オウムがサブカルとして身近にあった時代・後 ― 2018年07月18日 23時02分59秒
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先に、我が若かった大昔、ミニコミを出していた頃に聴いた、麻原らしきヨガの先生の「超能力」について書いた。
今回、改めて彼とオウムの「年譜」を確認してみると、年代的に合わないことに気がついた。我が友人から話を聴いた頃は、まだオウムの前身の会も含めて、そうした活動を開始していないと思えてきた。じっさいの話、我と麻原はさほど歳は変わらないのである。
ということは、それはまた別の麻原的人物であり、その人物とオウムを結び付けてはならないと気づく。が、この世には、そうした科学的には説明できない不思議な力を持つ人物は確かにいるし、オウムを率いた男もまた多かれ少なかれ確かに何らかの不可思議な能力は持っていたと我は確信している。
まあ、世間ではそれをオカルトとか神秘主義とか言う。超常現象、UFOとかフリーメーソン、ユダヤの謀略とかノストラダムスの大予言などが持てはやされたのは80年代から90年代にかけての頃で、特に1999年に世界が滅びるとされるノストラダムスの予言本は大ベストセラーとなった。
当時の若者の中には、それを心から信じた者もいたし、半信半疑ながらも不安に思っていた者も少なからずいた。そして瞑想し解脱した神秘的な「超能力」者にも同様の関心があった。
オウム真理教という宗教が出て来て、ごく短期間にあれほど拡大し若者中心に支持されたのは、そうした時代背景があったからだと我は考えている。
さらにオウムという宗教は、マスコミに報じられる分には、きわめてポップでお茶目で若者向けであり、ある意味それはおバカであって、従来の厳格な既成宗教よりもはるかに間口は低く思えた。
今思うと、その内部の出来事、裏の顔を知らなければ、あの時代のニーズに合っていたのである。
また、今でもあんなものに何故エリートたちが多数集まってあんな凶悪な犯行に手を染めてしまったかと問われているが、我思うにそもそもオウムはエリート集団ではない。多くは今でいう、社会的・家庭内でも落ちこぼれの若者が多かった。
凶悪な犯行に関わった幹部たちはかなり知的レベルは高いが、エリートたちの世界では落ちこぼれであって、その本来の組織の中では居場所が無かったり悩みを抱えて、麻原の宗教に自らの居場所を見出したのだ。
本当のエリートとはいつどこでも、組織や体制にどっぷり浸かって保護されているから、先のサガワ前局長のように、権力の庇護のもと、そこから「落ちこぼれる」ことは絶対にないしその組織を裏切らない。
いつの時代もエリートであれ、真の居場所がない者たちはいて、彼らは、自らが求められる「居場所」を求めている。オウムもそうした悩み挫折した若者にとっての救済の場であったはずだ。
そこでは何でも御見通しの包容力ある尊師がいて、若者は魅せられ「師」として絶対的に従ってしまう。エリートならばこそその持ち味を活かせる場が与えられた。
オウムのしでかした数々の凶悪な殺人事件だって、常識的に考えると通常の組織であれば、計画段階で異論は必ず出るだろうし、ときには師を裏切り、警察へ密告に走る者も出たはずかと思える。
が、宗教ゆえ、尊師麻原の命令は絶対であり、ましてその彼の心に「魔」が入ってしまっていたら、その決定は覆せない。結果としてオウムの暴走は加速して、類を見ない悲惨な凶行は繰り返され、彼らは破滅してしまった。さらにはオウム事件を口実に、今日の対テロ用法律や国家権力による大衆監視社会が生まれたのである。我はそこに神ではない何かの見えざる手が動いているようにも思えるがどうだろうか。
ただこうも思う。オウムもその教団がしでかした犯罪も絶対に理解も肯定もできないが、バブル崩壊後のあの時代、様々な不全感を抱えて悩み迷い居場所を求めた若者たちにオウムがあったのは「良いこと」ではなかったのか。むろんもっと最良の正しく良識ある場があれば幸いだったが、オウムというもう一つの「現実」の場があった。
それから時は過ぎ、2000年代も20年目になろうとしている現在、人と人とを繋ぐバーチャルな場と手段はいくらでもあるが、現実の「場」は今はもはやどこにもなくなってしまった。
今の人、特に若者は、すべてスマホの中だけで体験し、学び知り、発信する。そしてそこで知り得た情報を鵜呑みにして深く考えることなく判断し決定していく。
抱えている不安やストレスは誰かが発した失言や事件で炎上させて発散させる。昔も今も若者の不安と不満、不全感は変わらないはずだが、今ではバーチャルな場で解消させ、SNSで他者と「繋がっている」という幻想で紛らしている。そこでは自己の評価だけが最大の関心事となってしまった。
過ぎた時代が良かったなんて思わないが、落ちこぼれた若者たちに現実の「場」がまだあったのが20世紀の終わりの頃だったのだ。最大の過ちと不幸は、それがオウムという、狂った指導者に率いられた宗教だったことなのだと今にして思う。
