映画「ジャージー・ボーイズ」を観てきて2015年06月05日 20時58分44秒

★音楽だけがあれば良いのだと救われた思いがした。   アクセスランキング: 201位

 今日は、新宿に住むOさんと待ち合わせて、飯田橋ギンレイホールで映画を二本観てきた。
 前にも書いたことだが、マス坊は、ギンレイの長年の会員で、昔はそこでかかる二週間ごと変わる二本立てはほぼ全て、つまり年間で48本内外の映画を観ていた。

 が、この近年は諸般の事情から、二週に一度でも都心に出ることがかなわず、今年になってからギンレイで見た映画はゼロに等しかった。何しろ行けばウチからだと丸々半日は潰れてしまい、昼前に家を出てもウチに帰るのは夜7時過ぎとなりその日は映画でほぼ一日が過ぎてしまう。親たちの介護もありたかがその一日がなかなかうまく作れないでいた。
 行けないのならもう会員もやめてしまおうかと考えもしたのだが、友人でやはり老親の介護で日々倦み疲れているOさんの気分転換のためにもお互い誘い合わせて時間つくっていくことにしたのだった。彼の家からは近いこともあったし、一人が会員だと連れは千円で入れることも大きい。

 そんなで前回のラインナップから、初老の男同士、昼間からギンレイの映画観て、その後軽く食事しつつ映画の話などしてお互い家事もあるので夜早めに別れるという二週に一度のデートが続いていた。
 で、今回のギンレイは、話題のクリント・イーストウッド監督最新作、あのフランキー・ヴァリ&フォー・シーズンズの実録映画「ジャージー・ボーイズ」と北欧のジャズの歌姫、モニカ・ゼタールンドを描いた「ストックホルムでワルツを」という音楽映画のカップリングで、どちらも自分にとっては見逃せなかったのでともかく本日観覧してきた次第。

 Oさんは映画通なので、既に昨年封切り公開時に「ジャージー」の方は観ていたので、約束時間より早く、先に自分だけそれを先に観て、後からジャズのほうを一緒に観てきた。ジャズ好きではあるが、個人的にはそちらはさておき、圧巻はフランキー・ヴァリたち60年代のアメリカンポップスシーンを描いた「ジャージー・ボーイズ」であった。恥ずかしながら泣いた。そして救われた思いがした。

 映画は、もともとあちらでヒットした舞台ミュージカルを映画化したものだそうで、演者たちも皆そのオリジナルキャストが出て、故に決してリアルかつ深み等なく、フォー・シーズンズの楽曲と当時のアメリカンポップス満載のあっけらかんとした明るい娯楽映画でしかない。
 しかしだからこそ、その明るさ、お気楽さ、楽曲の素晴らしさが圧倒的で、そもそもそれこそが我にとってルーツミュージックのそれで、ともかく懐かしくまさに懐旧と再会した至福のときであった。

 人にはそれぞれ、子ども時代に最初に聴き慣れ親しんだ音楽、ルーツミュージックがあるはずだ。マス坊より少し後の世代、生まれが1960年以降の人たちに訊くと、それはタイガースやスパイダーズなどのGSだという答えが返ってくる。
 が、自分の場合は、それより前の、テレビの「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」それに「夢であいましょう」という黄金のシクスティーズ、和製ポップス、つまり洋楽に漣健児氏らが日本語詞をつけたカバー楽曲全盛の時代であり、今も昔もおそらく死ぬまで坂本九や伊東ゆかり、弘田三枝子、森山加代子、そしてスリー・ファンキーズは永遠のアイドルであるのは変わらない。

 そうした幼年期を過ごして、子ども心にもっとも大好きだったバンドは、ダニー飯田とパラダイスキングであった。むろんクレージー・キャッツは別格だったが、それは笑わしてくれるコメディアンとしてであり、音楽においては坂本九が在籍していたパラダイスキング、略してパラキンこそがともかく大好きなバンドであった。
 何しろ明るく楽しくハーモニーが素晴らしくただただ愉快であった。あんな垢ぬけた楽団は他に類をみない。映画を観ながら思い出したのは彼らのことだ。

