夫婦とは赤の他人2015年10月05日 04時08分07秒

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 自分の中には常に怖れと不安があり、普段はあまり意識しないし問題でないと思っているが、何か事において精神的ショックを受けるとそれが噴出しなかなか収まらなくなる。それは父から受け継いだものだ。
 
 つくづくこのところ思うが、夫婦とはそもそも赤の他人なのである。親と子は、そこに血縁的、遺伝子的深い関係がある。他人ではない。が、夫婦はそもそも最初から最後までそうした関わりがない他人同士であって、考えてみるとよくそれで共に生活できるものだと感心すらしてしまう。ある意味気持ち悪くすら思う。生まれも育ちも異なる赤の他人と暮らすなんて。

 こんなことを考えるのは、猫の突然の死など家庭内におけるショックな事件を受けてのことで、父などはその後もなかなか立ち直れずかなり憔悴しきっているが、母に至っては当日もあっけらかんとしてさほどダメージは見られない。人一番感激屋でテレビ、映画など見てはすぐ涙する性格の人がどうして愛猫の死にさばさば恬淡としていられるのか訝しく思うが、昔からそういう人で哀しみは引きずらない性質(たち)らしい。
 ちなみに母と我は同じ血液型Bであり、父はO型の典型的で、むろんのこと性格的には我と母はだらしないところも含めて実によく似ているし気は合う。しかし、こともっと深い部分、体質的な点は男同士ということもあるのだろうが、我は父に似ているとこのところよく思う。いや、老いて来て似てきたのかもしれない。

 体形は似ていないが、疲れると咳が出たり気管支が弱い所もだが、いちばんは不安神経症的気質で、実に小心で、あれこれ考えても仕方ないことを考えては心配で眠れなくなったり鬱々悶々としてしまう。
 母はそれに対して基本B型的能天気だから何事も深く考えないし、起きたことは考えても仕方ないじゃないの、とまずくよくよ悩まない。自分も母のように何事にもあっけらかんとお気楽に生きられたらと願うが、根本的なところで父と繋がっているようで、不愉快かつ不本意だが、ついあれこれしょうもないことを考え囚われ心配事の種は尽きない。それは幼ない時の教育なのだろうか。

 父を育てた人、我にとって父方の祖母という人はわりと早く死んだのであまり記憶がないのだが、幼少時共に暮らしていてかなりヘンなあれこれ口やかましい人だったようだ。おどおどした不安症的気質はその人によって育まれたのかもしれない。そう母方の祖母は幼児の頃の我を見てよく言っていた。
 だが、それは家庭内の教育というより、持って生まれた気質なのだと思える。性格というのとはちょっと違う。性格は後天的なものである程度変えたり矯正することもできるはずだ。まさに体質的な根本的気質であって直すことも変えることもできやしない。

 普段は隠れてまず表に出ないが、今回のようなショッキングな出来事があったりするとすぐに表出して心身を苛む。父と子が二人して目を真っ赤にして不眠に苦しんでいても母はそんなことはないし、その辛さや苦しみが全然わからない。まさしく他人事なのだと思う。そしてある意味救いでもある。その母にはわからない父の哀しみと苦しみが我にビビットに伝わって来て猫の死もだが、父が哀れでこちらも術もなく苦しかったのだ。哀しみからの苦しみは「共有」したからといって楽になるわけではなくまさにWで辛くなるだけのものであった。

 もし母もまた同様の性質だったら、家じゅうが暗く沈んで何一つできないままに家族全員鬱病的に寝込んでしまったことだろう。我と母は他人ではないが、違う気質の人がいて家族という共同生活の危機、崩壊は救われた。

 また男と女とはコトに置いて、悩み哀しみの度合いも対処の仕方も違うのであろう。すべての女性が同じではないと思うが、悲哀を引きづるのは男のほうが多く、女は割り切りと立ち直りが早いとよくきく。俗にいう、「女々しさ」とは実は男に投げかけられる言葉だから、ある意味それこそが本来「男らしい」のかもしれない。となると従来の雄々しさこそ「女らしい」ということになる。

