男の一人暮らしの行く末は・・・2017年11月09日 21時47分13秒

★落葉の季節に思う

 今日は朝から雲一つない快晴で、爽やかな秋の一日だった。
 が、午後からはまた木枯らしが吹き荒れて寒くなった。日毎に気温も下がってきて、早くも庭のケヤキの落葉が始まった。また落葉の始末に頭痛める季節がやってきた。

 どんな時代になろうと、何が起きようと季節だけは毎年春夏秋冬繰り返す。拙宅は、狭い庭にも関わらず、一本のイチョウの大木と、ケヤキの高木があるので、毎年晩秋になると落葉の始末に大わらわとなる。

 若い頃、愛読した橋本治のエッセイに、一戸建てとアパートやマンションの生活の違いについてふれてあった。マンションなどでは、生活とは室内だけで済むものが、戸建てとなると庭も含めて「外」までも含まれるとあって、そのとき我は子供だったから、ふ~む、そういうものかとただ読み流してしまったが、今、つくづくその通りだと得心する。

 そう、マンションやアパートでの自らの敷地、管理せねばならないのは、当然のようにドアを開けて入る「室内」だけだ。建物の入り口や通路などは共有・共用費等は払うのだろうが、掃除などしないで済む。
 が、ウチのように一軒家だと、管理すべき部分は、室内のみならず、まず庭は当然であり、ついでに庭先の道路までも含まれる。
 つまり、我家の植栽の枝や落葉が、庭先、つまり家の前の道路に散らばれば、ウチが片付けねばならないし、ほったらかしにすればご近所様が許してくれない。必ず非難叱責を受けるし、ご近所の庭先にまでウチの木々から落葉が飛べば、皆さん文句言いながら早朝から掃き清めるに大忙しとなる。※いっそ住宅地にある、そんな大木など切られる運命にあるべき、という論議は今はさておく。

 我のように、老いて手のかかる父親を抱えて、一人で家事から介護全般せねばならぬ身だと、正直、庭先までとても手が回らない。室内だってもう何がどこにあるのかしっちゃかめっちゃか、散乱し何も片付かないゴミ屋敷と化してしまっているのに、とても庭までも維持管理なんてできやしない。
 母が元気で生きていた頃は、鉢植えに花を植えたり、伸びた植栽はこまめに剪定したりと、花好き、植木好きの母はやっていたが、今は水やりだって忘れることが常で、ずいぶん枯らしてしまった。

 我はもともと花や植木の類、植物などには関心なく、父がいなくなれば、もっと庭仕事に精出そうという気もなく、せいぜい親たちが遺した植栽は、形見として処分せずに残せたらとだけ願うしだいだ。
 ただ、一人暮らしの我もやがてもっと老いて、手入れというほどのこともできなくなれば、木々はさらに鬱蒼としてくるだろうし、室内の山積したガラクタ類も悩みの種だが、庭もまた大きな「負の遺産」となってくることだろう。

 これからの落葉の季節、またご近所の婆さんたちの罵声と怒声を覚悟しながら、こまめに時間あれば必死に庭だけでなく庭先の道路を早朝から掃いて落葉をかき集めなくてはならない。例年のことながら憂鬱きわまりない。
 以前は、我家は親子三人でその「処理」にあたっていたのだ。今は、あの世に旅立った母と動けなくなってしまった父の分まで、我一人で担当せねばならない。そして季節が繰り返すたびそれは続いていく。

 と、ここまでは長い「前書き」で、本意のことはここからとなる。

 今、我が家のある住宅地の一角は、戦後、復員してきたり東京に出て来た人たち、新たに家庭を築きベビーブームをあてこんで、昭和20年代後半から30年代にかけて山林原野?を切り開いて分譲されたものだ。元々は今も福生で代々酒造りをやっている大地主の土地だった。
 一区画ほぼ50坪程度で切り売りして、そこに、我が親たちの世代が土地を求めて来て、新たに家を建て、子育てを始めたのだ。だから昔は、ご近所の子供達は皆同世代、同級生ばかりであった。
 それが、約半世紀が過ぎ、代も変わり、今も我のように親の家にずっと住み続けている「子」もいるが、ずいぶん住人の顔ぶれも変わってしまった。そして最近目立つのは空き地と空き家である。