先に、我が若かった大昔、ミニコミを出していた頃に聴いた、麻原らしきヨガの先生の「超能力」について書いた。
今回、改めて彼とオウムの「年譜」を確認してみると、年代的に合わないことに気がついた。我が友人から話を聴いた頃は、まだオウムの前身の会も含めて、そうした活動を開始していないと思えてきた。じっさいの話、我と麻原はさほど歳は変わらないのである。
ということは、それはまた別の麻原的人物であり、その人物とオウムを結び付けてはならないと気づく。が、この世には、そうした科学的には説明できない不思議な力を持つ人物は確かにいるし、オウムを率いた男もまた多かれ少なかれ確かに何らかの不可思議な能力は持っていたと我は確信している。
まあ、世間ではそれをオカルトとか神秘主義とか言う。超常現象、UFOとかフリーメーソン、ユダヤの謀略とかノストラダムスの大予言などが持てはやされたのは80年代から90年代にかけての頃で、特に1999年に世界が滅びるとされるノストラダムスの予言本は大ベストセラーとなった。
当時の若者の中には、それを心から信じた者もいたし、半信半疑ながらも不安に思っていた者も少なからずいた。そして瞑想し解脱した神秘的な「超能力」者にも同様の関心があった。
オウム真理教という宗教が出て来て、ごく短期間にあれほど拡大し若者中心に支持されたのは、そうした時代背景があったからだと我は考えている。
さらにオウムという宗教は、マスコミに報じられる分には、きわめてポップでお茶目で若者向けであり、ある意味それはおバカであって、従来の厳格な既成宗教よりもはるかに間口は低く思えた。
今思うと、その内部の出来事、裏の顔を知らなければ、あの時代のニーズに合っていたのである。
また、今でもあんなものに何故エリートたちが多数集まってあんな凶悪な犯行に手を染めてしまったかと問われているが、我思うにそもそもオウムはエリート集団ではない。多くは今でいう、社会的・家庭内でも落ちこぼれの若者が多かった。
凶悪な犯行に関わった幹部たちはかなり知的レベルは高いが、エリートたちの世界では落ちこぼれであって、その本来の組織の中では居場所が無かったり悩みを抱えて、麻原の宗教に自らの居場所を見出したのだ。
本当のエリートとはいつどこでも、組織や体制にどっぷり浸かって保護されているから、先のサガワ前局長のように、権力の庇護のもと、そこから「落ちこぼれる」ことは絶対にないしその組織を裏切らない。
いつの時代もエリートであれ、真の居場所がない者たちはいて、彼らは、自らが求められる「居場所」を求めている。オウムもそうした悩み挫折した若者にとっての救済の場であったはずだ。
そこでは何でも御見通しの包容力ある尊師がいて、若者は魅せられ「師」として絶対的に従ってしまう。エリートならばこそその持ち味を活かせる場が与えられた。
オウムのしでかした数々の凶悪な殺人事件だって、常識的に考えると通常の組織であれば、計画段階で異論は必ず出るだろうし、ときには師を裏切り、警察へ密告に走る者も出たはずかと思える。
が、宗教ゆえ、尊師麻原の命令は絶対であり、ましてその彼の心に「魔」が入ってしまっていたら、その決定は覆せない。結果としてオウムの暴走は加速して、類を見ない悲惨な凶行は繰り返され、彼らは破滅してしまった。さらにはオウム事件を口実に、今日の対テロ用法律や国家権力による大衆監視社会が生まれたのである。我はそこに神ではない何かの見えざる手が動いているようにも思えるがどうだろうか。
ただこうも思う。オウムもその教団がしでかした犯罪も絶対に理解も肯定もできないが、バブル崩壊後のあの時代、様々な不全感を抱えて悩み迷い居場所を求めた若者たちにオウムがあったのは「良いこと」ではなかったのか。むろんもっと最良の正しく良識ある場があれば幸いだったが、オウムというもう一つの「現実」の場があった。
それから時は過ぎ、2000年代も20年目になろうとしている現在、人と人とを繋ぐバーチャルな場と手段はいくらでもあるが、現実の「場」は今はもはやどこにもなくなってしまった。
今の人、特に若者は、すべてスマホの中だけで体験し、学び知り、発信する。そしてそこで知り得た情報を鵜呑みにして深く考えることなく判断し決定していく。
抱えている不安やストレスは誰かが発した失言や事件で炎上させて発散させる。昔も今も若者の不安と不満、不全感は変わらないはずだが、今ではバーチャルな場で解消させ、SNSで他者と「繋がっている」という幻想で紛らしている。そこでは自己の評価だけが最大の関心事となってしまった。
過ぎた時代が良かったなんて思わないが、落ちこぼれた若者たちに現実の「場」がまだあったのが20世紀の終わりの頃だったのだ。最大の過ちと不幸は、それがオウムという、狂った指導者に率いられた宗教だったことなのだと今にして思う。
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