといえば、身内や肉親だからこそかえって話せないこともあるのではないか。逆に、何もできない関係の他人のほうが、利害関係がないぶんだけ話しやすいかとも思う。
欧米ならば教会がそうした役割を果たしたかもしれないが日本にはそうした個人が属するパブリックが存在しない。
世の中には、たぶん誰にも相談できず、悩みともいえない悩みを抱えて鬱々悶々としている人たちが多いのではないか。その先の出口が見えずに苛立ち焦る心を抱えて苦しんでいる人たちがいるはずだ。
その人たちを救えるとか、力になるなんて口が裂けても言えやしない。が、話を聞くぐらいはできるし、その行為によって、カウンセリングのように多少でも視界がひられるかもしれない。
基本何もできやしないし、何かできるなんて思ってはならない。しかし、今の時代を生きる同時代者として、縁あらばせめて話を聞くぐらいの関わりは持ちたいと思うし、もしそうした依頼があらば応じなければと思っている。そうした役割が自分に課せられているのならばの話だが。
2年前に死んだ友人タキグチ氏のことを今でも思い出す。心の病を若い時から抱えていた彼は、体調悪化する都度、ときには毎晩のように、電話をかけてきて苦しい胸の内「暗たんたる気分」と称して相談してくれた。
ただ単に彼の話を聞くことしかできやしなかったし、結局のところ死因も不明のまま彼は死んでしまったから今も自責するところは大きいが、それでも話して何時間後、電話を切る頃には、声も明るくなり気分も楽になったことが受話器から伝わってきていた。
今も彼の命を救う手立てはなかったかと自問するけれど、ともかくも彼の深夜の相談者になれたことは良かったと思える。その頃は、正直、またかとうんざりもしたこともあった。しかし、それもまた縁であって、彼のいない今、深夜の電話をただ懐かしくさえ思い出し、眠れぬ夜などそのベルを待っている自分に気づく。
人の話をきくというのは、実は聴く側も自らを語っている。そしてその双方の行為で互いに救われる余地がある。魂が歩み寄っているのだと思う。
というわけで、「人生相談」応じます。忙しい自分であるけれど、もし関わりをもとうとしてくれる方がいるのならば、悩みも含めてその方のお話をききたいと思う。金も力も知識も役立つものは何もない男だが、関わったからには真剣にお話を聞きたいと思う。
役立つどころか時間の無駄かもしれません。しかし、もしマス坊でも良ければ相談してください。たぶんそのことで我もまた救われることを期待しているのであろうか。
前回の続き。
我=マス坊は、人から相談されやすい体質なのか、若い時からいろんな人からあれこれ相談されることが多い。
偶然、長距離列車に向かい合わせとなった人から、「相談」話をされたこともあるし、先日も拙ブログ読者から、ご家族の病気のことで問い合わせ兼相談を受けた。一昨日も、かけこみ亭で初めて会い、呑みながら話も弾んだ方から、これからも話を聞いてください、と強く請われた。
むろん、相談を受けたからといって、モノゴトが解決したり、最良な結果に導くことなどできやしない。何しろ自慢ではないが、非力かつ無能な我は、金も力も知識も何一つ人に誇れるものはなく、我が人生さえも視界定まらず、いい歳して混沌糢糊としているのだから。本来相談すべき相手は人生の成功者か聖職者にであろう。
こんなダメ人間に相談しても何一つ解決するはずもなかろう。しかし、実は、人間というものは、悩みを抱えていても、その答え、=解決法は自らで既に出していてそれに自信が持てないでいることが多いのである。
自問自答して、果たしてそれが正しいのかわからない。だから悩みが大きくなり解決しない。迷う。出口がみつからなく苦しむ。
それを、誰でもいい。他者に言葉に出して、告白、相談する。話しているうちに、自らの考えが定まるという経験は誰にでもあるだろう。「相談」というのは、実際は、既に得ている答えを確認する作業なのだ。
むろんアドバイス程度のことはできる。しかし、その人の人生なのだから、他者は、その配偶者や家族・親族であっても基本的に何もしてあげられないのである。できることはせいぜい話をきくことだけ。
日本ではまず一般的習慣ではないが、欧米、特にアメリカでは、カウンセリングというのが広く誰にでも普及している。むろんある程度の収入あるWASPの倣いなのかもしれないが。