 今、この町内では二軒、つい先日まであった民家が壊されて更地となってその家のあった敷地は黒い土をさらしている。「売り地」と幟も出ているところもあるので、やがてそこに分割して二軒新築が建ち、また若い子育て世代が住み着くかもしれない。
 さておき、気にかかるのは、その空き地となった場所にあった家に住んでいた人である。
 どちらも一人暮らしの男性だったと思うが、一人は子や孫もあったはずの老人で、子たちは一緒に住んでなくずっと一人だったようだ。認知症だと誰かから以前に聞いた記憶はあるし、亡くなったと聞かないからおそらく特養のような施設に入れられて不在となり、古い家でもあったので、家人が壊してしまったのだろう。そこに戻って子どもたちが家を新築するのか、それとも土地を売却したのか知るところではない。

 もう一軒は、確か我とほぼ同世代の独身中年男が一人で暮らしていた家で、母から聞いた記憶に間違いなければ、その家の親たちは相次いで亡くなり、息子が一人暮らししていたと思われる。我も同様だが、平日でもよく犬の散歩で見かけたので、勤め人ではなかったようだ。あるいは親の遺産のようなもので生活していたのかもしれない。
 けっきょく、その古い家ごと土地を売り払い、彼はどこかの安いマンションにでも移ったのであろうか。先日、近くのスーパーで彼を見かけたので、何か訳あって遠くへ引っ越したわけではないと思われた。
 青梅線とはいえ都心への便が良いウチの街は今住宅ブームに沸いているから、古家はともかく、土地を売れば千万の単位になるはずだ。さすれば、男一人ならば、贅沢しなければ死ぬまで生活費の目途は立つ。
 そのまま一人で古い家を維持してそこに住み続けたり、新たに家を建て替えることでなく、庭もある親たちの遺した家ごと土地を売り払えば、一人ならばその金で残りの人生分は生きてゆけるのだろう。
 そしてこの近所を見渡せば、そうした彼のような我と近しい世代の独身男性がたくさんいることに気がつく。

 離婚した者もいるが、多くは真面目な勤め人なのに、何故か生涯結婚の機会がなく、そのまま親が遺した、子供の頃からの家に住み続けているのだ。老親がまだ健在の者もいるが、昔なじみの顔も名前も知る者だけでもそうした独身中年、初老となる男が四人もいる。我も入れれば五人か。
 おそらく我らは年代的に、今さら結婚の機会に出遭うとは思えないから、このまま一人でその昔から住み続けている家で、一人で老いて死に向き合っていく。
 今はまだ体も動き、元気で一人でも生活が続けられるが、やがてさらに老い病み衰え、ときに呆けてきたらどうなるのであろうか。
 やはり、定年後のこともあろうが、ゆくゆくは、その今住む家の土地を売り、マンション暮らしになるのではないか。そして住み慣れたこの町で暮らしていくように思える。

 どこそかで、自殺願望の女性たちをネットで知り合い騙してアパートに招き入れては何人も殺していたという異常な事件が起きた。そして事件に結びついたのはまず異常な悪臭がその犯人の男の部屋からしたからだと報じられていた。それは「死臭」なのだが、今の人はそれがそうだとすぐにわからない。嗅いだことがないから仕方ないが。
 我は二度嗅いだことがある。近くのアパートと古い戸建て長屋の一室で、そこに住んでいた独身男性の老人が孤独死していたのだ。そのどちらの人もよく見かけたり母の知り合いでもあったから、名前も知っていた。
 だが、一人暮らしであったため、見かけないと思っていたら室内で何らかの理由で死んでしまい、死後ずいぶん経ってから「発見」されたのだ。その臭いこそ、まさに悪臭であり、大きな動物=蛋白質が腐敗した腐乱臭ほど不快な嫌な臭いはありえない。一度嗅いでそれを知れば、すぐそれは「死臭」だと判別できる。
 一人暮らしだとそうして孤独死する可能性が高い。そしてそれは我の問題にもなろう。これだけ様々なネットワークが発達して便利な時代のはずなのに、人はさらに孤立し孤独に死んでいくのは何故なのか。

 さらに付言すれば、一つ不思議なことがある。世に男女の数はさほど違いはないはずなのに、どうしてこの近所に住む独身中年は、全員男性なのであろうか。女性は皆結婚できていると思えない。あるいは某中東の国の如く、一人の男性が何人も女性を囲いハーレムのようにしているはずもない。なのに孤独に暮らし、孤独死するのは何故か男ばかりなのである。女性の孤独死も当然あるはずだが、知る限り死後何日もたって「孤死」しているのが発見されるのは決まって男なのである。

 世に「女性問題」は多々俎上に挙げられている。女故の差別や格差が問題とされている。が、真の根深い問題は、結婚しない、結婚できない男の問題、老いてゆく独身男性、その行き着く先の孤独死ではないのか。
 あの死臭は二度と嗅ぎたくないし、嗅がせたくない。