 さておき、そもそも赤の他人で、根本的気質がまったく異なるがゆえに夫婦は共に暮らせるのだと気づく。むろんのこと気が合い好き合って結婚したのだから性格も似ていたと考える。が、実は趣味や嗜好が近しく気が合ったにすぎず、根本のところが互いに大きく違うからこそ惹かれ結婚に至ったのだと気づく。また離婚したり別れたりするカップルの要因もまたそこにある。そもそも性格の不一致は当然のこと。別人格でしかも赤の他人だからこそ難事のときに共倒れしないですむのである。あまりに仲の良い似た者夫婦こそ一方が先立つと残された者もすぐ死んでしまうことは巷間よく言われるところだ。

 そしてまたこうも気づく。親子がうまくいかないのは、同じ気質を抱えて同じ部分が多い故に憎んだりぶつかりあうからである。磁石の+と+とが反発しあうように。
 親子も別人格で本当は「他人」なのだからまずそのことを深く認識しなければならない。しかし、流れる血の業と呼ぶべきものがあって気質的に近しいゆえに当然ぶつかり合ったり落ち込んだり等しい傾向を示してしまう。
 その点、夫婦はとことん他人だからそうした血縁から生ずる軋轢は最初から最後までない。それは救いでありまた絶対に分かり合えない、通じ合えないという絶望である。しかしそれこそがごく通常の当たり前の人間関係であり、半分と言えど同じ血ゆえの気質を持つ者が良いわけでは絶対にない。

 自分の親たちを見て羨ましくも思う。赤の他人だからまったくの別人格だから60年近くも共に暮らせたのである。そしてその双方の血を持つ者としてまるでAB型のようにアンビバレントな相反する気質を混在させてこの自分の性質が出来上がっている。そして時に応じて父と母双方の気質が顔を出し彼らに影響され同調もしていく。それもまた苦しく辛い。まさに近親憎悪の念がわく。
 赤の他人であるがゆえ起こる葛藤や諍いも多々ある。が、他人ではないが故、親子や兄弟姉妹であるがゆえ起こる葛藤やトラブルもまた多々あるはずだ。他人ならば縁が切れることも可能だが、血の関係はそれができない。それは決して良いことではない。

 ならば親子や兄弟の関係こそ、他人的にできるだけ関わるべきではないと気づく。そしてできるだけ早く、人は誰もが気の合う「赤の他人」をみつけ出会うことだ。
 動物は皆それをごく自然にやっている。大人になれば皆一匹づつ群れを出て独り立ちして新たな別の群れからパートナーをみつける。人間だけがいつまでも家族という関係に縛られ兄弟はともかく親子の関係は永遠に続く。欧米のドライな親子関係を見るとき、それはアジア的特殊な関係かもしれないが。

 ともかく血縁関係のない赤の他人と暮らすということはとても難しいことであろうが、だからこそ素晴らしく意義がある。父と母を見ていて、赤の他人同士という「夫婦」の妙を思い知った。

 そしてこう思う。我も今さら老親たちは捨てられないが、赤の他人と、それも女と暮らしたいと願う。むろんこんな性格だから年齢の問題以前に難しいことはよく理解している。しかし血縁からの絶望より他人としての絶望のほうがまだ受け入れられるのではないかと期待するのである。まあ、親たちが死んでいなくなったら中高年向けのお見合いサイトにでも入ることにするか。

コメント

_ 於茂登 ― 2015/10/08 09時14分32秒

はじめまして。

私もそうされた方がよろしいかと思います。
一人、年老いて病み衰え死んで行くことを考えると、胸が苦しくなります。私は子供のいない夫婦二人暮らしですが、後に残った方が辛い思いをすると思っています。
自分の父母の老後を見ても、子供達がいたからこそ、老いても病んでも、それなりに「して貰う」安心感はあったと思います。死でさえも「よろしく頼む」と言える人がいるから、そっと自然に受け入れていたと思う次第。
振り返って、自分の事を考えると、夫が先に逝けば私が、私が先に逝けば夫が、老いとも病とも一人で立ち向かうしかありません。一人で心がいつまで立ち続けていられるでしょうか?
私もポスト団塊の世代。
仕事はしていますが、さっとこさ(笑)です。

遠くを見ると、本当に荒涼とした心象しか現れません。

籍を入れなくとも、一緒に暮らせる心根の優しい人をお探しなさいませ。男性は特に。

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