それは要するに、専門家のところに定期的に出向き、ただ話を聞いてもらうというだけだ。昔は医師が、かなり内面にも立ち入って、患者の感情や思考を繰るということがあったが、今日ではカウンセラー側は極力何もせず、ただ患者の話を聞くことに専念し、あまり意見を挟まない。
それでも、専門家にあからさまに悩みを話し、気持ちを吐き出したというだけで、患者の気分は軽くなり癒されていく。抱える悩みや問題があり、その解決法というのは、他者からの指示やアドバイスで得るよりも自らが気づきつかむべきだという考えである。存外それは正しいように思える。
ならば、こんな我でもそうして人の話をきくだけでも何かの役には立つのではないか。実際、人は他人の人生に何も関わることなどできない。関わりたくても基本何もできやしない。配偶者的関係までなれば、生活を共にすることで多少の荷は分かちあえるが。
しかし、家族となったとしてもやはり肉体は個別のものでしかないし、痛みや体調不良で苦しむパートナーを見ても代わることなどできやしない。まして、友人知人ならば、他者のために何一つしてあげられることなど元からない。
だが、思う。それはそれで仕方ないし、だからこそせめて会ったときは励まし、そばにいられる間は寄り添い話を聞いてあげれば良いのだと。
他人の愚痴など聞きたくないと誰もが思う。愚痴など人にこぼすべきでないという考え方も根強い。確かにそれはその通りだ。男も女もじっと黙って苦難に耐えろと。しかし、精神衛生上、そうしたストレスを溜め込んで良いことは何もない。心の奥底に抑え込めば泥水が作る錆のようにいつしか心を病んでいく。
すべてをあからさまに曝け出す必要はないが、せめて今抱えてる悩みや苦しいことを他者に「相談」はしても良いのではないか。そしてそれに耳を傾ける者がいても然るべきではないか。
妻や子がいれば、そうした悩みを相談できるかといえば、身内や肉親だからこそかえって話せないこともあるのではないか。逆に、何もできない関係の他人のほうが、利害関係がないぶんだけ話しやすいかとも思う。
欧米ならば教会がそうした役割を果たしたかもしれないが日本にはそうした個人が属するパブリックが存在しない。
世の中には、たぶん誰にも相談できず、悩みともいえない悩みを抱えて鬱々悶々としている人たちが多いのではないか。その先の出口が見えずに苛立ち焦る心を抱えて苦しんでいる人たちがいるはずだ。
その人たちを救えるとか、力になるなんて口が裂けても言えやしない。が、話を聞くぐらいはできるし、その行為によって、カウンセリングのように多少でも視界がひられるかもしれない。
基本何もできやしないし、何かできるなんて思ってはならない。しかし、今の時代を生きる同時代者として、縁あらばせめて話を聞くぐらいの関わりは持ちたいと思うし、もしそうした依頼があらば応じなければと思っている。そうした役割が自分に課せられているのならばの話だが。
2年前に死んだ友人タキグチ氏のことを今でも思い出す。心の病を若い時から抱えていた彼は、体調悪化する都度、ときには毎晩のように、電話をかけてきて苦しい胸の内「暗たんたる気分」と称して相談してくれた。
ただ単に彼の話を聞くことしかできやしなかったし、結局のところ死因も不明のまま彼は死んでしまったから今も自責するところは大きいが、それでも話して何時間後、電話を切る頃には、声も明るくなり気分も楽になったことが受話器から伝わってきていた。
今も彼の命を救う手立てはなかったかと自問するけれど、ともかくも彼の深夜の相談者になれたことは良かったと思える。その頃は、正直、またかとうんざりもしたこともあった。しかし、それもまた縁であって、彼のいない今、深夜の電話をただ懐かしくさえ思い出し、眠れぬ夜などそのベルを待っている自分に気づく。
人の話をきくというのは、実は聴く側も自らを語っている。そしてその双方の行為で互いに救われる余地がある。魂が歩み寄っているのだと思う。
というわけで、「人生相談」応じます。忙しい自分であるけれど、もし関わりをもとうとしてくれる方がいるのならば、悩みも含めてその方のお話をききたいと思う。金も力も知識も役立つものは何もない男だが、関わったからには真剣にお話を聞きたいと思う。
役立つどころか時間の無駄かもしれません。しかし、もしマス坊でも良ければ相談してください。たぶんそのことで我もまた救われることを期待しているのであろうか。
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