 そのパラキンの大ヒット曲こそが「シェリー」であり、今また余多あるフォー・シーズンズのオリジナル楽曲を映画で聴いて、ただただ懐かしく感無量であった。そしてなんで坂本九をダニーさんがパラキンに迎え入れたか、映画でようやくわかった。
 つまるところ、和製フランキー・ヴァリとして認めたからではないか。あんな声であんな唄い方をするのは日本人では我らの九ちゃんしかいないではないか。そしてスキヤキソング(上を向いて歩こう)が全米でナンバーワンとなれたのも楽曲の素晴らしさもあったが、和製ヴァリとしてその轍に乗れたからであろう。まあ、もっともパラキン版「シェリー」では、九重佑三子と佐野修でリードをとってはいるけれども。あのスタイルはパラキン時代の坂本九にはっきり出ている。

 映画は、もともとが舞台ミュージカルだから、筋はわかりやすく音楽中心の深みのないありきたりなエピソードの羅列に終始している。いわく、皆貧乏で犯罪にも手を染めていた若者たちが出会い、音楽で結ばれ成功への苦難の道を歩き、ヒット曲を出して人気者への階段を上っていく。
 一方、メンバー間の確執や各自の家庭の問題、それにメンバーのギャンブルでの借金、そこにマフィアなどの裏業界のドンが絡み、解散などへのおきまりのスキャンダルも描かれる。

 が、それすらも映画はさらりと過ぎ、ひたすらフォーシーズンズの素晴らしいうた声とそのステージだけで息もつかさずまったく飽きさせない。そして不運を乗り越えソロとなったヴァリが渾身込めてうたう名曲中の名曲「君の瞳に恋してる」でもう涙が止まらなかった。吹き替え以前にメンバーそれぞれが実声でまさに本物以上にうたも演奏も素晴らしく、四人とも抜群のアンサンブルでただ感心させられた。

 傑作である。イーストウッドは監督としても以前から音楽映画にも定評高いが、あの時代を知るものだからこそ、フォー・シーズンズという善き時代の最良のコーラスグルーブを楽しく感動的な音楽映画としてうまく切り取ることができたと思う。まあ、一番は大ヒットした舞台からの奇跡的そっくりなオリジナルキャストたちの力によるところも大きいし、そのヴァリやライターたちオリジナルのメンバーも全面協力しているからだが。

 私ごとを書けば、このところまた企画しているコンサートに出てもらう人たちとの人間関係で気を病んでいた。が、今回ギンレイで2本の音楽映画を観て、特にこの自分にとってのルーツミュージックである、フォー・シーズンズたちの歌声に改めてふれて、音楽だけあれば良いのだとふいに思い至った。そう、他には何もいらない。気が楽になった。
 ご機嫌な素晴らしくナイスな気持ちの良い音楽、そうしたうただけがあればもう何も必要ないのだ。あれこれ人様の機嫌を伺い思い悩んでいたが、そんなことはもうどうでも良くなった。

 自分にとっては今も昔も変わらぬ、絶対的に大好きな、信ずる音楽がある。今もその60年代のルーツミュージックに戻れば、彼らは変わらず僕を迎え入れてくれる。
 それは、パラダイスキングであり、スリー・ファンキーズであり、坂本九であり、石川進であり、日本語でうたうアメリカやイタリアのポップスであり、中村八大たちが作った名曲の数々だ。

 基地の街で育ち、親父が米軍関係の仕事をしていたから、家の蓄音機で自らかけたシングル盤は、親父が立川基地から持ってきた、マーベレッツの赤盤「プリーズ・ミスター・ポストマン」であり裏面は、リトル・エバの「ロコモーション」だった。
 フランキー・ヴァリたちもその繋がりの中で僕の心の奥深くで、いつまでも変わらずにイカシた歌声を唄い続けているのである。そのことをようやく確認した。ならばもう何も怖れない。この映画に救われた気がした。
 フランキー・ヴァリとザ・フォー・シーズンズ、彼らはいつまでも永遠のアイドルなのであった。